成願寺・熊野神社・中野長者・鈴木九郎・南北朝時代・室町時代・足利尊氏と義満・摂政関白
長者さまと成願寺 【後編】 / 東京都 中野区(5-②)
コラム「長者さまと成願寺【前編】 / 東京都中野区(5 - ①)」からのつづき。
◇室町幕府
前述のとおり、足利と新田の二つの武家は、もとは同じ清和源氏の一族です。
源義家の孫から始まります。
この二つの有力武家を中心とした武士勢力と、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が結束して、北条氏(ほうじょうし)を中心とした鎌倉幕府を倒します。
北条氏は、歴史的にみても、清和源氏と後醍醐天皇の系統の天皇家の、共通の因縁ある敵だったのです。
まさに、結びつく同志でした。
鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐天皇のもとで、新しい政治体制が始まりますが、すぐに、とん挫してしまいます。
後醍醐天皇側と、足利尊氏側で対立が起きます。
もともと家系的には、清和源氏と後醍醐天皇が上手くいくとは思えないような気もします。
新田氏は、足利氏の反対側につくのが思惑だったような気もします。
南朝側は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、河内源氏の新田義貞(にった よしさだ)、橘氏の流れの楠木正成(くすのき まさしげ)、村上源氏の北畠親房(きたばたけ ちかふさ)などです。
北朝側は、室町幕府の初代将軍 河内源氏の足利尊氏(あしかが たかうじ)と弟の直義(ただよし)、高師直(こうの もろなお)などです。
ちなみに、源氏長者は北畠親房です。
先程、初代源氏長者は一応、足利義満だと書きましたが、絶対王者の義満が「初代は俺だ」というのですから、仕方ありません。
それまでの源氏長者は村上源氏です。義満の河内源氏ではありません。
区別したかったのでしょうね。
絶対権力者は、初代であるとか、ライバル家のことに、異常にこだわるものです。
* * *
1336年、北朝側の足利尊氏(あしかが たかうじ)によって室町幕府が開かれ、新しい天皇を即位させます。
これにより、日本で同じ時に、二人の天皇がいることになります。
基本的に、室町幕府は北朝側ですが、裏切りや内紛がおきます。
政治をつかさどる幕府があるとはいえ、もはや日本の政治どころではありません。
足利尊氏の弟の足利直義(ただよし)は、兄とともに「両将軍」と呼ばれていたほどの実力者でしたが、室町幕府の重臣の高師直と対立し、失脚の後、なんと南朝側につきます。
北朝から南朝へのまさかの寝返りです。
おそらく高師直は、弟よりも兄のほうが、手なづけやすいと思っていたのかもしれません。
この時の、南朝の直義や上杉、北畠の側と、北朝側の高氏一族のあいだの、遺恨はすさまじいものがあります。
身内を殺された恨みは相当なものです。
直義は軍勢を立て直し、兄の尊氏と高師直らを攻撃し撃破します。
高師直らは、直義側の室町幕府の要職である関東管領の上杉家に滅ぼされます。
ここで藤原氏の流れの上杉が、たいへんな存在感を示します。
高氏一族は、容赦のない一族皆殺しで、滅亡します。
この時代の動向に、姓や家系は、本当に影響していなかったのでしょうか?
家柄の上下や優劣が、心理面に作用していたことはなかったでしょうか?
あまりにも深い遺恨には何が作用していたのでしょうか?
かつての北朝側の勝手な内紛は、あまりにも見苦しい感じがします。
尊氏らは地方に逃れ、弟の直義との対決に備えます。
その後、直義や上杉がいる南朝は、尊氏に敗れます。
尊氏は、政治はもうひとつでしたが、戦争にはめっぽう強かったですね。
後醍醐天皇は、三種の神器を北朝に渡します。
上杉は、尊氏の母の実家です。
おまけに、今や藤原氏一族の最大の武門の名家です。
天皇家の周囲には藤原一族の公家がたくさんいます。
宿敵の平氏ならともかく、藤原氏の名家を滅亡させるわけにはいかないと考えたかもしれません。
尊氏は、上杉を許して、以後、関東管領は上杉謙信まで代々続いていきます。
尊氏さん、寛容すぎではありませんか?
