映画『ひろしま』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年7月24日(火)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)で、18:50~ 鑑賞。

「ひろしま」⑴

作品データ
製作年 1953年
製作国 日本
配給 北星
上映時間 109分

(公開:1953年10月7日)

「ひろしま」⑵
「ひろしま」⑶
「ひろしま」⑷

「ひろしま」⑸「ひろしま」⑹

日教組(日本教職員組合)の独立プロ作品。長田新編『原爆の子―広島の少年少女のうったえ』(1951年)を八木保太郎(1903~87)が脚色し、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の関川秀雄監督(1908~77)が映画化した反戦ドラマ。1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後の惨状、その後の被災者たちの苦しみを、執拗なリアリズムの映像で再現している。出演者は『ひめゆりの塔』の岡田英次、『晩春』の月丘夢路、『雲ながるる果てに』の山田五十鈴、『破戒』の加藤嘉、『真空地帯』の神田隆ほか。1955年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞した。

以下は、『ウィキペディア日本語版』「ひろしま (映画)」2018年7月31日閲覧
日教組に参加する広島県教職員組合と広島市民の全面的協力の下で制作され、(原爆を直接経験した者も少なくない)広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し、逃げまどう被爆者の群集シーンに迫力を醸し出している。また、広島市、日本労働組合総評議会(総評)とその県組織の広島県労働組合会議(広島県労会議)、原爆の子友の会、原爆被害者の会の他に、地元企業である広島電鉄、藤田組(現・フジタ)も協力した。映画に必要な戦時中の服装や防毒マスク、鉄カブト等は、広島県下の各市町村の住民から約4000点が寄せられた。原爆投下前後の広島の再現のために現地での撮影場所は、広島市内外で24ヶ所、シークエンスは168に達した。/監督の関川秀雄は映画製作の7年前に広島に原爆が投下された直後の地獄絵図の映像化に勢力を注ぎ、百数カットに及ぶ撮影を費やして、克明に阿鼻叫喚の原爆被災現場における救援所や太田川の惨状などの修羅場を再現した。そして被爆者たちのその後の苦しみを描いた。≫
≪1953年8月10日、広島市内の映画館「ラッキー劇場」で試写会が開催された。上映後には、「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」の手記を書いた子どもたちの集まりである「原爆の子友の会」会員、関川秀雄監督、長田新広島大名誉教授らの座談会が開かれた。同年9月、製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」として登場人物の「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という趣旨の台詞がある場面など3つのシーン※のカットを要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した。因みに松竹がカットを要求したのは、制作前年までプレスコードを敷いていたGHQに配慮したためとみられている。9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞。10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。≫

※大手配給会社「松竹」により削除を要求された3シーンとは―
原爆「リトルボーイ」を搭載したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の搭乗員(指揮官)の回想シーン
本作は高校の英語の授業から始まる。ここで北川先生と生徒たちは、ラジオ(日本語放送)から流れる言葉に、真剣な表情で聞き耳を立てている。それは、テニアン島を出発し広島上空へ向かう「エノラ・ゲイ」の指揮官(機長・操縦士)ポール・ティベッツ大佐(Paul Tibbets、1915~2007)が発する、あからさまで刺激的で強烈な言葉の数々だった。ティベッツ機長は、日本による「真珠湾攻撃」(日本時間1941年12月8日未明)と 「バターン死の行進」(1942年4月)への憎しみを募らす一方、広島を“大量殺戮”の場とする~「恐らく広島市内は一瞬にして屍(しかばね)のマチと化すであろう」~ことへの極度な虚無感に取り憑かれる。しかし結局、彼は広島(日本)に原爆を落とすことの正当性を自ら納得させるべく、厳(いか)めしく断じている。「広島は地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もがこの運命に気づかないであろう。まさに死のうとしている憐れなヤツラだ。誰が哀れみと同情を感じようか―」

