普通人の映画体験―虚心な出会い -26ページ目

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年8月17日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、16:20~鑑賞。

「銀魂2」

作品データ :
製作年 2018年
製作国 日本
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 135分


空知英秋の人気コミックを実写映画化したSF時代劇『銀魂』(本ブログ〈August 28, 2017〉)の続編。お金に困ってばかりの便利屋・坂田銀時と仲間たちが思わぬ陰謀に巻き込まれながら繰り広げる大騒動の行方を描く。小栗旬、菅田将暉、橋本環奈、長澤まさみ、岡田将生、中村勘九郎らが再結集するほか、大家役でキムラ緑子が新たに参戦。前作に続き福田雄一がメガホンを取った。

ストーリー :
街には高層ビルが立ち並び、空には無数の宇宙船…。宇宙からやってきた“天人(あまんと)”の台頭と廃刀令により、隆盛を極めた侍が衰退の一途を辿るパラレルワールドの江戸時代末期。かぶき町の便利屋“万事屋(よろずや)銀ちゃん”では、金欠で家賃も払えない坂田銀時(小栗旬)、志村新八(菅田将暉)、神楽(橋本環奈)の3人が、ついにアルバイトを決意する。ところが、アルバイトに行く先々で、お忍びの将軍・徳川茂茂(勝地涼)と遭遇する羽目に。同じ頃、近藤勲(中村勘九郎)たちは内紛劇により、真選組始まって以来の危機に見舞われていた。それはやがて将軍をも巻き込む陰謀へとつながり、江戸中で大騒動が勃発。この最大の危機に万事屋、そして銀時はどう立ち向かうのか…。

▼予告編

2018年8月14日(火)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)で、18:50~ 鑑賞。

「第五福竜丸」⑴

作品データ :
英題 Lucky Dragon No.5
製作年 1959年
製作国 日本
配給 大映
上映時間 107分 


「第五福竜丸」⑵

1954(昭和29)年3月1日にビキニ環礁での米軍による水爆実験(キャッスル・ブラボー)で被曝した第五福竜丸と、その船員たちの悲劇をドキュメンタリー調に描いた作品。主演は『愛妻物語』(1951年)の宇野重吉(1914~88)。監督は『原爆の子』(1952年)の新藤兼人(1912~2012)。

ストーリー :
1954年3月、焼津港を出たマグロ漁船「第五福竜丸」は、魚を求めてビキニ環礁のあたりにいた。乗り組む23人の漁夫たちは、故郷に妻や恋人や親たちを持つ、平凡な人々だった。船長・笠井太吉はわずか22歳の若さで、船の実権は漁撈長の見島民夫(稲葉義男)が握っていた。苦労人の無線長・久保山愛吉(宇野重吉)は、乗組員たちの信任を得ていた。3月1日の午前3時42分、乗組員たちは夜明け前の暗闇の中に白黄色の大きな火の柱が天に向って立ち上るのを目撃した。6、7分の後、大爆音があたりを揺るがせて響いた。ビキニ環礁で米国の専門家たちによって行なわれた水爆実験であった。立入禁止区域外にいて、何も知らなかった一同の頭上に、やがて真白な死の灰が降り注いだ。3日後、船員たちは灰のついた部分の皮膚が黒色に変わり、身体に変調が生じたのに気づいた。帰港後、焼津協立病院外科主任・大宮医師(永井智雄)の診断により、一同が原爆症と判り、第五福竜丸の船体から放射能が検出されるに及んで、事件は大きく表面化した。物理学者・化学者・生物学者・医師等が焼津に集まり、報道陣が殺到し、日本中の目は焼津に注がれた。報道は世界中に打電され、アメリカからも専門家が調査にやってきた。しかし、彼らは何故か積極的な協力を日本側に与えようとはしなかった。23人の漁夫たちは、東京の病院に移され、日本側医療科学陣の総力をあげて治療が進められた。慰めの言葉や抗議文が、病人たちの枕辺にはうず高く積まれた。外国からも多くの手紙が殺到した。そして、当時まだ珍しかったテレビを贈られて喜ぶ漁夫たち…。しかし、徐々に快方に向かいだす若い船員たちをよそに、年長者の久保山愛吉だけは病状が悪化する一方だった。被曝から半年、ついに久保山は妻(乙羽信子)・母(毛利菊枝)・子・船員・医師らに見守られながら、「身体の下に高圧線が通っている…」と絶叫しつつ息を引き取るのだった―。

▼ Full Movie :



▼ cf. 「第五福竜丸の被災と久保山さんの死」(1954年“NHK10大ニュース”) :

2018年8月14日(火)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)で、17:20~ 鑑賞。

「人間みな兄弟」

作品データ :
製作年 1960年
製作国 日本
上映時間 60分 白黒16ミリフィルム


記録映画監督の亀井文雄(1908~87)が、西日本における被差別部落のありのままの姿をとらえたドキュメンタリー作品。原案と脚本を、被差別部落問題に造詣の深い作家、杉浦明平が担当した。ブルーリボン教育文化映画賞と毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞。部落解放同盟が製作に協力している。
本作の撮影は1959年から、50か所を超える地域で1年をかけて行なわれ、翌60年に完成、公開された。部落問題に関する映画の製作については、これより前から構想されていたが、まとまった形での記録映画は本作を嚆矢とする。「道がある。その道が細くなったところに部落がある。」という導入のカットは、まさに「被差別部落」という場所に対する“まなざし”を意識させる。監督の亀井文夫は、戦中の『戦ふ兵隊』(1939年)から、戦後の『生きていてよかった』(1956年)、『流血の記録 砂川』(1957年)、『世界は恐怖する 死の灰の正体』(1957年)などの作品ですでに高い評価を得ており、本作においてもその実力は遺憾なく発揮されている。

ストーリー :
月ロケットが飛ぶ宇宙時代の日本に、6000部落、300万人が理由なき差別を強いられ、苦しみのどん底にあえいでいる。この映画は、部落差別を当然と思いこんでいる人たちに反省を求め、知らない多数の国民にこの恐るべき悲しむべき事実をありのままに訴えるために製作された。スタッフ7人は、大阪、京都、奈良、和歌山、三重、長野と、1959年の8月から半年かけて撮影、結婚差別、就職差別など様々な人々の悩める声を聞き、差別の実態に迫っていく。ハンダの屑が含まれるゴミ土や灰を集めて小川で洗い出す少年、鹿子絞りをする女性、草履づくり、食肉関連事業、皮革生産者などの生活を追う。差別構造の発端は、近世封建社会において民衆を支配するために人為的・政治的に作られた身分制度。明治4年の太政官布告(解放令)で身分差別は廃止されたが、形式的なものとなり資本主義の発達と共に差別は助長されてきた。戦前の水平社運動から発展して戦後、部落解放同盟が結成され、行政闘争を行ないアパートも一部建設されているが、部落解放の闘争はまだまだ続く。人権意識の高まりを背景として1965年8月、国の同和対策審議会は「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」について内閣総理大臣に答申。その結果、同和対策事業特別措置法が制定され、1969年7月から施行、地区の改善が進められたが、この映画は答申前の貴重な記録となっている。

▼亀井文夫監督作品 予告編 :
(『流血の記録 砂川』→『人間みな兄弟 部落差別の記録』→『世界は恐怖する 死の灰の正体』→『のり平 トラベル・マナー』〈1966年〉)



▼ cf. 部落差別の現在(1991年) :

2018年8月10日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、18:55~鑑賞。

「オーシャンズ8」

作品データ :
原題 OCEAN'S EIGHT
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 ワーナー・ブラザース映画
上映時間 110分


スティーブン・ソダーバーグ監督が手がけ、主演のジョージ・クルーニーほかオールスターキャスト共演で話題を集めた『オーシャンズ』シリーズを、新たにオール女性キャストで描くクライム・エンターテイメント。クルーニーが演じたダニー・オーシャンの妹デビー・オーシャンが主人公となり、女性版オーシャンズが結成される。女性だけの犯罪ドリーム・チーム8人が、全世界に生中継されている“メットガラ”を舞台に、1億5000万ドルの宝石を盗み出す前代未聞の計画に挑むさまをスリリングに描く。デビー役のサンドラ・ブロックほか、ケイト・ブランシェット、アン・ハサウェイ、ヘレナ・ボナム=カーター、ミンディ・カリング、サラ・ポールソン、リアーナ、オークワフィナらが出演。監督は『ハンガー・ゲーム』のゲイリー・ロス。

ストーリー :
5年の刑期を終え、晴れて刑務所を出所したデビー・オーシャン(サンドラ・ブロック)。かつて“オーシャンズ”を率いたダニー・オーシャンを兄に持つ、生粋の強盗ファミリーの一員だ。出所早々、刑務所の中で考え抜いたプランを実行に移すべく、デビーの右腕となるルー・ミラー(ケイト・ブランシェット)と共に、個性豊かな犯罪のプロたちに声を掛け、“オーシャンズ”を新結成する。集まったのは、いずれも一流の才能を持ちながら、冴えない生活を送っている、ハッカー、スリ師、盗品ディーラー、ファッションデザイナー、宝飾デザイナーといった面々。彼女たちのターゲットは、世界最大のファッションの祭典“メットガラ(the Met Gala)”~毎年5月の第一月曜日の夜、NYメトロポリタン美術館で開催される、世界中の600人以上ものセレブが集うチャリティーイベント~でハリウッド女優ダフネ・クルーガー(アン・ハサウェイ)が身に着ける1億5000万ドルの宝石!しかし、そこには網の目のように張り巡らされた防犯カメラに加え、屈強な男たちという世界一厳しいセキュリティが立ちはだかる。たった1秒の狂いが命取りになる。しかも、この祭典の模様は世界中に生配信される予定となっていた。世界中が見守る前で宝石を盗み取るという前代未聞かつ型破りな犯罪!果たして、その計画は成功するのか…?そして、その裏に隠された更なるデビーの思惑とは…?

▼予告編

2018年8月7日(火)ポレポレ東中野(東京都中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下、JR東中野駅西口北側出口より徒歩1分)で、20:30~鑑賞。

「乱世備忘 僕らの雨傘運動」

作品データ :
原題 亂世備忘
英題 Yellowing  
製作年 2016年
製作国 香港
配給 太秦
上映時間 128分


2014年に香港で起こった大規模反政府デモ(通称「雨傘運動」)の一部始終(79日間)を記録したドキュメンタリー(20章に分けて編集)。民主的な選挙を求めて、数万人の若者が香港の金融街を占拠。警官から催涙弾を撃たれ雨傘で抵抗する若者たちの運動に、当時27歳の陳梓桓(チャン・ジーウン)監督もカメラを片手に参加し、熱気に満ちたごく普通の若者たちの生の声を丹念に拾い集めた。2017年の山形国際ドキュメンタリー映画祭(通称・YIDFF)「アジア千波万波」部門で小川紳介賞を受賞。

ストーリー :
これは、チャン・ジーウン監督が仲間たちと過ごした、未来のための備忘録である。
―僕が生まれる前、1984年に香港が1997年に中国に返還されることが決まった。2014年、香港にはいまだに民主主義はない。自分たちで香港の代表を選ぶ「真の普通選挙」を求めて若者が街を占拠した、雨傘運動。同じ「香港人」であるはずの警官たちから浴びせられる催涙弾に皆が雨傘を手に抵抗し、僕はカメラを手にデモに向かった。そこで映画の主人公となる仲間たち、香港大学で英語教育を専攻するラッキー(23歳)、同大学で法律と文学を専攻するレイチェル(19歳)、準学士(日本の短大に相当)の学生でキリスト教徒のフォン、下請け建設業者の会社で働くユウ、中学生で授業のあとデモに来るレイチェル(16歳)たちに出会った。香港の街が占拠され、路上にはテント村ができ、野外自習室ではラッキーの英語無料教室が開かれた。テントを張り、水を運び、夜は一緒にマットを敷いて路上に寝る日々。討議がまとまらず言い争いになると「これが民主主義」だと、皆で笑いあう。こんな香港を見るのは初めてだった。香港に暮らす「普通」の僕たちが、「香港人」として「香港の未来」を探し求めた79日間の記録―。

※雨傘運動とは
1997年、中国に返還された香港は「特別行政区」(正式名称:中華人民共和国香港特別行政区)となった。「香港特別行政区基本法(香港基本法)」には「一国二制度」に基づく「高度な自治」が認められ、将来、1人1票の「普通選挙」で行政長官を選ぶことができるとされたが、2014年に中国の全国人民代表大会常務委員会は、共産党が支持しない候補を選挙から排除する仕組みを導入する「8.31決定」を下し、民主主義的な普通選挙の道が閉ざされる。「8.31決定」の撤回、「真の普通選挙」の実施を求め、香港の金融街・中環(セントラル)を占拠する「オキュパイ・セントラル」が計画された。大学では授業ボイコットが行なわれ、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)ら若者による組織「学民思潮」は、政府本庁舎前で抗議活動を展開する。9月28日、「オキュパイ」が当初予定の中環ではなく、金鐘(アドミラルティ)で開始、銅鑼湾(コーズウェイベイ)、旺角(モンコック)などの街を占拠。数万人におよぶ学生・市民は、催涙弾で鎮圧しようする警察に、雨傘で抵抗した。「雨傘」が“市民的不服従”(※良心に基づき従うことができないと考えた特定の法律や命令に非暴力的手段で公然と違反する行為)の象徴とし、「雨傘運動」と呼ばれるようになった(論者によっては、「雨傘革命」とも言う)。市民たちは手を挙げて警察に立ち向かい、平和主義を貫いた。しかし、成果を得ないまま占拠を続ける運動に対して、徐々に市民からの反発も強まり、11月後半からは警察による排除が始まり、12月15日に79日間に及ぶ「雨傘運動」は終了した。金鐘の占領区に残ったバリケードには、「It’s just the beginning/まだこれからだ」というメッセージが残されていた。


▼予告編



▼ cf. <回望 ・雨傘革命>(2014/12/28 にYouTube公開) :



