映画『ひめゆりの塔』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年3月22日(木)新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F、JR池袋駅東口下車徒歩3分)で、16:00~ 鑑賞。『ともしび』18:25~と2本立て上映。



作品データ
製作年 1953年
製作国 日本
配給 東映
上映時間 130分

公開日 1953年1月9日




石野径一郎(1909~90)の代表作『ひめゆりの塔』(山雅房、1950年)を、『おかあさん』の水木洋子(1910~2003)の脚本で、『山びこ学校』の今井正(1912~91)がメガホンを取る。太平洋戦争末期の沖縄戦で、「看護」要員として前線に立った女学生たち「ひめゆり学徒隊」の悲劇をセミ・ドキュメンタリータッチで描く。沖縄は米軍に占領されていたため沖縄ロケは出来ず、撮影所の野外セットと千葉県銚子市の海岸でのロケで撮影された。悲惨な状況を客観的な視点で捉えた克明な演出スタイルが、反戦平和の主張を痛烈に訴え、内容の重さにかかわらず、公開当時600万人を越す観客を集める大ヒットとなった。撮影は中尾駿一郎(1918~81)。出演は津島恵子(1926~2012)、岡田英次(1920~95)、藤田進(1912~90)、信欣三(1910~88)、原 泉(1905~89)、殿山泰司(1915~89)、原保美(1915~97)、小田切みき(1930~2006)、利根はる恵(1924~2005)、香川京子(1931~)(本作の前出の関係者は、香川京子を除いて、すべて鬼籍の人となった。時はまたたく間に流れる。淋しいかぎりだ…)

本作は“サンフランシスコ講和条約”発効の約8か月後に公開された作品である。「日本国との平和条約〈Treaty of Peace with Japan〉」の<1951年9月8日>締結→<1952年4月28日>発効により、GHQの占領は終了し、日本は独立国として再出発する(ただし、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は本土復帰までの間、米国の施政下に残った)。占領時代には映画作品の検閲も占領軍が行なっており、封建主義的・軍国主義的な主題、また暴力的表現も制限されていた。当然、戦争関係の映画も厳しい検閲を受け、敗戦5年目、戦没学生の手記から『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(関川秀雄監督、公開:1950年6月15日)を東横映画が製作公開した後、徐々に「反戦的」主題の戦争映画も製作されだした。本作は単なる暴露的な内容を旨とする、それまでの反戦映画とは一線を画す、全体的にリアリティあふれるモノクロ映像表現で大きな社会的反響を巻き起こした。冒頭に使用される米軍の記録フィルム以外は、ほとんど特撮等に頼らず、ロケやセットを中心とした群像ドラマになっており、印象的なキャラクターの多さや爆発描写の迫力もあって、その戦争映画としての緊迫感は比類がない。日本の戦争映画の中でも出色の出来で、まさしく屈指の名作である。

ストーリー
1945(昭和20)年3月、アメリカ軍の上陸直前の沖縄は、海上からの艦撃と、空からの爆撃と機銃掃射を浴びて、死の様相を見せていた。敗戦への最後の足掻きとして、軍は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女学生たちまでも、「勤労奉仕」の名の下、「臨時」看護婦として最前線へ送り込んだのだった。胸に白百合と桜の徽章をつけたうら若き乙女たちは、明日の生命も危ぶまれるときに、父母姉妹の肉親たちと別れ、南風原の丘へと行進していった。そこでは日本軍が、血と泥とに塗れて最後の防戦に奮闘していた。乙女たちは日の丸の鉢巻きをしめて、弾丸運びに、水汲みに、死体運びに、負傷者の手当てに、日夜、かぼそい神経を鞭打って黙々と立ち働いた。彼女たちの晴れの卒業式も壕の内部で行なわれる。いよいよ激しい敵軍の攻撃に、軍隊はいち早く退却するが、彼女たちには何の保護も与えられず、敵軍の弾丸や機銃にさらされながら大勢の犠牲者を出してからくも丸腰で逃げ続けるしかなかった。しかし、狭い沖縄の島はどこへ行っても今や安全な地点はなく、島から脱出するにしては、最早時期を逸していた。敵軍に包囲された島の限界的な状況下、難民は右往左往するばかりで、逆上した軍人は、降伏を勧める敵軍の放送に思わず駆け出す娘を、容赦もなく射ち殺す。行き場を失い手榴弾で自ら爆死する者…。かくて、「ひめゆり部隊」と呼ばれたうら若い乙女の一隊とその教師たちは、次々と無惨な死を遂げていった―。