原爆症で入院した女子高生・大庭みち子の前で、見舞いに来た級友がある本の中の、「日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」とのくだりを読み上げるシーン
当の本は、篠原正瑛編著『僕らはごめんだ―東西ドイツの青年からの手紙』(光文社、1952年)。そこには、同じ敗戦国ドイツの青年が原爆投下について思うところが、白色人種に属するドイツ人のゆえに日本人より本能的・直観的にはっきり理解できる点として大略、次のように書かれている。ヒロシマとナガサキへの原爆投下は、有色人種である日本人に対する人種的偏見に基づいて決行されたものであり、日本人の、何らの防衛力を持たない非戦闘員(一般市民、婦女子)を残虐な新兵器の「モルモット実験」に供したアメリカ人は、世界と人類から神と正義が抹殺されてしまう時が来ない限り、永久に良心の呵責に責められ続けなければならないだろう―。

原爆孤児たちがピカドン(原爆)で死んだ人間の頭骸骨を掘り出し、それを土産物としてアメリカ兵に売るシーン(後述の「ストーリー」参照)|
ちなみに言えば、中沢啓治(1939~2012)による、自身の広島原爆の被爆体験を元にした自伝的漫画『はだしのゲン』(1973~85年)にも、主人公の中岡ゲンが仲間と共に、川底にある原爆被害者の頭骸骨を探して米兵に売りつける→米兵が喜んで、それを記念に買う場面が描かれている。

ストーリー
広島にある高校。北川先生(岡田英次)のクラスは、原爆投下を回想するラジオ番組を聞いていた。生徒の大庭みち子(町田いさ子)が、突然恐怖に駆られて叫び鼻血を流して失心した。それは原爆による白血病が原因だった。北川は自分が広島に住み、クラスの三分の一を被爆者が占めているにもかかわらず、原爆について不勉強(“無知”)だったことに気づく。敗戦から8年。戦争が次第に過去のものと化し、広島の街々に軍艦マーチが高鳴っている。しかし、現に被爆体験によって苦しみ続けている人たちがいるのだ。みち子もそうだが、北川のクラスにいたが今は学校を去ってしまった遠藤幸夫(月田昌也)もその一人だった。
(この後、大庭みち子の回想のかたちで、映画は原爆投下時の場面に変わる。原爆が落ちてから、おびただしい人々~婦女・子供・年配者・老人など~がのたうち回って呻き叫び苦しみ死ぬ惨状シーンが延々30分余りも続く…。)
…あの日、1945年8月6日の朝、前夜からの空襲警報が解除され、中学校や女学校の生徒は街中で建物の疎開作業に従事していた。そこへ爆撃機の音がする。
…やがて午前8時15分、閃光と共に街と人が焼かれ、あるいは爆風で吹き飛ばされた。みち子の姉・町子(松山りえ子)は、米原先生(月丘夢路)やクラスの女学生仲間と共に避難しようとするが、太田川を渡る途中で力尽きる―。
…みち子の母・大庭みね(山田五十鈴)は、建物の下敷きになり、何とか必死で這い出すも髪が逆立ち、まるでお化けのよう。彼女は瀕死の状態でみち子を連れ、みち子の弟・明男(南雅雄)の亡骸を抱えて避難するも、やがて自らも救護所で命を落とす―。
…幸夫の父・遠藤秀雄(加藤嘉)は、梁(はり)の下敷きになった妻・よし子(河原崎しづ江)を助けようと奮闘するが誰の助けも得られず焼け死なせてしまう。彼は中学生の長男(幸夫の兄)一郎を探し被爆地を歩き回るが、やがて死んだ息子を発見する―。
…陸軍病院に収容された負傷者には手当の施しようもなく狂人は続出し、死体はそこらに累々と転がり、さながら生き地獄の観を呈する―。
…しかし、軍部は仁科芳雄博士(薄田研二)らの進言~米軍による「原子爆弾の投下」の事実!~を認めようとせず、ひたすら聖戦完遂を煽るばかり―。
…日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わる。だが、悲惨な被爆者にとって今更降伏が何になるのか。広島には70年間草木は生えないと言われたが、看護婦が病院の庭に蒔いた大根の芽が出て入院患者に一抹の希望を与える―。
…疎開し難を逃れた幸夫と洋子(亘征子)の兄妹は、行方不明だった父・秀雄をようやく病院で発見するが、洋子はそのあまりにも変わり果てた姿に「お父さんじゃない!」と言って、病院から逃げ出す。幸夫は妹とそのまま生き別れになってしまう―。
…秀雄の死後、一人ぼっちの幸夫は、原爆孤児→浮浪児となり、アメリカ兵にたかって暮らす。やがて浮浪児収容所を経て、復員してきた叔父に引き取られるも、叔父は体が弱く、おまけに従兄弟の少女も被爆でびっこ…。彼はせっかく入学した高校を辞め、キャバレーで働き、またパチンコ屋通いでフラフラと生き続ける―。

