不思議なことはあったほうがいい

「できるできないをかんがえるより、どうやったらできるかをかんがえると、あんがいできるもんですよ」。

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いろ
腹の虫(寸白篇 ……「われわれはひとりぼっちではなかった」(笑)

にほへとちりぬる

寝子の夢 ……これ書いたあと第二子妊娠が発覚。タイミングがおもしろすぎ。

わかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこへてあさきゆめ

みのむし ……こういうのに情がわくと庭掃除も楽じゃない。


しゑひもせす

覚書刀自拾遺その01 ……それで、やっぱ内国的視点だけじゃだめなのかなあと。


限界を理解した上でその中でナニをドコまでできるのかが問題だったンだけど。。。。


主要参考引用文献。


『枕草子』 石田譲二・訳注 角川文庫

『日本書紀』 坂本太郎/家永三郎/井上光貞/大野晋 校注 岩波文庫

『源氏物語』 玉上琢爾・訳注 角川文庫

『金葉和歌集』ヴァージニア大学ライブラリー

『伊勢物語』 石田譲二・訳注 角川文庫

『篁物語・平中物語・浜松中納言物語』  遠藤嘉基/松尾聡 校注 岩波書店

明治大学 日本古代学研究所墨書土器データベース

『古今和歌集』 窪田章一郎・校注 角川文庫

『催馬楽』 木村紀子・訳注 平凡社

『神楽歌・催馬楽』 武田祐吉・篇 岩波文庫

『紫式部日記』 宮崎荘平・訳注 講談社学術文庫

『王朝物語秀歌撰』 樋口芳万呂・校注 岩波文庫

『荘子(第一冊)』 金谷治・訳注 岩波文庫

『万葉集』 桜井満・注 旺文社

『今昔物語集 本朝仏法部 世俗部』 佐藤謙三・注 角川文庫

『古事談・続古事談』 川端義明・荒木浩 校注 岩波書店

『寺社縁起』 桜井徳太郎・萩原龍人・宮田登 篇 岩波書店

『三宝絵詞』 江口孝夫・校注 現代思潮社

『説教節』 荒木奬・山本右左吉・篇 平凡社

『古事記』 倉野憲司・校注 岩波文庫

 

『平安朝の生活と文学』池田亀鑑 角川文庫

『知られざる王朝物語の発見』 神野藤昭夫 笠間書院

『九州国立博物館蔵『針聞書』虫の知らせ』 長野仁・監修ほか- ジェイキャスト


 ‥‥そういうわけで、ネコ経由で変なムシがつくことはよくあるのであるが、「ねうねう」と甘えてこられたら、一緒に寝るしかないじゃあないか!チシャ猫


 時の最高権力者の正妻に熱烈に恋をして過ちをおかしてしまう若者の悲劇の物語、その熱情をかりたてたのは、もちろんニャンコであった。

 

 蹴鞠会、その休憩のとき…


…唐猫のいと小さくをかしげなるを、少し大きなる猫追ひ続きて、俄に御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふ気配ども、衣のおとなひ、耳かしがましき心地す。猫はまだよく人にもなつかぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物に引きかけまつはれにけるを、逃げむとひこじろふ程に、御簾のそば、いとあらはに引き上げられたるを、とみにひきなほす人もなし。…几帳の際少し入りたる程に、袿姿にて立ち給へる人あり……」(『源氏物語』若菜上


 つまり、ほんの一瞬垣間見た三宮の姿が目からはなれない柏木は、やがてその猫を東宮のもとより強引に貰い受ける。 


…夜もあたり近く臥せ給ふ。明けたてば、猫のかしづきをして、撫で養ひ給ふ。人気遠かりし心もいとよく慣れて、ともすれば衣の裾にまつはれ、寄り臥し睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたく眺めて、端近く寄り臥し給へるに、来て、『ねうねう』キティちゃんといとらうたげに鳴けば、かき撫でて、『うたてもすすむかな』と微笑まる。

 『《恋ひわぶる人の形見と手ならせば 汝よ何とてなく音なるらむ》 

これも昔の契にや』

 と、顔を見つつ宣へば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れて眺め居給へり……」(若菜下


とうとう回りの女房たちからもあきれられ、東宮から催促があっても、なかなか返さない。……このときの柏木の感性は、フワとしてフニャとしてゴロとしてデレとしたニャンコのカラダを、三宮のそれとして妄想しているのであった。エッチ!


 しかし、相手が雄猫でも、なぜか女性的イメージをもってしまうのは、猫が「女性的」なのではなく、われわれ男性が思い描く「女性像」が「猫的」であるから、ということになるだろうか。…女性は猫に「女性的」イメージを持つものでありましょうか??

 紫式部じしんの言葉ではないので、なんともいえないが、しかし後年の「大納言の姫君 」のジジツもあることであるから、少なくとも「猫=女性」と結びつけるイメージは当時から女性側にもあったのではなかろうか。。。

 

 大納言の姫君とか、『枕草子』にでてくる「命婦のおもと」は名前からすればメスだろうから、猫側の性別によって感じ方も変るであろうか……。柏木の猫ちゃんもメスでないと、ちょっとママが喜ぶことになる。(脱線)


 話は有名なのではしょる。

 柏木はとうとうその思いをとげきって、三宮とカンケイしてしまう。その心乱れた供寝のうちに…… 

ただいささかほどまどろむともなき夢に、この手慣らしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わが率て来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。」……


 《夢に猫の如き獣を見ると、それはニンシンの兆候なのであるというメイシンがあったのである…》などというようなことが、解説書に書いてある。一般的に現代の夢占いでも「猫の夢=妊娠」というのは定式となっているらしい。

 その出所はどこであろうか??

 猫が子沢山だから、という説もあるが、それならもっと子沢山でお盛んな動物は山ほどいるわけだから、そうでもあるまい。あるいは、出所は大陸だろうから、ホントウは「狸」のことだった、というオチがあるかもしれない。「虎」ではないだろうなあ。


 エライ人とか、ヒーローとかには、その母の妊娠において、たとえば、星がお腹に入ったとか、龍に強姦されたとか、という話がある。

 例えば、厩戸皇子・聖徳太子

母の夫人の夢に金色の僧ありて『われ世を救ふ願ひあり。願はくば、しばらく御腹にやどらむ。われは救世菩薩なり。家は西方にあり』といひて踊りて口に入らぬとして見て懐妊したまへり」(『三宝絵詞』中)

 そして、その穴穂部間人皇女が厩の戸にごっつんこしたら産気づいたとは有名な話。

(その構造はマリアのイエス出産と酷似しているのは、聖者に対する万国共通の観念のはたらきなのか、それとも東西への継承事項なのか…)

 例えば、弘法大師・空海。

はじめ母・阿刀氏、夢に聖人来て胎のなかに入ると見て、懐妊して生ぜり」(『今昔物語集』巻十一)

これは天竺の高僧が自らの法力で転生を申し出たのであるそうな。

 それが、グっと時代下って説教節の『刈萱』のなかでは、空海の母はそもそも唐国の帝の姫だったが、悪女であるためうつぼ舟におしこめられて海に流され讃岐に漂着、とうしん太夫にひろわれて「あこう御前」と名乗ったが、夢に足駄を履いて頭の上に水の入ったたらいをのせて屋根の上で待つことしばし、西の海から金色の魚が胎内に入った。三十三ヶ月目に生まれた玉を磨き瑠璃をのべたる男子に金魚丸と名づけたが、これが後の空海である……と弩級的進化を遂げている。空海じしんにも体内に金星が宿った云々の伝説があるからそのへんからの逆照射かもしれないが。。


 例えば、一寸法師にしても酒呑童子にしても昔話のヒーローには神仏に祈願して生まれたというヒトたちが多いが、それらはこうした伝承の「零落」した姿なのであろう。

 変形として、お話的には夢見にはなっていなが、実際には夢見したということであろうが、新羅の沼のほとりで女が昼寝しているときに「日の耀き虹の如くその陰上(ホト)を指しき。…この女人、その昼寝せし時より妊身みて、赤玉を生みき。」その赤玉がめぐりめぐって新羅王族のアマノヒボコの手にわたり、やがてその赤玉が乙女に変化した。二人は結ばれたが、やがて女は故郷へ帰るといって、小舟に乗って出奔。着いた先は日本の難波だった。追いかけてアマノヒボコが来朝し、やがて田島守の祖となる…(『古事記』


 神仏、聖人、赤玉、星……そうそうたるイメージに猫。。。だいぶ「零落」したな。薫くんはその程度のヒーローということか…いやいや…

 おお、エジプトでは猫が太陽であったように、猫の名前にタマが多いように!猫族は、龍蛇狐狸たちの末裔だけでなく、自然や生命そのものの末裔でもあった!? 

