明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆■歴史から抹殺された易断政府と岩屋梓梁の存在 | 千年王国のブログ

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■歴史から抹殺された易断政府と岩屋梓梁の存在
 岩屋梓梁こと弥太郎は、明応六年(一四九七)正月、薩摩国伊集院神殿に生まれ、俗称橋口弥太郎左衛門兼清、僧名を岩屋梓梁といったが、背高十尺、容貌魁偉、頭上右鬢に三寸ほどの高さの肉腫(角)がおっ立っていたため、当時の民衆から「岩屋大天狗」「鼻天狗」「岩殿」「ヤジローどん」「金精様」「たたらぼっち様」など多くの呼称で畏敬された。
 岩屋梓梁は永正四年(一五〇七)以来、十数回渡鮮して多くの書をなして弥勒天徳教(後の天道教)を説き、仏教の再興、韓語の創出、易占(ムーダン、タンゴル、シンバン)の普及など、想像を絶する多元的な文化興隆を図り、天文十三年(一五四四)には自分と朝鮮王女玉珥との間に生まれた清茂を王(仁宗)に擁立するなど多くの事績を遺した。
 岩屋梓梁は、朝鮮を支配した余勢を駆って、薩摩人の武力と朝鮮人の武力と朝鮮人の文化、経済力を駆使して、永正年代末期(一五二〇年代)、時の室町幕府を衰頽せしめ、大永年代(一五二一年代)、『日本紀』(『日本書紀』)の編纂、『古事記』の自記、その他多くの古典を書いて易断政府の思想的根拠を固め、北はアイヌ族から南は琉球の果てに至るまで、神仏習合、祭政一致の易断教団政府を樹立し、また、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康ら多くの英傑を子として残した。
 天文十七年、弥次郎は、西方浄土を求めて、中国、天山山脈、タクマラカン砂漠、中東経由で地中海に達し、印度のゴアから切支丹宣教師フランシスコ=ザビエルを天文十八年八月十五日鹿児島に案内して来たが、二人は同二十年秋、山口において、仏教と切支丹の宗教論争をして、終局的には、弥太郎が説く地動説の前にザビエルは敗退して印度へ帰ってしまったのである。
 ところが、ザビエルが宗論において敗退したことに復習すべき執念を持って、永禄六年(一五六三)に来日した宣教師ルイス=フロイスらは織田信長をそそのかし、多くの武器、弾薬(硝石)、商船艦隊を提供して、それまで六十年続いてきた大阪石姫山に籠る易断政府(現在、石山本願寺の一向一揆として歪曲されている)を討滅せしめ、あまつさえ、信長、秀吉、家康らに「藩異人岩屋梓梁が
日本で天下を取った(易断政府)ということは日本国永遠汚辱だ」「日本歴史は波斯人が書いたものだ」「天皇に反逆した岩屋天狗は歴史から抹殺すべきだ」などと高言追求して、ついに武将たちをして、岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺せしめるために至ったのである。とくに、秀吉と家康は、自らが取った天下の政権を子々孫々に永久に保持するためには、自分が反逆者藩異人の子であるという血の汚辱を歴史から隠蔽する必要があるとしたからである。
 岩屋梓梁と易断政府の存在を歴史から抹殺するという政治工作の発端は、天正十五年(一五八七)
六月十九日、秀吉が博多において発令した「宣教師追放」と「岩屋梓梁抹殺令」に始まり、以後、易断政府に参画して政治を執行してきた神官、僧侶、惣、座、学問芸能の人々を、全国の特殊地域に「易断党」と称して隔離、幽閉して痛めつけ、その歴史、記録、伝承をはじめ、人々の心からその存在を消滅せしめんとしてきたのである。
 明治維新に、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛ら多くの英傑を生んだ鹿児島の鍛冶屋郷(現加治屋町)もそうゆう特殊地域の一つで、鍛冶屋郷中士は、易断政府時代に、弥太郎を慕って全国から集まった易断精鋭分子の子孫だったのである。
 しかし、全国に散在した大多数の易断党衆は、当時ユタ、ユッタと卑称された。今でも、奄美、琉球の南西諸島に実在しているユタ(巫女、その関係者の実数は約二千名とされている)はその名残りであり、東北地方のイタコもユタを歪称(訛称)したものである。薩摩西郷家のユタノン、ユタモンなる家筋もその語源は「易断者」であり、琉球士族のユカッチュなる呼称もその語源は「易断衆」なのである。

つづく