クリップ 2018年7月13日付『朝日新聞』「ひと」欄 :
陳梓桓監督ー朝日新聞「ひと」

◆陳梓桓監督(Chan Tze‐woon、1987~) インタビュー(bizSPA!フレッシュ:選挙に行かない日本の若者へ。香港の反政府デモを追った31歳・映画監督が語る-2018.07.14) :
――1997年にイギリスから中国に返還されてから、およそ20年が経ちました。香港が今日までどのような変化をしてきたのか、監督は何か肌で感じる部分はありますか。
チャン・ジーウン(以下、チャン):私は主に2000年代に成長してきた世代ですから、香港が返還された当時の感覚はあまりなく、そのことについて深く考えてはいませんでした。高校生の頃も遊ぶことのほうに興味があったのですが、徐々に社会運動が盛り上がる時代になってきました。特に2003年は50万人が参加した非常に大きなデモがあって、何だか騒がしくなってきたなという感じがしました。/大学に入った頃から、過去の歴史や政治に対して興味を持つようになりました。特に1989年に北京で起きた「天安門事件」は、香港にも非常に大きな影響をもたらしました。私は大学で政治を専攻していたのですが、当時の香港はデモが盛んで、2010年には高速鉄道建設に反対する抗議デモがあって、私も参加しました。

――抗議デモが発生するのはどのような背景がありますか?
チャン:こうした運動はどれも中国と関係のあるものです。たとえば高速鉄道の反対運動は、中国の広州~香港に引かれる鉄道ですが、一国二制度という建前がありながら、実際には中国の言いなりになっている背景があります。中国主導の鉄道建設にもかかわらず、香港が費用を負担しなければいけないのはおかしいという主張がありました。/他にも、香港では毎年6月4日に天安門事件の記念集会が行われています。近年、どんどんと中国の影響が大きくなっている中で、自分たちがどうやって民主を守るか、勝ち取るか。それが私たち香港市民の非常に大きなテーマになっています。

――香港市民全体で見たときに、民主化を望む声は、どれくらいの大きさなのでしょうか。
チャン:一般的には6:4と言われています。6割の人が民主化を求めていて、4割の人は中央政府寄りの意見を持っている。その保守的な人たちは抗議活動に参加せず、民主化は特に必要ないと考えている、と言われています。/ただ、現在の香港の選挙制度は、「雨傘運動」の発端になった件のように、少数派であるはずの政府支持者が議会で多数派を占めてしまうシステムになっている。そういう制度に対して、我々は多数派なのに少数派の扱いを受けていることに怒りを覚え、無力感を抱いているわけです。/そして今恐れているのは、民主化を望む6割だった人たちがさらに少なくなってしまうことです。中国からの移住者もどんどん増えていて、その割合は6割から減る可能性あります。

――「雨傘運動」に参加されたとき、ジーウン監督はお父様と口論になられたそうですね。それはやはり、世代間で感覚の違いがあるということですか?
チャン:世代間の違いは、おそらくどの地域でもあるでしょうが、香港の場合はそれがハッキリと現れていると思います。若い世代は理想を持って世の中を良くしたいとデモに参加していますが、たとえば上の世代の人たちは、1980年代景気の良い時代にがんばってお金を稼いできました。/そして今は社会が安定していることを望んでいます。彼らから見れば、デモばかりして働かない若者たちはけしからん、という感覚になるわけです。これは香港において、わりと多く見られる傾向でしょう。

――そんな中で監督は「雨傘運動」に参加して、さまざまな若者たちと出会いました。その中で、特に印象に残っている人、もしくは出来事があれば教えてください。
チャン:やはり一番印象的だったのは、最初に彼らと出会った時ですね。9月27日、撮影を目的に現地を訪れた私は、警察とデモ隊に挟まれるような状況に遭いました。本来なら警察が迫った時に離れるべきだったかもしれませんが、私は同時に、デモの参加者としてこの場所にいる気持ちがあったので、「ここで逃げるわけにはいかない」と考えました。そのうちに、完全に押しやられる形で挟まれてしまい、前線に出てしまったわけです。/さすがに恐怖心を抱きましたが、そういう葛藤の中で、逃げずにここに残ろうと決意した瞬間でもあります。その結果、ある若者たちに出会うことができた。その後、彼らとは戦友のような関係になっていくわけです。彼らが必死で警官隊に訴えている姿勢を見て、私は恐怖と感動を覚えました。
もうひとつ、レイチェルという16歳の女子中学生に出会ったことも印象的でした。私は当時27歳で、世間からは若いと言われていましたが、デモでは年下の登場人物たちと一緒にいました。/ところが、さらにもっと年下の彼女が現れた。レイチェルはわずか16歳で、たった1人、制服姿でモンコックにやって来たのです。彼女は他の仲間たちとは違ってあまり多くの言葉を発さず、非常におとなしいタイプです。でも、ハッキリとした明確な意思を持っていました。そういう人が現れたことに私は心を動かされました。

――「雨傘運動」で会った若者たちと、その後再会されましたか?
チャン:彼らとはまだ連絡を取り合っています。「WhatsApp」という日本のLINEみたいなアプリで。「よりよい香港のために」という名前のグループを作り、そこで政治などの話題を交わしています。最近は以前ほど交流は多くはありませんが、たまに私が映画を作ったときなどは、一緒に食事をしたりしました。
あれから、いろいろと変化して、それぞれの道を進んでいます。小学校で英語の先生をしていたり、山登りガイドを目指していたり。先ほど話した16歳のレイチェルは、大学受験に失敗して浪人をしていたのですが、それも辞めてアパレル店で働き、お金を貯めては旅行に行っているそうです。

――あの「雨傘運動」を振り返って、監督ご自身が今もっとも感じている気持ちは、無力感だったのか、それとも未来への希望だったのでしょうか?
チャン:社会運動の後というのは、どうしても無力感が残ります。私もそういう心境の中で、この作品の編集をしていました。運動の拠点だったアドミラルティやモンコックを訪れると、道路を埋め尽くしていたテントは消え、元の姿に戻っているわけですが、ふと当時の記憶が蘇ってくることがあります。たしかに喪失感という感情は非常に大きいと思います。/映画を観た人たちの中には、「ずいぶんと運動に未練があるじゃないか」という声もありました。ただ、編集作業の中、何度もあの時の映像を観返していて思うのは、「この時の精神を保ち続けていきたい」ということでした。/最近とても興味深い出来事がありました。この映画の上映会を各地で行っていたとき、ある田舎の会場で、かつての学校の先輩が観に来てくれたんです。

――え! その先輩はどんな様子でしたか?
チャン:その先輩は2歳になった子供を連れていたのですが、あの催涙弾が飛んでいるなかで奥様もデモに参加していた。おなかの中にはその子を宿していたそうです。それを思うと、ああ、それだけみんな変わっているんだな、成長しているんだなという印象を強く受けました。/たしかに香港には、そういった悲観的な空気が漂っていたわけですが、それでもやっぱり希望というものを捨ててはいけない。やはり香港は自分たちが生まれ育った街であり、自分たちが守っていくべきだと思います。

――日本では2017年に衆議院議員総選挙が行われました。総務省によれば、若年層の投票率は10代が40.49%、20代が33.85%と世代別に見て最も低い数字でした。
チャン:おそらく日本の方たちは生まれた時から民主システムがあって、それが当たり前のようになっていることが、むしろ大切に思わない理由かもしれません。私たちもそうですが、何かを失って、初めて大切さに気付くときがあります。この映画を日本で観てもらうことで、私たちが20年以上かけても勝ち取ることができない、民主主義とはどういうものか、考えるきっかけになってもらえたらと思います。/民主主義はひとつの制度ですが、1人1票の投票権を持っていれば、それで良いというわけではありません。より社会や政治に関心を持って、参加していくということで、初めて民主主義だと思うのです。ですから、そういう民主主義を考えてほしいと思います。

――日本公開で若い人や、これから未来を作っていく人に観てほしいという気持ちはありますか?
チャン:そうですね。たしかにこれまで日本で3、4回ほど上映をしましたが、全体的に観客の年齢層は高かったと思います。こういうテーマだからシニア層に興味を持たれやすい、という傾向もあるかもしれません。ただ、先日は立教大学のキャンバスで特別上映され、若い方々にも観ていただくことができたので嬉しかったです。/やはりたくさんの若い方々に観てほしいと思います。この映画は、映っている彼らとお友達になるような、そして自分が現場で運動を体験できるような、そういう作品だと思っています。
デモに参加するということは、恋愛と同じようなもので、結果は必ずしも理想的なものではないかもしれませんが、その過程の中でさまざまな成長があると思います。ですから、ぜひ作品を観て彼らと心を交わしながら、香港の社会運動がどういうものか、体験してもらえたら嬉しいです。
2018年8月7日(火)ポレポレ東中野(東京都中野区東中野4-4-1 ポレポレ坐ビル地下、JR東中野駅西口北側出口より徒歩1分)で、18:20~鑑賞。

「沖縄スパイ戦史」

作品データ :
製作年 2018年
製作国 日本
配給 東風
上映時間 114分


第二次大戦末期の凄惨を極めた沖縄戦のさらなる深い闇に迫る衝撃のドキュメンタリー。沖縄に渡った“陸軍中野学校”出身の青年将校たちの知られざる活動を追い、“護郷隊”と呼ばれる少年ゲリラ兵部隊の存在やマラリアが蔓延する離島への強制移住の真の狙い、さらにはアメリカ側への情報漏洩阻止を目的としたスパイリストによる住民虐殺という沖縄戦における戦慄の実態を暴き出していく。監督は『標的の村』『戦場ぬ止み』など沖縄基地問題を題材にした作品を手がけてきた三上智恵と、元琉球朝日放送記者で『テロリストは僕だった~沖縄基地建設反対に立ち上がった元米兵たち~』などのTVドキュメンタリーを手がけ、本作が映画初監督となる大矢英代。2018年7月21日より沖縄・桜坂劇場にて先行公開。

ストーリー :
第二次世界大戦末期、アメリカ軍が上陸し、民間人を含む20万人余りが死亡した沖縄戦。1945年6月23日、第32軍・牛島満司令官が自決し、軍司令部は消滅。ところが、北部ではゲリラ戦やスパイ戦など“裏の戦争”が続いていた。作戦に動員され、故郷の山に籠って米兵たちを翻弄したのは、まだ10代半ばの少年たち。彼らを“護郷隊”として組織し、秘密戦のスキルを仕込んだのが日本軍の特務機関「陸軍中野学校」出身のエリート青年将校たちだった。
1944年の晩夏、42名の「陸軍中野学校」出身者が沖縄に渡った。ある者は偽名を使い、学校の教員として離島に配置された。身分を隠し、沖縄の各地に潜伏していた彼らの真の狙いとは。そして、彼らがもたらした惨劇とは…。
過酷なスパイ戦に動員された“少年ゲリラ兵部隊”、軍命によりマラリア禍の地に強制移住させられた波照間島民の悲劇、住民協力を得て作られたスパイリストに基づいて行なわれた“スパイ虐殺”…。戦後70年以上語られることのなかった「秘密戦」の数々が一本の線で繋がるとき、明らかになるのは過去の沖縄戦の全貌だけではない。映画は今まさに、南西諸島で進められている自衛隊増強とミサイル基地配備、さらに日本軍の残滓を孕んだままの「自衛隊法」や「野外令」「特定秘密保護法」の危険性へと深く斬り込んでいく―。

▼予告編



◆三上智恵監督・大矢英代監督 インタビュー(LITERA:「反基地運動は中国のスパイ」デマも同根だ!『沖縄スパイ戦史』監督が語った“スパイ”という名の分断-2018.07.27) :
──これまで『標的の村』や『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』で、高江のヘリパッドや辺野古新基地の建設、先島諸島の自衛隊・ミサイル基地配備の問題を描いた三上監督が、今作では大矢監督とともに沖縄戦を扱いました。なぜいま沖縄戦、それも「スパイ」をテーマに選んだのでしょう。
三上 みなさんそれを聞きますよね(笑)。三作の映画をつくってみて、まだこれではダメだと思ったからです。辺野古や高江の問題は、沖縄が大変だということではない。もう日本自体が壊れていて、民主主義も国民主権も三権分立も手放そうとしている。そのことの警鐘としてやってきました。/だけれども、その危機感はほとんど浸透していない。たとえば一作前の『標的の島 風かたか』は、具体的に始まっていく宮古・石垣の自衛隊による要塞化が日本の運命をどう変えていくかということを打ち出したのに、ほとんど後追いもされませんでした。だから、基地建設反対運動や沖縄や離島の文化というのを絡めてドキュメンタリーとしていく手法は、もう甘いんだなって思ったというのがひとつ。/もうひとつは、日本人は「次の戦争はピカっと光って終わりの核戦争だ。いまどき白兵戦をやるわけがない」と決めつける人が多いですけど、いま、世界中で戦われている戦争って、実際には核戦争じゃないですよね。テロであり、ゲリラであり、スパイによる秘密戦なんです。秘密戦というのは恐ろしい世界で、言わば、敵兵の顔も見ずに、弾に当たる前に殺される人が出る。そうしたいま起きている、起ころうとしている恐怖を知ってもらうために、私たちが放送局時代から取材してきた沖縄戦に何を学ぶべきかと考えて、この題材を選びました。
大矢 実は当初のタイトル候補は「沖縄裏戦史」だったんですよ。でも「裏」というよりかは、全編を通して「スパイ」の話なんですね。陸軍中野学校という本土でスパイや秘密戦、ゲリラ戦などの教育を受けた青年将校が沖縄に赴任し、10代の少年たちを集めてゲリラ兵にした「護郷隊」。私が学生時代から取材してきた戦争マラリアの問題もそうです。たとえば、波照間島の住民は日本軍によって悪性マラリアの蔓延する西表島に強制移住させられ、島民の3分の1が命を落としましたが、実は、その前に中野学校出身者が学校の先生として偽名で赴任してきて、住民の生活を秘密裏に監視していました。強制移住は住民を守るためではなく、食料確保や情報を漏洩させたくない軍の都合だった。/つまり「スパイを防止する」という名目で住民のスパイをしていたのです。人々を守るためじゃなくて、日本の国体を守るためですよね。軍が住民に住民を監視・密告をさせて作成した「スパイ容疑者リスト」の存在と、疑心暗鬼になった住民同しによる虐殺も、背景には機密を保持するという軍の論理がありました。