 うれしくなっちゃうじゃあないか。

 それはつまり、男子にとって理想の女子は自然そのもの・神の如きものであるということでありますね。(脱脱線)

 

 さて、柏木はこの夢のことが気にかかってしかたがなくなる。三宮のもとをあとにして、実家で休んでいるときも

…見つる夢のさだかにあはむ事もかたきをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひいでらる、『さてもいみじきあやまちしつる身かな。世にあらむ事こそまばゆくなりぬれ』と、恐ろしくそら恥づかしきここちして……」…おもしろいのは宮様のことではなく、猫のことが気になっているというところで、猫=三宮の象徴であるのだけれども、逆に妄想の直接対象であった猫のほうが恋しくなっちゃった。


 仏像というのはほんらい、ホトケのイメージをしやすくするためにあるのだけれど、いつのまにか、形而上のホトケよりも、モノとしての仏像のほうに信仰心をもってしまった…ここのところ、こういうココロの動きに通じるものがあるかな。


 

やあやあ、とうとう花粉カゼの季節になってしまいました。


 自分は花粉症の症状がでたことはないので、違うんだろうなあと思っていたが、この前テレビで、”症状がでなくてもじつはアレルギー体質は潜在しているのだ、いつ出るかわからんのだ”、ということを言っていたので戦々恐々でありますガーン

 小さい頃からペットを飼っているとアレルギーになりにくいにゃー、、、という話があって、自分は今はニャンコどもだけだが、昔からワンコとかチュンピチャとかハムとかコッコとか家にいろいろいたから、平気なのかなあとか、、、 (ちなみに自分はメロン・キュウイアレルギーなのだ、ということを最近知った。メロンって食べるとき口の中がひりひりするのが普通だとおもっていたら、みんな違うというのでビックリしました。。。メロン。)


寄生虫がお腹にいるとアレルギーになりにくいって話も……

で、

『今昔物語集』巻二十八第三十九にある話。


 ある女が「寸白」を腹にもったまま結婚し、子供を産んだ。


 寸白というのは今のサナダムシハリガネムシのことだそうな。


 で、その子はやがて任官して信濃守となった。

 現地に赴任するにあたっての「坂迎」の宴席上で、地元の名産、クルミ料理が振舞われた。信濃守が「術なげに思へる景色」なのをみて、歓迎役の介は不信に思った。

 「『もし此の守は寸白の人になりてむまれたるが、此の国の守となりて来るにこそあめれ』…

 それで介は、酒にクルミをたくさん擂り入れて熱燗で出した。お酒

 このクルミ酒を振舞うのが通例であるといわれて、守は…

ふるふふるふ杯を引き寄するままに

『実には寸白男、さらにたふべからず』

と云ひて、さと水になりて流れ失せにけり。

 当然、上を下への大騒ぎ…。

 信濃守といえば「受領は倒れるところに土をつかめ」の話の主役・藤原陳忠も信濃守であった。なんかそういう風刺めいたことが隠れているのかも知らん?


 で、どうして、クルミが寸白の正体あばきに効果があったのか? それがわからんので、いままで興味をひきながらもスルーしていた話。

 今でもわからん。はてなマーク

 

 胡桃=久留美は、縄文時代の遺跡からもたびたびでてくる、わが日本人にはポピュラーな栄養豊富な食材だった。免疫力を高めるといわれるアルギニン(アミノ酸)、お肌によいといわれるビタミンB1…‥今だからこそわかった効能の数々を、長年の経験でよいものとかんがえてムシ退治にもよいと判断したのか?


●腹の虫退治の話では、同じく『今昔』の巻二十四。


 典薬頭某が、一門の医者仲間ら家族そろって七夕パーティ七夕を開いて楽しんでいると、「一身ゆぶゆぶと腫れたる」五十ほどの女がやってきた。

 なんでも、5、6年ほど前からこのナゾの腫れが現れて難渋していたが、今回、多くの医者達が一堂会するときいて、これなら誰か分る人があるであろうと考えて参上したというのだ。

 典薬頭は「‥『これは寸白にこそありぬれ』

 と思い、メンツのなかでよさげな医者を指名して診せたところ、

『定めて寸白に候ふめり』」と診断した。


 それで、オケツお尻から寸白を引き出すペンチこととなったが、これが…

抜くに随ひて白き麦のやうなる物さし出でたり。

それを取りて引けば、ながながと延ぶれば、長く出で来ぬ。

出づるに随ひて庁の柱に巻く。

やうやく巻くに随ひて、この女、顔の腫ひきて色もなほりもて行く。

柱に七尋八尋ばかり巻く程に、出で来はてて、残り出で来ずなりぬ。

時に女の目鼻直りはてて、例の人の色つきになりぬ…


 あとは「薏苡湯(ヨクイトウ)」という漢方薬を使って治療をするのだ云々。

 薏苡(ヨクイ)というのはハトムギの殻を剥いた状態のもので、効能は滋養作用、緩和作用、利尿作用、とくに関節痛や筋肉痛によく効くそうな。だからこれはムシそのものをやっつける薬ではなく、弱ったからだを立て直すための薬湯。

 

 因みに『医心方』巻三十には「石榴(ざくろ)」が、「根は蚘虫(廻、腹中の長虫)、寸白を療す」とあるそうな。ただし「多食すべからず」で、実際とりすぎると中毒になるので注意と現代の漢方にも書いてある。

 『医心方』編纂したのは丹波康頼。以来丹波家は、代々宮中の医療をつかさどった。きっと上の話の典薬頭とか仲間の医者も多く丹波氏であったんだろう。

 

 ●丹波氏はまた「鍼博士」でもあった。

 康頼の子孫で、平安末期の典薬頭・丹波重基も三上…narcissus.もとい鳥羽法皇のために鍼を施した一夏があったと思いたまえ。

 伺候した人々、徒然に

『巡物語つかまつるべし…同じくは仏神霊験の事を語り申すべし』

スキダネエ!

ということになり、重基は自分がケイケンした不思議な夢の話をする。


 八幡を信仰していた重基が、石清水社頭で五部大乗経を供養しようと準備していたところ、ある夜の夢に、摂社である若宮御前が、鵇毛(ツキゲ)の御馬に駕し御して、持仏堂の縁側に現れた。なんで「若宮」と分ったかというと、手に白杖(白払子とも)を持っていたから。

で、

 『吾れに契り深き者の、いとおしく思しめすが、病の事を問はんが為に是に来べきなり』

 その人はほんらいは石清水ゆかりの人なのだが、フクザツな生まれなので、今は高野山にて修行をしている。あまりに優れた人なのに、神との縁がきれてしまってはつまらない。で、若宮神が念のために夢告をしたのだ。

 目覚めた重基は、ほんとうにそんな人が来るのだろうか? と縁側で待っていると、お告げどおり、一人の修行僧が現れた。

 実は、石清水二十五代別当・光清の息子・成清であった。成清の母は歌人として知られた小大進(彼女が別の男との間に産んだ人にこれまた有名な歌人・待宵小侍従がいる)。


 で、

 光清にはすでに複数の妻とのあいだに何人かの跡取り息子があったが、どういうわけか小大進だけはオンナノコ女の子。ばっかり生まれてオトコが生まれなかった。それで、熊野権現に祈りに祈ってできた申し子赤ちゃん 2が成清である。しかし、しっかりした後見人がいなかったりするので、ほかの後継者との争いを避けるためにも、八幡を離れて、仏門修行にでていたのであった…。


 ‥この不思議話が上の人たちの知るところとなり、やがて成清は異腹のきょうだいたちを押さえ抑えて三十代別当になるのであるが、、、

 この成清が、修行の最中に、丹波重基に会いに行ったのは、実は「寸白の所労過法なるに依り、医者を訪はむが為ハリガネムシなのであった。繋がった!

