神倭伊波礼毘古命 | あき&みっちゃんの好きなことを好きなように好きなだけ

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神倭伊波礼毘古命ーかむやまといわれびこのみことー

別名 若御毛沼命ーわかみけぬのみことー

    豊御毛沼命ーとよみけぬのみことー
    豊毛沼命ーとよけぬのみことー
『日本書紀』では、
神日本磐余彦天皇ーかむやまといわれびこのすめらみことー
日本磐余彦火火出見尊ーやまといわれびこほほでみのみことー
幼名として、狭野尊ーさのみことー
初馭天下之天皇ーはつくにしらすのすめらみことー
と表記。

沢山の名前を持っていますが、
初代 神武天皇ーじんむてんのうーと言った方が、
分かりやすいかもしません。



天津日高日子波限建鵜草葺不合命
ーあまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえずのみことー
と、
玉依毘売―たまよりびめーの間に生まれた御子神の四男です。

生まれながらに、賢く、物の道理に通じており、
15歳で太子ーひつぎのみこー ( = 皇太子 ) になり、
成人後、阿多ーあたーの豪族の娘であった、
吾平津比売ーあひらつひめーを娶り、

多芸志美美命ーたぎしみみのみことーと、

岐須美美命ーきすみみのみことー

を授かりました。

その間、どうしていたのかの記述がないのですが、
45歳の時、長兄の五瀬命ーいつせのみことーと相談し、
国土を治めるのに相応しい地を求めて、大和へ東征することにしました。



各地での滞在を繰り返し、白肩之津ーしらかたのつー※1
( 現代の東大阪市付近 ) へ上陸しようとした時、
登美能那賀須泥毘古ーとみのながすねびこーの襲撃に遭い、
大和へ入る事が叶わず、
太陽神の子孫が、太陽に向かって戦うのは良くないと、
太陽を背にして戦う為、熊野へと向かいました。

途中、五瀬命の死や、稲氷命―いなひのみこと―と、
御毛沼命ーみけぬのみことーと別れ、
多くの国津神を下し、他の神々の助けを借りて、
大和入りを果たしました。

強敵、那賀須泥毘古と再び刃を交え、
天津神であり、大和を治めていた、那賀須泥毘古の主、
饒速日命ーにぎはやひのみことーから大和の地を譲り受け、
橿原宮において、紀元前660年1月1日、
初代天皇として即位しました。

現代では使われていないのですが、この時を、皇紀元年としており、
西暦に660年を足すと、皇紀の年になります。
西暦1873年から1948年まで、新暦に換算した2月11日を、
「紀元節」としてお祝いしていましたが、GHQによって廃止され、

西暦1966年に、「建国記念の日」※2と、名を変えて、

祝日に制定されました。



天皇として即位する前、伊波礼毘古命は、
部下の大久米命ーおおくめのみことーに言われ、
長年連れ添った、妻と子供をさしおいて、
皇后に相応しい姫を求めました。

大物主神の御子で、その美しさが評判となっていた、
比売多々良伊須気余理比売命を見初め、后に迎えると、
日子八井命ーひこやいのみことー

神八井耳命ーかむやいみみのみことー
神沼河耳命ーかむぬなかわみみのみことー
の、三柱の御子が誕生しました。

この内、末子の神沼河耳命が、第二代綏靖天皇として即位します。




何でも、長兄の五瀬命に相談したり、
熊野から大和へと入る際の戦いで、疲弊する部下を鼓舞する為に、
強い強い久米一族が、敵を滅ぼしちゃうよ。とか、
戦いすぎてお腹が空いた。料理番さん、助けて。
とか歌っちゃったり、
皇后にと迎えた比売多々良伊須気余理比売命との初夜が、あばら家だったり。
ツッコミどころ満載の伊波礼毘古命ですが、
『古事記』では137歳まで、『日本書紀』では127歳まで生きたとの記述があり、
その在位は、76年となっています。

( 生存年の違いの10年は、『古事記』では16年、『日本書紀』では6年と、

日向から浪速に着くまでに費やした年の違いによるものと思われます )



ご神徳 国家安泰
    天下泰平
    開運招福

紀元前711年1月1日誕生~紀元前585年3月11日没 『日本書紀』より
宮 畝傍橿原宮ーうねびのかしはらのみやー
陵墓 畝傍山東北陵ーうねびやまのうしとらのすみのみささぎー



白肩之津※1    
現代の大阪平野は、古代、海でした。
河内湾と呼ばれ、現代の枚方市から東大阪市まで、海が広がっていたと言います。
しかし、淀川と大和川が運ぶ堆積物で、三角州が出来、
河内湾は、次第に狭くなっていきます。
弥生時代から古墳時代には、現代の新大阪や江坂付近を残し、
広大な干潟になっていたようです。
これが、白肩之津とされていて、
「白」は「広い」、「肩」は「潟」が転訛したもの。
「津」は「港」を指す事から、
広い干潟で、交通や商業、軍事の要衝となっていたと考えられているそうです。

いきなり、そんな要衝に大軍が押し寄せてきたら、

生駒周辺の豪族であり、古代の神様の一族と考えられている那賀須泥毘古側から見ると、
侵略してきたように見えて、土地と一族を守る為に、何とか上陸させまいと、
攻撃をしかけたのかもしれませんね。

やがて、淀川や大和川から流入する淡水で、河内湖も淡水化され、
4世紀から5世紀には、草香江ーくさかえーと名を変えますが、
氾濫が続いた為、干潟の開拓が進められ、次第に湿地となり、
陸地化されていったようです。

「建国記念の日」※2
何故、「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」なのか?
「建国記念日」とは、建国したのはこの日。という、
はっきりした日付がわかっている場合に用います。
「建国記念の日」は、建国した日は、はっきりしないけれど、
建国したことを記念して、お祝いしましょう。という日だそうです。
日本の場合、『記紀神話』に記述はあっても、
歴史的には、その信憑性が欠けるという点で、
「建国記念の日」を用いているようです。

 

 

ここからは亜紀がお送りします。

神倭伊波礼毘古命、神武天皇ですが、

意外な感じですな。

 

なんか厳格なリーダー的なね。

イメージだったわけですよ。

古事記のエピソードを知るまでは。

 

さてさて、コンタクトを取ってみましょう。

 

うむ・・・。

こう、ロマンスグレーな細マッチョ。

かっこいいじゃん。

 

そして、鷹揚な感じ。

 

ん~そうよね。

大きなことするリーダーって、

ガチガチのキチキチじゃある意味務まらない。

 

リーダーって自分の行きたい場所をしっかり見極めて、

部下を信用して大まかに支持したら後は任せる。

 

自分が

「こいつらは信用できる」

と思った人に任せるって事は

「自分の目利きを信用する」

って事だもんな。

 

「〇〇さん偉い人なのに気さくよね」

って言われつつも、

本当に近しい人には畏れられ、尊敬される感じ。

 


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