平家の寛容さが、源氏の復讐を招いたのを知らないはずはありませんよね。
その後の、源頼朝も、北条氏も、そこは失敗しませんでしたよ…。
何か不吉な予感が…。
◇足利尊氏
初代将軍というと、源頼朝や徳川家康など、強力なリーダーシップと決断力をイメージさせますが、どうも足利尊氏という人物は、その二人とは大きく違っていたようです。
尊氏と親しかった、当時の高僧、夢窓疎石(むそうそせき)は、その文献の中で、尊氏の勇猛ぶりや寛容さをほめてはいますが、やさしすぎ、繊細さや決断力に欠けると言っているようにも感じます。
寛容にも限度があるでしょうし、政治には繊細さも必要です。
まして決断は、早すぎても、遅すぎてもだめです。
尊氏の、優柔不断さや大ざっぱさが、南北朝を生んだとも考えれないこともないです。
天皇が二人いた時代とは、なんとも…。
ひょっとしたら日本という国が、これをきっかけに、二つの国に分かれていた可能性もあったと思います。
もし分かれていたら、現代にも続いていたかもしれません。
天皇制の危機であったとも感じます。
頼朝や家康だったら、南北朝時代を生み出さなかったでしょう。
日本史上、こんな危機はこの時だけです。
最高権力者には、武力にあわせて、政治力が、なにより求められますね。
◇足利義満
そして、尊氏の孫の代に、無慈悲な大将軍、足利義満が登場し、南北朝が統一されます。
良くも悪くも、日本を丸ごと手中におさめたいという貪欲な実力者が、すぐに登場してくれたことは、日本にとっては幸運だったような気もします。
南北朝に分断してから57年後の統一でしたが、これが100年を越えるような長い年月になっていたらと思うとゾっとします。
源平藤橘が、日本全体に広がって、ごちゃごちゃに入り乱れて存在していたことも、幸いだったと思います。
統一を成しとげて、16年ほどで義満は急死しましたが、この統一は立派な業績だと感じます。
強い「天下統一」という思想がいつごろから生まれてきたのかは知りませんが、ひょっとしたら義満あたりからなのかもしれませんね。
義満が建てた金閣寺は、今の京都観光の象徴のような建物で、京都に恵みを落としてくれています。
義満が横暴な大権力者であったとしても、統一の功績に免じて、私は許してあげたいと思います。
* * *
それにしても、室町幕府のスタート時は、もはや、兄弟争い、内紛、裏切り、復讐、勢力拡大、源氏と藤原氏の関係性…、わけがわかりませんね。
平安時代後半から戦国時代まで、政権のトップの力量が足りないと、安定性を欠き、すぐに武力衝突が勃発します。
現代でも、武力衝突が起きないだけで、政争はすぐに始まります。
人間の歴史とは、そうしたものですね。
さてさて、足利尊氏、後醍醐天皇ら有名な人たちが、この世から去っても、南北朝時代はまだまだ続きます。
* * *
このあたりの複雑さから、日本史が嫌いになっていく子供たちも多いですよね。
親族どうしの争い、内紛、裏切り、復讐などは、それに接する子供たちの年齢によって、とらえ方にも違いがおきます。
日本史に触れる前に、何を見聞きしてきたかも重要なのかもしれませんね。
免疫力がついていないと、歴史自体が嫌いになりそうです。
「渡鬼(渡る世間は鬼ばかり)」や、大河ドラマは、早めに触れさせたほうがいいのでしょうか?
