りんごダライラマ

釈尊がこの世にお生まれになったことはすべての人が受け入れている歴史的事実ですが、ご生誕の年がいつなのか厳密には明らかにされていません。パーリ語の経典には、釈尊はシャキャ族の王子として私たちのようなごく普通の人間にお生まれになり、修行を積まれた結果として悟りを開かれ、仏陀となられたと記されています。

 

マイトレーヤ(弥勒)の『究竟一乗宝性論』には、釈尊がなされた仏陀としての12の行ないが挙げられており、その一部は菩薩としてのおからだでなされ、一部は仏陀としてのおからだでなされたと書かれています。釈尊が三阿僧祇劫という無限に近い時をかけて徳を積まれ、完全なる仏陀(正等覚者)となられたことは想像を絶することですが、一度の生涯の中で悟りの境地に至られたということを信じることはできません。前者のサンスクリット語の伝統に基づく説明の方が、道理にかなっていると思います。

原始仏典の制作者ですら分からなかったこと(釈尊の過去世、行いの分析)が、いきなり1000年後の大乗仏教の大学僧に分かるわけがなかろう。そのような説明のほうが「道理にかなっていない」。

大乗仏教は、釈尊を神格化するのみならず、勝手な教えをねつ造した大乗仏教の大学僧たちを絶対的な智慧者の地位に祭り上げることで、彼らの嘘を隠蔽しているのである。

 

しかし、大乗仏教勃興時は、むしろ大乗仏教こそ信じ難い教えであった。

 

ダルマ華厳経は、代表的な大乗仏教経典である。チベット大蔵経の「カンギュル」(律・経蔵)の主要な一角を占めている。

大乗を信じるのは甚だ困難であるので信じることができる者は非常に優れている。仮に三千大千世界を頭に頂いて1劫の間不動の状態でいることはさほど難しいことではない。しかし、この大乗の法を信じることは甚だ難しい。

傘有名な一節

初発心の時にすなわち正覚を成ず

(菩薩が初発心することができれば正覚を達成することができる)

この意味は、大乗の教えを信じることは非常に難しい(注:それは非合理な教えだからである)。もしそれを信じて菩薩道に入ることさえできれば仏陀の悟りを達成したのも同然である。

この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑うこと無き者は、速やかに無上道を成じて、 諸の如来と等しからん。

(信じて疑わなければ速やかに悟りを成就できる)

先入観を持たずに読めば、非合理で都合のいいことを信じさせようとしていることが分かる。

そして、本来、「三千大千世界を頭に頂いて1劫の間不動の状態でいることよりも大乗を信じるほうが難しい」とまで大乗仏典制作者自身が認める教えが、洗脳されて狂信的になったり、宗教で利益を得ることができる宗教者たちの策によって、多くの人が騙されて信じるようになってしまったのだから嘆かわしいことである。

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