明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆■錦の切れ端、真方衆 | 千年王国のブログ

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■錦の切れ端、真方衆
史料の根拠

「西郷征韓論がなかったなんて、そんな馬鹿なことがあるかっ」
「易断政府って何だ?そんな政府があったなんて聞いたこともない」と
大方の皆さんは反論されるだろうから、まず、そのことが誌されている『かたいぐち記』と『異端記』なる史料の根拠を説明しておきたい。
■錦の切れ端、真方衆
私の家系は、故郷の鹿児島県伊集院では、窪田部落なる山塞様の台地に蟠踞してきて、代々「真方衆』とか「錦の切れ端」などと呼ばれ、戦前までは、その剽悍さは「真方衆が吼ゆっ」とか「窪田ん衆が血ん荒さ」などと畏敬されて、一族の富権者豪族意識は、おのずから、他の人々から一種違った目で見られてきた。
 系図によれば、真方衆は、吉野南朝派大伴系肝付兼重の分流で、日向真方院(現在の宮崎県小林市、本拠は真方城)領主だった北原茂兼が叔父北原兼珍の圧服うけて昌寿寺に逼塞しているのを見かねた守護島津忠昌と、その家宰橋口兼道(弥次郎こと僧岩屋梓梁の父)の請いにより、延徳三年(一四九一)、曹洞宗妙円寺住職(初め寛文、後に第九代住職茂岩慶繁)として一族真方衆を率いて伊集院に移り住んだときに始まる。
 窪田の性は、島津勢力圏のど真ん中たる伊集院の地において、肝付系北原性を名乗ることを許されなかったため、母の窪田氏(真方院窪田村領主)を称したからである。
 伊集院にあったこの窪田一族は、やがて、弥次郎と伊集院家について島津に反抗したため、大部分は四散するに至ったのであるが、現在の真方衆窪田家は、織豊時代の末期、京畿方面で活躍した後奈良天皇の血を享けた曽孫、易断衆御大将窪田隼人正兼相(幼名岩見重太郎、従来史は窪田を薄田と歪曲した)が大坂夏の陣(一六一五)で戦死後、その子兼祐(後に兼重)を、徳川と島津が協議して伊集院へ移して伊集院窪田家を再興した時に始まる。
 この系は、当時「後ん窪田」といわれたそうであるが、京畿時代以来、易断党の全国隠密網を把握していたため、島津によって、その高等隠密集団として、主として政治謀略に携わってきた。

つづく