学生時代から家庭教師として、教員として、行政書士事務所・教育相談室を開いてからも、

,お子さんの様々な問題のご相談をお受けしました。

そんな中、お子さんを自分の持ち物と間違えているのではないかと思うことが何度もありました。

言葉の端々から感じてしまう方がいらっしゃるのです。

育てた見返りを求めてしまうのです。

家門の恥であってはならないのです。

 

自分は損得勘定で子を見ているのに

子にはそれが認められないのです。

 

一方、お子さんにも親を損得勘定から相談にみえる方がいるのです。

 

ご夫婦の場合、配偶者が病気になったので離婚したいという相談を何度もお受けしました。

この離婚相談は多く、相談を受けるわたくしの方が聞けば聞くほど悲しく虚しくなりました。

 

実際にお子さんを育てている中の親御さんとなると

「子は親の私物ではありません。」と叫びたくなる例が沢山ありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小学校の2年から住んでお世話になった舘ひろしさんご一家。

同じ棟の借家に住み、母のいない私共に何かと気にかけていただきました。

風邪などで休むと、集団登校でいないのに気づき、お母さまから十時ごろには桃の缶詰のおやつなどが運ばれます。

昼は昼で用意していただきました。

 

その後、ご一家は引っ越しをされたのですが、中学に入ると、校医としてお父様にお世話いただきました。

病弱なわたくしは旅行でも決まって熱を出し、持病ともいえる肺機能や不整脈などの治療についても、ご勤務先の国立病院でお世話をおかけしました。

 

そして、その補助のような形でお世話になった女医先生のお子さんを担任しました。

その先生から、ご縁としか言えないと言っていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたくしには、信仰も職業も大学も決められていました。

 

実母の友人の方や恩師が

校門の前などで下校するわたくしを捕まえようとさえしてご心配いただきました。

それは、なんと大学の時でもありました。

 

病気になるのは信仰が足りないからというのでしょう。

信仰する教団の施設の夜警をするようにいわれました。

 

しかし、そこで、見たものはその教団の裏側というよりも

今日も続く社会のの裏側の姿,

これが社会の実像なのかというものでした。

 

大学入学後まで続きました。

 

 

 

鶴見俊輔先生の寄稿などに触れ、「現代日本の思想」から、岩波新書に嵌まった。

丁度、長い通学に疲れたのか、肺浸潤や不整脈などの療養での生活の相手になった。

そんな中、浅沼稲次郎の刺殺事件、60年安保など戦後日本の捉え方をめぐる問題が生じてきた。

病院帰りの古本屋で丸山眞男先生を紹介していただいた。

 

樺美智子さんの事件は忘れられないものとなりました。

 

そんな中、家族からも友人からも危険な存在となっていきました。

 

 

小学校の6年に伊勢湾台風に襲われました。

学校の体育館が名古屋市からの人々の避難所になりました。

時の首相が日曜日に訪問されるということで、臨時登校して迎えました。

 

小学校は、東海道本線沿いにあり、御召列車をお送りする慣わしでした。

「天皇陛下に最敬礼。」という号令の下に、最敬礼するのです。

その号令の役がわたくしに回ってきたのです。

わたくしは、号令に精一杯で自分が最敬礼をすることを忘れ、

天皇陛下が手を挙げお応えされ、皇后陛下が寄り添われるお姿を拝見しておりました。

両陛下の真摯なお姿に感動して佇立しておりました。

そんな興奮をしているわたくしを労いながら気にかけて、先生方に声をかけていただいたものです。

中に、「お前がそんな風に感動するのか。」という級友もいました。

 

 

 

 

 

 

父が再婚した時、有島武郎と境遇が似ていることを知った。

近くの町・県の図書館・本屋に出入りするようになり、

白樺派の小説、オパーリンなどの生命の起源に関する書物、歴史物語などを

店主の方などにご紹介いただき読み耽りました。

只読みの上に、生卵乗せカレーライス、ソフトクリームランチつきといったこともあった。

発表の機会を与えられるうちに、新聞社の社長さん、出版社の社長さんなどの方々と親しく接する機会もいただいた。

父と義母の信仰を強制されていたが、その逃げ場として、

日本基督教団やカトリック教会に通い、牧師さんや神父さんのお世話をいただいた。

そんな中で、モラロジーや生長の家の方々からもお話をいただくようになりました。

 

わたくしのことを「左」と言う大人やその子どももあらわれるようになりました。

 

そんな中で、わたくしは、武者小路実篤の「新しき村」の活動に理想を求めるようになりました。

 

 

 

 

転校してその数日後、呼び出され脅されました。

 

小学5年になって同じクラスになりましたが、不安を打ち消すように接してくれます。

ある時、家の前の同級生がラーメンを食べたことがないというので食べさせてやろうという話が決まり、彼が店と交渉してくれました。

感動した店主が学校にも知らせるという思いも寄らないこともありましたが。

その後も、彼は、同級生に作業場として、土地を貸したりして、優しい一面を際立たせていきました。

 

それからも、あれやこれやとかれのほうから声をかけていただいて、世話になりました。

先日、亡くなられたという悲報を受け、いろいろ思い出が浮かんでまいっております。

 

 

 

 

 

 

それから、登下校の折に声を掛けられることが多くなりました。

 

畑から西瓜を手渡されたり、ヤギの乳を飲ませていただいたり、

家に招いていただいて、

抹茶とお菓子をいただきました。

 

お礼を言う度に

そんな感謝の気持ちがあるのなら、

大人になって、困っている人の手助けとなって返すとよいと、

助け合うことを

教えていただきました。

母の言葉にもあったことです。

 

 

 

 

 

小学1年生の5月も末、いつものとおり病院に行き、母を見舞いました。

すこし元気がないなと思いながら病床の椅子に座りながら母に寄り添っていると息をすっと吸って事切れていました。

その夜、病院の庭を何度もひとり歩きまわり、母の言葉を思い返しておりました。

 

その次の日、お通夜、そして葬儀となりました。わたくしは、喪主としての務めで、葬儀のお礼のあいさつの後、火葬場まで、草鞋と白袴の装束で歩き続けました。道端で多くの方々にお送りいただきました。その時も、時々の母の言葉を思い返しておりました。

 

母の入院する病院は名鉄電車と市電に乗り継ぐ必要がありました。

 

駅で切符を買って電車に乗ろうとするとき駅員さんに声をかけられるようになりました。

小学生にもならないのに毎日通うからです。

 

母の好きなソフトクリームを魔法瓶に入れて持っていってやろうと名古屋駅の食堂に出入りするようになると、店長さんにいつもお気遣いいただきました。病院へ行く時間には、お気をつけいただいて、声掛け見守りまでしていただきました。

 

ある日から、市電をやめ、徒歩で行くようにしました。

真夏の昼下がり、勝手口から飛び出した女性とぶつかり、魔法瓶を割ってしまいました。

そこは遊郭で、擦り傷を受けたわたくしは、抱きかかえられ、階段を上り、寝かされ手当てを受けました。楼主と思しき人の指示で、ソフトクリームと新品の魔法瓶が用意されました。しばらくして、そこを通ることがあり、その女性は結婚したと知らされました。そして、「幸せなことだ。喜んでやってくれ。」と結ばれました。

 

駅の駅長さんには、写生大会で指導を受け、そのおかげで入賞してしまいました。食堂の店長さんに対しても気になって、名古屋駅に寄る際には、その店の前を通るのが習慣になってしまいました。