近年なら「半沢直樹」や「集団左遷」などのビジネスドラマなのでしょうか。
悪役、意地悪たちの悪行を見るのも、時には人の成長に役立ちます。
日本史がスムーズに頭に入ってくるようになるかもしれませんね。
* * *
さて、鈴木九郎さんが生まれた1371年は、こうした歴史上の有名人らが亡くなってから30~40年後になります。
でも南北朝時代であるのは間違いありません。
いずれ絶対王者になる足利義満(あしかがよしみつ)は、まだ13歳。
世の中は、南朝と北朝に真っ二つです。
九郎さんは、南朝側の英雄たちの話しをたくさん聞かされて、育ったことでしょうね。
北朝内のゴタゴタ劇は、どの程度まで知っていたでしょうね。
その後、足利と新田の関係性を知らずに、関東に向かったのでしょうか…。
◇南北朝統一
1392年、北朝側の室町幕府三代将軍の足利義満が、一応、話し合いによる統一を果たします。
鈴木九郎さんが、二十歳くらいのときに、南北朝統一がなされました。
ですが、これは騙し討ちで、北朝側の戦略による勝利です。
楠木の一族は、義満に戦で敗れます。
南朝はここに終わります。
南朝は、軍事力と政治力、知略で負けたのです。
鈴木家は、熊野神社の神官の一族だったと書きましたが、武家でもあったようです。
熊野神社は南朝側だったはずです。
もちろん歴史ある由緒正しい神社ですので、攻撃を受けることはありません。
九郎さんは、おそらくこの頃は紀州(和歌山県)に暮らしていたと思われます。
二十歳くらいで、自分たちの陣営が敗北して、どのように感じたでしょうね。
* * *
両勢力の戦いは、鎌倉から関西という地域だけで行われていたわけではありません。
日本各地で、南朝側、北朝側となって争いが起こっていました。
1392年に統一がなされたとはいえ、日本全国がすぐにおさまるはずがありません。
まして、武力の強いものが、その地域、その地域で勝利する時代に入っています。
一族であっても、裏切り、復讐、下克上が、当たり前のように行われるようになっています。
この時代の混乱は、その後、「応仁の乱」を生み、さらに、身分や素性に関係なく日本全国でチカラのある武将たちが、我こそはと立ち上がらせるきっかけになりました。
戦国時代へと、まっしぐらに突き進みます。
戦う武人たちが、歴史の中で、どのように生まれ、育ち、台頭し、戦いの歴史がどのように進んでいくのか、この頃の歴史を見ると、よくわかります。
人が争うというのは、感情や意志だけではなく、連鎖という環境がそうさせるのだということも、よくわかります。
室町時代の歴史は、国の統治や管理という意味でも、教訓がたくさんありますね。
◇関東へ、中野へ
九郎さんは、1400年前後くらいに、武蔵国(今の東京都中野区)にやってきます。
どのような理由で、和歌山から東京にやってきたのかはわかりません。
もともと、先祖からの鈴木一族が、このあたりに暮らしていた可能性も考えられます。
九郎は、元南朝側という不遇の立場に見切りをつけて、新しい職業となって、新天地に活路を見出そうとしたのかもしれません。
中野あたりが、最初から目的地だったのかもしれません。
今の東京の中野区、杉並区、練馬区、世田谷区、渋谷区、新宿区あたりは、南朝側だった新田勢が勢力を持っていた地域です。
紀州の熊野神社と同じ名前の神社が、今でもたくさん残っています。
九郎さんがやってくる以前にも、すでに紀州人による布教が行われていたのかもしれません。
すでに、鈴木という姓の方々が、たくさんいたのかもしれません。
実は、東京の各地に、紀州に関連した地名や建物がたくさん残っています。
和歌山県の方々、東京に来て、少し優越感に浸れるかも…。
このあたりのことは、次々回のコラムで少し書きます。
江戸時代の八代将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね)も紀州からやって来た将軍でしたが、相当に、江戸と紀州の関係を研究していたようです。
* * *
そんな今の東京にやって来た、九郎さんですが、この中野区周辺地域は、足利や新田に滅ぼされた鎌倉幕府の北条氏の残党勢力も残っていたようです。
中野区沼袋の禅定院(ぜんじょういん)は、もともと伊藤家の菩提寺で、伊藤寺とも呼ばれていたそうです。
伊藤家は、鎌倉幕府の北条氏の家臣だった家です。
このお寺は南北朝時代になってから建てられていますので、南北朝時代に、伊藤家が南朝と北朝のどちらについていたのか、はたまた元鎌倉幕府勢力として存在していたのかは、よくわかりません。