 ところが、この病気は若宮神にいわせると「それは指せる病瘂に非ざるなり」ということであった。

 以上、『古事談』巻五。

 ちなみにこの話は『八幡愚童訓』にもあって、そこでは重基は話を人々に紹介しただけで、実際に霊夢を見て成清をみいだしたのは、おなじ丹波一族の丹波実康という人になっている。また、病気もただ「所労の事有りて」ということで、ハッキリとは語らない。

 とにかく書いていないので、どういう症状でどういう処方をしたのかはわからない。 

 けれども、針医が寄生虫退治に活躍していたことは間違いないらしい。


 ●グっと時代下って、桃山時代に書かれたと思われる鍼術の秘伝『針聞書』には、じつに63種もの「腹の虫」が図入りで紹介されている。


 我らが「寸白」という名のものだけでも三種ある。

①「寸白虫」…「此虫は大シハの下にかたくなりてあり。常にはかくの如くにあり。冷ゆるときにはキンへ入、痛むることかぎりなし。一年に一度二度、又は月に一度程をこるは針やがて効くなり」つまり、男性のアソコに潜んでおるのだそうな。ゾー叫び

②「鳴き寸白」…「腹をつかめば鳴る虫是也。韮・梹榔子を呑て皆消する也

③「噛み寸白」…「肝の臓後に出る虫也。大悪虫也。薬を不用、節ごとに口と成て身の内をつつく。ソバの粉に芦毛馬の尾をいかにも細に刻て、ソバ粉にまぜて能酒にてねりてくへば虫消也

 ふうん。②と③は本物の寸白ではなくて、「アメリカライオン」みたいに、似ているからつけられた名前にすぎないのかも。


 でも、この寸白は普通の下痢程度ですむサナダムシとは様子が違うようである。

 

●さらに時代下って、元禄時代に盲官の最高位である、関東総検校として杉山流鍼術を開いた杉山和一が残した三部書のひとつ『療治之大概集』「諸蟲門」に、いろんな腹虫には九種類あるとして、それぞれの名前と形状と、有効なツボを紹介している。

諸の蟲、多く生じて心を貫けば人を殺す。

コワ~。

そして、我が寸白については‥

‥世に寸白と云ふ物有り。臍上に張り、陰嚢を苦しむる者なり。‥大横、寸白によし‥

大黄というのはお臍から両脇へ水平に横へいって、オッパイの真下あたりの・腰骨の上の方あたりのツボのことらしい。また、「大赫、陰嚢腫るるによし。」とある。これは急所のちょっとうえくらいのところ。。。


 たとえば蚊が媒介するパンクロフト糸状虫などは、リンパや手足に侵入して、そこを膨れ上がらせ、ときに男性器周辺を膨らます。昔の見世物小屋にいた「金玉男」とかいう奴はその患者だった可能性もあるそうな。

 ああ、昔、有名な目黒の寄生虫館でみた「象皮病」という症状の写真があったけれども、、あれか。。。


●だんだん話が違ってきているが、もとは信濃の寸白がヒトに化ける・生まれ変わるという発想はどこからきたのやらということであったが、どうも「寸白」にもいろいろ種類があったようでやはりカンタンには調べきれないのであった。


 体内の虫といえば庚申講三尸虫が不思議領域では有名だけれども、ほかにもいろんな虫があるようなので、これはシリーズ化して引きずることにする。



……ところで、、虫ってペット経由でウツルこともあるんだった…。。

 天皇制および皇室のお仕事存続のために女性宮家設置をしようとか、そもそも女性天皇でもいいじゃないとか、そういう論議がやっとはじまったようだが、さて、その中で【「女系」はダメ】という考えというか、伝統というかあって、そういう現実世界の判断は私にはわからないのだけれども、「天皇家は男系」ということからすると、天皇家の先祖は「アマテラス」であっては問題なんじゃなかろうか?…まあ人皇になってからが「男系」というのだろうけれども、、、。


 アマテラスは女神としてたいてい描かれている。スタートだけオンナというのもヘンテコだ。仏と違って、神様には性別があるし…アマテラスの父はイザナキだけれども…アマテラスの子でニニギの父である天忍耳尊の父親は、じゃあ誰なんだろう。

 例の天安河誓約で、生まれたというからに、父親はスサノヲということでOK? ‥……あるいは、やはり太陽神を祀る巫女を神格化したということで、古代日本の太陽神は実は男性であった、、と考える方がよいのかしらん?


 クウソウだけれども、卑弥呼とか壱与とかいう古代の女性首長(?)や九州あたりの伝説の女土蜘蛛とかって、けっきょく男だと、喧嘩が絶えないから、バランス役として抜擢されたらしいのだが、強大な権力が確立してしまえば、独り男がその力を示せるようになったので、バランス役としての女帝は不要となった…歴代の女性天皇はみな次代への中継ぎ役・サポート役であったこと(飯豊天皇や神功皇后とかも)を思うと、やはりこの世は「力」を示すもの勝ちなのか。

 

 ところで、遺伝子とかって、父方と母方と半分ずつもらうはずだろうけれど、母親の胎内にいて、免疫もらったりしているということを考えると、子は父より母からもらうものののほうが多いのではなかろうか。 

 動物的には、コドモは母親が養育するから、母系の家の力がコドモにとって重要となるのは、人間の古代においてもそうであった。父親の種を残すために、野性の、たとえばライオンとか類人猿とかは「子殺し」をするというし、そもそも男性器の先が矢印型なのは、他人の精子をひっかきだして、自分のを確実にぶちこむためであるという話もある。あんまりさきっぽが鈎状になっていないネコなんかだと、いわゆる「乱婚」の結果、一回の出産で毛並みちがいのコドモが生まれるのである(うちのネコは七匹兄弟でうまれたが、真っ黒2、三毛2、キジトラ3の割合であった。黒の父は野良黒として知られているが、ほかの父親は別らしいのだ)


 「女系」がまずい、というのはやはり「外戚」?的な力が強くなりすぎてしまうということがあるのであろうか…? あるいは、根拠のない「男尊女卑」なのかしら? 具体的な例がぱっと思い浮かばないけれども、、

…元正、孝謙=称徳、明正、後桜町はコドモを生んでいないし、推古、皇極=斉明、元明はコドモの相手は天皇であったから問題ではない。

 例えば、高野姫と道鏡の間に子供が出来た場合、それが天皇になったらどだったろうか、、とか。

 例えば、和宮が家茂の子を生んでいた場合、その子が天皇になったらどうだったろうか、とか。

 えーと、つまり、真実が表ざたになっていると仮定したときの、薫が天皇になれるかどうか、、、と思ったが、柏木の父方のおばあさんは桐壺帝のきょうだいだから、薫の父方にもいちおう天皇の血がはいっているのか…

……むつかしいな、、具体的な例が思いつかない。


 話をもとにもどすと、アマテラスというのは皇極=斉明=宝姫女をモデルとしているという節もあるのであるが、そのオアイテは舒明天皇であり、じゃあ影の薄い舒明天皇がスサノヲ、、、となるのかどうか…舒明天皇の諡号は「息長足日広額」であるが、この名前でンとなるのはもう一人のアマテラス・モデル候補にして、卑弥呼と同一視もされる、神功皇后=息長帯姫。このダンナの仲哀天皇というのも影が薄い(しかも、父親は天皇ではなくヤマトタケル)・・・・。

 スサノヲの雄雄しいところと、メソメソしていたりするところの二重性格って、理想と現実なのかもしれないと思った。

 つまり、、、

アマテラス=宝、スサノヲ(ポジ)=唐・新羅戦争&天智・天武、スサノヲ(ネガ)=舒明

アマテラス=神功、スサノヲ(ポジ)=三韓交渉・宋朝貢&応神、スサノヲ(ネガ)=仲哀

アマテラス=卑弥呼、スサノヲ(ポジ)=魏朝朝貢、スサノヲ(ネガ)=男弟

アマテラス=天照、スサノヲ(ポジ)=越国八岐大蛇戦争、スサノヲ(ネガ)=天津罪

アマテラス=太陽、スサノヲ(ポジ)=海、スサノヲ(ネガ)=嵐

スサノヲは「二人」いた。対外的に積極的にうってでるポジティブ派と、内に乱れや不安をかかえたネガティブ派とあって、理屈では正統と考えられたのがネガであったため、異なるポジを前面に押し出した結果、正統なポジとして、女=調整役=アマテラスを担ぎ出さねばならなかった…なんてね。。。

あんまりにもやらなすぎるので、これじゃあいかん、しょうがないからまたこれ。


「休んだヨ」から →つづき


あとになって気がついたり、

知っていたけど入れもらしたり、

よくわかんなかったりした刀自さんたちを……


●家主さまとしてのトジ表現…


拾遺01……「家刀自」


『伊勢物語』より。

昔、あがたへ行く人に<むまのはなむけ>せむとて、呼びて、疎とき人にしあらざりければ、家刀自、杯ささせて、女の装束かづけむとす…。

奥さま御自らお酒をついだ…というくらい大事な友であった。



拾遺02……「人の家刀自」


『平中物語』より。

又、この男(平貞文)」、ある人を仲立ちにして、高貴な家の女人に手紙を出すが、「なまほぎ」なカンジで、ちっとも返事がこない。それで、仲立ちの人に訳を尋ねたところ、「手もいとあし、歌はた知らず。」ということで、高貴な方でもそういう人があったそうな。

 で、後日、その人も「人の家刀自にぞ、なりにける」。

 OH人妻!

