映画『さよなら、僕のマンハッタン』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2018年4月24日(火)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、15:25~鑑賞。



作品データ
原題 THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK
【原題はアメリカの人気ポップユニット、サイモン&ガーファンクルの楽曲名「The Only Living Boy in New York」(邦題:「ニューヨークの少年」)[アルバム「Bridge over Troubled Water」(邦題:「明日に架ける橋」、1970年)の収録曲]が使用されている。】
製作年 2017年
製作国 アメリカ
配給 ロングライド
上映時間 88分


THE ONLY LIVING BOY IN NEW YORK

『(500)日のサマー』『gifted/ギフテッド』のマーク・ウェブ監督が、サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディランらの名曲にのせて贈るNYへのラブレター。ニューヨークの悩める青年の大人への通過儀礼をほろ苦いタッチで描いた青春ストーリー。主人公の青年トーマスを演じるのは、『グリーンルーム』の英国俳優カラム・ターナー。出版社を経営する父役を『007』シリーズのピアース・ブロスナン、母役を『セックス・アンド・ザ・シティ』シリーズのシンシア・ニクソン、主人公に人生のアドバイスを授ける小説家役にオスカー俳優ジェフ・ブリッジス、父の愛人役に『アンダーワールド』シリーズのケイト・ベッキンセールが名を連ねている。

ストーリー
ニューヨーク、マンハッタン(Manhattan)。大学卒業を機に、アッパー・ウエストサイド(Upper West Side)にある親元を離れ、ロウアー・イーストサイド(Lower East Side)の安アパートで一人暮らしを始めたトーマス・ウェブ(カラム・ターナー)。彼は作家を目指していたが思うに任せず、就職はせず個人教師のアルバイトをしながら、未来の自分がいるべき場所を探している。古書店(The Pale Fire)で働くミミ(カーシー・クレモンズ)に夢中だが、彼女には既にバンドマンの恋人がいた。平凡で何か鬱々とした毎日のトーマスがある日、アパートに帰ると、2階に越してきたというジェラルド(ジェフ・ブリッジス)という風変わりな初老の男と初めて出会う。
トーマスはその知性や謎めいた魅力に惹かれて、ジェラルドに人生の相談をするようになっていく。トーマスの父イーサン・ウェブ(ピアース・ブロスナン)は、出版会社を経営し、安定した生活を送っているが、トーマスが作家になるのを拒んでいるかのようで、父子間に微妙な隙間風が吹いている。
ある日、ミミとナイトクラブ(The Box)に出かけたトーマスは、イーサンがセクシーな女性とデートしている場面を目撃する。躁鬱病を患う母ジュディス・ウェブ(シンシア・ニクソン)を案じたトーマスは、父と愛人ジョハンナ(ケイト・ベッキンセイル)を別れさせようと決意。彼女を尾行するようになるが、程なく彼女に気づかれてしまう。フリーの編集者で、父とは1年半前から付き合っていると告白するジョハンナ。「母から父を盗む気?」と責めるトーマスに、「無意識に人は行動している。あなたも私に対して無意識に求愛している」と彼女は意味深に言ってのける。やがていつの間にか次第に、ジョハンナの底知れぬ魅力に溺れて、深い関係に落ちていくトーマス…。
そんなトーマスの毎日の話を真摯に聞くジェラルド。ある日、トーマスはジェラルドが、12冊も本を出したジュリアン・ステラーズという有名な作家であることを知り、また“The Only Living Boy in New York”という題名で自分のことを本にしていることを知る。
ジョハンナは泥沼化する前にトーマスとの関係を終わらせようとしていた。あるパーティーの日、ジョアンナはトーマスに、イーサンにプロポーズされ了承したことを告げる。逆上したトーマスは翌日、イーサンの出版社に飛び込み、そこに居合わせたジョハンナの制止を振り切り、父に「彼女と寝た」と打ち明ける。憤慨し泣かんばかりのイーサンは、部屋から出て行ってしまう。
事態が混乱する中、ジョハンナは「彼はあなたを本気で愛しているのよ」と言って、イーサンが飾っていた、一枚の新聞記事を挟んだフォトフレームをトーマスに渡す。そこには学生時代のトーマスがテニスの試合で活躍したときの写真があった。イーサンが戸惑いながら、その写真に目をやると、何と後方の観客の中に馴染みのある顔の男=ジェラルドが写っているではないか!?
慌ててトーマスはジェラルドのもとに駆けつけたが、彼は不在だった。机の上に「ブルックリン・イン(The Brooklyn Inn)」と名前の入った灰皿を目ざとく見つけて、トーマスは部屋を飛び出した。ブルックリンにあるそのバーのカウンターに座っていた彼に、トーマスは問題の新聞記事を見せる。
ジェラルドの告白は驚くべきものだった。彼とトーマスの両親は、皆アーティストで仲の良い友達同士。3人で安酒とドラッグをやり、青春を謳歌していた。イーサンは自分の才能に見切りをつけ、やがてジュディスと結婚する。しかし、イーサンは不妊症で、二人とも彼の代わり(代理父)をジェラルドに望んだ。引き受けたものの、ジェラルドはジュディスを愛していることに気がつく…。トーマスは実の父がジェラルドであることを知った。話し終えて涙ぐむジェラルドの肩に、トーマスはそっと腕を回すのだった。
母の所にやってきたトーマスは、ジェラルドに会ったことを告げる。「何を知ったの?」と問う母に「母さんの罪悪感の元だよ」と応えると、母は取り乱し始めた。「僕は許してる!母さんは25年間、公園のベンチに座ってあの人の本を読んでいたんでしょ?」
「内緒にしていたのは私の意志よ。彼に会ったら何もかも崩れてしまう」と呟く母に、「何もしなくても崩れたよ」とトーマスは優しく言う。二人は手を握り合い、静かに微笑み合った。
一年後のこと…。トーマスがメールを開くと、「残念ですが原稿をお返しいたします」と出版社から返信が届いていた。書店を営みながら、彼は再び書き始めていた。そこに発売された、ジェラルドの小説“The Only Living Boy in New York”を求めて、イーサンが訪ねてくる。
二人はセントラルパーク(Central Park)を一緒に歩いた。「本の感想は?」とイーサンは尋ね、「父親の過去に一番驚いた」とトーマスは答える。「どっちの?」「逃げなかったほうの」トーマスがそう答えると、父イーサンは微笑んだ。
“The Only Living Boy in New York”の作者による朗読会がギャラリーで開催されていた。自作を読むジェラルドの姿を一番前の席に座って見つめる母の姿があった。その姿をトーマスが優しく見守っていた―。