──住民たちを疑心暗鬼にさせて「あいつはスパイらしい」みたいな流れをつくることは安倍政権もやっています。一例をあげると、公安調査庁は報告書のなかで、中国の大学やシンクタンクが沖縄独立を求める団体の関係者との交流を深めているとして〈日本国内の分断を図る狙いが潜んでいる〉などと言いふらしています。他にも、基地新設に反対する人たちや翁長知事に対して「スパイ」とか「回し者」みたいな誹謗デマが飛んでいる。たとえば昨年、作家の百田尚樹氏が〈テント村の中には、漢和辞典も。日本語を勉強している人たちなのかも〉とツイートして、あたかも高江に「中国のスパイ」が紛れ込んでいるかのようにほのめかしていました。
三上 えっ、そんなことを言っていたんですか…。低俗すぎて論外ですが、たしかに「沖縄にスパイが入ってる」というようなデマはいま、再燃しています。しかし、そういう話が流布されていくと、本当に、自分たちの所属している社会が根から腐っていく。/「スパイ」という言葉の怖さがわかっていないんでしょう。それはジェームズ・ボンドの「スパイ」ではなくて、戦争のときは命取りになる言葉。いや、戦争の前から「スパイ」とされて、いじめ殺されたりということが日本中であった。だからこそ、魔女狩りみたいな危険な集団心理として肝に命じておかなくちゃいけないはずなのに…。

──でも、百田氏の言うような話は現状、かなり流通してしまっています。たとえば「基地反対派は金をもらっている」というネトウヨのデマを本当に信じてしまっている人は少なくないです。
大矢 もちろんネットの恐ろしさはわかります。私が琉球朝日放送に入局したときから、それこそ“沖縄バッシング”と言われるものは始まっていました。日々のニュースのなかで、普天間基地がつくられる前にはもともと村があって、住民の生活があって、それを米軍が接収したのだというニュースを伝えても、「普天間基地」とgoogleで検索したら、「普天間基地の真実」とか「普天間基地の嘘」みたいな話がたくさんでてくるじゃないですか。/私は伝える側ですが、受け取る側から見たら、普天間の歴史をもっと知りたいなと思っても、ネットで調べたら事実とはまったく違う嘘にたどり着いちゃうわけですよね。そういう恐ろしさをネットは常にはらんでいると思うし、結局はリテラシーを身につけないと状況は変わらない。/ただ、一方で、映画を作るようになってからは、正直、あんまりネット右翼と言われている人たちの声は、もう無視してもいいんじゃないかと思うようになってきていて(笑)。

──ネトウヨのバッシングはあまり意識しないということですか。
大矢 はい。だって単なる卑怯じゃないですか。こっちが実名で顔までだしてつくっているものに対して、どこの誰かもわからない、ネットがなければ存在すら証明できない人たちが書き込むわけですよね。それって、対等な関係にならない。だからあんまり、ネットでこんなバッシングが……というのは気にしていないし、相手にしなければいいんじゃないか。そうも思うんですよ。/もちろん、そうした言説がなぜこれほどまでに出てきているのかということについては、社会の闇の部分としてもっと取材しないといけないですが。誰かを攻撃することで安心している、あなたのなかのその気持ちはなんなんですか?そう問いたいですね。
三上 「あいつらは中国のスパイなんだってよ」みたいなデマって、『沖縄スパイ戦史』の「スパイ」にも共通しますが、ものすごく無責任にアドレナリンが出る話なんですよ。それで知ったような気になる。実際、「翁長知事の娘は中国に留学し、中国共産党の幹部と結婚した」というような有名なフェイクに多くの人が飛びついた。念のため言っておきますが、翁長知事の娘さんは中国に留学どころか一度も中国に行ったことがないですからね。/しかし「翁長はスパイ」と思いたい人は、「娘が中国人と結婚しているらしい」なる話をフェイクだろうとなんだろうと拡散する。いいね!されることが生きている実感になっちゃっている。そんな病んだ社会がありますよね。「辺野古で反対している人たちはお金もらっているんだぜ」みたいなデマもそう。こういうことさえ言っていれば、自分たちは辺野古の人たちに同情することもないし、実は加害者だということに向き合う必要もないから。/沖縄のことを考えたくもないし、政治的な感覚も本当は0点なんだけど、それをどこか恥ずかしいと思ってるからこそ、そこは悟られたくない。どっちかと言えば、楽してかっこはつけたい。そういう人が群れを成してデマやバッシングに向かう。負の連鎖ですよね。

──そうしたデマとはまた違った角度のバッシングとして、基地反対や日本軍の戦争犯罪を批判すると「政治的なプロパガンダだ!」みたいな言いがかりも飛んできます。『沖縄スパイ戦史』では、石垣島への自衛隊配備を容認する中山氏が当選した石垣市長選のシーンも出てきますね。選挙も入れようというのは最初から考えていたんですか。
三上 もちろんです。ひょっとして、いま現在の選挙を入れると後から古びてみえるとか、そういう違和感を感じましたか?

──いえ、そうではなくて、「政治的な映画だ!」みたいなことを言い出す連中が出てくるのではないかと…。
大矢 うーん、想定はしていましたね。最初は、石垣市長選をどういう風に扱うかは結構悩んでいて。本編を終えたエンドロールのところに入れるというプランもあったのですが、するとまったく違う印象になりますから。まあ、中山市長が映画をみたら怒るだろうなとは承知の上でつくってますけどね(笑)。/でも、現在とつなげなければ意味がない。なぜ、2018年のいま、この映画をつくっているのか。目の前で起こっている石垣の市長選があって、自衛隊基地をどうするの?というところは撮らなければいけない。そう思っていました。/だいたい「政治的だ!」というバッシングがあると言いますけど、世の中に政治的じゃないものなんてありますかね?
三上 というか「政治的だ!」っていうバッシング自体、実は政治的でしょう。
大矢 そうそう。八重山の選挙に限っていえば、右とか左とか、そういう問題じゃなくて命の問題なんです。自衛隊基地を置くことで、どういう風に自分たちの生活が脅かされていくのか。どういう風に作戦に加担させられていくのか。映画で過去を掘り下げたように、戦争では「軍の秘密を握る住民」とされて、住民も子どもたちの生活も一変してしまったから。
三上 生活や命が脅かされると心配することを「政治的だ!」とか「プロパガンダだ!」と責めて楽しいですか。自分はこの島にずっと住み続けていくし、そこは先祖の土地だし、未来の子どもたちも守りたい、そういう思いを持つは自然でしょう。あなたがこの島にいたら心配しませんか。右往左往しませんか。自衛隊基地についてのいろんな意見を聞いて、迷ったり、怖くなったりしませんか。/メディアの問題にも通じますが、「政治的中立」みたいな無重力の場所が仮にあったとして、自分はそこを探してそこに立って、公平に世の中にあるすべてのことを見渡すことができる、なんて考えているとしたらかなり傲慢ですよ。そんな人間がいるはずがない。あなた自身が偏っていないというのならば、その意味のない自信はどこからくるのでしょうか。

──映画をみれば、自衛隊についてもいやが応にも考えざるをえないです。
大矢 自衛隊のことについて目をつむり、耳を塞ぐのは、罪悪感をとりはらいたいがための自己暗示でしかないと思っています。
三上 たとえば、先の戦争で散々なことをした旧日本軍と自衛隊が同質であるかどうかはとても重要な問題なのですが、みんなそこを検証せずに「まさか同じなわけないじゃないか」と思っている。/この映画をみて、何が同じで何が変わったのか、考えてみてほしい。少なくとも、旧日本軍が何をやったのかということが知られてなさすぎるし、もっと多くの人の目で検証しないと信用できないはず。だからこそ、私たちは『沖縄スパイ戦史』のようなドキュメンタリーをつくっているんです。


◆ HANAYO OYA INTERVIEW (OUTSIDE IN TOKYO:大矢英代『沖縄スパイ戦史』インタヴュー ‐2018年7月4日) :           
1. アメリカに留学して、アメリカの“軍隊を支えている国”としての日本の姿が見えてきた
OUTSIDE IN TOKYO(以降OIT):映画を拝見して、第二次世界大戦末期の知られざる沖縄戦を探求していく中で、現在へと連なるとても重要な問題が浮き彫りにされていく、素晴らしい作品だと思いました。大矢監督は、大学でジャーナリズムを専攻後、放送局に入社するという経歴をお持ちですが、最初に、この作品に至るまでの経緯をお話頂けますか?
大矢英代:実際は、大学の時はジャーナリズムとは無縁の生活をしていまして、英語の教員になろうと思って英文学科で教職課程を取っていましたが、一方で国際ボランティアで途上国支援の仕事をしたいという気持ちもありました。途上国や紛争地帯などで苦しんでいる人たちのための仕事をしたいと思っていたんです。2007年にアメリカに留学する機会がありまして、大学の1年間ですので、正確には9ヶ月間留学をしました。その時に初めてアメリカ軍というものについて考えさせられる機会があったんです。今まで紛争地の人々を現地に行って助けたいと思っていたわけですが、考えてみれば、当時、イラクやアフガニスタンに侵攻中だった、紛争地に出撃している軍隊、そういう“軍隊を支えている国”としての日本の姿が見えてきたんです。
具体的に言うと、私が通っていた大学で軍隊に志願する人たちがいたんですね。2007年というのはリーマンショックの前の年で、アメリカ経済にガタが来ていた時で、経済的な理由から学校に通えなくなる人たちが出てきていた。そういう人たちが米軍に入っていくという状況がありました。私は今まで、アメリカ軍には、ある種の好戦的な人たちが入るんだろうと思ってたんですど、実際は経済的に困っている若者が仕方なく志願していた。それを見た時に、アメリカ軍というのは、全部がそうではないにしても、こういう若者たちで成り立っているシステムなんだなということがわかってきたんです。
結局、戦場で傷ついている人たちも弱者ですから、弱者対弱者の戦争の中で、そういう戦争のシステムを支えている日本という国の姿が見えてきて、基地を持っていることの“加害性”に自分もとっくに加担しているんだということに気付いた、それなら日本に帰って、基地の問題を自分なりに学びたいと思ったんです。それは、私がアメリカにいた時に、沖縄の人たちが基地の街で暮らすことの苦しさを自分の言葉で語れなかった、私自身がそういう取材をしたことがなかったので、自分の目や耳で感じたことを伝えることが出来なかった、その悔しさから、現場へ行きたいという思いがあったんです。私は元々、物を書いたり、話したりすることが好きでしたので、伝える仕事で役に立てるんじゃないか、それなら、ジャーナリストかなと思って大学院でジャーナリズムを専攻したんです。

2. 波照間島に1年住んで、“戦争マラリア”の体験者と共同生活をしながら取材をしました
大矢英代:そこで、大学院の1年生の時、2009年の夏にインターンシップを経験しました。八重山毎日新聞社という、石垣島の新聞社があって、そこで3週間インターンをして、その時に初めて“戦争マラリア”のことを知りました。8月15日終戦記念日の新聞の第一面が“戦争マラリア”だったんです。私の場合は関東で生まれ育っていますので、戦争というと広島、長崎という連想になるのですが、それとは全く違う“戦争マラリア”という話が出てきて、記事を読んでみると、アメリカ軍は上陸しなかったけれども、日本軍の命令で“強制移住”させられて多くの方々が亡くなったという、読めば読む程、一体何が起きたのか分からなくて、そこから自分で色々なことを調べるようになりました。
それで現地の人の話を訊いていくわけですが、皆さん、そんなに話したくはないですよね。急にやってきて、お前は誰だ?っていう感じですよ。そこで、自分が相手の立場だったらどうしてほしいかな、ということを考えたんです。少しでも時間を掛けて、相手と接しながら、人間関係を作りながら取材をしていくしかない、そういう方が相手に姿勢も真摯に伝わるし、そういう相手だったら話してもいいかなと私だったら思うかなと思って、学生で時間もあったので1年間休学して八重山に移住したんです。波照間島に1年住んで、戦争マラリアの体験者と共同生活をしながら、サトウキビの収穫とかをしながら戦争マラリアの取材をしたんです。ですから、今回の映画で出てくる波照間の人たちは、私がその当時一緒に住んでいた人たちなんですよ。

OIT:ということは、今回の作品はこの映画のために取材をしたというよりは、最初に“知りたい”という欲求から始まって、現地に住み始め、そこから、結果的に映画として結実することになるものが始まっていたということですね。
大矢英代:そうですね。それが2010年の冬のことでした。それから、2011年の秋にかけて。

OIT:波照間島で生活をしたわけですね。
大矢英代:そういうことですね。映画に、11名の家族のうち、9名を亡くしているお婆ちゃんが出てきますよね。浦仲孝子さんという方ですが、そちらのお家に一緒に住まわせてもらって、日常生活を送りながら戦争体験を聞いていました。

OIT:最初は不思議に思われませんでしたか?
大矢英代:もちろん、そう思われました(笑)。でも、最初浦仲のお婆ちゃんに会った時に、顔が凄く奇麗って思ったんです。皺だらけの顔で、凄く彫が深い、畑とともに生きてる人って、こんなに奇麗なんだって思ったんです。肌が小麦色に日焼けしてて、自然の中で生きてる人の顔って美しいなって、私が惚れてしまったんです。それで東京に帰ってから手紙を書いて、大学院を1年休学するから、そちらに住まわせてほしい、戦争マラリアのことをもっと知りたいし、自分でドキュメンタリーを作りたいから、受け入れてくれませんか?とお願いしたんです。

OIT:大矢さんは、その頃から、今回のこうした主題を、文章ではなくて、映像で伝えたいと考えたわけですね。
大矢英代:私自身は文章を書くことも好きなんですが、戦争体験者の取材をする中で、相手と話していると、今この瞬間って凄く貴重だなって思うんです。もう今、明日にも失われてしまうかもしれない、その姿や、お爺ちゃん、お婆ちゃんたちが苦しみながらも絞り出す、その声とか、そういうひとつひとつの瞬間が凄く愛おしく、大切だなと思うんです。それを表現するには、やはり映像だったんですね。もうその時でも、“証言の最後の時代”と言われていましたので、本当にそういうことを感じたんです。私が今、これを撮らなければ跡形もなくなってしまう、すごく大事なものと接しているという感覚があって、それを伝え残すという意味で映像を選んだのだと思います。