みち子はとうとう河野誠(佐脇一光)たち級友に見守られながら息を引き取る。葬儀の後、北川先生は生徒たちから幸夫が親戚の工場に勤め始めたことを聞いて一安心する。しかし、幸夫は工場を辞め、浮浪児たちを使って、宮島の昔の防空壕から人骨を掘り出し、その頭蓋骨を原爆(ピカドン)の記念に米兵に売り込む商売を始める。頭蓋骨には英文で「人類の歴史上、最初にして且つ最大なる栄光この頭上に輝く-1945年8月6日」と書かれた紙が貼り付けられて―。やがて警察に捕まった彼は、引き取りに来た北川先生の前で、声高に叫ぶ。工場を辞めたのは、工場が急に大砲の砲弾を作り始めたから―「僕はそんなものは作りたくなかったんです」。彼の朴直な重い言葉が続く、「先生!戦争また始まるんですか、戦争が始まれば…何の恨みもない人間どうしで殺し合いをさせられるんです」。さらに問題の頭蓋骨を指しながら、「何の罪もない人たちが原爆で、みんなこういうことになるんです」と迸(ほとばし)るように叫ぶ幸夫。北川先生に連れられて警察を出てきた彼を、河野をはじめ、クラスメイトたちは「明日は僕らの手で」の合唱で元気づけるのだった。

また8月6日が来る。何万人もの広島市民の平和祈願の行列が“原爆ドーム”へといつまでも続いていく。そして、あの日、街や川や瓦礫の下で惨死を余儀なくされた人たちの魂が立ち上がり、共に行進する。平和を求め、核兵器の廃絶を願って!!

▼予告編



▼ cf. 映画『ひろしま』上映会(2014年2月22日) at 千葉県いすみ市(大原文化センター) :
  


▼ cf. 映画『ひろしま』上映会(2014年8月16日) at 千葉県館山市(南総文化センター) :



▼ cf. NHKスペシャル「原爆投下 10秒の衝撃」(1998年8月6日午後8時〈59分〉) :



▼ cf. NHK BS1スペシャル「ヒロシマ 世界を変えたあの日」(2015年8月7日午後8時~、前編/後編) :
(第二次世界大戦末期、原爆はどのような状況下で開発され、どのような戦況の中で投下され、広島の人々やその後の世界に何をもたらしたのか。米国、日本、広島、それぞれの視点から物語る。英国側の取材に加え、NHK広島放送局の全面的な協力、NHKの過去の取材情報や映像資料の提供による「国際共同制作」の番組。前編では、原爆開発の背景と投下された状況を明らかにする。原爆を生き延びた人びとの証言によって、一般市民を襲った悲劇と投下直後の惨状が生々しく蘇える。後編では、原爆投下直後の混乱とその後の世界を描く。被爆が原因で次々と亡くなっていく人々。生き残った者はアメリカの実験材料として扱われ、日本国内では差別を受けた。絶望の底から再生した広島の人びとが世界に願うこととは―。)



▼ cf. NHKスペシャル「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」(2016年8月6日午後9時〈54分〉) :



▼ cf. ハリー・S・トルーマン大統領 - 広島原爆投下演説(President Truman announces the Bombing of Hiroshima〈Japanese Subtitles〉) :