Trailer



▼ Simon & Garfunkelの名曲「ニューヨークの少年」が流れる劇中シーン→予告編 :



私感
私は“ニューヨーク映画”~ニューヨーク(New York City)の街が息づく映画~がこよなく好きである。
子供の頃からNYに憧れ、2000年前後にNYマンハッタン(ミッドタウン・ウエスト)の住人だった私にとってニューヨークは、とりわけマンハッタンは、格別な親近を感じる場所にほかならない。単なる「観光地」ニューヨークではなく、「暮らす街」ニューヨークを陰影豊かに描き出す映画は、そのストーリーに難があろうとも、私という一人の映画好きの普通人を、知らず知らず磁石のように惹きつけてきた。
私は数知れないほどたくさんのNY映画を堪能しつづけた。古くは、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『ウエスト・サイド物語』(1961年)、『ゴッドファーザー』(1972年)、『タクシードライバー』(1976年)、『アニー・ホール』(1977年)、『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)、『マンハッタン』(1979年)、『アニー』(1982年)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(1984年)などなど。最近では、『華麗なるギャツビー』(2013年)、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2013年)、『LIFE!/ライフ』(2013年)など…。

ニューヨーク映画と言えば、すぐに連想が働くのが監督・俳優として活躍するウディ・アレン(Woody Allen、1935~)の存在だ。アレンは見るからに冴えない、ちんちくりんのオジサンながら、天才肌の名監督。自分が生まれ育った大都会ニューヨークを舞台にした軽妙で洒脱な作品を数多く世に送り出してきた。アレンの数あるニューヨーク映画の中でも、私が今なお忘れがたい傑作を強いて1本に絞れば、それは1979年公開の「大人の恋愛映画の教科書」とも言われる(前掲)『マンハッタン』(原題:Manhattan)である。同作はウディ・アレン監督・共同脚本・主演、ダイアン・キートン、マリエル・ヘミングウェイ、メリル・ストリープら出演で、1970年代のニューヨーク・マンハッタンを舞台に、一人の中年作家と彼を取りまくニューヨーカーたちのビタースイートな恋愛模様やライフスタイルをウィットの効いたセリフで品よくユーモラスに描くロマンティック・コメディ。