◇江古田・沼袋原
また九郎の死から15年後には、1455年から1483年まで、関東の地で続く、元北朝の源氏の流れの足利氏と、やはり元北朝の藤原氏の流れの上杉氏による「享徳(きょうとく)の乱」が起こります。
また上杉が登場してきましたね。源氏と藤原氏の対決です。
元北朝内での争いというよりは、もはや戦国時代です。
これも足利尊氏の寛容さが残した、「置き土産」のようにも感じますね。
皆さま、だいじょうぶでしょうか。
頭の中で、「源平藤橘」が、ぐるぐる回っていないでしょうか…。
ひとまず、平と橘は忘れましょう。
関東に平氏の流れの北条早雲がやってくるのは、もう少し後の時代です。
* * *
ちょうど中野区の江古田(えこだ)や沼袋(ぬまぶくろ)付近では、この源氏の足利氏と、藤原氏の上杉氏の戦いの一環で、1477年、太田道灌(おおたどうかん)と豊島泰経(としまやすつね)による「江古田・沼袋原の戦い」が起こります。
豊島泰経とは、池袋のある豊島区(としまく)の、あの「豊島」のことです。
豊島氏は上杉氏の流れです。
太田道灌は、東京の人たちには、江戸城の大元をつくった人として、その名がよく知られていますね。
太田氏は、清和源氏の中の「摂津源氏(せっつげんじ)」です。
足利の「河内源氏(かわちげんじ)」とは、また違います。
ですが、同じ清和源氏ではあります。
この摂津源氏は過去に、なんと平氏と組んで、河内源氏と戦ったことさえあります。
太田道灌は、一応、今回の足利と上杉の争いでは、清和源氏の足利側です。
策士の道灌ですから、どう転ぶかはわかりません。
この「江古田・沼袋原の戦い」は、関東の戦国時代の幕開けを意味します。
この戦いは、日本史の教科書にはほぼ登場しませんので、かなりマニアックな戦国時代初期の合戦です。
現代の大都会の中での出来事だったこともあり、史跡がほとんど残っていないのも、知られていない理由かもしれません。
地方なら、大合戦の史跡になっていると思いますが、なにしろ東京には目立つ歴史史跡が多すぎて、こんな大きな戦の歴史でも、ほとんど隠れてしまっています。
城のひとつでも残っていたら違ったのでしょうが…。
かつての練馬城は、今は、としまえん遊園地の中です。
練馬区にある「としまえん」は、かつての練馬城って…。
東京の港区にある「品川駅」みたいなこと…。
千葉県にある「東京ディズニーランド」みたいなこと…。
今の埼玉県から東京・横浜まで、江戸城、岩槻城、河越城(川越城)のほか、石神井城、平塚城(豊島城)、練馬城、小机城、豪徳寺の招き猫などなど面白い話しが目白押しなのですが、何せ、教科書には存在しない日本史なのです。
「江古田・沼袋原の戦い」のことは、また機会がありましたら…。
* * *
さて、九郎がやってきた関東の地は、南北朝が統一したからといって、元南朝勢力、元北朝勢力、独立した存在感の上杉の勢力、元鎌倉幕府の勢力などが、入り乱れて勢力争いを行っていた時代だったのです。
中野区、杉並区あたりは、元南朝の新田氏の勢力、紀州の勢力が多くいた地域とも想像できます。
現在も、新宿区と中野区との境近くには、「熊野神社」という大きな神社があり、新宿地域の鎮守さまです。
もちろん紀州の熊野神社と深い関係があります。
ここも、鈴木九郎さんとは非常に関係の深い神社です。
中野区や新宿区あたりには、九郎さんがやってくる前から、すでに鈴木一族がいたのかもしれません。
この神社のお話しは、次々回のコラムでご紹介します。
いずれにしても、九郎さんは、南朝側の人間として、思想を持っていたのかもしれません。
間違いなく言えるのは、熊野信仰の強い信者だったことです。
そして、新しい職業選びこそが、彼の成功の第一歩となります。
こんな戦国時代前夜の時代です。
新天地で、軍事や土木関連の仕事なら、成功できると考えたのかもしれません。
◇馬の商売
鈴木九郎さんは、紀州の熊野神社の祭祀をつとめた鈴木氏の末裔で、武士でもあったようですが、中野にやってきて、馬の売買で生計をたてていたそうです。
中野の土地開拓にも尽力したようです。
時代は、前述のとおり、南北朝の戦いの時代と、戦国時代のあいだの、ひと時です。
というよりも、これからくる戦国時代の準備の時期で、ひとまず大きな戦乱はおさまっています。
関東でも、武士団に、軍馬が高値でとぶように売れたのかもしれません。