秋風のうち吹きかへす葛の葉のうらみてもなを恨めしきかな


尚お、この歌の変形が『古今集』巻十五恋に

秋風の吹き裏がえす葛の葉の恨みてもなおうらめしきかな」とある。


拾遺03……「耳はさみがちに、美相なきいへとうじ


 平仮名表記だけど…『源氏物語』「帚木」の【雨夜の品定め】のとき、左馬の頭が語る中に、「もののあはれ知りすぐし、はかなきついでの情けあり、をかしきにすすめる方、無くてもよかるべしと見えたる」…のではあるが、しかし実生活にドップリつかっているのもどうかなあ…というようなときにたとえとしてでてくる「まめまめしきすぢたてる」様子を表現。

 まさに「主婦」としての「刀自」。

のちのち「横笛」巻では、夜鳴きする子の世話追われる雲居雁の様子を「耳はさみして、そそくり繕ひて、抱きてゐたまへり」と描いている。そんな感じ。


 「家主」と書いて「とじ」とよむこともあるであろうから、、、そもそも「トジ」という言葉がどこからきたのか考えなくては…・


●トジの語源って?

拾遺04……「子刀自」


 島根県松江の出雲国分尼寺跡地から発掘された墨書土器にしるされている。

 国尼寺跡は住宅地になっているため、大々的な発掘はされていないそうなので、はるかな将来にはまだなにか出るかもしんない。出土物には新羅風の特徴があるそうで、近くの国分寺の分とあわせて瓦などを焼いた窯があったと思われる…


拾遺05……「大刀自」


山形県は<べに花の里>河北町の熊野台遺跡出土の9世紀頃の甕の破片に刻まれた文字。「刀自」=「杜氏」とみて、酒造りに関係したのではないかという説があって一時期もりあがったそうな。

杜氏といえば男性の職業のイメージだけれども昔の酒造司の、口にお米を含んでペっとやった、ギャートルズの猿酒みたいにやったやつが源流であろう。

でもオンナの意味の「トジ」をそのまま男性にもつかうもんかな?



★…わが刀自シリーズのきっかけとなった、催馬楽「まゆとじめ」の歌詞は、ふつうは

「みまくさとりかえ まゆとじめ…」であったけれども、

異説として

「おほみきわかせ まゆとじめ…」

という歌詞もあったらしい。

文安六年(1449年)の奥書がある『催馬楽略譜』という書には、この歌をうたったのは「大饗又臨時客之時」であったというから「大御酒沸かせ」、宴会に熱燗を用意せよ? という歌なのかもしれない。。。


 拾遺06……「御膳宿(おものやどり)の刀自」


『紫式部日記』より。

寛弘五年(1008)大晦日。

あろうことか宮中に賊がおしいり、「靫負」「小兵部」の二人の女蔵人が「はだか」にされた。紫式部は中宮の身を案じて震え震え様子を伺うが、まわりに頼れる人がいない。そこで、「御膳宿の刀自」に自ら命令して、頼れそうな人を探させた。御膳宿とは、中宮の使用する食器を納めておく棚のことで、食器係のお姉さんというような意味かな。


●さてさて



 拾遺07……『藐姑射 ( はこや ) の 刀自


 『源氏物語』「蓬生」で、末摘花が「かぐや姫の物語」「唐守」などととともに楽しんでいた絵巻物語のタイトル。散逸物語であるためストーリーなどは残っていないが 『風葉和歌集』巻十四・恋に、


てりみちひめとりかへされ給ひてよませ給ひける、はこやの平のふとだまの帝の御歌

いへどいへどいふに心はなぐさまず恋しくのみもなりまさるかな

 ふつう「平」は「年」の写しまちがいということで、「はこやのとじ」とする。

 

 タイトルにある「藐姑射」とは「藐(とお)き姑射」ということで、「遙か遠くのハコ」という意味。

 姑射(ハコ)とは、中国の伝説の山の名前で、そこには「神人」が住んでいるという。

 例えば、『荘子・内篇』にある話。
 孔子と同じ時代、肩吾という賢人が、接與という楚人から聞いた話によると、その神人は「肌は固まった雪のように白く、身体のしなやかさは処女」のようで、「五穀を食らわず風を吸い露を飲み、雲気に乗じ飛竜に御して、四海の外に遊ぶ」、その精神が凝り固まってすべてを芳醇ならしめるとかいう……

 肩吾は「そんなヤツがあるもんか、接與は狂っているンダねハハハ」。と笑ったが、話を聞いた蓮叔という、さらなる賢人は「形骸にのみ聾瞽あらんや」と評した、つまり分ってないのは肩吾のほうだ、といった云々という。

 また、『万葉集』巻十六に

心をし無何有の郷に置きてあらば 藐孤射の山を見まく近けむ」」(3851)という歌もある。

 つまり、桃源郷とか竜宮城とかのような異世界。


 そんな異世界を仲立ちとして、一度は結ばれた照満姫と太玉帝だが、やがて姫は「取り返される」という悲恋の話であるらしい。『竹取物語』と同じような話とすれば、姫は仙界の刀自であったが、帝と恋におち、しかし、その宿縁によって、仙界へと戻ってゆくという鶴女房的話ではなかろうか。あるいは、それが常世とかなら、イザナギ・イザナミのソフトな話であったかもしれない。

 いずれにしても、『源氏』執筆当時にあった物語の中から、あえて「竹取」「唐守」「はこや」の三本を末摘花に読ませたというところにはナニカのイメージ喚起があったはずである。

(「唐守」も散逸物語で、男が唐守長者の娘を苦労して訪ねたが娘は「かたは」であったという話らしい。「からもりが宿を見むとて玉ぼこに目をつけむこそかたは人なれ」…という歌が『うつほ物語』内にある)

前回触れたついでナゴンちゃんの虫シリーズ。


虫は、鈴虫、ひぐらし、 、松虫、きりぎりす、はたおり、われから 、ひをむし(カゲロウ)、ミノムシ…額つき虫… …夏虫…


で蓑虫篇。


清少納言チャン『枕草子』の有名な一節。


蓑虫いとあわれなり。

鬼の生みたれば

”親に似てこれもおそろしき心あらむ”

とて、親のあやしき衣引き着せて、

『いま秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ』

といひおきて、

逃げて往にけるも知らず、

風の音を聞き知りて、

八月ばかりになりぬれば、

『ちちよ、ちちよ』

とはかなげに鳴く、

いみじうあはれなり


 ちなみに「父よ父よ」でお母さんの存在はどうなっているかというと、ミノムシのメスは一生ミノムシのままで、オスだけが蛾になるというそうで、ナゴンちゃんたちがそれを知っていたかどうかというと……、どうやら、これは偶然の話で、ホントウは「チチヨチチヨ」と鳴く秋の虫の声をミノムシの声と勘違いしていただけらしい。

 シカシ、

ミノムシが「リーンリーン」と鳴くとか、「ギッチョンギッチョン」と鳴くとか、勘違いしないのは、ミノムシが「鬼の子」であるという考えが先にあったからに相違ない。
 それは蓑を身に着けているからであった。


 ミノムシが蓑を身に着けているのは鬼の子だからである。

 親の衣装を譲りうけていたのである。


 東北のナマハゲや南島のアカマタとかにもあるように、神、先祖霊などが蓑や藁、葉などのコスチュームで現れるように、鬼もまた、身体を隠して現れた。

例えば、


『日本書紀』斉明女帝のお葬式のとき、

八月の甲子の朔に、皇太子(中大兄=天智)、天皇(斉明)の喪を奉徒(ヰマツ)りて、還りて磐瀬宮に至る。

 是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆、怪ぶ。


 鬼=穏身の意とするならば、オニはもとは「現身」であった存在が、ナニカのきっかけで、「隠身」となったのであろう。


 例えば、

再び『日本書紀』。「一書」において、高天原を追放されたスサノヲの描写。

時に長雨降る。

素戔鳴尊、青草を結束(ユ)ひて、笠蓑として、宿を衆神に乞ふ。

衆神……遂にともに距ぐ。

……爾以来、世、笠蓑を著て、他人の屋の内に入ることを諱む。

又束草を負ひて、他人の家の内にいることを諱む。

これを犯すことある者をば、必ず解除(ハラヘ)を債(オホ)す。

これ、太古の遺法なり


 つまり、風雨に苦しんだのに救援してくれなかった神々にたいして、スサノヲは恨みを抱いてタタル存在になったのであろう。


 ミノムシの親の鬼は 秋になったら迎えに来るから待っていろ、といった。ミノムシが啼いたのは旧・八月。斉明帝の話も八月。スサノヲの話はただ「長雨」とあるが、これはつまり梅雨ではなく、秋雨のことであろう。鬼の・ミノムシの蓑は秋雨のために必要なのでもあった。