また、本ブログに掲載のNY映画に限って言えば、
『はじまりのうた』(2013年)(本ブログ〈March 20, 2015〉)、『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』(2014年)(本ブログ〈February 11, 2016〉)、『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(2014年)(本ブログ〈November 21, 2016〉)、『キャロル』(2015年)(本ブログ〈October 05, 2016〉)、『ブルックリン』(2015年)(本ブログ〈October 06, 2016〉)―この5作を通して、私は今更のように、NYの街を舞台に、他の都市では成立しないような独自の青春像や家族像、あるいは人間関係を縁取るニューヨーク映画~色とりどりの、ニューヨークへのラブレター~の妙味を満喫した。

そして今度、本作を鑑賞する機会を得た。
上映時間約1時間半、最初から最後まで見応えを感じさせる映画だった。
このニューヨーク映画に特徴的なのは、単にNYが舞台になっているというだけでなく、NYこそが主役の物語であること。だからこそ、私の本作への好感度が否応なく高まるというものだ。
トーマスの住むロウアー・イーストサイド、ジョハンナの住むソーホー地区、ウェブ夫妻の住むアッパー・ウエストサイド、ジェラルドの行きつけのバーがあるブルックリンのボーレム・ヒル地区…。
その、どこもがかつて私が足の向くままに歩き回った場所だが、こうして映画に見入るとき、芸術・音楽・文芸にどっぷり浸かった、スタイリッシュで魅力的な芳香を放つニューヨークという街のたたずまいにひたすら感じ入る私ではあった。

ストーリー自体~NYの過去=親世代(特に「父親イーサン」)とNYの現在=「息子トーマス」の関係を起点かつ基点とする~も深みがあり、毒あり、驚きありで、大いに魅惑的。クライマックスのある一点で、ああそういうことだったのかと、すべてを氷解させる映画作りは見事!

ただし、私は本作キャストの陣容について素朴な疑問を抱く。
問題点は肝心の主人公が充実した脇役陣に完全に食われてしまったこと。
私の見るところ、ジェフ・ブリッジス(Jeff Bridges、1949~)とピアース・ブロスナン(Pierce Brosnan、1953~)の大物俳優はもとより、シンシア・ニクソン(Cynthia Nixon、1966~)も、ケイト・ベッキンセイル(Kate Beckinsale、1973~)も、そして若いカーシー・クレモンズ(Kiersey Clemons、1993~)も、それぞれが脇役固有の存在感を膨らませて真に迫った魅力的な演技を披露している。
問題は主役を務めたカラム・ターナー(Callum Turner、1990~)の側にある。彼の演技たるや、映画全般にわたって、何ともメリハリの利かない中途半端な態度に終始したのではないか。

監督のマーク・ウェブ(Marc Webb、1974~)はカラム・ターナーの抜擢について、「…大人と少年の狭間にいる俳優を探す必要がありました。ジョハンナが恋に落ちても不思議ではなく、しかし同時にミミのような女性ともデートしていそうな男性。とても微妙なバランスを求められます。作品を通して観客がトーマスを応援できることがとても重要です。カラムはこの役柄をとてもよく理解していましたし、大人と少年の両面の存在感を持っていて完璧だと思いました」(映画パンフ『The Only Living Boy In New York』〈2018年4月14日発行/編集・発行:松竹株式会社事業部〉29頁)とコメントしている。
なるほど、大人と少年の狭間(はざま)で反抗期を抜けきれないトーマス→見知らぬ隣人ジェラルド(ジェフ・ブリッジス)と父の愛人ジョハンナ(ケイト・ベッキンセイル)との二つの出会いを通して、予想外の“自身と家族の物語”に直面するトーマス、この悩ましい青年像を鮮明に刻むことは容易な業ではない。
とはいえ、主演の主演たるゆえんは、そうした難役をこなしてこそのものだろう。
ウェブ監督により「大人と少年の両面の存在感を持っていて完璧だ」と“上げ底”評価を下されたターナーだが、私自身は映画シーンに登場するトーマス=ターナーの存在自体にしっくりした感情が湧かず、どうかすると彼の言動のもどかしさにイライラが募るばかり…。
私にあっては、主人公トーマス=ターナーが自ら、大人でもない少年でもない、少年→大人への形成史的な“息苦しさ”を一身に引き受ける覚悟のほどが、まるで伝わってこないのだ。
彼トーマス=ターナーに心情的に共感できないとき、ややもすると私の目に飛び込んでくるのは、風采の上がらない背高(せいたか)のっぽの彼であったり、嘴(くちばし)の黄色い青二才の彼であったり、幼稚な情熱に駆られる生意気な若造の彼であったり…。
私はついつい勝手な臆測をたくましくする。生粋の(マンハッタン生まれの)ニューヨーカーを若いイギリス人俳優が演じること自体、どこかに無理があるのだろうか…と(カラム・ターナーは1990年2月15日、イギリス、ロンドン出身。2010年よりモデルの仕事を始め、その後、俳優に転身)。