3. 軍隊とともに暮らすことの恐ろしさを伝えないと、今再び、軍隊が再軍備されることの本当の恐ろしさを伝えることは出来ない
OIT:映像で伝えようと思われた時に、他の映画ではどのように伝えているのだろうということを知る為に、色々な作品をご覧になったりしたのですか?
大矢英代:そうですね、普段からドキュメンタリー作品は多く見ているのですが、個人的に好きなテイストというのがあって、例えば、ジャン・ユンカーマンさんの『老人と海』(90)は凄く好きなんです。今回の映画でも、最初は、その人たちと“戦争体験者”と思って接していたんです、“可哀想な被害者”という感覚ですね。それが一緒に住んでいると、今までは1945年に行われた強制移住っていうピンポイントで取材をしていて、そこが人生最大の悲劇であるかのように見ていたんですけど、1945年から始まる戦後の激動の時代があって、家族や兄妹をあれだけ亡くして、自分が親代わりになって妹を育てたり、苦しい思いをして生きてきた人たちの戦後が見えてくると、島の人たちの“人生”を広い意味で捉えられるようになって、単なる悲劇ではなくて、みんなの人生の中に刻まれた記憶のようなものとして捉えられるようになっていきました。
ですから、私が最初に“戦争体験者”として取り囲んでいた柵が、次第に取り払われていくような作業が波照間ではあったんです。私が、最初に作った映像では、お爺ちゃんが海水を汲みに行くシーンから始まるんですけど、それを家に持ち帰って、海水で豆腐を作るんですね。“にがり”がないので、波照間では海水で豆腐を作るんですよ。そうして自然とともに生きて、自然から食料をもらって生きてきた人たちの生活を淡々と撮っていました。そうした中で、自分は実は字が書けないんだって言うんですね。それで、なんで?って聞くと、あの時、学校に行けなかったから、強制移住をさせられて、マラリアに罹っていたからという話が出てくるんです。そういう映像は、突然現地に行って撮ろうと思っても、なかなか出来なかったと思うんです。

OIT:今回の作品の共同監督、三上智恵監督(『標的の村』(13)『戦場ぬ止み』(15)『標的の島 風かたか』(17))との共同作業は、どのような形で実現したのでしょうか?
大矢英代:三上さんは今までに既に3つの作品を作られていますけれども、三上さんも自衛隊の問題を扱いたいというお考えがあって、去年の5月位に“少年護郷隊”の企画が出たとき、いわゆる沖縄の地上戦ではなくて、住民虐殺やスパイ虐殺といった事態の中で、軍隊の暴力によっていかに住民たちが戦いに利用されて、最後は捨てられたか、軍隊とともに暮らすことの恐ろしさを伝えないと、今再び、軍隊が再軍備されることの本当の恐ろしさを伝えることは出来ないという共通の認識を三上さんも私も持っていて、それを映画で伝えたいと思ったんです。実は、最初はテレビ朝日の番組用の企画だったんですけど、企画が通らなかったんですよ。それでも、絶対にやりたいという思いがあったので、映画でやろうということになったんです。

OIT:三上さんとはどのような作業分担をされたのでしょう?映画を一見した感じでは、真ん中の八重山の“戦争マラリア”の話が大矢さんの担当だったのかなという印象を受けましたが。
大矢英代:三上さんは沖縄本島、私は八重山とアメリカを取材したという感じですね。それぞれ手分けをして取材したのですが、その段階ではどのような構成になるかは分かっていなかったんです。前編・後編にしようかとか、波照間が最初に来るかもしれないし、“護郷隊”が最初に来るかもしれなかったんですけど、出口はすでに決めていました。沖縄戦が過去の悲劇ではなくて、今の問題であるということを見せなければ意味がないと思っていましたから。

OIT:構成はお二人で話し合って決めていったということですね。
大矢英代:そうですね。三上さんと私で、それぞれ粗編をしていたのですが、それを三上さんが2月中旬位に東京に持ってきて、初めて素材をくっつけたんです。それから、プロデューサーの橋本(佳子)さんも含めて、さあ、どう料理しようか、という感じで作っていきました。

OIT:とても見事に構成されていると思いました。最初の少年兵のエピソードからして、かなり強烈です。アーカイブ映像には見るのも辛いものも含まれているのですが、しかし、そこを避けては通れないわけですね。同時に、それらのアーカイブ映像のほとんどはアメリカ国立公文書記録管理局が所有しているもので、最近見た映画では『ゲッペルスと私』(16)というドイツで作られたドキュメンタリー映画でも、悲惨な戦争被害のアーカイブ映像を目にすることになるわけですが、そこで使われているのもアメリカ国立公文書記録管理局やスティーブン・スピルバーグ財団が所有している映像ですから、どうしても、世界の非対称性ということを感じざるを得ません。
大矢英代:そうですね、「敗者は映像を持たない」という有名な言葉もありますから。

4. “山下”を悪者にするのは簡単ですけれども、あなただったらどうする?と問うことで、社会の中の自分が見えてくる
OIT:この作品の“スパイ虐殺”のエピソードの中に、当時の悲惨な状況を語るシーンがあって、その時に語っている人の表情が、悲惨な話をしているにも関わらず、表情が笑っているんですよね。こうしたことというのは、フィクションでは中々表現が難しいことで、ドキュメンタリー映画ならではの瞬間だと思いました。
大矢英代:沖縄戦体験者の取材をしていると、そのような場面に出会す場面がたまにあるんです。悲惨な話をしていても、顔は笑っている。何でそうなるんだろうと考えるのですが、恐らく、自分の中で精神のバランスを保とうという意識が働くのかなと思うんです。やっぱり、戦争体験者の皆さんはPTSDを持っていると思うので、悲惨な体験の記憶が蘇るたびに、どこかで安定を図ろうとするのかもしれないですね。

OIT:PTSDということで言えば、少年兵で“兵隊幽霊”と言われた良光さんの存在が際立っていましたが、“戦争マラリア”に登場する“山下虎雄”という人物も別の意味で際立っています。
大矢英代:“山下虎雄”って、陸軍中野学校から島に配属された時の年齢が20代前半なんです。それって、私が初めて“戦争マラリア”を知った時と同じ年齢なので、恐らく同級生位なんですよ。だから、私はつい“山下”に自分を重ね合わせて見てしまうんです。もし自分が陸軍中野学校を卒業して、いずれ米軍が上陸する時に備えて、南海の孤島に送られて、民情視察とか、地形を調べ上げて地図を作れとか言われたら、私、どうしてただろう?って、私も同じことをやってたかもしれないとか思うんです。私には、“山下”がいわゆる“鬼軍曹”のような人には思えなくて、もちろん、島の人たちの話を聞くと、そういう風に思うんですけど、自分と重ね合わせることで、一青年としての“山下虎雄”が見えてくると、恨むとか憎むという気持ちよりも、一人の人間として見えるようになってくる、そういう気持ちはありました。

OIT:でも、“山下”の取材を長年していた宮良さんが録音されたテープには、「軍が横暴な振る舞いをするようなことは一切なかった。このことは断言出来る」というような発言も残されていて、こうした一方的な“断言”を耳にすると、例えば、最近の“モリカケ問題”などを巡る政治家や官僚の嘘くさい発言が直ちに想起されたりもします。
大矢英代:本人は本当にそう思っているのでしょうね。

OIT:そうなんですよね、本人は本気で“国民のため”と思っている可能性がある。これは極めてアクチュアルな問題で、現代もその状況が続いている。
大矢英代:本人は上からの命令に従っただけで全く悪いとは思っていないんですよね。これは現在、国会で起きている“責任逃れ”と全く同じことだと思いますけれども、日々の私たちの生活とも結構繋がるところがありますよね。私が記者の頃は、やりたくない取材でも、デスクから“行け”と言われれば、行ってましたし、命令に順応していくシステムとか関係性というのは、大なり小なりどこにでもあって、そこで抗えるかどうかって、かなり難しい問題ですよね。これはですから、単なる昔話ではなくて、そうした命令が下りてきた時に、私はどうできるか、あなたはどうできるか、ということを問うてほしいと思うんです。“山下”を悪者にするのは簡単ですけれども、じゃあ、あなただったらどうする?と問うことで、社会の中の自分が見えてくると思うんです。

5. 実際に戦場で起きているのは、コミュニティの破壊、家族の破壊、人間関係の破壊です
OIT:映画では、“山下”の話から“スパイ虐殺”の話へと移っていきますけれども、そこでは、“裏の軍隊”が存在していて、住民が協力して“スパイリスト”が作られていたという話がありました。この話は結構知られている話なのでしょうか?
大矢英代:“裏の軍隊”といのは、“国士隊”の話ですね。これは研究者の間では良く知られている話ですが、沖縄でも一般的に知られている話ではないと思います。

OIT:この話の難しさは、かつて協力した人が今も生き残っているということですね。その中で取材を進めていくということは、取材をしても使えないものとかが結構あったりするのかなと思ったのですが。
大矢英代:そこの部分は、三上さんが取材をされていますので、私にはわからない部分もありますけれども、沖縄は小さな社会ですから、それを言うことによって、家族や血縁者との関係にもヒビが入ってしまう可能性があります。そうすると、そこでは暮らせなくなってしまったりするから、中々言い出せないという状況はあるようです。ただ、三上さんが、戦後73年経って、スパイ虐殺やスパイ狩りに協力した人が亡くなって初めて、それを知っている人が語り始めることが出来る、ということを言っていて、そういう意味では、ただ単に戦後73年経って失われているものばかりではなくて、今だから言えるということも出てきているのかなと思います。

OIT:証言者の中に軍服(※)らしきものを着て、“あの時の状況では、そうせざるをえなかった。今、そんなことを言われても、君だったら何が出来たというのか!”と話される方もいましたね。(※注:軍服のように見えるが、実際は“農作業着”とのこと。)
大矢英代:はい、いましたね。あの方は旧日本軍の人というわけではなくて、山に避難した一般の人です。玉城さんという方ですね。三上さんがその地域で目撃者を探した時に、自分はあの時のことはわかるよ、と言ってくれたので、カメラを回したら、次第にああいう風になっていったということです。

OIT:この雰囲気というのは、実は結構リアルなことで、現在、日本で暮らしている人なら、皆分かることなのではないかと思ったんです。日大ラグビー部の件にしても同じで、その場にいると中々逆らえないという空気が作られている。それは、ある部分では、今現在も全く変わっていないという意味で、結構暗澹たる気分にさせられる。そうした“重さ”がこの映画にはあります。
大矢英代:あれが実は、沖縄戦の本当の姿というか、真相です。いわゆる“地上戦”というと、私たちは肉体的な破壊をイメージするわけですが、実際に戦場で起きていることというのは、それだけじゃなくて、コミュニティの破壊でもあるし、家族の破壊でもあるし、人間関係の破壊なんですよね。同じ沖縄県民同士が疑心暗鬼になって、あいつは敵なんじゃないか?あいつを殺らなければ俺が殺される、自分が生き残るために相手を殺す、それって、今までの“沖縄戦”というもののイメージからは到底想像出来ない戦争の姿ですよね。でも恐らく、同じ国民同士、市民同士が疑い合って、裏切り合ってという現状は、これからどんな戦争が起きても、同じことが起きると思うんです。今でも、実際の戦闘こそ起きていませんが、マインドは戦争と同じですよね、沖縄の人はスパイだとか、翁長(知事)は中国の回し者だとか、自分と他者を区切って、あいつは変なやつだ、あいつは攻撃していい対象なんだ、そういう思考というのはもう始まってますよね。

6. 沖縄の人たちが学んだのは、軍隊は住民を守らないということ
OIT:この映画を見て共感する人たちは、そうしたものに抗わなければいけないと思うに違いありません。エンドクレジットの中で、「伝えるべきことを伝えなかった者には、伝えなかった者の責任がある」という言葉を仰っている方がいましたけれども、まさにこの映画を見た人にも責任が生じるわけですね。
大矢英代:この映画を作る中で一番大事にしていたことがあります。波照間の浦仲浩さんという、私を受け入れてくれたお爺ちゃんがいたんですが、去年、そのお爺が亡くなったんです。私がこの映画を作ることが決まって、さあ波照間に行こう、というその三日前に亡くなってしまって、私の久しぶりの島への帰郷は、お爺の葬式から始まったのですが、そのお爺が私が学生の頃によく言ってくれた言葉があるんです。それは「英代には学べる者としての責任がある」という言葉でした。それは、戦争マラリアや沖縄戦を経験したお爺やお婆たちが、皆、本当は学びたかったのに学ぶことが出来なかった、勉強をしたとしても、軍国主義の時代で天皇陛下のために死ね、という時代だった。でも今はそういう時代ではなくて、自分が学びたいことを学べる、そして、そうして学んだ者の責任がある、だから、自分の興味本位をただ満たすための学びではなくて、それをどうするのかということを考えなくてはいけない、ということをお爺からいつも言われてたんです。この映画を作るにあたって、その言葉がずうっと胸の中にあって、死んだお爺がちょっと背中を押してくれたような感じがあったんです。
戦争の悲惨な話を伝えることだけでは何の意味もないと思っていて、昔は可哀想だったね、今は平和でいいね、ということで終わってしまいますからね。でも、ブッシュ大統領だって、平和のためと言って、イラク戦争を始めたし、安倍総理も平和のためといって自衛隊を派遣しています。平和のためというのは、実は為政者に利用されやすい危険な言葉なんですよね。ですから、戦争を起こした、そのシステム、その構造を問わないと本当に学んだことにはならないと思うんですね。沖縄の人たちが学んだことというのは、どこでどんな戦争体験をしていようが、軍隊は住民を守らないという結論なんです。これはただ単に、自衛隊が敵の前に立って私たちを守ってくれないという意味ではなくて、沖縄の人たちが言う“守らない”というのは、住民は使うだけ使われて、必要であれば、銃も持たされて、殺し合わされて、最終的には捨てられる、全ては国家のために、そういう意味での“守らない”ということなんですよね。
もし、この意味がわからないのであれば、私は本当の意味で沖縄戦の体験を学んでいないということではないかと思うんです。三上さんも私もそうですけれども、報道の仕事をしてきた人っていうのは、少しでも社会を良い方向に変えたいという思いで作品を作っているのだと思いますが、私は一方で、この映画をひとつ作っただけで何かを止められるはずはないと思っていて、むしろ、これは種のひとつでしかないと思っているんですね。それが花になるか、実になるかは、やはり民主主義の土壌が育つかどうかだと思っていて、それはこの国に暮らす私たち一人一人に掛かっていると思うんです。それは、鎖のひとつのようなものだと思っていて、私がお爺から渡された鎖をまた繋げていって、これから何十年も掛けて、その希望の鎖を繋いでいくしかないのかなと思っています。