 雨を避ける必要が先か、身を隠す必要が先か……。

 とにかく、昔の鬼は、地獄の鬼のように虎のパンツ一丁というのではなかった、ナゴンちゃんの時代には、まだ旧い蓑笠鬼のイメージが普通に残っていたのだ、という確認ができる。


 そして、ミノムシはその季節が近づくと、「父よ父よ」と啼くのであった(…が、親鬼は逃げていったので迎えにくるはずがない)。つまり最初の約束と、蓑の譲渡は、親が逃げる・姿をくらます時=節分のときに交わされたのであった。

 ふうん。


 鬼はマメ投げられて逃げるが、一年後間にまた逃げる鬼とは別人なのだろう。

 鬼とはそもそもクウキみたいなもんで、鬼の分子が一年かけてジワジワと降り積もって、節分のころには鬼分子が固まって固形の鬼みたいになっている、そのころには鬼集合体が一つの人格のようなものをもつにいたって、そのカスをコドモとして残してゆく……なんてね。(関連→「方相氏 」)

 

 
……横道。

以前、「刀自を集めてみたヨ その13」で、ミノムシがでてきたので復習。


274「台盤所の刀自」といふ者


………『枕草子』で、清少納言ちゃんが、まだ自分が宮仕えする前にあった事件を書いているくだり。

 若き日の一条帝と定子サマが、藤原師輔の娘で天皇の乳母であった藤三位をからかって、坊主が書いたかのようにみせた手紙を送る。その手紙をもってきたのは「蓑虫のやうなる童」であった。

 誰からの手紙だろうということになり、藤三位はハラハラドキドキ。

 しかし、やがて、その蓑虫くんは「台盤所の刀自といふ者のもとなりけるを、小兵衛がかたらひいだし」たのであったと分る。小兵衛は中宮の女房で、つまり天皇・中宮のイタヅラであったことが発覚した…というような話。

 後日、台盤所で蓑虫君を発見した藤三位、手紙は誰からきたの? と冗談ぽく訊いたら「しれじれしう笑みて走りにけり。

  蓑虫君が働いていた「台盤所」は、清涼殿のすぐ隣にあって、食事に使うお膳=「台盤(盤台)」を管理(準備)する部署。毎日使うものだし、整備もたいへんであった。火櫃(ひびつ)や調度品などもあって、その他の天皇付の女房連の詰め所的役割も果たしていたらしい。

 そこの「刀自」だから、女係長ということで、蓑虫君はその部下。きっと、正規の職員ではなく、刀自さん個人が使っていた、奴隷(?)みたいな子だったのだろう。


 ……

 これは正体がばれないようにするための変装なのであったが(関連→「蓑火 」)、このくだりで、この童のことを「鬼童」とも書いている。

 やはり鬼と蓑はセットだったのだ。


 飛躍するが、、、


 

 『源氏物語』で、葵の上が亡くなってしまい、姫のいなくなった左大臣家では、「光源氏と葵の夫婦仲は冷めていたから、源氏は熱心に通ってこなかったが、かんじんの葵が死んでしまってはなおさら足が遠のくだろう…」と、女房たちが動揺し、すでに実家に退出したりする人もある。そのなかに、

取りわきてらうたくし給ひし小さき童の、親どももなくいと心細げに思へる」女童がいたので、さすがに源氏も哀れと思い、「『あてきは、今は我をこそは思ふべき人なめれ』と宣へば、いみじう泣く」…というくだりがあるが、こういう天涯孤独の下っ端使用人は、蓑笠被らねばならぬ仕事などもせねばならず、「父よ父よ」と泣いたかもしれないなあ、そういうコドモがナゴンちゃんの周りにもいたかもああ、、

などクウソウしてみる。


クウソウをたくましくしてくれる歌。

『金葉和歌集』巻十雑下。

連歌。

簔虫の梅の花咲きたる枝にあるをみて

律師慶(慶範か?)

梅の花が咲きたるみのむし…

前なる童の付けける

…雨よりは風ふくなとや思ふらむ


 蓑があるから雨はへいきだけど、風が吹いてとばされたら、親が来たときわからなくなっちまうじゃないか…風よ吹かないでくれ…花ではなく、虫に同情する優しさは、親を待つ蓑虫の立場を我が事ととして感じられる【童】ならではの感性である、と思いたい。



ほんとうは「予選」としょうして過去のはなしを膨らましていけそうなやつを取捨選択するはずのシリーズだったのだが、さっそくつまづいて、イキモノが好きなので生き物がらみの話だけでいちねんかんやってみようとおもったが、あれやこれやでだんだんと件数が減っていってしまったのは残念であった。それで、にねんめもおなじくしようとおもったがおもわず刀自シリーズにのめりこんでしまい、おまけに例の大震災や町内会の役職とかあったり、会社の方も何かと忙しくやはりたくさんできなかったけれどもおもしろかったからまあいいや。」来年はもうすこし「予選」らしくしなくては…



青鷺の火&五位の光 ……鷺山見学に行きたーい。


 …蟻に噛まれる話 ……こどものときはカブトやヤンマよりアリが好きだったなあ。


 …天の逆手 ……これは動物の話じゃなかった。うっかりしてた。


因幡の白兎 ……5歳のときに兎を買ってとせがんだら小学生になったらね、と言われたが結局兎を飼ったことはない。


鶯の花笠 ……『震える舌』といえばチョコパンなのだが、映画では十朱さんのウグイスパンのほうが印象深い。


鴛鴦の契り ……鴛鴦は雌のほうが綺麗と思う今日この頃。



亀を助ける話 ……玉手箱の話の出所についても考える必要があるか。打出小槌などとちがってリスクの御土産の意味するものは、止まった時間の象徴? ところで海亀って日本海側にもよく出るの?


 …威神、虎と出会う話 ……上野の「トラとゴリラの森」が出来立てのころは感動したなあ。


狐の復讐 ……きつねはうどんよりそばの方が好き。




金色姫 ……昔、ガチャポンで当たりがホンモノの蚕というのがあった。


五月蝿(さばへ) ……天井から吊るす蝿獲紙を取り外すときにかならず服を汚します。


 …鯖売る翁 ……焼鯖は美味いね、焼きたてがね。


神功皇后鮎釣伝説 ……地震以降、奥久慈へ遊びに行ってない。こういうのも風評被害というのだ。来年こそは勇気だして鮎食いに行こう。


 …猪頭(シシガシラ) ……今年は茨城に行かず静岡に行って猪食べた。(まあ静岡は第二のふるさとのようなところだから代替地ではないが)


……鱸を食べる話 ……鱸=鈴木=濯ぎ?





蝶化身
……東京都足立区の生物園は都心で蝶々にいつも会えるお気に入りスポット。


角無しサザエ ……うちの家庭菜園にサザエの殻が転がっているのはなぜだろう。


 …燕の貞節(烏の不貞) ……燕ってよくみるとあんまり綺麗じゃないのね。烏のほうが綺麗なかんじ。


天平宝字改元 ……世界中の人が蚕の面倒を見なくなった場合、蚕は絶滅するのでしょうか。そういうのは何ていうのかしら。








白雉(はくち) ……雉は狩猟用に放鳥がされているそうで、きっと自分の見たのは「野性」ではなく、そいうたぐいの奴だったのだろう。つまり正しい感想としては「へえ、こんな街の近くで狩猟するんだ」。





蛍のおもひ ……上↑の「生物園」で蛍鑑賞をしたけれども、案外退屈しないものだな。


まゆとじめ ……字書にある「眉を引かない女性」という説明に納得がゆかないのがそもそも出発点。






山鳥の尾 ……小学校のころは船橋の住宅地にも普通に山鳥がいた記憶があるが、今はいないだろうな。









ワレカラ食わぬ上人なし ……ワレカラ、、、カレワラ、、、え?