後で、成願寺にあります、鈴木家と源義経(みなもとのよしつね)のことを書いた案内板の冒頭部分の写真をご紹介しますが、九郎さんに軍馬の知識があっても不思議はありません。
ここからは、九郎に関する、ある伝説を書きます。
伝説と書きましたが、この中には、おそらく事実であろう内容と、まるで絵空事の作り話が混在していると思われます。
二つに分けて書きたいと思います。
まずは、成願寺に残るお話しです。
◇中野長者
九郎さんは、ある日、馬を売買する「馬市(うまいち)」に馬をつれていき、馬の売買で大儲けをします。
そして、その儲けを浅草観音にすべて奉納するのです。
今の東京下町の浅草寺のことです。
馬市に行く前に、浅草の観音様と約束したためです。
九郎さんは、目の前のお金ではなく、観音様との約束を選択したのです。
その頃の日本では、中国のお金の「大観通宝(たいかんつうほう)」が使われていました。
その後も、中野の広大な原野を開拓し、馬を育て、馬の売買に成功し、大金持ちとなり、「中野長者」と呼ばれるようになります。
その後、九郎さんのひとり娘の「小笹(こざさ)」さんが若くして病気で亡くなってしまいます。
九郎さんは悲しみ、僧侶となって、1438年に、今の新宿の熊野神社の敷地に「正観寺(しょうかんじ)」を建てます。
前述の「江古田・沼袋原の戦い」の40年程前の、まだ平和な時代です。
正観寺は、200年後の戦国時代が終わった江戸時代初期に、九郎さんの屋敷跡に移され、寺の名を「成願寺(じょうがんじ)」と改称します。
これが現在の成願寺です。
昭和の戦災で焼失しましたが再建されました。
熊野神社は、成願寺から徒歩でも行ける距離で、成願寺の南東の方向です。
現在の成願寺の本堂の近くにある「長者閣」の目の前に、九郎さんのお墓があります。
お墓は東を向いています。
ひょっとしたら、成願寺本堂よりも前に、お墓がこの地にあったのかもしれませんね。
◇九郎の伝説
九郎さんに関しては、他に伝説があります。
九郎さんは、稼いで蓄えた大量のお金を、ある場所に運んで隠そうとします。
それが今の新宿の熊野神社あたりだというのです。
今の、高層ビル街の隣にある新宿中央公園は、その熊野神社にも隣接しており、今でも、周辺地域よりも、標高が若干高く、小さな丘の山のような形状の場所です。
中野の九郎さんの家から、そのお金の隠し場所の熊野神社には、神田川を越えていくことになります。
下人にお金を背負わせて、ある橋を渡って運んでいました。
下人は橋を渡って行くのですが、帰りはいつも九郎さんだけです。
そのため、いつしか、その橋を「姿見ずの橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになったそうです。
ようするに、隠し場所の秘密を守るために、九郎さんが下人を殺害していたというのです。
さらに、その死体を、熊野神社の池に放り込んでいたというのです。
熊野神社の横には大きな池がありました。
この行いが、たたって、九郎さんのひとり娘は、結婚式の夜に、大蛇に変身し、熊野神社の大きな池に飛び込んでしまいました。
その結婚式の夜に、黒い雲が熊野神社からわき上がり、カミナリが鳴り響いたというのです。
九郎さんは、ざんげし、僧侶となり、正観寺(成願寺)を建て、中野に七つの塔を、そして、高田から大久保の地に百八の塚をつくりました。
そして娘の供養をしました。
これが、もうひとつの伝説です。
* * *
個人的な印象ですが、日本史の中で、こうした表現と内容レベルのものは、たいてい敵やライバルの作り話が多いです。
ねたみ、しっとのたぐいかもしれません。
この橋のネーミングは、怪しさがプンプンします。
前述のとおり、元南朝側で、熊野信仰の強い信者の九郎さんです。
おまけに商売で大成功もしています。
前述のとおり、鎌倉幕府を倒した足利や新田勢に恨みを持つ者、元北朝の足利勢力、上杉勢力、ビジネス上のライバルで嫉妬している者など、九郎さんの周りには、敵やライバルがたくさんいたことでしょう。
熊野信仰におけるライバルもいたかもしれません。
だいたい、儲けたお金を、山や森に隠すでしょうか。埋蔵金でもあるまいし。
堅固な蔵をつくって、用心棒を雇うほうが、現実的で安心かもしれません。
熊野神社に運んだのは、隠す目的ではなく、奉納だった可能性もあります。
この内容からすると、九郎さんと熊野神社を切り離し、九郎さんの評価を地に落としたくて仕方のない者たちがいたとも考えられます。