右差し cf. TALK LIVE「沖縄を再び犠牲にしないために~南西諸島の今と映画『沖縄スパイ戦史』から考える~」(日時:2018年6月3日、会場:LOFT9 Shibuya)- 【TALK】井筒高雄(元陸自レンジャー隊員)/三上智恵(映画監督・ジャーナリスト)/大矢英代(映画監督・ジャーナリスト) (第一部) YouTube|(第二部) YouTube

■私感 :
私が“沖縄”を我が身に引き寄せて考えるようになったのは、いつごろからだろうか…。
遠い記憶をたどれば、北海道で生まれ育った少年時代の私が沖縄そのものに関心を持った大事なきっかけは、戦争映画『ひめゆりの塔』(1953年)~太平洋戦争末期の沖縄戦における「ひめゆり学徒隊」の悲劇を描く反戦映画~(本ブログ〈March 26, 2018〉)を観たことだったように思う。
その後、私は長ずるに及んで沖縄に関する見聞を広めていったが、節目を迎えたのは1972年の沖縄返還(沖縄本土復帰)後、東京在住の私が仕事を通して沖縄本島(今帰仁村)出身の一女性と知り合ったこと。以降、時が経つにつれて、彼女と私は“日本の中の沖縄”問題について忌憚なく意見を交わす仲となり、今日に至っている。
また、私の沖縄体験史上、記録文学作家・上野英信(うえの・えいしん、1923~87)との運命的な出会いも重い意味を持つ。
上野は出世作『追われゆく坑夫たち』(岩波新書、1960年)以来、筑豊の地底から追い払われていく坑夫大衆の飢餓と絶望をえぐり出しつづけた。そして、棄民→棄国へと追われた炭鉱離職者の足跡をたどる『出ニッポン記』(潮出版社、1977年)を経て、多数の沖縄出身者と出会った結果、近代沖縄の流転の歴史を刻んだ『眉屋私記』(潮出版社、1984年)を著わすにいたる。『眉屋私記』は沖縄名護地方の「眉屋(まゆや)」と呼ばれる一族(貧農)の顛末記である。この記念碑的傑作では、特に眉屋の嫡子・山入端萬栄(やまのは・まんえい)の波瀾万丈の人生にスポットライトが当てられている。萬栄は、貧困のどん底にあえぐ眉屋一族を救おうと、移民として1907年(21歳で)メキシコに渡って炭坑夫となり→折からのメキシコ革命に翻弄されて後、16年キューバに脱出し→ついに帰郷の夢を果たせぬまま、59年ハバナでその生涯を閉じた―。
私は1983年5月、上野英信と初めて出会い、4時間半余り直接対話するという至福の時を過ごすことができた。彼は『追われゆく坑夫たち』から『出ニッポン記』にいたる一連の思想的テーマを話題に上しながら、自らの〈ブラジル、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン〉取材(1974年3~9月)や〈メキシコ〉取材(78年4~6月)で知りえた、沖縄移民たちの苦難の歴史を私に熱っぽく語ってくれた。流浪の民を大量生産する筑豊と沖縄が上野の中で地続きとなる話の一つ一つが、かつて炭鉱会社の一社員として、流転の人生をたどる北海道の多数の炭鉱人を身をもって知った私にとって、まさしく千鈞(せんきん)の重みを感じさせる言葉の数々だった。

本作『沖縄スパイ戦史』を鑑賞直後に、私の脳裏を駆け巡る思いがあった。
これまで私は沖縄のことを、どこまで知っていたのか、内心忸怩たるものがある…。
私は沖縄戦にもゲリラ戦・スパイ戦があったことを一定限度知っていた。一般に戦争というものには、「表の戦争」に加えて「裏の戦争」が付き物である事実を、ノンフィクションやフィクションの創作作品などを通して否応なしに思い知らされてきた私としては、それはある意味で“常識的な”ところへ落ち着く問題状況だった。ただし、身長より大きな銃を抱えて戦った10代半ばの少年たちの心情を思いやるとき、私が胸塞がる思いで一杯になったことは言うまでもない。
それより何より私がショックを受けたのは、軍命による強制移住とマラリア地獄の問題~「戦争マラリア」の悲劇~であり、その歴史的事実にこれまで私自身が全くもって無知だったという事実である。
沖縄県の南端に位置する波照間島(はてるまじま)(=八重山諸島にある日本最南端の有人島)。米軍が上陸せず、空襲や戦闘による死者は一人もいなかった。にもかかわらず、島民の3分の1に当たる約500名が命を落とした。軍命によって強制移住させられた先が、古くからマラリアの有病地帯として知られる西表島(いりおもてじま)だったからだ。
当の軍命とは、軍の食糧の確保、軍の情報漏洩の防止、そして戦力として使えない老人や子供の厄介払いを旨とする。この軍事作戦を全てに優先する軍の都合による強制移住は、波照間島のみならず、石垣島をはじめ八重山諸島の各地でも行なわれ、3600人余りの命が奪われた―。

ウーン ガーン
私はあの沖縄戦、あの日本の戦争について、これまで何を知っていたと言うべきか。未だ肝心要なことを知らなかったではないか!私はつくづく考えさせられる。無知であることは、何と罪深いことか―と。

本作は全体の力強い構成に基づく、今日的な時代状況の患部を切開する、近来まれに見る傑作ドキュメンタリーである!
2018年8月3日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、18:05~鑑賞。

「ミッションインポッシブル フォールアウト」

作品データ :
原題 MISSION:IMPOSSIBLE-FALLOUT
(副題の「フォールアウト(fallout)」は、①「放射性降下物」、②「副産物」、③「予期せぬ影響・余波」などの意味を有する。)
製作年 2018年
製作国 アメリカ
配給 東和ピクチャーズ
上映時間 147分


スゴ腕エージェント、イーサン・ハントの活躍を描く、トム・クルーズ主演の大人気スパイ・アクションシリーズ(『ミッション:インポッシブル』シリーズ)の第6弾。何者かに盗まれたプルトニウムによる同時核爆発を未然に防ぐというミッションに、イーサンとIMF(Impossible Mission Force)のチームが挑む。シリーズを通してさまざまなスタントに挑んできたクルーズが、今作でも、ヘリコプターを自ら操縦してアクロバット飛行にも挑戦するなど、数々の危険なスタントをこなす。共演はヴィング・レイムス、サイモン・ペッグ、レベッカ・ファーガソン、アレック・ボールドウィンら続投組に加え、新たにCIAの敏腕エージェント役でヘンリー・カヴィル。前作『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』(本ブログ〈August 10, 2015〉)に引き続き、クリストファー・マッカリーが監督を務める。

ストーリー :
プルトニウム核弾頭3基が何者かによって盗まれ、世界各地の3つの都市が標的となった。イーサン・ハント(トム・クルーズ)とIMFのチームは、“同時核爆発を未然に阻止せよ”とのミッションを命じられる。猶予は72時間。だが、手がかりは少なく、名前しか分からない正体不明の敵を追うミッションは、困難を極める。刻一刻とタイムリミットが迫る中、IMFの前に立ちはだかるCIAの敏腕エージェント、オーガスト・ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)。イーサンはウォーカーとの対決を余儀なくされるとともに、予期せぬ余波(Fallout)を被(こうむ)り、絶体絶命の状況に置かれてしまう。不可能なミッションが一つではなく連鎖して、畳みかけるようにIMFに迫ってくる。果たして彼らは、この刻下の危機を乗り越え、核爆発を阻止することができるのか…?

▼予告編



▼特別映像(WHY DO THE STUNTS LOOK REAL?BECAUSE THEY ARE REAL) :



▼ BEHIND THE SCENES Movie B-Roll & Bloopers :



■私感 :
私はこれまでトム・クルーズ(Tom Cruise、1962~)の出演作を、ざっと数えて30作余り観た。
初めて出会った作品は、エリートパイロット養成学校を舞台にした傑作アクション映画で、クルーズの出世作となった『トップガン』(トニー・スコット監督、1986年)。
そして、今も消えがたく記憶に残る作品は、『ハスラー2』(1986年)→『レインマン』(1988年)→『7月4日に生まれて』(1989年)→『遥かなる大地へ』(1992年)→『ザ・エージェント』(1996年)→『マイノリティ・リポート』(2002年)→『ラストサムライ』(2003年)→『ワルキューレ』(2008年)→『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014年)…。

クルーズはハリウッドを代表するスター俳優である。『卒業白書』(1983年)で若くしてスター候補となり、わずか3年後の『トップガン』が世界規模でブレイクしたことでハリウッドスターとしての地位を手に入れる。それから約30年、彼はハリウッドの第一線を走り続けている。アクション大作からヒューマンドラマ、社会派作品から作家性の強いアート系作品と、出演作も幅広い。確かな演技力の持ち主だ。私は彼の出演作については、何のためらいもなく鑑賞の機会を持ち続けてきた。
ただし、私は決してクルーズの熱心なファンではない。手っ取り早く言って、彼は私の嫌いなタイプではないが、好きなタイプというわけでもない。私はその種の好悪の感情を超えた何か格別の関心を長い間、クルーズに抱きつづけてきた。

私の見るところ、トム・クルーズは向上心に富む役者である。特に注目されるのが『ミッション:インポッシブル』シリーズ[1996年公開の『ミッション:インポッシブル』(原題:Mission:Impossible、ブライアン・デ・パルマ監督)に始まる一連の映画作品シリーズ]以降、彼がアクションの限界に挑戦する姿勢が目立つことだ。
彼は原則としてスタントマンを使わず、自らスタントを行なうことに拘(こだわ)りを持っていることで知られる。そのため車やバイクの運転技術はセミプロ級の腕前に達している。彼はまさしく洗練されたアクション・スターとして、どんなに危険なアクションシーン(スタントシーン)にもチャレンジして自分の限界に挑み続けている。

『ミッション:インポッシブル』シリーズで毎回目を見張る、CGなしスタントマンなしすべて本物のクルーズによる命知らずのリアルアクション!
今作(6作目)はそんな超絶アクションが連続&連続で息つく間もなし!その危険度&スリルは、ケタ外れだ。
・屋上を伝いビル間を飛び越えて移動する全力疾走&跳躍シーン~クルーズは何と撮影中に右脚を骨折!~
・パリ‐凱旋門の放射状道路を逆走するバイク・チェイスシーン
・2000時間の飛行訓練を経たヘリコプター操縦シーン
・特殊なパラシュートを使う、成層圏寸前である高度7620mから時速320キロで落下するヘイロー(HALO)・ジャンプシーンほか、
合わせて100以上の超危険アクションが、これでもかとばかり見せつけられる。

今作はアドレナリン出っ放しの超絶スタントが満載!爽快感120%のこれぞトム・クルーズ映画なり!
しかし正直なところ、彼が生身を駆使して挑むアクションの数々は、正気の沙汰とは思えないレベルのチャレンジだ。トム・クルーズよ、あなたは一体、何処(いずこ)へ向かうのか!?

▼ HALO Jump Stunt Behind The Scenes :
【High Altitude Low Opening(HALO〈ヘイロー〉)は、パラシュートによる潜入作戦に用いられるために開発された降下方法(「高高度降下低高度開傘〈こうこうどこうかていこうどかいさん〉」)】



▼ジャパンプレミア(日時:2018年7月18日、場所:東京ミッドタウン日比谷) :
(トム・クルーズ、ヘンリー・カヴィル、サイモン・ペッグ、クリストファー・マッカリー監督が出席)

2018年7月31日(火)「ココロヲ・動かす・映画館○」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-8-15、JR吉祥寺駅北口徒歩約5分)で、20:50~鑑賞(再見)。
2018年4月24日、新宿ピカデリーで初見(本ブログ〈April 26, 2018〉)。

「さよなら、僕のマンハッタン」⑴

「さよなら、僕のマンハッタン」⑵
*左からジェフ・ブリッジス、ピアース・ブロスナン、ケイト・ベッキンセイル、シンシア・ニクソン

■私感 :
初見時のブログ〈April 26, 2018〉に書いた通り、
私は“ニューヨーク映画”に目がない。“芸術・音楽・文芸にどっぷり浸かったニューヨークという街へのラブレター”である本作もまた、オープニングからクロージングまで、たっぷり見応えのある作品である。
ただし、この再見時でも感じたのは、主演のカラム・ターナーの演技ぶりが私にはしっくり来なかったこと。
そもそも私はターナーの風采が好きでないのだろう。その長身の、のっそりとした動きが妙に気になってしょうがないのだ…。
今回、私は初見時以上に、ジェフ・ブリッジス、ピアース・ブロスナン、ケイト・ベッキンセイル、シンシア・ニクソン、そしてカーシー・クレモンズの5人それぞれの魅力に一段と惹かれた。特にジェフ・ブリッジスが醸し出す味わいが格別だった!この5人に改めて惚れ直したせいだろうか、その分逆に、ターナーの存在に何とも疎ましさが募る私だった…。

◆マーク・ウェブ監督(Marc Webb、1974~) インタビュー(webDICE‐骰子の眼:マーク・ウェブが描く美しき寓話的ニューヨーク『さよなら、僕のマンハッタン』-2018/04/13) :
──あなたが初めてアラン・ローブの脚本を読んだのは、少し前の事でしたよね?
私が初めてこの脚本を読んだのは『(500)日のサマー』を撮影する以前の、約10年前です。当時はソニー・ピクチャーズが版権を持っていて、私は撮らせてもらえず、この話はなくなりました。4~5年前、再びこの脚本と出会うのですが、その間に版権はソニーから手放され宙に浮いていました。私はずっとこの脚本が忘れられなかったので、プロデューサーに掛け合い、制作に向けて動き始めました。脚本家のアラン・ローブと作業を始め、自分のスケジュールを空け、ジェフ・ブリッジスの出演が決まり、制作にこぎ着けました。

──4~5年前と言えば、『アメイジング・スパイダーマン』の撮影中でしたよね?
はい。当時私は小規模の映画を作りたいと思っていました(笑)。

──何年も前に初めて読まれて以来、ずっとあなたの心をつかんでいるこの脚本の魅力は何でしょう?
2点あります。まず、ずっと頭から離れないシーンがありました。トーマスと、彼の父親の愛人ジョアンナとの最初のシーンで、彼女が“人はいつも無意識に行動をしてしまうものよ”と言う場面です。彼らが初めて出会ったときの会話は本質を突いていてとても考えさせられるものでした。私はこの先の展開を知りたくなりました。そのときのジョアンナのセリフはある意味現実となるわけで、私はこのシーンに引き込まれました。脚本を読んでいて、どんどん次の展開を知りたくるのです。
もう1点は、ジェフ・ブリッジス演じるW.F.ジェラルドとトーマスの関係性です。男性同士のこういった友情は珍しいですし、これには少し願望も含まれています。ジェラルドのようなメンターとの関係性は希少です。