おとめ座ひめゆり”とは、植物のヒメユリのことではない :
1916年1月に「沖縄県女子師範学校」(1915年4月設置/当初は沖縄県師範学校〈1880年設立の会話伝習所が前身〉に併置/略称「女師」)が真和志村安里の「沖縄県立高等女学校」(1900年設立の私立沖縄高等女学校が前身)校地に移転し、両校が併置される。沖縄県立高等女学校と沖縄県女子師範学校には、それぞれ校友会誌があり、前者は「乙姫」、後者は「白百合」と名づけられていた。1927年に両校の校友会誌も一つになり、両方の名前の一部(「乙姫」の姫と、「白百合」の百合)を組み合わせて「姫百合」となった。ひらがなで「ひめゆり」と記載されるようになったのは、戦後のことである。
なお、沖縄県立高等女学校は1928年3月に「沖縄県立第一高等女学校」(略称「一高女」)と改称され、また1943年4月に師範教育令の改正に伴って沖縄県師範学校と沖縄県女子師範学校を統合し、官立「沖縄師範学校」が設置された際、前者が沖縄師範学校「男子部」、後者が沖縄師範学校「女子部」(略称「女師」)に、それぞれ改組された。
そして戦後、1948年4月に<女師+一高女>の同窓生たちは「ひめゆり同窓会」を結成し→1960年4月にひめゆり同窓会は「財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会」として認可され→1989(平成元)年6月23日に同法人は沖縄県糸満市に建つ慰霊碑「ひめゆりの塔」に隣接して、「ひめゆり平和祈念資料館」を建設・開館し→2011年6月に同(一般)財団法人は「公益財団法人 沖縄県女師・一高女ひめゆり平和祈念財団」に移行する。

preview



▼ cf. 「ひめゆり平和祈念資料館」「ひめゆりの塔」紹介ムービー :



私感
私が本作を初めて享受したのは、小学生の時だった。ただし、それが1953年1月の公開直後の鑑賞だったかどうか、また当時の担任教師に引率された学校教育の一環としての鑑賞だったかどうか、この点に関する記憶は定かでない。
はっきりしているのは、小学時代(小3~小6?)の私が郷里北海道・岩見沢の映画館で本作を1度だけ鑑賞したこと。そして今なお忘れがたいのは、映画少年の私がその切迫した映像をむさぼるように見入りながら、子供心にも「こんな残酷な戦争を引き起こした悪(わる)は、絶対に許せない!」と内心いたく憤り続けるとともに、「宮城先生」を演じた津島恵子と女生徒の「上原文(うえはら・ふみ)」を演じた香川京子という二人の女優の冴え冴えとした美しさに目を奪われ続けたことだった(cf. 本ブログ〈April 10, 2016〉)。
その後、私は中学時代に北海道・札幌の映画館で1度、また1960~80年代に東京の映画館で3度、本作に接する機会を得た。
そして今回、池袋の新文芸坐~<女優人生70年企画「香川京子映画祭」(2018年3月18日~3月30日)>開催中~に足を運び、自分史上、三十数年ぶりの、6回目の鑑賞となった。

上映時間2時間10分、これまでの鑑賞時と同様に今回も、私は片時も目を離さず画面を観つづけた。そして、切なさで胸が硬直し、悲しさで鼻の奥が熱くなり、時折うっすらと目に涙がにじむのであった。齢(よわい)を重ねたせいだろうか、何か胸の底から不意に涙が込み上げてくる感じが今回はこれまで以上に強まったようにも思う…。
「ひめゆり」学徒隊の追い詰められた破局を思いやり…、沖縄の戦時から今日にいたるまでの悲劇を思い巡らし…、<共同幻想⇒国家幻想>に絡む“集団自決”の問題~殉国の美談~に思い当たり…、私の心は千々に乱れた。

