明治維新の裏面に暗躍した謀略集団真方衆■島津も徳川もてがつけられなかった勁悍真方衆の行蔵 | 千年王国のブログ

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■島津も徳川もてがつけられなかった勁悍真方衆の行蔵
このような大事件を謀略しながら、なぜ、島津は真方衆を廃滅しなかったのだろうか。
 それは実に真方衆が、「易断政府とそれを樹立した岩屋梓梁(弥太郎)抹殺」という徳川幕府の重大な秘密を握っているため、真方衆は、島津にとっては、いつまでも、徳川を脅迫することに利用することができる切り札的な存在だったからなのである。
 幕府が薩摩藩に対して腫れ物にさわるような気遣いをしてきたことは、家康が、生前「やがて徳川を倒す元凶は薩摩に始まらん」と優慇し、死体は西面することを遺言したと伝えられ、また、勝海舟が「幕府は薩摩藩に対してはつねに格別の配慮をしてきた」と言明し、徳富蘇峰が「徳川氏は島津氏を腫れ物扱いにして却してその自治に一任した姿があった」「徳川と島津は、謂わば両方から怨を匿して友として居った」と誌していることなどからもわかるのである。
 島津が、真方衆が往古以来集めている古文書や記録などを隠匿していることを知っていながら、あえてそれを追求しなかったのは、追求すれば、真方衆が離反して隠密組織を解体して所在不明となるからであった。
 真方衆が融通無礙、闊達自在に活躍する全国的隠密組織は、島津にとっても手の及ばない、いわば法外の存在だったのである。

つづく