──若い人たちはジェラルドのような存在に出会いたいと思うのではないでしょうか?
おっしゃる通り。彼は洞察力に長けていますが、説教くさくない。そんな人から人生のアドバイスをもらえたら素敵だと思いませんか?それに彼の言葉には考えさせられる要素も含まれます。その点も印象的でした。

──あなたが映画を作る際、登場人物に共感することは重要ですか?
その通りですが、場合にもよります。作品には人間の本質を表現したキャラクターが登場しますが、それをどう捉えるかによります。俳優と仕事をする時は、監督も俳優もキャラクターの言動を理解しなくてはなりません。役を正しく理解し、ある程度共感しなければ―つまり自身の内側から生まれる表現でなければ―偽物に終わってしまいます。例えばジョアンナはケイト・ベッキンセールと共に作り出されたキャラクターです。ケイトは驚くほど洗練された女性で、ジョアンナの複雑な性格を理解していました。私たちはジョアンナがどうやってイーサンを好きになり、恋に落ちるかについて議論を重ね、それがジョアンナを解き明かす鍵となりました。彼女がどう自分を正当化するかはまた別の話です。これは私たち誰もが理解できる衝動だと思いますし、私たちはそこにナイーブにならないように気を付けました。

──この作品のテーマについてより詳しくお聞かせください。
私は真実と正直であることについて考え続けたのですが、1つ言えるのは、真実はいずれ明らかになるということです。真実を否定し続けるほど結果は悲惨になる。簡単に言えばそういうことです。一方で、もう1つ考えていたのは、映画で描かれている時期より何年も前に起きる、この物語の発端となる罪のことです(ここでネタばらしはしませんが)。全ての衝突の根底には愛情や繋がっていたいという強い想いがあり、偽りの家族は愛情の上に成り立っている。このことは真実だと思います。ギリシア悲劇はいつも正しいことをしようとする人々から生じます。善意から悪い結果が生まれるのです。これは誰もが共感できる万国共通の経験であり、人を引きつけるテーマだと思います。それがこのストーリーの背景にあります。

──本来は良かれと思ってなされた行為でも、うそを伴う人生は結果として多くの大切なものを巻き込んでしまうという…。
いい表現ですね(笑)。

──これはニューヨークの映画ですが、街が作品の大部分を占める作品を撮るにあたり、どのようにアプローチをしましたか?
私は今ニューヨークに住み、行ったり来たりしていますが、この映画に関して言えばニューヨークをリアルに描写したものではありません。これはニューヨークに住む前に街に対して抱いていたイメージのニューヨークです。私はウィスコンシン州出身で、ニューヨークに憧れを抱いていました。ジェフ・ブリッジスが隣人で、ピアース・ブロスナンが父親。街は洗練された人々が速足で歩き、自分よりアートギャラリーに詳しくて、厳しくも刺激的な世間への教養と理解を兼ね備えた、若く美しい女性で溢れている。これが、人々がニューヨークに抱くイメージで、こうあって欲しいという願望です。ニューヨークの出版業界からは“現実と違う”と批判されるかもしれませんが、その批判は正しいです。でも私は自然主義ではありません。これはより寓話的な概念で、人々が思う世の中よりもわずかに高揚させた世界を描いているのです。

──作品中、ニューヨークはソウル(魂)を失ってしまったというおもしろいセリフがありました。あなたのご意見は?
この脚本は何年も前に書かれたので、私たちが練り直しました。若い人たちの意見は悲観的ですが、私はこの街に関して変わらないのは自己批判できるということだと思います。人々は常に“70年代は良かった”“80年代は良かった”などと言っています。私が信じているのはニューヨークが常に進化していること、そして驚くほど雑然としていると同時に美しい街であることです。人種や文化のるつぼというアメリカの側面を象徴しつつ、全くダメな要素もある。それらが全て集約されていて、物語を描くにはピッタリの環境なのです。

──ニューヨークでの撮影を楽しみましたか?
最高でした。私がこの脚本を初めて読んだのは10年位前のことですが、アランはハリウッドでの仕事を諦めた後にこれを書いていました。彼は車を売ったお金でトライベッカのある場所で夏を過ごし、この最後の脚本を書いたのです。その後は街を去って映画とは別の仕事を探すつもりでした。この脚本は彼のキャリアに火を付けました。ですからこれはニューヨークにまつわるニューヨークで生まれた脚本です。ニューヨークへの憧れであり、ニューヨークの物語であり、そして実際にニューヨークで制作されました。
実は私が脚本を読んだ4~5年後、企画に進展があり制作に向けた資金集めがされていました。すると『The Only Living Boy and New York』(原題)という別バージョンの脚本が作られていて、それはシカゴを舞台にした広告会社の役員の話でした。私は“いったい何が起きたんだ?”と驚きました。従来の脚本の重要な点は失われて台無しになっていました。作品の特徴が全て壊されていたのです。私は過去のファイルからオリジナルの脚本を取り出して言いました。“私たちの原点はこの脚本だ。シカゴではなくニューヨークの話だ。これこそが映画化されるべき脚本なのだ”とね。

──音楽は映画で重要な役割を果たしますが、撮影中は音楽を聴きますか?
はい。役者たちにもそうするよう勧めています。この撮影中にも自分のプレイリストを少し追加しました。多くはデイブ・ブルーベックとチャールズ・ミンガスですが、ボブ・ディランやムーンドッグも入っています。ジェフ・ブリッジスも曲を持って来てくれました。ビル・エヴァンスの「ピース・ピース」という曲なのですが、最終的に劇中で使うことにしました。私たちが聴いていたのは必ずしもニューヨーク生まれの音楽ではありませんが、ニューヨークに影響を受けたものです。
「ジョアンナのヴィジョン(ボブ・ディランの曲)」からはご存知の通り登場人物の名前をとっています。ニューヨークの曲というわけではありませんが、ストーリーの一部となっています。私は音楽や詩はナレーションのような役割を果たせると思っています。「ジョアンナのヴィジョン」はまさにピッタリな例です。

──ジェフ・ブリッジスの出演が最初に決まったとのことでしたが、彼との仕事はどうでしたか?
もしあなたがジェフ・ブリッジスと一緒に働くことへの良いイメージをお持ちならば、むしろそれ以上と言えます。彼は温かみのある人です。驚くほど創造的で制作のプロセスに対してとても敬意を払います。そして役者たちの素晴らしいリーダーです。現場では皆をリラックスさせて“僕は緊張しているけど君は?”と話しかけます。すると皆も“ええ、私も”などと応えていて、まるで家族のようでした。あの温かさは作品のエネルギー源となっています。皆がリスクを恐れず仕事ができるポジティブなエネルギー源です。彼はまた非常に思慮深い俳優です。例えば、トーマスが摂氏85℃について話をしているときジェラルドがこう言います。“ちょうどヘロインを炙る温度だ―きっちりとね。”彼は“温度だ―”と“きっちりとね”のあいだに間をとることで、ジェラルドが長いことヘロインの常習者だったことをほのめかしています。医療的な診断ではなく、観る側が個人的に理解します。あの間はジェフが作り上げたもので、このセリフ1つで彼について多くのことが分かります。ジェラルドには中毒になり、苦しみ、そして乗り越えた過去がある。ジェフが発した1つのセリフからこれだけのことが読み取れる素晴らしい瞬間です。

──トーマスにはカラム・ターナーを起用していますが、彼を配役した決め手は何ですか?
私たちは、大人と少年の狭間にいる俳優を探す必要がありました。ジョアンナが恋に落ちても不思議ではなく、しかし同時にミミのような女性ともデートしていそうな男性。とても微妙なバランスを求められます。作品を通して観客がトーマスを応援できることがとても重要なため、若い俳優が必要でした。彼が年をとり過ぎていると違和感があります。さらにカラムはこの役柄をとてもよく理解していましたし、大人と少年の両面の存在感を持っていて完璧だと思いました。

──ともすると魔性の女として描かれそうなジョアンナですが、ケイトは彼女に深みを持たせていますよね。
ええ。ケイトはその点に関してとても慎重で、ジョアンナを丁寧に演じていました。ケイトは彼女を蔑むべきキャラクターとして演じたくなかった。ジョアンナは人を愛することができ、人を救う力をもつ女性です。ケイトにとって救いだったのは、ジョアンナは皮肉にも真実を追求する女性だということだと思います。ジョアンナは人を傷つけかねない反面、あらゆる面でこの作品の中で最も正直な人物です。彼女はイーサンとトーマスの両者を誰よりも深く理解しているのだと思います。

──ピアース・ブロスナンにとっても難しい挑戦だったのではないでしょうか。彼は大きな秘密を抱えていて―ここでネタばらしはしたくないですが―演じるのは簡単ではなかったと思います。
ピアースはとにかく素敵な男性でとても助けられました。彼は洗練されたカリスマ性を持っていて、それは誰もが認めるとても力強いものです。その点に関しては彼の役柄も同じで、この役を演じるのにはある程度勇気がいると思います。この役柄に共存する優しさと怒りを、ピアースは見事に表現しました。

──あなたは超大作を手掛ける一方、『(500)日のサマー』『ギフテッド』そして『さよなら、僕のマンハッタン』などの小規模作品も手掛けてきましたよね。これらは大きく違いますか?それとも基本的なプロセスは同じですか?
『アメイジング・スパイダーマン』を撮る前は、撮影がどんな感じになるか気になりましたが、撮影後に役者たちと交わす会話は同じでした。同様に、技術、展開、カタルシスやニュアンスについて考えますし、多くの側面で似ていました。違いと言えば、準備や人々の期待、そして作品が関わる様々なもののスケールですが、それは制作とは別のことです。これらの違いはありますが、全く違ったアプローチはできません。注目されず期待に応えなくてはというプレッシャーもない、解放された気分でしたよ。映画のクリエイティブな要素を全て集結させ、自分たちが作りたい作品を作れたことは素晴らしかったです。ファンの子供がコスチュームについてどう思うかな、と心配する必要もありませんしね。とても楽しめました。

──では『さよなら、僕のマンハッタン』の制作を一言で表現すると?
楽しくてウキウキする、まるでバケーションのような撮影でした。映画制作における11番目の戒律は“なんじ、ジェフ・ブリッジスと映画を作れ”ですね(笑)。

──次の作品は何ですか?
たぶんTV関係だと思いますが、来年はまた映画を撮りたいと思っています。

◆ジェフ・ブリッジス(Jeff Bridges、1949~)、ケイト・ベッキンセイル(Kate Beckinsale、1973~)、カーシー・クレモンズ(Kiersey Clemons、1993~) インタビュー(We Live Entertainment: Jeff Bridges, Kate Beckinsale and Kiersey Clemons discuss ‘The Only Living Boy in New York’-August 12, 2017) :
<Interviewed by Scott Menzel(Founder of Los Angeles Online Film Critics Society) . Below are the interviews broken down by each one of the three actors.>

右差し Jeff Bridges on The Only Living Boy in New York :

Scott Menzel:You are a Hollywood legend. What is it about this movie and this character that spoke to you?What made you want to do this?
Jeff Bridges:Well, it’s a great story, for one thing. It’s the kind of movie that I love to be involved in. I’m a big fan of the movies myself. I love movies that surprise you, you know, where the filmmakers are headed in one direction and you think you’ve got each of these characters figured out and pigeonholed, but they all kind of bloom in their own unique ways. This script and this story is no exception to that. It has all those elements.
Then meeting with our director, Marc Webb, finding out what his approach to making the movie, and then as the cast fell together, all of those elements made it a pretty easy decision to jump on board.

Scott:Did you have any reservations coming on-board this project, knowing that this was the make or break project for screenwriter Allan Loeb?It said in the press notes that he was actually going to give up screenwriting entirely if this movie didn’t get made.
Jeff Bridges:I know. I love that. I just read that story this morning. No, I didn’t know about that. I just read the script without knowing anything about who wrote it or anything, and loved the script. It takes time to get your stories made sometimes. I’ve had wonderful luck with first time filmmakers and first time writers, so that didn’t bother me at all.

Scott:You’ve been in so many different projects, from TV shows, to independent movies, to big budget movies. What is the struggle going between all those different types of projects?
Jeff Bridges:Well, I don’t know about the struggle. I’m glad that we have these big tentpole movies. Have they gotten up to $300 million yet?I don’t know, but these giant tent-pole movies. I’m glad we have those.

Scott:Well, you were in Iron Man. That’s pretty big movie.
Jeff Bridges:Yeah, and I’m glad they have the movies like Tangerine, where it’s all shot on an iPhone, and I’m glad they have the mid-range, like this movie. There’s all different but I’m so happy that Amazon is making films in this budget range. I think we started to miss that, you know, recently, with just the block of big tent pole movies and the very low-budget. Now, we’re getting this style movie. I’m really happy about that.

Scott:You’ve done so many different types of genres and have worked with so many people. Is there something that you really want to do in terms of genre, or someone you really want to work with you that you haven’t worked with already?
Jeff Bridges:Not really. I don’t operate that way, thinking, “Oh, I got to play George Washington.” I don’t have that. It’s more of a counter puncher. I kind of resist going to work unless there’s a story like this one that kind of reels me in …

Scott:Got you.
Jeff Bridges:… that I can’t help but do because it’s such a great offer or opportunity.

Scott:What was it like working with Marc Webb?You said you worked with a lot of directors. While he isn’t exactly new and up and coming. He did have a small film with 500 Days of Summer, and then he did the two Spider-Man movies. What was it like working with him?
Jeff Bridges:He’s my favorite kind of director to work with, a guy who has a real strong vision about how he’d like to see it. At the same time, he’s very open to get the ideas from all of the people that he’s assembled around him to help tell the story. I found him wonderful to work with. The environment he created on the set was very relaxed. Out of that relaxation comes, I think, the best work.

Scott:Your character talks a little bit in the beginning of the movie, and I think it’s kind of an interesting thing about the film in general, is that it talks a little bit about how New York has changed over the years. Since you’ve been around to New York and LA, how do you feel that New York and LA have changed over the years?
Jeff Bridges:Everything’s changing, man. All the towns are getting more crowded. You know. It’s just the way it goes.

