明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆■発端は稲葉姫の織田信長刺殺 | 千年王国のブログ

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■発端は稲葉姫の織田信長刺殺
 真方衆は、徳川三百年間、代々「窪田幕府になるはずだった」という執念に燃えてきたが、その心理的契機となったものは、本能寺における真方衆稲葉姫による織田信長刺殺であった。
 天正十年(一五八二)五月二十七日夜、参籠を口実として、京都愛宕権現に参集した易断衆残党首脳会談における神盟誓約に基づいて、正親町天皇の皇子誠仁親王の密旨をうけた真方衆御大将窪田稲葉姫が、六月一日夜、本能寺で行われた、茶器披露を口実とした茶会において、身を賭して信長を刺殺して以来、真方衆は三百年にわたり、徳川幕府覆滅とその偽造史の実体糾明という凄まじい執念に燃えてきた。
 永禄六年(一五六三)の三河の易断一揆)現在、三河の易断一揆(現在、三河の一向一揆として歪称されている)以後、家康の家臣団として活躍してきた遠駿三武士団に代わって、本多、大久保、酒井、榊原、井伊、山口ら薩摩系三河易断党武士団が、雌伏二十年後の天正十年以後家康の幕僚家臣団
として実権を握るに至った原因は、実に、信長を本能寺に討った愛宕権現の功績を買われたからなのである。
 慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原役で天下を取った家康がまだ健在な慶長十年、十万の大軍を京へ送って、第二代将軍として秀忠を就位させたのは、実に、愛宕権現誓約を家康が裏切ったことに対する全国易断党衆の反抗を慴伏せしめることに狙いがあったのである。
 家康が、誰を第二代将軍につけるかについて多くの重臣に謀った結果、本多正信の意見によって
秀忠に決した理由は、秀忠が、家康と薩摩系易断衆西郷於愛(後の西郷局)との間に生まれた子だったからである。岩屋梓梁と易断政府の存在を抹殺することを意図していた家康としては、島津と薩摩易断党系武士団の意見を無視することは出来なかったのである。
〔註〕愛宕山易断残党首脳会談
 稲葉姫の指令によって、明智光秀、斉藤利三、本多正信、酒井忠尚、大久保忠隣、大久保長安、本多正勝、鳥居元忠、水野正重、里村紹巴、茶谷清延、穴山梅雪らが愛宕権現に会して、斉藤利三が指揮する易断軍二千が本能寺を包囲している間に、茶会の席で信長に謁した稲葉姫が飛燕一閃して信長を刺す。翌早朝、京へ進撃した明智軍は、徳川軍が三河から上洛するまでに京洛を制覇する。明智、徳川軍は相協力して豊臣軍を破る(その地点をいろいろ想定した)。将軍位についた家康は、可及的速やかに、第二代将軍位を稲葉姫の子窪田隼人正兼相に譲る、といった政戦略を神盟誓約した。

つづく