九郎さんが残した財産や土地、建造物を狙っていた者も多かったかもしれません。
熊野神社の中に、九郎さんを良く思わない人物がいたとも限りません。
奉納金額で、神社ともめたということはなかったでしょうか。
周囲の鈴木一族内で、彼の遺産について、もめたということはなかったでしょうか。
この伝説は、九郎さんへの悪意に満ちています。
九郎さんの娘の悲劇に乗じて、こんな作り話を創作したのかもしれません。
少なくとも、九郎さん自身が、この話を聞いていたはずはないと思います。
彼の死後に生まれた話しのように思います。
そして200年後、熊野神社から、場所を移転させ、寺の名を変えさせたのは、江戸幕府であった可能性はないでしょうか。
この伝説に出てくる、橋の名前まで変更させます。
橋の改名のお話しには、徳川将軍が登場します。
単なる橋の改名にしては、何か妙です。
江戸幕府が、何かの対立関係に決着をつけたとも考えられなくもありません。
それは次回のコラムで書きます。
* * *
この恐ろしい伝説は、まるで架空の絵空事です。
成願寺のお話しのとおり、これらの話しと、事実は分けたほうがいいと思います。
ですが、古代から、こうした、一見、絵空事のようなお話しにも、モデルになるようなエピソードが隠れていることはあります。
ひょっとしたら、橋の上から、お金を持ったまま川に飛び込んで逃げようとした下人がいたのかもしれません。
用心棒か何かが、その下人を斬り殺したのかもしれません。
まったくのハプニング事件だったのかもしれません。
たまたま、それを町人が見ていたというこもあったかもしれません。
また、悪党どもが、お金を奪いに来て、用心棒たちと斬り合いにでもなったかもしれません。
いずれにしても、何らかの血生臭い出来事があった可能性も否定はできません。
まったくの想像ですが、そんなエピソードが、この恐ろしい伝説の元になったとも考えられなくもないです。
まったく元ネタがなかったお話しではないのかもしれません。
九郎さんによる正観寺(成願寺)の建立には、そうした供養の意味もあったのかもしれません。
よくわかりません。
* * *
九郎さんが、本当に強欲で、殺人もいとわない悪党であったのならば、もっと現実味のある悪党話しが、他にもたくさんあってもよさそうなものです。
お金持ちだったのは確かでしょうが、権力をかさに着てという話しも残っていません。
おまけに、これだけの私財を投げうって僧侶になるとは、悪党にできるでしょうか。
浅草観音の話しとは、かなり距離がある気がします。
家族も、このひとり娘、ただひとりだったのかもしれません。
いずれにしても、中野に大きな塔を七つも建てられるとは、相当な財力です。
江戸時代の「紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)」級か、それ以上ですね。
その塔のひとつが、前回コラムのゾウにまつわる、同じく中野区の宝仙寺の三重塔だそうです。
◇成願寺
鈴木九郎さんが建てた「正観寺」は、200年後の戦国時代が終わった江戸時代初期に、九郎の屋敷跡に移され、寺の名を「成願寺」と改称したと前述しました。
改名の理由が、宗教的なものなのか、政治的なものなのか、私にはわかりません。
前述のような、政治的な外圧があったのかもしれません。
お寺の名称や場所を変えるということは、大きな理由があったはずです。
「正観寺(しょうかんじ)」の名称は、浅草観音ゆかりの九郎のお話しがありましたので、理由は想像できます。
「正観」という言葉は、仏教で大切な意味があります。
「成願寺(じょうがんじ)」の「成願」という言葉も、仏教では時折見る言葉ですね。
平家物語にも「所願成就円満(しょがんじょうじゅえんまん)す」という言葉が登場します。
「願いが成る」「願いが叶う」「願いが満ちる」あたりの意味なのでしょうか。
人によっては、中野長者の九郎さんにあやかって、「成功を願う」という方もあるでしょうね。
現代でも、人々のさまざまな願いに応えてくれるお寺なのかもしれません。
いずれにしても、お寺が現代まで残ってくれたおかげで、九郎さんの伝説にも出会うことができました。
ありがたいことです。
* * *
2019年、今年の夏、成願寺の写真を撮ってきました。
東京の都心とはいえ、境内に入ると、室町時代に戻ったような、緑豊かな静かな空間が広がっています。
お盆の時期でしたので、お墓参りの人たちが時折いました。