▼ cf. NHKスペシャル「長崎 映像の証言~よみがえる115枚のネガ~」(1995年8月9日〈49分〉) :
[被爆50年の1995年、原爆投下翌日(1945年8月10日)の長崎を記録した世界で唯一の写真が半世紀ぶりに蘇えった。それは、日本軍報道班員、山端庸介(やまはた・ようすけ、1917~66)が撮影した115枚の写真である。被爆した町や黒焦げの遺体、瀕死の市民の姿などを写した写真は、半世紀を経て、ネガに傷みが目立ち始めた。このネガを修復して日米で写真展を開き、改めて原爆の悲惨さを世に問おうと2人のアメリカ人が活動する。また、こうした機運の中、写真に写された被爆者たちもNHKの取材に応じてはじめて堅い口を開いた。番組では、山端の写真と被爆者の証言を中心に、あの日の長崎の惨状を明らかにする。]


私感
かなり久しい以前から気になっていた映画がある。本作『ひろしま』である。
実は、本作に対する私の記憶は、小学生時代に観たような、観ないような、何ともはっきりしないのだ(つまり、今回が2回目の鑑賞となるのかどうか?)。

本作は前述の通り、1953年に製作されながら~製作スタッフ側が配給会社の松竹の要望(「反米的な」3シーンのカット)を拒否したことで~、一般公開(全国上映)が不可能となり、ごく限られた「自主上映」の後に、やがて「お蔵入り」となった。
この自主上映の実態~期間、地域、観客数など~は、どうだったのか?広島、長崎の両県では、また両県以外の全国諸地方では、どんな状態を呈したのか?上映に際しては封切館ならぬ二番館や三番館で行なわれたり、日教組の学校教師の個々の裁量任せだったり、さまざまなケースがあったと思われるが、今の私はこれらの諸点を寡聞にして知らない。

忘れ去られていた本作~「幻の映画」~が映画プロデューサー・小林一平(こばやし・いっぺい、1947~2015)の尽力により再映されたのは、2008年のこと。本作の監督補佐を務めた小林大平(こばやし・たいへい、1917~2008)の子息である彼は、「人類の至宝。多くの人に見てほしい」と、同年9月26、27の両日に、広島市で上映会を開催、以降“反戦・反核・平和”への願いを込めて全国で上演活動を続けてきた(前掲の「大原文化センター」及び「南総文化センター」での「上映会」映像を参照)。(なお、彼は2015年2月に68歳で急逝、以後その父親の遺志を小林開〈こばやし・かい〉が引き継いで、今日に至っている。)

※ cf. “映画「ひろしま」再び光”(「朝日新聞」2008年9月22日) :
小林一平
 (*クリックすると画像が拡大)