狛猫、猫絵馬、猫絵 ……にゃんこも歳をとると元気がなくなるなあ。長生きしてねっ、ていうかきっと化けてね。



刀自を集めてみたヨ……えー、、たぶんまだまだひきずりそうであります。

その01 (飛鳥~天平、万葉)、

 その02 (淳仁~称徳、正倉院戸籍御野国味蜂)、

 その03 (正倉院戸籍御野国その他)、

 その04 (光仁朝、正倉院戸籍九州)、

 その05 (桓武朝)、

 その06 (日本後紀)

 その07  (正倉院戸籍・下総)

 その08 (正倉院戸籍陸奥・常陸、続日本後紀)

 その09  (正倉院計帳山背、長屋王邸木簡)

 その10 (千葉墨書土器、延喜式神、三代実録)

 その11 (文徳実録)

 その12 (未詳戸籍・計帳、神名等)

 その13 (隼人計帳・右京計帳・推定山城計帳その他)

                

                   
主要な参考文献・引用文献


『ヤマケイポケットガイド 野鳥』 吉野俊幸 山と渓谷社

『日本の動物』 講談社

『日本の歴史』シリーズ 中公文庫

『魏志倭人伝・後漢書東夷伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 石原道博・編訳 岩波文庫

『古事記』 倉野憲司・校注 岩波文庫

『古事記』 次田真幸・訳注 講談社学術文庫

『日本書紀』 坂本太郎/家永三郎/井上光貞/大野晋 校注 岩波文庫

『日本書紀・全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫

『先代旧事本紀』 大野七三 編注 批評社

『(大日本古文書)正倉院文書』 東京大学史料編纂所データベース

『国史大系 続日本紀』 吉川弘文館 

『続日本紀・全現代語訳』 宇治谷孟 講談社学術文庫

『日本後紀』 森田梯・編注 講談社学術文庫

『続日本後記』 森田梯・編注 講談社学術文庫

『国史大系 日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録』 吉川弘文館

『国史大系 日本三代実録』 吉川弘文館

『風土記』 吉野祐・訳注 平凡社

『出雲国風土記』 荻原千鶴・訳注 講談社学術文庫
『常陸国風土記』 秋本吉徳・訳注 講談社学術文庫

『播磨国風土記』 沖森卓也/佐藤信/矢嶋泉・編著 山川出版社

『豊後国風土記 肥前国風土記』 沖森卓也/佐藤信/矢嶋泉・編著 山川出版社

『万葉集』 桜井満・注 旺文社

『催馬楽』 木村紀子・訳注 平凡社

『古今和歌集』 窪田章一郎・校注 角川文庫

『後拾遺和歌集』 西下経一・校訂 岩波文庫

『千載和歌集』 久保淳・校訂 岩波文庫

『新勅撰和歌集』 久租神昇/樋口芳麻呂・校訂 岩波文庫

『古今和歌集』『後撰和歌集』 『拾遺和歌集』 『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詩花和歌集』『千載和歌集』 『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『新後撰和歌集』ヴァージニア大学ライブラリー

『標準・小倉百人一首』 小町谷照彦 文英堂

『歌論集』 小学館

『俊秘抄』 和泉古典文庫

『塵袋』 大西晴隆/木村紀子・校注 平凡社

『梁塵秘抄』 岩波文庫

『土佐日記』 岩波文庫

『伊勢物語』 石田譲二・訳注 角川文庫

『大和物語』 雨海博洋/岡山美樹・訳注 講談社学術文庫

『枕草子』 石田譲二・訳注 角川文庫 

『和泉式部集・和泉式部続集』 清水文雄・校注 岩波文庫

『源氏物語』 玉上琢爾・訳注 角川文庫

『捜神記』 竹田晃・訳 平凡社

『日本霊異記』 遠藤嘉基/春日和男・校注 岩波書店

『日本霊異記』 中田祝夫訳注 講談社学術文庫

『往生伝・法華験記』 井上光貞/大曽根章介 岩波書店

『三宝絵詞』 江口孝夫・校注 現代思潮社

『今昔物語集 天竺震旦部』 池上洵一・編 岩波文庫

『今昔物語集 本朝仏法部 世俗部』 佐藤謙三・注 角川文庫

『古事談・続古事談』 岩波書店

『古今著聞集』 永積安明/島田勇雄・校注 岩波書店

『沙石集』 岩波書店

『大鏡』 佐藤謙三・校注 岩波文庫

『吾妻鏡』 龍肅・訳注 岩波文庫

『平家物語』 佐藤謙三・注 角川文庫

『平家物語』 高橋貞一・校注 講談社文庫

『一遍聖絵』 大橋俊雄・校注 岩波文庫

『御伽草子』 市古貞次・注 岩波書店

『鳥山石燕・図画百鬼夜行全画集』 角川文庫

『竹原春泉・桃山人夜話―絵本百物語』 角川文庫

『和漢三才図絵』 九州大学デジタルアーカイブ

『十二支考』 南方熊楠 岩波文庫

『夏目漱石全集』 夏目漱石 ちくま文庫

『虞美人草』 夏目漱石 新潮文庫

『草枕』 夏目漱石 新潮文庫

『ゲゲゲの鬼太郎(オリジナル版)』 水木しげる 講談社文庫

『古代東国の石碑』 前沢和之 山川出版
『正倉院文書の世界』丸子裕美子 中公新書

『万葉の歌 人と風土』シリーズ 保育社

『房総の伝説民話紀行』 さいとうはるき 崙書房出版

『猫は犬より働いた』 須磨章 柏書房
『養蚕開闢記』 島村伝五郎 国立国会図書館近代デジタルライブラリー

『魚々食紀』 川那部浩哉 平凡社新書

「おもしろいサカナの雑学事典」 篠崎晃雄 別冊歴史読本

『熊野詣』 五来重 講談社学術文庫



 ムシというのは、今では普通、カブトムシとかチョウ とかトンボ とかハエ とかアリ とか…昆虫のことを主にいうけれども、昔の「虫愛づる姫君」とかでいう一般名詞としての[虫]には、昆虫やだけでなく、蜘蛛、ミミズやカタツムリ、蛇とか蛙のような小動物を総称してムシといった。


 ムシだからといってムシしてはいけない。

「【雑草】という名の雑草はない」といわれるように「【ムシ】という名のムシはない」。


さて、


 鳴く虫は昔と今と呼び名が違っていてややこしい。


 鳴く虫全般の似た虫らまとめて昔は【コオロギ】といって、今・コオロギと呼ばれる虫は昔はキリギリスだった。一方、今のキリギリスは、ハタオリといったそうな。また昔・鈴虫といったのは今の松虫で、昔・松虫といったのは今の鈴虫なのだそうな。


 我らが清少納言チャン『枕草子』の尽くしシリーズにも「虫は」があって、

虫は、鈴虫、ひぐらし、蝶、松虫、きりぎりす、はたおり、ワレカラ、ひをむし(カゲロウ)、蛍、蓑虫…額つき虫…蝿…夏虫…蟻…

と登場する。

 ほとんど昆虫類だが、そのなかで「ワレカラ」という虫が今回の主役。

 今は人気のないムシ、ムシされるような小さなムシにも注目したのが昔人の偉いところで、こいつは実は昆虫ではなく、蟹や海老の仲間の甲殻類で、海辺の藻の中にカラミツイテ・ヒッツイテ棲息する、生き物。
 ひっついている藻草に擬態したような姿で、1,2ミリくらいの小さいサイズなので、お刺身についてくる海藻やヒジキみたいなのをよーく見ると、こいつらが引っ付いたままであることもあるらしく、知らず知らずにみんな普通に食べているという。坊さんでさえもソレと知らずに食べてしまうということから、「ワレカラ食わぬ上人なし」という言葉まであるそうな。

 つまり、どんなに「戒」を守ろうといったって限度があるよという話で、ベジタリアンだって知らず知らずに小さな動物を食しているに違い無いのだ。

 前々回、前回と「戒」を犯しても食う魚の話だったので、ついでに、知らずに「戒」を犯して食ってしまう話を…っていうか、もともとの話がどうなのかわかりません。というにはちとパンチパンチ!がたりないが、自分が知らなかったというだけだったりして。


 偉そうなことをいっていても完璧なんて無理、ということ。
 
 ワレカラという名前は、空気中に出てしまうと体が乾燥して、パキッと<殻が割れ>てしまうので「割殻」というそうだ。

 これを、音の同じ「我から」=「自分から」という意味にかけて、昔人は文芸に導入する。
 
 『古今和歌集』巻十五恋(807)

海人の刈る藻に棲む虫のワレカラと音をこそ鳴かめ世をば恨みじ

 自分が悪いと泣きましょう、相手は恨まないわ。

 典侍・藤原直子という女性の作。
 この人のことについては詳しい史料が残っていない。貞観十六年(874)に従五位下、元慶三年(879) 従四位下=典侍相当官、延喜二年(902)に正四位下になったというから、帝に仕えているときに恋愛沙汰があったかどうか…と考えると、それ以前の歌ではないかなあ。
 つまり879年以前にはワレカラがシャレの対象になるくらい十分知られていたのだろうか? あるいは、この歌がよかったので、後年の人がとくに気にかけて、「ワレカラ」という言葉を使うことが興ったのか?