太平洋戦争下の「集団自決」と言えば、私はこの数十年間、沖縄はおろか、満州や樺太や、サイパンをはじめ太平洋の多くの島々での当該事件を総合的に思い合わせてきた。少年時代の私は、満州や南樺太の引揚者から、また「サイパンの戦い」の関係者から直接、何度か日本人による「集団自決」の悲劇の話を聞かされたものである。
そして、太平洋戦争下の「共同幻想→国家幻想」と言えば、歴史上の日本文化に即して【604年に「聖徳太子」によって定められたといわれる】『十七条憲法』~「一に曰く、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ…」~にまで遡る必要があるが、ここでは直截に【1941年1月8日に陸軍大臣・東條英機が示達した訓令】『戦陣訓』~「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ…」~が問題視されている。


本作【1953年版】以降、「ひめゆり」に関する映画は、今まで3本製作されている。
・【1968年版】-舛田利雄監督『あゝひめゆりの塔 』(原作:石野径一郎『ひめゆりの塔』、脚本:若井基成・石森史郎・八木保太郎、1968年9月21日公開)
・【1982年版】-今井正監督『ひめゆりの塔』(原作:石野径一郎『ひめゆりの塔』、脚本:水木洋子、1982年6月12日公開。【1953年版】と同じ脚本・監督によるリメイク版で、前作では果たせなかった沖縄現地ロケを実施)
・【1995年版】-神山征二郎監督『ひめゆりの塔』(原作:仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』〈角川書店、1980年〉、脚本:加藤伸代、1995年5月27日公開)

私はこの3作品をそれぞれ公開直後に鑑賞するやいなや思ったものだ。3作はいずれも【1953年版】より出来栄えが劣っている、と(【1982年版】は【1953年版】のままの再現とはいえ、配役が変わって映画全体の力と魅力が減殺された)。各作品を比較対照するとき、【1953年版】がいかに傑出しているかが瞭然とし、本作に贈られた、当時の次のような賛辞にもいちいち納得が行く。
「期待に背かぬ力作が出来上がった。戦後公開されたイタリア映画の迫力よりも勝れ、しかもその底に今井正演出は全編にわたって詩情をみなぎらせている。二時間を越える長さをいささかもタルミなく引っぱっていく。日本映画も黒沢明やこの今井正などによって、たしかに世界的レベルに達していることを見る人々は改めて確認するであろう」(「注目すべき力作 全編にみなぎる詩情」『朝日新聞〈夕刊〉』昭和28年1月10日「娯楽」)。

ただし、私としては【1953年版】を手放しで賞賛するつもりはない。
前掲4作はともに「ひめゆり」学徒隊が逃げまどい、傷つき、死んでいく姿をリアルに~程度の差こそあれ~綴っている。ところが問題は、ある重大局面での一女学生の扱い方が【1953年版】と【1995年版】とでは大きく異なっていることだ(【1968年版】は【1953年版】と大同小異)。この点に関して、私が大いに啓発された、仲程昌徳の論文「〈ひめゆり〉の読まれ方―映画〈ひめゆりの塔〉四本をめぐって」(『日本東洋文化論集』 No.9〈2003/3〉)の優れた問題提起を、以下に参照することにしたい。

ダウン 米軍の攻撃で南部への撤退を余儀なくされた「ひめゆり」学徒隊。引率教師をはじめとする面々は、砲煙弾雨の戦場で、病院壕から重傷を負った仲間の「ひめゆり」を運び出そうとするも結局は壕に置き去ってしまうという暗澹たる事態に陥る。

宝石赤 【1953年版】の水木洋子作『シナリオ ひめゆりの塔』(映画タイムス社)では、ある女学生(安富良子〈演:渡辺美佐子〉)が病院壕に残される場面は次のようになっている(ト書きは省略、以下同)。

棚田「本部前集合!直ちに移動開始!」
平良(引率教師で演者は信欣三)「安富、しっかりするんだぞ」
安富「豊子さん」
島袋「私につかまって……さ!」
安富「あ-ツ」
安富「あ-ツ」
島袋「良子ちゃん、しっかりして……」
平良「おぶされ!安富」
安富「ダメ……もう……このままにして行って下さい……みんな……」
平良「安富ツ 元気をだせ!」「おいツ!医療器具どうした!運掛係り!」
仲栄間「運掛係り……」
平良「安富!行くんだ!一緒に……さ!」
島袋「良子ちゃん……」
岸本「つかまって……私に……良子ちゃん……」
平良「元気を出してくれ!もう一度……
安富「あ-ツ……目がくらむ……目が……」
仲栄間「我慢しろ!」
安富「覚悟しています……どうぞ……さよなら……