そうした中に、何かビジネスで成功したような青年実業家風の若い男性が、散歩のような体で、ひとりでゆっくり見て回っていました。
ひょっとしたら、儲けた有り余るお金の使い道に悩んで、成願寺に立ち寄ったのかもしれません。
さらなる成功を願ってのことだったのかもしれません。
お金の良い使い道を、見つけてほしいものです。
成願寺は、座禅や写経、読経、仏像彫刻など、さまざまな仏教体験ができることでも知られています。
詳細は、「成願寺サイト」をご覧ください。
成願寺:東京都中野区本町2-26-6
* * *
「山手通り(環状六号線)」の車道からは、このダルマ様がよく見えますね。
風情のある竹垣(たけがき)ですね。
娘の「小笹(こざさ)」さんの名に、ちなんでいるのでしょうか。
単なるバス停ですが、何かホッとします。
中国風の竜宮城の門のような入り口です。
ここを通ると「六地蔵様」が迎えてくれます。
死後、この六地蔵様のうちの一人に、助けてもらうことになるのですね。
たくさんの観音様や、たくさんの羅漢様も迎えてくれます。
「ほほえみ観音」の、この小さな娘さんは、「小笹(こざさ)」さんなのでしょうか。
境内では、中野長者の鈴木九郎さんの物語が紹介されています。
「大観通宝(たいかんつうほう)」とは、室町時代の日本で使用されていた中国の北宋銭です。
邪鬼の横に銭が…。それとも、銭の横に邪鬼が…。
いかにも高そうな高層マンションの横にも、銭が…。
昔は、こうした井戸が、たくさんの個人の家にもありましたね。
地べたの暮らしも、いいものです。
境内には、ワンちゃんも…。
名前は、クロかな、シロかな? それとも、コザサ?
門を出ると、そこには首都高速道路の「中野長者橋出入口」。
◇安らかに
数年前に、成願寺の、ある仏様の像の中から、人骨の一部がたくさん出てきたそうです。
鑑定の結果、老いた男性と、身体の弱そうな若い女性の骨だとわかったそうです。
おそらく九郎さんと、娘の小笹さんの骨ではないかということだそうです。
このコラム「映像&史跡 fun」は、歴史の深層や真偽をあれこれ考察することをモットーにしてはいますが、このお話しには、これ以上触れないでおこうと思います。
私の中では、父娘を、このまま像の中で、静かに眠らせてあげたいと思います。
* * *
それにしても、稼いだ財のすべてを、お寺や神社、娘のために使って、亡くなっていくとは、すごい長者さまです。
「長者さま」というのは、本当は、成功したお金持ちや、一族のトップではなく、そうした方々のことをいうのかもしれませんね。
「長けている」という意味を、何か間違えていたのかもしれません。
* * *
この成願寺のすぐ隣には、「山手通り(環状六号線)」という東京の幹線道路が通っています。
その地下を首都高速道路の「山手トンネル」が通っており、このお寺の隣には、「中野長者橋出入口」が造られています。
東京で自動車を運転される方でしたら、交通情報などで、一度はこの名称を聞いたことがあると思います。
新宿、渋谷、中野、杉並、世田谷あたりで、クルマを所有してお住まいの方でしたら、時に使う出入口ですね。
この「中野長者橋出入口」…、長者への入口なのか、はたまた長者からの出口なのか、出入口のすぐお隣の成願寺から、九郎さんが一台ずつ見定めているのかもしれません。
この出入口のネーミング、なかなかいいですね。
次からは、邪心を捨てて、「観音様、長者さま」とクチずさみながら、通過したいと思います。
くれぐれも、成願寺を、わき見運転しないようにしましょう。
* * *
次回は、今回の九郎さんの伝説に登場しました「姿見ずの橋」についてご紹介します。
「姿見ずの橋」という橋は、古い歌謡曲でも有名な神田川に、名前を変えて今でも同じ場所に存在しています。
伝説に出てきました「熊野神社」と、死体を放り込んだという池、中野区や杉並区にある熊野信仰や新田一族に関わる神社やお寺は、次々回のコラムでご紹介します。
新宿の高層ビル群に隣接する「新宿中央公園」の隣にある「熊野神社」は、成願寺(正観寺)が最初にあった場所です。
その境内の一角に、何か室町時代の山の中のお寺を思い起こさせるような雰囲気の風景も、小さいながら見つけることができました。
こんな現代の大都会のビル群のすぐ近くに、室町時代がひっそりと残っていたとは驚きです。
次々回に、その写真をご紹介いたします。
* * *
コラム「よどみ…(1)/ 淀橋・内藤新宿・高遠」へつづく
2019.9.6 天乃みそ汁