 『伊勢物語』(56段)
むかし、男、人知れぬもの思ひけり。つれなき人のもとに、
恋ひわびぬ海人の刈る藻に宿るてふワレカラ身をも砕きつるかな

つまり、割殻同様、自分勝手に「自爆」ドンッしたという話。


 『拾遺和歌集』巻十五恋(1339)
 『大和物語』でちょくちょく顔を出す話題の人・源宗于(むねゆき)の娘・閑院大君
 「小野宮のおほいまうち君(藤原実頼)に遣はしける

 君を猶恨みつるかな海人の刈る藻に住む虫の名を忘れつつ


 同集、読み人しらず(1340)

海人の刈る藻に住む虫の名はきけど只ワレカラのつらきなりけり


 これ、連続していて、話も繋がってるぽいんじゃない?

 どうも、ワレカラって自己批判ビシ!とか自己反省ガクッという場合に使う言葉らしい。


 そのうちに、
藻にすまぬ野原の虫も我からと長き夜すがら露に鳴くなり

(後京極摂政前太政大臣=九条良経『新後撰和歌集』巻五秋下「正治百首の歌奉りける時」)
なんてかんじで、藻に住まない野原のムシたちまで「ワレカラ・ワレカラ」と啼いたとさ。反省!


 そうさ、そのとおり。

 さなえチャンも、しおりチャンも、みゆきチャンも、けーこチャンも…みんなボクのいたらなかったせいで去っていったンダ。不思議なことなんてないんダね。……おっと! ここんところ奥さんにはナイショね。

 恋の失敗の原因を己の不実や未熟にもとめる、、、所謂、自虐!?


前回 の話で、ついでにでてきた「ボラ」は<出世魚>であったが、今回の主役、スズキというのも出世魚で、小さい時はフッコとかセイゴとかいって、大きくなるとスズキさんになる。


 『平家物語』「鱸の巻」

 我が仲代達…じゃなく松山ケン…でもなく、えーと平清盛が若かりしころ、熊野にお参りに行こうと、船上にあったと思いたまえ。


「…大きなるの船へ躍り入つたりければ、

先達申しけるは

『昔、周の武王の舟にこそ、白魚は躍り入たるなれ。如何様にもこれは権現の利生と覚え候。参るべし』

と申しければ、さしも十戒を持って、精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家子・郎党どもにも食はせらるる。」


平家繁盛のその原因は熊野権現の利生に他ならない!…という話。


「周の武王」云々は『史記』にある中国の旧い話で、彼が舟に鱸の躍り入ったのを天に奉り、結果、殷の紂王(帝辛)を倒し天下を平定したンダという。

 と、いうか熊野の御師として「鈴木氏」という一族があったから、そのシャレでいいだした中世の作り話なのかもしんない。


 ケドネ。本朝における、鱸と神事のかかわりはヤッパもう少し古いらしい。


 『古事記』国譲りのところ、事代主建御名方とが相次いでバンザイし、建御雷神は、大国主に最終降伏を迫る。

 大国主は「自分を祀るための立派な宮=出雲大社を作ってくれ」といって降参した。

 それで、大社を造って、神饌を奉るとなったとき、「水戸の神」の孫・櫛八玉神というものが「膳夫」となった。

 櫛八玉はに変身して海底から土をくわえてきて、土器を作り・海藻の茎を採ってきて、火鑚臼を作り、海藻の茎で火鑚杵を作り、神火を鑚り出すと歌って曰く、

「この我が燧れる火は

高天原には、神産巣日の御祖命の、とだる天の新巣の凝烟の、八拳垂るまで焼きあげ、

地の下には、底津石根に焼き凝らして、栲縄の千尋縄打ち延へ、釣りする海人の口大の尾翼鱸、さわさわにひき依せあげて、

打竹のををとををに、天の真魚咋ひ献る」


とあって、神に奉げる供物として鱸が名指しで登場する。


実際、後年の『延喜式』では山城国がこれを献るのが決まりとなっておった。海無し国なのに? やなり生では痛むので酢漬けとかにしたんであろうか。


『万葉集』にある、柿本人麻呂旅の歌。


荒たへの藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを」(巻三・252)

この歌は、難波の三津崎から淡路の野島、藤江、明石大門への旅のように並べられている八首の歌の一つであるが、


同趣旨の歌として巻十五(3607)に


白たへの藤江の浦に漁(いさり)する海人とや見らむ旅行く我を


というのがある。

これは、天平八年(736年)の遣新羅使たちが、その船上で「古歌」を歌った、ということになっている。ちなみに先の巻五の人麻呂の歌のうち、四首がちょっとずつ言葉を違えて同時期に歌われている。

 人麻呂が「鱸釣」と限定していたのに、後の人はただ「漁」と一般化しているのは、そのとき何を捕っているかわかんなかったからであろうか。


 にかく人麻呂の時代に「藤江」といえば「鱸漁」の情景、というイメージのあったことがわかる。




 そもそもスズキというのは「すすぎ」が訛ったもので、それほどキレイな白身をしていて刺身や洗いにするととても美味いらしい。

 自分はまともに食ったケイケンがないので、どうしてかなあと思ったが、やっぱり西日本でこそよく食べられるそうで(関東の方では釣魚としてはポピュラーだが、あんまり美味くないらしい)、箱根の山から向こうは怖くてあまり行ったこともなければ食うはずもないのかと残念に思う。

 「戒」を犯してでも食うべきものというなら、いつか意識しておこう。


※「晋書」にある「蓴羮鱸膾(じゅんこうろかい)」の故事をふまえた「秋風にすずきのなます思ひいでて ゆきけん人の心ちこそすれ」なる源俊頼の歌があるそうだが、モトネタがわからん※


秋!もみじ

藝術の秋!アート スポーツの秋!野球 食欲の秋!おにぎり ズズズ。


秋の味覚、といえば脂ののった焼き魚!

 サンマ!サンマ シャケ!さかな そしてサバ!サバの切り身


以前「盧舎那大仏開眼供養 」で出てきた、サバの話を再び。


 <<聖武上皇の夢にやむごとなき人来て曰く

開眼供養の日の朝、寺の前にまづ来たらむ者をもちて、僧俗を選ばず、貴賎を嫌わず、読師に請ずべきなり」。

 使いに命じて寺前にて見張らせると、最初に通りかかったのが、鯖売りの爺さん。それ、お告げのお方じゃ、とアレヨアレチヨと引っ立てて・法服を着せ、さあ読め、勤めを果たせ! アホいうなと断る爺さんを無理矢理壇上上らせて、遂に始まる国家的大イベント、時に天平勝宝4年3月14日、……パフォーマンスも果ててふと見れば、読師の爺さんは姿を消している。見ると、爺さんの持っていたザルの中の鯖は80巻の華厳経に化けていた。聖武泣く泣く礼拝し「わが願いの誠によりて、仏の来たりたまへりけるなり」!>>

…… そのとき鯖をかついでた杖は地面につきたてていたが、それがやがて成長し立派な木となって今も残っていると『今昔物語集』巻十二の七「東大寺にして華厳会を行ひたる語」。 『宇治拾遺物語』巻四の五「東大寺華厳会の事」では、それは「白榛(びゃくしん)」で、平家の焼き討ちで焼失したとある『古事談』巻三では「白身」と書くが、要するにヒノキで、杖立て・箸立て伝説の一種であるが、ここは鯖の話。

 

 鯖が華厳経になった! というのは、実は「サバ」はホントウはサカナの鯖ではなく、仏教(とくに禅寺)でおこなわれる「生飯(さば)」のことで、それが音が似ているから混同されて説話化されたのだ、ともいわれる。


 そもそも原始仏教では一日一食、昼しか食事をしなかったということで、たいてい昼食時、修行僧たちのお膳にご飯と汁・漬物が並ぶと、まず食前に、

汝等鬼神衆。我今施汝供。此食偏十方。一切鬼神共。

の偈を称え、餓鬼や鬼子母神といった連中のために、少量のご飯粒をよりわけてお供えとする。 ご飯を三粒だけとりわける、というので「さば=三把」あるいは「三飯」と書く場合もあるとかいうが、ところによって量は異なるらしい。

 まあ、いちいち数えてもいられないのでテキトーにだいたいで数えた、それが「サバを読む」の語源だという説もある。

 (明治までは宮中で天皇も似たような行為をしていたという)。


 お供えが終わった生飯は、給仕当番の坊さんが食後に回収して、鳥などの餌にした。それで「さば=散飯」と書いたりもする…とか。
 我等が清少納言チャンは『枕草子』に「さわがしきもの」として

板屋の上にて、烏の、斎の生飯を食ふ

と記したのが、きっとそれで、やつらカラスカシコイから、人間様の食後にはおこぼれにあずかれることをケイケンで知っていて集まるんだな。ゴミの日の朝、ハシブトたちが電柱の上に控えているのと同じような光景だったんだね。


 かくして、ナマグサもののなかでも鯖は「生飯」につうじるということで、仏事のお供えとして使うことができるということになった。

 はるか後年、江戸時代、お盆のころに諸大名が将軍に塩鯖を納める習慣があったが、それを別の金品に代えたというところが、これが庶民にもひろまった…というのがお中元の起源らしい。

 ところで、この爺さんの話がホントウなら、奈良時代にボテフリの鯖売が往来しておったということで、鯖ってそんな昔から食べられていたの?   