宝石紫 そして、【1995年版】の加藤伸代のシナリオ(『戦後五十年記念作品 ひめゆりの塔』決定稿、東宝映画、1994年)でも、問題の女子学生(渡久地泰子〈演:後藤久美子〉)が【1953年版】とほぼ同様な形で置き去りにされてしまう描写となっている。

野里「もう出発だそうです」
仲宗根(引率教師で演者は永島敏行)「防衛隊がいまだ到着しない。とにかく炊事場まで渡久地を運ぼう。医療器具は置いて行け」
野里・知念・垣花「はい!」
垣花「先生、担架が使えません」
仲宗根「たぶん、患者が杖代わりに持って行ったんだろう」
知念「背負いましょう」
仲宗根「渡久地、行こう。がんばるんだぞ」
渡久地「はい」
知念「さぁ」
渡久地「ごめんね。とても無理だわ……わたしはこのままで……」
野里「何を言ってるの、渡久地さん!」
渡久地「わたし一人のために、みんなが遅れては」
仲宗根「今帰仁へ帰るんだろう、さぁ!」
渡久地「先生、どうか行って下さい。行って!
仲宗根「渡久地、許してくれ!」

ダウン 問題は爾後の展開にある。

宝石赤 【1953年版】では、病院壕に遺棄された女学生が最終的に、配られた「薬」(【1968年版】では「ミルク」)で、米軍の捕虜にならずに潔く自決することになっている。

平良先生が再度、安富良子のところに行き、食糧と自決用の薬を渡す場面 :
「きっと、迎えに来るから……それまで待ってくれ……食糧はかんめんぽうと缶詰が一個ずつ、ここにあるからね、若し、万一、敵がここへ来たら……君も沖縄の女学生らしく……覚悟をして……この薬を……」 

宝石紫 対して、【1995年版】では、全滅する「ひめゆり」よりも、壕に遺棄されてなお生き延びた「ひめゆり」に強い光が当てられている。
壕内でいつ来るやも知れぬ死の恐怖と戦う渡久地泰子。傷病兵たちは衛生兵が配って歩く青酸カリ入りの牛乳を飲んで自決するも、彼女は這ってでも生き抜くのだとその牛乳を飲まず何とか壕から抜け出し木の根をかじりながら生きていく…。一方、重傷の渡久地泰子を壕に置き去ったことで、深い悔恨に苦しむ仲宗根先生。彼もまた、命からがら生き長らえて8月15日を迎える。そして、渡久地泰子が生き残り、米軍の病院に収容されていたことを知り、取るものも取り合えず病院へ駆けつけるのだった。

看護婦「あそこです。長くは困りますよ」
仲宗根「はい、ありがとう」
仲宗根「渡久地……」
渡久地「せんせい……」
仲宗根「……すまなかった
渡久地「アメリカ―に拾われました」
仲宗根「すまなかった―
渡久地「先生……先生に会えてうれしい。ありがとうございました

