加持
ダライラマの法話より引用法王は、よく好んで読誦されるもう一つの偈頌に触れられた。それはナーガールジュナ(龍樹)の『根本中論偈』の最後の偈頌であるが、「ゴータマ・ブッダに礼拝いたします」よりも、「ゴータマ・ブッダの加持を得ることができますように」と唱えることを好まれ、次のように読誦された。慈悲の心に基づいてすべての〔誤った〕見解を絶つために聖なる教えを説き示されたゴータマ・ブッダの加持を得ることができますようにダライラマの用いる加持の意味は、仏の心が自分の心に感応して良い影響を与える、という程度であろう。具体例をあげるならば、『諸仏たちに、「慈悲の心を授けてください」と祈ると、仏達が慈悲の心を授けてくれる』とチベットの師が説くのを読んだことがある。なるほどその程度ならありそうに思える。加持とは、初期の大乗仏典「十地経」で出現し、密教を中心として強調されるようになった概念である。そもそものはじまりは、”仏または菩薩が衆生を教化し指導する目的で、慈悲心から超自然的な現象を生ぜしめること”であった。そこで、十地経について説明する。普通、仏教経典では、仏陀が説法する。それに対して、十地経では、金剛蔵菩薩がシャーリープッタに説法する。仏陀は禅定中で、肉体は地上に置いたまま他化自在天(天界の最高位)に行っている。金剛蔵菩薩が三昧に入定すると、宇宙の十兆の仏国土から「金剛蔵」という名の無数の諸如来が出現する。この無数の諸如来が、金剛蔵菩薩を不思議な力で加護(加持)して、金剛蔵菩薩が説法を始めるのである。十地経では、「菩薩の十地」という新しい思想(例によってこうすれば解脱できる詐欺)が説かれるのだが、金剛蔵菩薩は、この思想を説くのをためらう。すると、黙って座っていた仏陀の眉間にある白毫が突然光り輝き、金剛蔵菩薩を照射するという奇跡が起きるのである。この光輝く釈迦牟尼仏の不思議な加護を受けて、金剛蔵菩薩は菩薩の十地を説法し始める。菩薩の十地のうち、第十地の解説のところでこうある。菩薩が第十地に達したらマヘーシュヴァラとなり、智慧明達するこのマヘーシュヴァラとはシヴァ神の別名である。これは、仏教の衣をかぶったヒンドゥー教になったことを示している。この摩訶不思議な経典が、加持の概念の始まりである。ましてや、釈尊は、他のものを拠り所にする、神仏を拝むのを否定し、自分自身への帰依を説いたのである。だから、「ゴータマ・ブッダの加持を得ることができますように」と祈ること自体、釈尊への裏切りなのである。............................................ブログランキングに参加しています。応援クリックプリーズ!にほんブログ村