Scott:Yeah. All right. Well, thank you very much. It was awesome meeting you. Thank you so much.
Jeff Bridges:Nice to meet you as well. Nice shirt by the way. I dig it.

右差し Kate Beckinsale on The Only Living Boy in New York :

Scott Menzel:You’ve been in so many different films and taken on so many different genres and character types. What was it about Allan’s portrayal of Johanna in this movie that really spoke to you and made you want to do it?
Kate Beckinsale:I loved the script. I thought the script was beautiful, and I love the fact that it’s about flawed human beings just sort of trying to bumble through as best they possibly can. When I first read the script, there was a slight opacity to Johanna, and Allan and Marc both said to me that they were a bit confused and they weren’t sure. I felt really clear about what I wanted for her, and what I wanted her to be. She’s not the sort of person who’s a mistress or the sort of person who has affairs with a father and a son, which is such a kind of extreme thing to do. I don’t think anyone sets out to do. Almost certainly. She’s not a sociopath.
I think everybody in the movie is at a point in their life where they’re a bit at sea, and so is she. I wanted to make sure she wasn’t just this kind of mysterious femme fatale. She was genuinely someone who’s really seeking kind of love and is being thwarted because she’s having an affair with a married man. But the souls aren’t always clean. You know what I mean? Yet, throughout the movie, she’s the one that sort of exposes truth everywhere. It was important to me that there wasn’t a bad guy in the movie. You don’t feel that Pierce is a bad guy. You know you understand his situation. You don’t necessarily morally approve, but you understand it. You can see why he’s in it. You can see why she’s there. You can see why Callum is. Everybody’s just vulnerable, and I thought that was really lovely.

Scott:Was there any point, when reading this script and learning about this character and how complex it she was, where you were like, “I don’t know if I can do this”?Was there a certain scene that was left out?Were there any struggles, I guess wrapping your mind around this character?
Kate Beckinsale:No, I think that, as I said, she was a little bit more opaque originally, and what was great was that Marc and Allan were so ready to have an actual female come in and sort of … and work with them. So I had a kind of week or two before the shooting where we sort of workshopped it a lot, writing, and it was a lovely creative thing to get to do with the two of them.

Scott:Working with so many actors over the years, what was it like working with this cast, in particular?
Kate Beckinsale:It was heaven. It was one of those movies where you just didn’t want it to end. It was just one of those really lovely ones where everybody was so in love with the project and so committed, and you know Jeff Bridges is just the coolest person in the whole world and just warm and lovely. So is everyone, actually. So you know Marc really creates this very kind of tender set where he’s very uncynical, and he’s quite vulnerable himself so he sort of brings that out of everybody, which is a lovely thing.

Scott:In a lot of ways I feel like this movie, just like so many movies, is a love letter to New York. It criticizes the city for changing and like how it’s all about the hipsters now and all that stuff. What’s your favorite movie or love story that takes place in New York?
Kate Beckinsale:Gosh. I don’t know. I mean I’m a big Breakfast at Tiffany’s fan, I have to say. That was when I first kind of was like, “Oh, wow. I have to get there.”

Scott Menzel:Yeah, I think that’s a great one to go to. The movie in a lot of ways reminded me of a Woody Allen movie and then of course the third acts, which changes things a bit.
Kate Beckinsale:There are whiffs of The Graduate and then there’s a few kind of movies in there, I think.

Scott:Yeah, I can see that. Well thank you. Very nice talking to you.
Kate Beckinsale:Very nice talking to you.

右差し Kiersey Clemons on The Only Living Boy in New York :

Scott Menzel:I was first introduced to you as an actress at Sundance for Dope and I loved that movie. Since then it’s been so incredible watching your career grow.
Kiersey Clemons:Thank you.

Scott:What was it about this character and this film that really spoke to you and made you want to do it?
Kiersey Clemons:She was relatable to me and I think there was a lot of honesty of what it means to be that age and how you feel about people.

Scott:Were you aware of the story behind the screenwriter wanting to make this movie prior to being a part of it?
Kiersey Clemons:The story behind Allan?

Scott:Yeah.
Kiersey Clemons:Which one?

Scott:The story about how this was going to be his make or break film. He was going to leave Hollywood and not write another movie, if this one didn’t get made. Because being a part of something like that, there must have been pressure to that.
Kiersey Clemons:No, there is no pressure, especially once you know Allan. You’re just like, “Okay.” No, there is no pressure. I think he’s just really excited to get the movie made and I think the best way to satisfy him in making this movie was to just be passionate about Mimi and do the best that I can, and loan a little bit of Kiersey to the character. Yeah, you can’t focus on that other stuff. That sounds terrifying when you say it like that.

Scott:Working with this cast, I know you mainly just start alongside Callum, right?What was it like?Was it intimidating working on a film with Pierce Brosnan and Jeff Bridges, and all these people in the cast?
Kiersey Clemons:It wasn’t necessarily intimidating. I didn’t have any scenes with Pierce and Jeff, but being around them I think it was a bit like, at first you’re like, “Oh, whoa. Hello.” But, I enjoyed watching them do what they do, and how they interact with the crew and everyone that they’re working with and loving what they do still. Yeah.

Scott:Do you think this movie’s important for people for the lost twenty-somethings to see because everyone in this movie seems lost and is ultimately looking for answers?
Kiersey Clemons:I think you’re always looking for answers and if you think that you have it all figured it out than you’re annoying. You don’t know anything and nobody wants to be friends with you.

Scott:True. True story.
Kiersey Clemons:No one wants to talk to that guy, who’s like, “I got it all figured out.” Like, “Okay.”

Scott:You’ve worked on so many different projects now, TV, small movies, big movies. What’s the differences or the struggles going back and forth between TV, indie film, big budget film?
Kiersey Clemons:TV is so exhausting. So much work goes into making a TV show and I think people think the other way around. TV is so draining, but it’s really satisfying at the end to see it all come together as is a movie. I think there’s really big differences in making small movies and then giant movies, and who you’re satisfying, whether you’re satisfying a studio head or if you’re making a movie to satisfy yourself, and, of course, the world that’s going to see it. Obviously, I prefer that one. I would just love to make movies like this forever. Yeah.

Scott:Last question. Since the movie takes place in New York and New York is such an iconic place for movies to take place in, what’s your favorite movie that takes place in New York, or is based around New York?
Kiersey Clemons:Favorite movie … Oh, man. Now I’m stressed out. Give me an option.

Scott:Wall Street.
Kiersey Clemons:No.

Scott:Any Woody Allen movie.
Kiersey Clemons:Can I say American Psycho?

Scott:Sure. That’s a great movie.
Kiersey Clemons:Yeah.

Scott:There’s nothing wrong with that. American Psycho is a great movie.
Kiersey Clemons:Yeah. That’s not what I was thinking I was going to say. I was going to go with something that was a bit more romantic, but American Psycho is really … I was going to say satisfying. Okay, cut.

Scott:Well, thank you very much.
Kiersey Clemons:Thanks.

Scott:Really nice meeting you.

▼ Interviews with Jeff Bridges, Kate Beckinsale, Kiersey Clemons, about The Only Living Boy in New York [MIH TV(=MadeinHollywoodTV)-2017/08/08 公開 YouTube] :

2018年7月31日(火)「ココロヲ・動かす・映画館○」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1-8-15、JR吉祥寺駅北口徒歩約5分)で、19:05~鑑賞。

作品データ :
原題 님아, 그 강을 건너지마오
英題 My Love, Don't Cross That River
製作年 2014年
製作国 韓国
配給 アンプラグド
上映時間 86分


「あなた、その川を渡らないで」

韓国・江原道横城(カンウォンドウフェンソン)郡の古時里(コシリ)という小さな村に暮らす一組の老夫婦に15か月間に渡って密着し、その愛情あふれる穏やかな日々を四季折々の美しい風景とともに見つめた感動ドキュメンタリー。韓国国内で口コミで評判が広がり、韓国ドキュメンタリー映画史上観客動員第1位に輝く大ヒットを記録した。監督は本作がデビュー作となるチン・モヨン。

ストーリー :
美しい小さな村。川のほとりで暮らす98歳の夫チョ・ビョンマンと89歳の妻カン・ゲヨル。子供もすでに独立し、結婚76年目を迎えた二人は、毎日おそろいの韓服に身を包み、恋人どうしのように手をつなぎ、一緒に出かけていく。春、山菜を採ってナムルを作る。花を摘みお互いの髪に飾り合う。 夏、ポーチで昼下がりにお昼寝をする。涼風が吹く縁側に腰かけて談笑する。秋、庭の落ち葉を掃除する。葉っぱを投げてふざけ合う。冬、真っ白になった庭で雪合戦をする。凍りついた手に息を吹きかけて温め合う。
いつも笑い声が響き渡る、愛に溢れた生活を送る二人は、今の生活に満足しながらも、日々の気苦労は絶えず、小さな心を痛めている。飼い犬の妊娠、高齢の彼らを心配するあまりに始まる子供たちの喧嘩、そして老いから来る夫婦それぞれの身体の異変…。雨がしとしとと降る日、妻は苦しそうに咳き込む夫の姿を見ながら、「天国でも着られるように」と、焚き火に夫の韓服を静かにくべるのだった…。

▼予告編

2018年7月24日(火)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)で、18:50~ 鑑賞。

「ひろしま」⑴

作品データ :
製作年 1953年
製作国 日本
配給 北星
上映時間 109分

(公開:1953年10月7日)

「ひろしま」⑵
「ひろしま」⑶
「ひろしま」⑷

「ひろしま」⑸「ひろしま」⑹

日教組(日本教職員組合)の独立プロ作品。長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』(1951年)を八木保太郎(1903~87)が脚色し、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の関川秀雄監督(1908~77)が映画化した反戦ドラマ。1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後の惨状、その後の被災者たちの苦しみを、執拗なリアリズムの映像で再現している。出演者は『ひめゆりの塔』の岡田英次、『晩春』の月丘夢路、『雲ながるる果てに』の山田五十鈴、『破戒』の加藤嘉、『真空地帯』の神田隆ほか。1955年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した。

以下は、『ウィキペディア日本語版』「ひろしま (映画)」2018年7月31日閲覧。
≪日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民の全面的協力の下で制作され、(原爆を直接経験した者も少なくない)広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し、逃げまどう被爆者の群集シーンに迫力を醸し出している。また、広島市、日本労働組合総評議会(総評)とその県組織の広島県労働組合会議(広島県労会議)、原爆の子友の会、原爆被害者の会の他に、地元企業である広島電鉄、藤田組(現・フジタ)も協力した。映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。原爆投下前後の広島の再現のために現地での撮影場所は、広島市内外で24ヶ所、シークエンスは168に達した。/監督の関川秀雄は映画製作の7年前に広島に原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に勢力を注ぎ、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に阿鼻叫喚の原爆被災現場における救援所や太田川の惨状などの修羅場を再現した。そして被爆者たちのその後の苦しみを描いた。≫
≪1953年8月10日、広島市内の映画館「ラッキー劇場」で試写会が開催された。上映後には、「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」の手記を書いた子どもたちの集まりである「原爆の子友の会」会員、関川秀雄監督、長田新広島大名誉教授らの座談会が開かれた。同年9月、製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」として登場人物の「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という趣旨の台詞がある場面など3つのシーン※のカットを要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した。因みに松竹がカットを要求したのは、制作前年までプレスコードを敷いていたGHQに配慮したためとみられている。9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞。10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。≫

※大手配給会社「松竹」により削除を要求された3シーンとは―
①原爆「リトルボーイ」を搭載したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の搭乗員(指揮官)の回想シーン|
本作は高校の英語の授業から始まる。ここで北川先生と生徒たちは、ラジオ(日本語放送)から流れる言葉に、真剣な表情で聞き耳を立てている。それは、テニアン島を出発し広島上空へ向かう「エノラ・ゲイ」の指揮官(機長・操縦士)ポール・ティベッツ大佐(Paul Tibbets、1915~2007)が発する、あからさまで刺激的で強烈な言葉の数々だった。ティベッツ機長は、日本による「真珠湾攻撃」(日本時間1941年12月8日未明)と 「バターン死の行進」(1942年4月)への憎しみを募らす一方、広島を“大量殺戮”の場とする~「恐らく広島市内は一瞬にして屍(しかばね)のマチと化すであろう」~ことへの極度な虚無感に取り憑かれる。しかし結局、彼は広島(日本)に原爆を落とすことの正当性を自ら納得させるべく、厳(いか)めしく断じている。「広島は地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もがこの運命に気づかないであろう。まさに死のうとしている憐れなヤツラだ。誰が哀れみと同情を感じようか―」

②原爆症で入院した女子高生・大庭みち子の前で、見舞いに来た級友がある本の中の、「日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」とのくだりを読み上げるシーン|
当の本は、篠原正瑛編著『僕らはごめんだ―東西ドイツの青年からの手紙』(光文社、1952年)。そこには、同じ敗戦国ドイツの青年が原爆投下について思うところが、白色人種に属するドイツ人のゆえに日本人より本能的・直観的にはっきり理解できる点として大略、次のように書かれている。ヒロシマとナガサキへの原爆投下は、有色人種である日本人に対する人種的偏見に基づいて決行されたものであり、日本人の、何らの防衛力を持たない非戦闘員(一般市民、婦女子)を残虐な新兵器の「モルモット実験」に供したアメリカ人は、世界と人類から神と正義が抹殺されてしまう時が来ない限り、永久に良心の呵責に責められ続けなければならないだろう―。

③原爆孤児たちがピカドン(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を掘り出し、それを土産物としてアメリカ兵に売るシーン(後述の「ストーリー」参照)|
ちなみに言えば、中沢啓治(1939~2012)による、自身の広島原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画『はだしのゲン』(1973~85年)にも、主人公の中岡ゲンが仲間と共に、川底にある原爆被害者の頭骸骨を探して米兵に売りつける→米兵が喜んで、それを記念に買う場面が描かれている。