 『万葉集』巻十二に

能登の海に釣りする海人の漁火の光にい行け月待ちがてり」(3169)

というのは、鯖漁の光景だという。つまり、漁火を焚いて鯖がコーフンして海面近くでてきたところにうまそうな餌が…で釣り上げる。こういう漁法で獲る魚は能登地方では鯖しかないそうである。

 ちょうどこの歌ごろ、天平十三年(741)から天平宝字元年(757)までの間、能登国は越中国に併合されていた。このころに北陸にいた有名歌人=大伴家持の歌ではないか? といわれる。

 家持の越中守就任は天平十八年(746)…。つまり「羇旅発思(旅に思いを発す)」とある歌なので、能登は管轄下であるから視察旅行をしたということはあるであろう。本人の歌じゃないかもしれないが。


 なお、その天平十八年の記載がある「越中国羽咋郡中男作物鯖壱伯隻」と書いた木簡(荷札)が平城宮跡から発掘されていて(羽咋は能登の地名)、都人に鯖の知られていたのは間違いないのであった。

 ちなみに後年の『延喜式』には能登国の中男作物としてしっかり「鯖」の名が出ている。

ほかに周防・讃岐・伊予・土佐が確認できる。四国も鯖の産地である。

 

 で、その四国の話。

 設定としては平安初期のころ、商人が、馬の背に鯖いっぱいつんで急いでいた。峠道で、疲れ果てた旅の坊さんと出会う。坊さんは、その鯖を一匹分けてくれ、というが、商人は拒否。てってこってっこ行ってしまう…と、、急に馬が立ち止まって動かなくなる。あるいは、急に馬が腹をこわしてブリブリー。

 驚いた商人は取って返して坊さんに鯖を差し出した。坊さんがゴニョゴニョ呪文を唱えて鯖を海に投げると、なんと鯖が生きかえって泳いでゆくでないの! じつはこの坊さんこそ弘法大師空海で、改心した商人はお寺を建ててこれを供養した。あるいはこの坊さんこそ行基大徳で以下略……。


 僧形の仏像が鯖を片手にしている「鯖大師」というのがあって、四国だけでなく、全国にポツポツ見出される、その起源話。旅の鯖売り(?)が広めた伝説であろうか?


 この変形といえるのが昔話「牛方山姥」で、牛方(馬方)が鯖積んで山道をゆくと、山姥がそれをよこせといって脅す。鯖をムシャムシャ食っている間に逃げようとするが、結局牛(馬)まで食われて、逃げまわる。

 後半は「三枚のおふだ」の話になったり、櫃の中に閉じ込めて焼水で殺す話になったり発展してゆくが、きっと、鯖商人が旅の途中コワイ目にあったりした経験が生んだ話出しであったろう(魚はタラだったりシャケだったりバリエーションがある)。

 
 ところが、鯖というのはすぐ痛むので、
水揚げ直後に内臓をとって塩を大量にまぶしてし塩鯖として運んだ。市につくころ、ちょうどよいつかり具合になっているので、その按配をはかるのを、これまた「サバを読む」の語源だともいう。


 どっちがどっちかな。はてなマーク


 だから、とにかく、華厳経に化けた鯖も塩鯖でなくてはならない。


 

 ★★★ところで★★★


 同じく『今昔物語集』巻十二の二十七に「魚化して法華経となりたる語」という話がある。


 「阿倍天皇」の時代、というから孝謙時代か称徳時代かわからんが、とにかく上の鯖売翁の話と同じ頃、大和・吉野山中の海部峯という山寺に一人の聖人がいた。法華験記』によると、このお坊さんは広恩さんといった。

 聖人は、このごろ病がちで体も弱った。それで魚を食おうと思い、童子が紀伊の海辺に魚を買に行く。手に入れたのは八匹の「なよし)」。

 その帰り道、知り合いの俗人が、童子の持っているのが魚であることを見抜いて、イジワルにもつめよると、童子は「法華経なり」と嘘をいう。ヨシ見せてみろ、いや見せないと問答あって、結局あけてみると、そこにはナント法華経八巻があるでないの! 

 俗人はコッソリ童子をつけて山寺へ行き、様子をみると、しかしやはり法華経ではなく、なよしであった。聖人がうまそうに魚を食ったあと、俗人は、

五体を地に投げ…『実にこれ魚の體なりといへども、聖人の食物とあるが故に、化して経となれり。愚痴邪見にして因果を知らざるによりて、このことを疑ひてたびたび悩ましけり…

 と後悔して、やがて大檀越となった。

仏法を修行して身を助けむがためには、もろもろの毒を食ふといふとも、かへりて薬となる。もろもろの肉を食ふとも、罪を犯すにあらずと知るべし…

 ちょっとズルイ気もするが、、、


 実は原話は『日本霊異記』で、こちらでは大僧はとくに病ではないが、身体が弱ったので「魚を食はんと思う」と、より魚食に積極的であるが、一方、時代下った『三宝絵詞』中では、魚食のことを薦めるのは弟子が言いだしっぺであり、また、童子も魚を見られそうになったとき、心に「法華一乗われを助けままへ、師に恥みせたまふな」と念じたので経に変った、とある。そうはいっても実際に魚食をしたらまずかろうという著者(源為憲)の判断か、「怪しび悦びて食はずなりぬ」となっている。

 

 語り手の意識によって同じ話でもニュアンスの異なるのが面白い。


 で、「なよし」であるが、これは「ボラ」の若魚のことであるそうな。

 ボラという魚はいわゆる「出世魚」で、その成長にあわせて呼び名がかわるが、地域によっても言い方がかわるそうで、その名は詳しく調べると百通りもあるともいう。

 で、「なよし」は童子が買い求めたように、伊勢地方での言い方。

 「名吉」なのだが、一方で若ボラを「イナ」ともいうから「否」をひっくりかえして忌み言葉的にいったのだとかともいわれる(じゃあなんでイナというのかというと、、わかんない。そのくらいのときごろまでは泥臭くて食いにくいからかな)。


 とにかく、これはサバよりは古くの話があって、たとえば『日本書紀』神代下・海幸山幸物語の本文では釣針を飲んだのは赤女=鯛だが、一書では「口女」だという。

 口女とは、これもボラの別名で、海神が

汝口女、今より以往、呑餌(つくり)ふこと得じ。又天孫の餞(たてまつりもの)に預けじ

といったので、以来、天子には鯔は食させないことになった…。

 

 ボラというのは泥の中の藻類とかを吸い込んで摂食することが多いので、普通にでエサをくわせる釣をして獲るのがムツカシイそうな。またその身はやや泥臭いこともあるから、そうしたケイケンが、エサを呑めない宿命・天皇の食卓にのらない、といった話の出所になっているのかもしんない。


 とにかく、こちらばサバとちがってあんまり神聖なところに出てはいけない魚なのか?

 『土佐日記』で、任地であった土佐を旅立った紀貫之一行だが、ダラリダラリとしているうちに年がかわって、承平五年を迎えてしまい、大湊というところで舟屋形内でのお正月ということになる。旅の途中なので御節もなく、おとそはドジな人が海におとしてパーにしてしまい、ただ押鮎だけがご馳走であった。それで、みじめなキモチがして、、、

『けふは都のみぞおもひやらるる。小家の門のしりくべ縄の鯔の頭、ひひらぎらいかにぞ』とぞいひあへる。

 つまり、「イワシの頭と柊」という魔よけの呪物を、このころの京では(すくなくても紀家では)、鯔の頭を使っていたというのであった。忌をもって忌に抗したということであろうか??


 八匹=八巻というのは、法華経二十八品が八巻に編集されているからであるが、 なんでそれがナヨシ=ボラをもととしたのだろうかしら。

 それははやり出世魚として、名前をグレードアップしてゆくのが、修行者の段階的成長とイメージされているからか…そもそも「出世」とは、「出世間」の略であり、もとは「ブッダ・ウトパーダ」という仏教用語で、オシャカサンが悟りを開いた=この娑婆に姿を現した…というような意味だそうな。 

 出世魚って昔から出世魚だったのかしら? いつごろから出世魚的な習慣ができたのかしら。。。。うーん。

 ボラはさらに成長すると、最終的には「トド」と呼ばれる。

 「留め」の「とど」だろうが、「トドのつまり」という言い方はこれが起源だとか。

 不思議なことだけ言っておいて、こんかいもこのへんでトドめましょう。