トーマス・ウェブ役を演じたカラム・ターナーは、『(500)日のサマー』のトム・ハンセン役を演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットの“二代目”であると言われる(cf. 前出の映画パンフ、6-7頁)
(500)日のサマー』(原題:(500)Days of Summer、2009年)は、ミュージック・ビデオを多く手掛けてきたマーク・ウェブの長編映画デビュー作で、Downtown Los Angelesを舞台に、運命の恋を信じる男と信じない女が繰り広げる、ビタースイートな500日ラブストーリー!音楽から会話に至るまでセンスのいい演出が際立つ、批評家に絶賛された作品である。
私は2009年10月12日、初めて行った香港の、たまたま入った映画館で同作(字幕は中国語)を鑑賞。全編に清涼の気がみなぎる、すこぶる後味のいい映画だった。今風の若い男女が軽く戯れ、薄く交わる、そのユニークなロマンティック・スタイルが、何とも面白く楽しい!偶然の成り行きとはいえ、犬も歩けば棒に当たる、私は香港くんだり(!?)で予想外の快作に出会って欣喜雀躍!
それより何より、主人公のトムに扮するジョセフ・ゴードン=レヴィット(Joseph Gordon-Levitt、1981~)が実にいいのだ!知性とユーモアがきらめく甘いマスクで、愛する女性との異なる恋愛観に翻弄されるナイーブな20代の青年の生き生きした姿をさわやかに好演している。
彼は同作で第67回ゴールデングローブ賞主演男優賞(ミュージカル・コメディ部門)にノミネートされた。以降、大ブレイクし、話題作に次々と出演している。
彼の出演作については、私はこれまでに、『インセプション』(2010年)→『50/50 フィフティ・フィフティ』(2011年)→『ダークナイト ライジング』(2012年)→『LOOPER/ルーパー』(2012年)→『リンカーン』(2012年)→『ドン・ジョン』(兼監督・脚本、2013年)→『シン・シティ 復讐の女神』(2014年)→『スノーデン』(2016年)(本ブログ〈March 30, 2017〉)を鑑賞。ジョセフはラブストーリーからシリアスな作品、アクションものからハートフルドラマまで、ジャンルを問わず、様々な映画で今まさに第一線で活躍中の演技派・実力派俳優である。

青春映画の名手、ウェブ監督の出発点となった傑作『(500)日のサマー』。そして、これに続く、より切なくほろ苦い青春物語~人生迷走中のモラトリアム青年の成長物語~が、本作『さよなら、僕のマンハッタン』にほかならない。カラム・ターナーがジョセフ・ゴードン=レヴィット同様の逸材としてその「二代目」襲名が期待されるゆえんである。
カラムは本作をきっかけにして大ブレイクするにいたるか。果たして、カラムの本作におけるは、ジョセフの『(500)日のサマー』におけるがごとし…だろうか?カラムを巡る今後の映画界の動きが注目される。

映画 cf. 『マンハッタンオープニング映像

(※心を鷲掴みにされるopening scene!アメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィン〈George Gershwin、1898~1937〉の「ラプソディ・イン・ブルー〈Rhapsody in Blue〉」をバックに、マンハッタンの美しい風景がモノクロで映し出される…。私は昔も思ったし、今も思う。ニューヨーク、特にマンハッタンは、“驚くほど、あらゆるものが雑然と入り乱れながらも、たとえようもなく全体として美しい街”である、と。)

映画 cf. “New York in Cinema” ― 80近い「ニューヨーク映画」から印象的なシーンを選んで再構成したショートフィルム 「ニューヨーク映画大特集!」


映画 cf. 『(500)日のサマー』予告編 :

(※トムが惚れるキュートな相手役サマーに扮するのは、『ハプニング』〈2008年〉のズーイー・デシャネル〈Zooey Deschanel、1980~〉。)

音符 cf. “(500)Days of Summer” - You Make My Dreams (a song by the American duo Hall & Oates) :