ストーリー :
広島にある高校。北川先生(岡田英次)のクラスは、原爆投下を回想するラジオ番組を聞いていた。生徒の大庭みち子(町田いさ子)が、突然恐怖に駆られて叫び鼻血を流して失心した。それは原爆による白血病が原因だった。北川は自分が広島に住み、クラスの三分の一を被爆者が占めているにもかかわらず、原爆について不勉強(“無知”)だったことに気づく。敗戦から8年。戦争が次第に過去のものと化し、広島の街々に軍艦マーチが高鳴っている。しかし、現に被爆体験によって苦しみ続けている人たちがいるのだ。みち子もそうだが、北川のクラスにいたが今は学校を去ってしまった遠藤幸夫(月田昌也)もその一人だった。
(この後、大庭みち子の回想のかたちで、映画は原爆投下時の場面に変わる。原爆が落ちてから、おびただしい人々~婦女・子供・年配者・老人など~がのたうち回って呻き叫び苦しみ死ぬ惨状シーンが延々30分余りも続く…。)
…あの日、1945年8月6日の朝、前夜からの空襲警報が解除され、中学校や女学校の生徒は街中で建物の疎開作業に従事していた。そこへ爆撃機の音がする。
…やがて午前8時15分、閃光と共に街と人が焼かれ、あるいは爆風で吹き飛ばされた。みち子の姉・町子(松山りえ子)は、米原先生(月丘夢路)やクラスの女学生仲間と共に避難しようとするが、太田川を渡る途中で力尽きる―。
…みち子の母・大庭みね(山田五十鈴)は、建物の下敷きになり、何とか必死で這い出すも髪が逆立ち、まるでお化けのよう。彼女は瀕死の状態でみち子を連れ、みち子の弟・明男(南雅雄)の亡骸を抱えて避難するも、やがて自らも救護所で命を落とす―。
…幸夫の父・遠藤秀雄(加藤嘉)は、梁(はり)の下敷きになった妻・よし子(河原崎しづ江)を助けようと奮闘するが誰の助けも得られず焼け死なせてしまう。彼は中学生の長男(幸夫の兄)一郎を探し被爆地を歩き回るが、やがて死んだ息子を発見する―。
…陸軍病院に収容された負傷者には手当の施しようもなく狂人は続出し、死体はそこらに累々と転がり、さながら生き地獄の観を呈する―。
…しかし、軍部は仁科芳雄博士(薄田研二)らの進言~米軍による「原子爆弾の投下」の事実!~を認めようとせず、ひたすら聖戦完遂を煽るばかり―。
…日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わる。だが、悲惨な被爆者にとって今更降伏が何になるのか。広島には70年間草木は生えないと言われたが、看護婦が病院の庭に蒔いた大根の芽が出て入院患者に一抹の希望を与える―。
…疎開し難を逃れた幸夫と洋子(亘征子)の兄妹は、行方不明だった父・秀雄をようやく病院で発見するが、洋子はそのあまりにも変わり果てた姿に「お父さんじゃない!」と言って、病院から逃げ出す。幸夫は妹とそのまま生き別れになってしまう―。
…秀雄の死後、一人ぼっちの幸夫は、原爆孤児→浮浪児となり、アメリカ兵にたかって暮らす。やがて浮浪児収容所を経て、復員してきた叔父に引き取られるも、叔父は体が弱く、おまけに従兄弟の少女も被爆でびっこ…。彼はせっかく入学した高校を辞め、キャバレーで働き、またパチンコ屋通いでフラフラと生き続ける―。

みち子はとうとう河野誠(佐脇一光)たち級友に見守られながら息を引き取る。葬儀の後、北川先生は生徒たちから幸夫が親戚の工場に勤め始めたことを聞いて一安心する。しかし、幸夫は工場を辞め、浮浪児たちを使って、宮島の昔の防空壕から人骨を掘り出し、その頭蓋骨を原爆(ピカドン)の記念に米兵に売り込む商売を始める。頭蓋骨には英文で「人類の歴史上、最初にして且つ最大なる栄光この頭上に輝く-1945年8月6日」と書かれた紙が貼り付けられて―。やがて警察に捕まった彼は、引き取りに来た北川先生の前で、声高に叫ぶ。工場を辞めたのは、工場が急に大砲の砲弾を作り始めたから―「僕はそんなものは作りたくなかったんです」。彼の朴直な重い言葉が続く、「先生!戦争また始まるんですか、戦争が始まれば…何の恨みもない人間どうしで殺し合いをさせられるんです」。さらに問題の頭蓋骨を指しながら、「何の罪もない人たちが原爆で、みんなこういうことになるんです」と迸(ほとばし)るように叫ぶ幸夫。北川先生に連れられて警察を出てきた彼を、河野をはじめ、クラスメイトたちは「明日は僕らの手で」の合唱で元気づけるのだった。

また8月6日が来る。何万人もの広島市民の平和祈願の行列が“原爆ドーム”へといつまでも続いていく。そして、あの日、街や川や瓦礫の下で惨死を余儀なくされた人たちの魂が立ち上がり、共に行進する。平和を求め、核兵器の廃絶を願って!!

▼予告編



▼ cf. 映画『ひろしま』上映会(2014年2月22日) at 千葉県いすみ市(大原文化センター) :
  


▼ cf. 映画『ひろしま』上映会(2014年8月16日) at 千葉県館山市(南総文化センター) :



▼ cf. NHKスペシャル「原爆投下 10秒の衝撃」(1998年8月6日午後8時〈59分〉) :



▼ cf. NHK BS1スペシャル「ヒロシマ 世界を変えたあの日」(2015年8月7日午後8時~、前編/後編) :
(第二次世界大戦末期、原爆はどのような状況下で開発され、どのような戦況の中で投下され、広島の人々やその後の世界に何をもたらしたのか。米国、日本、広島、それぞれの視点から物語る。英国側の取材に加え、NHK広島放送局の全面的な協力、NHKの過去の取材情報や映像資料の提供による「国際共同制作」の番組。前編では、原爆開発の背景と投下された状況を明らかにする。原爆を生き延びた人びとの証言によって、一般市民を襲った悲劇と投下直後の惨状が生々しく蘇える。後編では、原爆投下直後の混乱とその後の世界を描く。被爆が原因で次々と亡くなっていく人々。生き残った者はアメリカの実験材料として扱われ、日本国内では差別を受けた。絶望の底から再生した広島の人びとが世界に願うこととは―。)



▼ cf. NHKスペシャル「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」(2016年8月6日午後9時〈54分〉) :



▼ cf. ハリー・S・トルーマン大統領 - 広島原爆投下演説(President Truman announces the Bombing of Hiroshima〈Japanese Subtitles〉) :



▼ cf. NHKスペシャル「長崎 映像の証言~よみがえる115枚のネガ~」(1995年8月9日〈49分〉) :
[被爆50年の1995年、原爆投下翌日(1945年8月10日)の長崎を記録した世界で唯一の写真が半世紀ぶりに蘇えった。それは、日本軍報道班員、山端庸介(やまはた・ようすけ、1917~66)が撮影した115枚の写真である。被爆した町や黒焦げの遺体、瀕死の市民の姿などを写した写真は、半世紀を経て、ネガに傷みが目立ち始めた。このネガを修復して日米で写真展を開き、改めて原爆の悲惨さを世に問おうと2人のアメリカ人が活動する。また、こうした機運の中、写真に写された被爆者たちもNHKの取材に応じてはじめて堅い口を開いた。番組では、山端の写真と被爆者の証言を中心に、あの日の長崎の惨状を明らかにする。]


■私感 :
かなり久しい以前から気になっていた映画がある。本作『ひろしま』である。
実は、本作に対する私の記憶は、小学生時代に観たような、観ないような、何ともはっきりしないのだ(つまり、今回が2回目の鑑賞となるのかどうか?)。

本作は前述の通り、1953年に製作されながら~製作スタッフ側が配給会社の松竹の要望(「反米的な」3シーンのカット)を拒否したことで~、一般公開(全国上映)が不可能となり、ごく限られた「自主上映」の後に、やがて「お蔵入り」となった。
この自主上映の実態~期間、地域、観客数など~は、どうだったのか?広島、長崎の両県では、また両県以外の全国諸地方では、どんな状態を呈したのか?上映に際しては封切館ならぬ二番館や三番館で行なわれたり、日教組の学校教師の個々の裁量任せだったり、さまざまなケースがあったと思われるが、今の私はこれらの諸点を寡聞にして知らない。

忘れ去られていた本作~「幻の映画」~が映画プロデューサー・小林一平(こばやし・いっぺい、1947~2015)の尽力により再映されたのは、2008年のこと。本作の監督補佐を務めた小林大平(こばやし・たいへい、1917~2008)の子息である彼は、「人類の至宝。多くの人に見てほしい」と、同年9月26、27の両日に、広島市で上映会を開催、以降“反戦・反核・平和”への願いを込めて全国で上演活動を続けてきた(前掲の「大原文化センター」及び「南総文化センター」での「上映会」映像を参照)。(なお、彼は2015年2月に68歳で急逝、以後その父親の遺志を小林開〈こばやし・かい〉が引き継いで、今日に至っている。)

※ cf. “映画「ひろしま」再び光”(「朝日新聞」2008年9月22日) :
小林一平
 (*クリックすると画像が拡大)

私がこの小林一平の開く「自主上映会」を聞き及んだのは、2010年代に入ってからのこと。そして折に触れて、何とか再上映された本作を観たいと念じるたびに、かつて小学生の頃に本作を1度観たような気もするが果たしてどうかの思いが、いつも私の脳裏を去来するのだった。
そもそも本作については、物語の筋はおろか、そのアウトラインさえ、私は全く記憶にとどめていなかった。ならば、本作は私にとって未見の作品と言うべきだろう。ところが、そう断言するのがはばかれるのは、本作のことを思い巡らすとき、ある鬼気迫る情景が決まって私の目の底に生き生きと映り始めるからにほかならない。
それは、“一人の女”~女子高生・大庭みち子の母親・みね~が原爆で倒れた建物の下敷きになり、そこから漸く必死でゴソゴソと這い出すシーンだった。【前掲「作品データ」欄の下の写真2枚に見られる通り】彼女は顔面が真っ黒になり、髪が逆立ちバサバサに乱れきった、まるで妖怪か夜叉か幽鬼…と見紛うばかりの存在だった。
[ちなみに、私が「大庭みね」役を演じたのが名にし負う山田五十鈴(やまだ・いすず、1917~2012)であることを知ったのは、『路傍の石』(原研吉監督、1955年)を鑑賞後のこと。さらに彼女の存在が私の脳裏に深く刻みこまれたのは、『蜘蛛巣城』(黒澤明監督、1957年)を鑑賞後のこと。]
私はなぜに、当のシーンのみをまざまざと思い起こすのだろうか。やはり本作を現に観た私の心裏に、特にこの一場面が深々と焼きついたからなのだろうか…。それにしても、原爆投下直後の地獄絵図が再現された本作には、ほかにも、震えが来るほどの凄惨なシーンが盛り沢山なのだが…。
例えば、今回の鑑賞で、大庭みち=山田五十鈴の場合も、当該シーンもさることながら、黒焦げになった息子(大庭みち子の弟)の死体を抱いて放心したまま、手当ても受けられず救護所で絶命するシーンに、私は目を奪われ、胸が絞めつけられた。
また、女学校の教師・米原先生と女学生たちが熱線による大火災の中、互いに支え合って逃げ惑い、やがて熱さを避けてなだれ込んだ川で次第に力尽き、息絶えて流されて行くシークエンスや、さらに3人の子供(一郎・幸夫・洋子)の父親・遠藤秀雄が被爆で家屋の下敷きになった妻をみすみす焼け死なせた後、子供たちを探して廃墟と化した街を尋ね歩くも、長男・一郎の死に目に会い損ない、次男・幸夫と末っ子・洋子の無事も確認できずじまいで、放射線障害のために惨めな最期を遂げるシークエンスを、私は片時も目を離さず、こみ上げるものをぐっと堪(こら)えながら、憑(つ)かれたもののように観入りつづけた。
[ちなみに、米原先生を演じたのは、当時の松竹のトップ女優で、広島市出身の月丘夢路(つきおか・ゆめじ、1922~2017)。彼女は15歳で「宝塚音楽歌劇学校」に進むまで、爆心地(細工町〈現:大手町1丁目〉)に近い大手町に暮らしていた。辛くも被爆を免れた彼女は、強く思うところがあり、本作には自ら志願してノーギャラで出演。また、遠藤秀雄を演じたのは、得がたい性格俳優として数多の作品で強い印象を残す加藤嘉(かとう・よし、1913~88)。私はかつて彼の出演作を多数鑑賞したが、中でも今なお忘れがたい作品は『破戒』(市川崑監督、1962年)、『神々の深き欲望』(今村昌平監督、1968年)、『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)、『はなれ瞽女おりん』(篠田正浩監督、1977年)である。]

小学時代の私は、同じ“反戦”映画ではあっても、『ひめゆりの塔』(公開:1953年1月9日)については確かに鑑賞していた(cf.本ブログ〈March 26, 2018〉)。公開直後だったかどうかは微妙だが、おそらくは小学4年頃に観たと思う。
ところが、1953年という同じ時分に、私は“原爆”映画である本作を、果たして鑑賞したのかどうか…。
当時、私は北海道岩見沢市の一小学校に通学する男児だった。北海道では、本作の“自主上映”が何らかの形で実現の運びとなったのだろうか。日教組に属する北教組(北海道教職員組合)は、本作をめぐる自主上映の問題に、どう対応したのだろうか?私自身は今のところ、この点を明らかにする術(すべ)を持たない。

それにしても今回、『ひろしま』鑑賞(初見or再見?)という年来の悲願が叶い感無量!
しかも、映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」を、初利用(これまで姉妹館の「ユジク阿佐ヶ谷」には何回か入館したが cf.本ブログ〈December 01, 2016〉)!
ラピュタ阿佐ヶ谷は1998年に開館、1950~60年代の日本映画の旧作を中心に上映するミニシアター(座席数48)。館名は宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』(1986年)に由来する呼称。
7月24日当日、「ラピュタ阿佐ヶ谷」の観客数は、私を含めて13人。
本作の上映時間約1時間50分、オープニングからクロージングまで、ほぼ全編に渡って、声を殺して啜(すす)り泣く観客が二人いた。年配者だったと思う。ただ見るだけで、苦しくて、辛くて、涙が出てしまうのだろう…。(分かる、分かりますよ!)

本作は“戦後”日本の出発点の凛然たる佇(たたず)まいを知らしめる記念碑的労作である。戦争(反戦)映画の白眉たる名作中の名作にほかならない―。