私がこの小林一平の開く「自主上映会」を聞き及んだのは、2010年代に入ってからのこと。そして折に触れて、何とか再上映された本作を観たいと念じるたびに、かつて小学生の頃に本作を1度観たような気もするが果たしてどうかの思いが、いつも私の脳裏を去来するのだった。
そもそも本作については、物語の筋はおろか、そのアウトラインさえ、私は全く記憶にとどめていなかった。ならば、本作は私にとって未見の作品と言うべきだろう。ところが、そう断言するのがはばかれるのは、本作のことを思い巡らすとき、ある鬼気迫る情景が決まって私の目の底に生き生きと映り始めるからにほかならない。
それは、“一人の女”~女子高生・大庭みち子の母親・みね~が原爆で倒れた建物の下敷きになり、そこから漸く必死でゴソゴソと這い出すシーンだった。【前掲「作品データ」欄の下の写真2枚に見られる通り】彼女は顔面が真っ黒になり、髪が逆立ちバサバサに乱れきった、まるで妖怪か夜叉か幽鬼…と見紛うばかりの存在だった。
[ちなみに、私が「大庭みね」役を演じたのが名にし負う山田五十鈴(やまだ・いすず、1917~2012)であることを知ったのは、『路傍の石』(原研吉監督、1955年)を鑑賞後のこと。さらに彼女の存在が私の脳裏に深く刻みこまれたのは、『蜘蛛巣城』(黒澤明監督、1957年)を鑑賞後のこと。]
私はなぜに、当のシーンのみをまざまざと思い起こすのだろうか。やはり本作を現に観た私の心裏に、特にこの一場面が深々と焼きついたからなのだろうか…。それにしても、原爆投下直後の地獄絵図が再現された本作には、ほかにも、震えが来るほどの凄惨なシーンが盛り沢山なのだが…。
例えば、今回の鑑賞で、大庭みち=山田五十鈴の場合も、当該シーンもさることながら、黒焦げになった息子(大庭みち子の弟)の死体を抱いて放心したまま、手当ても受けられず救護所で絶命するシーンに、私は目を奪われ、胸が絞めつけられた。
また、女学校の教師・米原先生と女学生たちが熱線による大火災の中、互いに支え合って逃げ惑い、やがて熱さを避けてなだれ込んだ川で次第に力尽き、息絶えて流されて行くシークエンスや、さらに3人の子供(一郎・幸夫・洋子)の父親・遠藤秀雄が被爆で家屋の下敷きになった妻をみすみす焼け死なせた後、子供たちを探して廃墟と化した街を尋ね歩くも、長男・一郎の死に目に会い損ない、次男・幸夫と末っ子・洋子の無事も確認できずじまいで、放射線障害のために惨めな最期を遂げるシークエンスを、私は片時も目を離さず、こみ上げるものをぐっと堪(こら)えながら、憑(つ)かれたもののように観入りつづけた。
[ちなみに、米原先生を演じたのは、当時の松竹のトップ女優で、広島市出身の月丘夢路(つきおか・ゆめじ、1922~2017)。彼女は15歳で「宝塚音楽歌劇学校」に進むまで、爆心地(細工町〈現:大手町1丁目〉)に近い大手町に暮らしていた。辛くも被爆を免れた彼女は、強く思うところがあり、本作には自ら志願してノーギャラで出演。また、遠藤秀雄を演じたのは、得がたい性格俳優として数多の作品で強い印象を残す加藤嘉(かとう・よし、1913~88)。私はかつて彼の出演作を多数鑑賞したが、中でも今なお忘れがたい作品は『破戒』(市川崑監督、1962年)、『神々の深き欲望』(今村昌平監督、1968年)、『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)、『はなれ瞽女おりん』(篠田正浩監督、1977年)である。]

小学時代の私は、同じ“反戦”映画ではあっても、『ひめゆりの塔』(公開:1953年1月9日)については確かに鑑賞していた(cf.本ブログ〈March 26, 2018〉)。公開直後だったかどうかは微妙だが、おそらくは小学4年頃に観たと思う。
ところが、1953年という同じ時分に、私は“原爆”映画である本作を、果たして鑑賞したのかどうか…。
当時、私は北海道岩見沢市の一小学校に通学する男児だった。北海道では、本作の“自主上映”が何らかの形で実現の運びとなったのだろうか。日教組に属する北教組(北海道教職員組合)は、本作をめぐる自主上映の問題に、どう対応したのだろうか?私自身は今のところ、この点を明らかにする術(すべ)を持たない。

それにしても今回、『ひろしま』鑑賞(初見or再見?)という年来の悲願が叶い感無量!
しかも、映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」を、初利用(これまで姉妹館の「ユジク阿佐ヶ谷」には何回か入館したが cf.本ブログ〈December 01, 2016〉)!
ラピュタ阿佐ヶ谷は1998年に開館、1950~60年代の日本映画の旧作を中心に上映するミニシアター(座席数48)。館名は宮崎駿監督のアニメ映画『天空の城ラピュタ』(1986年)に由来する呼称。
7月24日当日、「ラピュタ阿佐ヶ谷」の観客数は、私を含めて13人。
本作の上映時間約1時間50分、オープニングからクロージングまで、ほぼ全編に渡って、声を殺して啜(すす)り泣く観客が二人いた。年配者だったと思う。ただ見るだけで、苦しくて、辛くて、涙が出てしまうのだろう…。(分かる、分かりますよ!)

本作は“戦後”日本の出発点の凛然たる佇(たたず)まいを知らしめる記念碑的労作である。戦争(反戦)映画の白眉たる名作中の名作にほかならない―。