本 前掲論文「〈ひめゆり〉の読まれ方―映画〈ひめゆりの塔〉四本をめぐって」の要諦 :
≪「ひめゆり」は、言うまでもなく、沖縄戦がいかに無残な戦いであったかを照らし出したものであった。それはまた「女学生たちの悲劇が軍閥の横暴と独断によってひき起こされたことを深く訴える」のをもっていたが、その戦いの無残さや、「軍閥の横暴と独断」による悲劇を表すものとして、壕置き去りは格好の素材となったであろうことは、「ひめゆり」四作(【1953年版】【1968年版】【1982年版】【1995年版】―引用者)ともに、それが見られることではっきりしていよう。壕置き去りは「ひめゆり」の定番であったといっていいわけだが、しかし前三作(【1953年版】【1968年版】【1982年版】―引用者)と加藤作(加藤伸代のシナリオ【1995年版】―引用者)とでは、その取り扱われ方が大きく異なっていた。
 前三作における壕置き去りは、「ひめゆり」の悲劇が雪崩を打っていく前兆としての一シーンとでもいえるものでしかなかった。それが、加藤作では、「ひめゆり」の悲劇はまさにそこにあったといっていいようなものとなっていたのである。なぜ、そうなったのか。
 加藤作は、水木「ひめゆり」に多くを学んだといっていい。沖縄の戦闘をどう撮るかの基本的なかたちをそこで学んだことは間違いないが、その上で、加藤は、より深く「ひめゆり」の生徒たちの手記を集めて刊行された仲宗根政善の『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』に寄り添おうとした。
 「ひめゆり」は、一九四九年九月『令女界』に連載がはじまり、翌五○年山雅房から刊行された石野径一郎の「ひめゆりの塔」によって、より広く知られるようになったといっていい。それは、当初「ひめゆり」の映画化が、石野との交渉で始まったことからでも明らかであるが、石野のそれは、極めて戦後的な視点によって書かれた小説であった。「心の底からの自由主義者である友人荻堂雅子とともに、死の戦場をはいずりまわる」カナを主人公にした作品は、「全編至るところに戦争で人間が殺しあうことに納得しない魂の絶叫がしみわたっている」と評された。それは、「ひめゆり」の悲劇を伝えたいとする思いがとらせた一つの方法であった。それに対して仲宗根の「ひめゆり」は、その書名からもわかるとおり「ひめゆり」の生徒たちの戦場記録を集め刊行した実録である。そこで仲宗根は「二十余万の生霊の血をもって山河を染め、沖縄は“血の島”として世界に知られた。この“血の島”でも、とくに悲惨をきわめたのはひめゆりの学徒隊の最期であった。わずか十六歳から二十歳までのうら若い乙女らが、あれほどに激しかった戦争に参加して、かくも多数戦死した例は人類の歴史にかつてなかった」といい、「この悲劇が戦後、あるいは詩歌によまれ、あるいは小説につづられ、映画、演劇、舞踊になって人々の涙をそそっている。ところがこの事実は、しだいに誤り伝えられ伝説化しようとしている」といい、「乙女らが書き残そうとした厳粛な事実を私は誤りなく伝えなければならない義務を負わされている。洞窟に残した重傷の生徒たちのことを思うと、この記録は私にとっては懺悔録でもある」と書いていた。
 「事実」を伝えるとともに「懺悔録」でもある記録、それが生徒を引率して辛うじて生き延びた仲宗根があらわそうとした「ひめゆり」であった。そこで仲宗根が伝えたいと願った「厳粛な事実」とは、どの生徒も「生きたい」という思いをもっていたということ、しかしながらそれを教師たちが実現させてやることが出来なかったという悔いであったといえよう。その典型的な出来事が、渡嘉敷良子をめぐるいきさつであった。重傷患者たちとともに壕に残して立ち去ったことで、もはや生きてはいないであろうと思った生徒が生き残り、米軍の病院に収容されていた。そのことを知った仲宗根はとるものもとりあえず病院にかけつけ、声にならない声で渡嘉敷に「すまなかった」とわびる。彼女は、かすかな声で「先生ありがとうございました」と答える。そして仲宗根は、病院から帰る道々こう思ったと書く。「敵として恨んだ米兵が、かえって教えを説いた先生よりも親切であった。渡嘉敷からしてみれば、壕にほうり捨てて去った先生や学友よりは、救ってくれた米兵のほうがありがたかったにちがいない。現実の結果としては、これが厳然たる事実である」と。
 「ひめゆり」の「厳粛な事実」あるいは「厳然たる事実」は、ここに歴然としている。どの「ひめゆり」の映画もこの場面だけは落としてないのは、「ひめゆり」の悲劇が一つここにあったことを見逃してないからであった。しかし前三作は、先に見たように、生徒を壕に残していくその懊悩を描くに止まっていた。それだけでは、仲宗根の伝えたいと願った「事実」を充分に伝えたとはいえないのではないかということに気づいたのが加藤らの第四作であったといえよう。仲宗根「ひめゆり」をもっともよく生かしたものとして加藤作は評価することができるはずである。≫

全滅する「ひめゆり」のすぐ近くには、「殉国」という美談に転化してしまいかねない危うさが控えている!その陥穽をいかに回避するか。思想的に構えるべきは、どこまでも生きることの尊さを訴えることであり、一個の赤裸々な“個”の必死に生き抜こうとして奔騰する生のエネルギーの相を突きつめることである。
石原吉郎(1915~77、シベリア抑留の経験を文学的テーマに昇華した、戦後詩の代表的詩人)は、言っている。「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」(石原『望郷と海』筑摩書房、1972年)