猪頭(シシガシラ) | 不思議なことはあったほうがいい

志貴島宮御宇天皇(=欽明)の御世、天下国挙(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀成就り(たなつものみの)り、天の下豊平なりき。馬に乗ること此に始まれり。

「山城国風土記」逸文(『本朝月令』所引「秦氏本系帳」)


葵祭の起源として有名な一節だが、このシシガシラというのがよくわかんない。

それで、イノシシいのししという動物の不思議性質を確認するために例によってザーと並べてみようか。


 

 ●『古事記』・…「因幡の白兎 」事件のあと、まんまと八上比売の心を捕えた大穴牟遅。嫉妬した兄の八十神どもは、伯耆国の手間山本にオホナムジを連れてきて…

 「赤猪この山にあり。かれ、われ共に追ひ下さば、汝待ち取れ。もし待ち取らずば、必ず汝を殺さむ』と云ひて、火もちて猪に似たる大石を焼き転ばし落としき。ここに追ひ下すを取るとき、即ちその石に焼きつかえて死にましき…」。。(その後、オホナムジは生き返り、またも騙されて木の又にはさまれて死に、また生き返り、根国のスサノヲを訪問、スセリヒメとの出会いなどあって、スサノヲに授かった刀で八十神を倒すにいたる)

 実際に狩りで命を落とすこともあったであろうが、これは山神との対決を模している。神に破れたのであれば死んでもしかたない、ていうか、英雄・オホナムジを倒せるのは神くらいでしかなかろうから、形だけでもそうしてみたのかもしれない。


 ●『出雲国風土記』

 秋鹿郡大野郷はもと、内野と言ったのが訛ったという。もともと、和加布都努志能(ワカフツヌシ)命が、狩をしていて、イノシシを見失った場所で「自然哉(=ウツナキカモ=うたがいないorオノヅカラナルカモ=なるべくしてなった)、猪の跡亡失せぬ」と言ったからだという。この神はあの国譲りの経津主神を思わせる名であるが、同書、出雲郡美談郷では、「天下所造大神命の御子」で「天地初めて判れし後、天の御田の長、共へ奉り坐しき」とある。それで地名を「三太三=ミタミ」といった。

 出雲神話で天下所造大神というのはすなわち大国主=大穴持=大穴牟遅のことである。意宇郡宍道郷の山上には、その天下所造大神の飼った猟犬と・追われる二頭の猪をかたどった石像が、筆録当時、残っていたという。それでその地名を「シシヂ」というのだ。この石は現在の松江市宍道町にある石宮神社に現存する大石がそれだ…という。 


 ●『日本書紀』「神武天皇」

 宿敵・長髄彦を滅ぼし、ほぼ所期の目的を達したイワレビコは、さらに大和各地の土蜘蛛族に従順を迫り、一大軍事演習への参加を命じるが、添県の新城戸畔、和珥坂下の居勢祝(コセノハフリ)、そして臍見の長柄丘岬の猪祝の三者がこれを拒否した。よって三者ことごとく滅ぼされた。祝=ハフリとは、宗教的権威をともなった小部族の長ということであるとすれば、この猪祝は猪を祀っていた、あるいは猪を先祖霊としている部族だった可能性もある。



 ●『古事記』「景行天皇」段

…西のクマソに続き、東のエミシを平らげたヤマトタケル、尾張国でかねてより約束していたミヤズヒメのもとを訪れる。「『この山の神は徒手に直に取りてなむ』」と言って、よせばいいのに草薙剣をおきっぱにしたまま、伊吹山に登った。すると…

白猪山の辺に逢ひき。その大きさ牛の如し。…「『この白猪に化れるは、その神の使者ならむ。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ』とのりたまひて、騰りましき。ここに大氷雨を零らして、倭健命を打ち惑はしき。」 

 実はこのイノシシこそ、神そのものだったのだ。(信濃では白鹿には勝ったのだけど…)

 ここのところ、『日本書紀』では、「山の神、大蛇に化りて道に当れり……蛇を跨えて猶行でます」となっていて、神は蛇の姿であらわれたのを、そうとは知らずまたいで通った、結果悪天候に悩まされる。

 『藤氏家伝』で、藤原武智麻呂が、伊吹にて遊山をしようとすると、土地の人が、ヤマトタケルの古事をもって止めようとした。曰く、「『此の山に入れば、疾く風ふき雷なり雨ふり、雲霧晦暝にして、蜂群れ飛び螫す…』」。しかし、武智麻呂は、

吾、少きときより今に至るまで、敢へて鬼神を軽慢らず。若し知ること有らば、豈其れ我を害さむや。若し知ること无くは、安にぞ能く人を害さむ』」といって、口をすすぎ、体を清めて登山に望み、山頂近くに至ったところで敢にはからんや二匹のが現れ刺そうとした!すずめ逃げてー! 

 ところが「公、袂を揚げて掃ふに、手に随ひて退き帰りぬ。従者皆曰はく、『徳行神を感かして、敢へて害はるること無し』」。よって終日天気もおだやかで、すっかり楽しんだ。

 『延喜式』神名帳にある近江国坂田郡の伊夫伎神社(あるいは美濃の伊富岐神社?)に祀られる神。猪や蛇や蜂で表現されるそれは、【伊吹おろし】に代表される荒々しい天候を操っている。さらに要所・不破関が設けられた事で、境界としての聖性も加味されたのであった。要は、神が我ら人間の目に見えるよう、猪の形をとった、ということで猪じたいが神なのではない。倭健は連戦連勝に気をよくして、神に対する礼・敬をなくしてしまっていたので、神使と即断してしまったのかもしれない…。

 こうして、このときのダメージが元で、ヤマトタケルは死ぬことになる。

  

 さて…古事記の系譜によるならば…

ヤマトタケルが、有名な弟橘姫との間にもうけたのが若健王。

若健王が異母弟・息長田別王の孫・飯野真黒比売との間にもうけたのが、須売伊呂大中日子王。

須売伊呂が淡海柴野入杵の娘・柴野比売との間にもうけたのが、迦具漏比売命。

迦具漏比売命が景行天皇(つまりヒイヒイおじいちゃん)との間にもうけたのが大江王。

大江王が異母妹・銀王との間にもうけたのが、大中比売命。

大中比売命が仲哀天皇(つまりヒイヒイヒイヒイヒイおじさん)との間にもうけたのが、香坂王と忍熊王。…めまいしそうなくらい時空間がどうにかなったような台風カンジだが、次はようするにこの二人の話。


 ●『古事記』「仲哀天皇」段

神功皇后、朝鮮半島を平らげ、ヤレヤレこれでわが子・品陀(応神)に位を渡せるなあ、けれども、香坂王と忍熊王の存在が気になる。それで、「ホンダ皇子は死んでしまった」と嘘を言って歩いて様子をみると、あにはからんや、二人は「待ち取らむと思ひて、斗賀野に進み出てうけひ狩りをしき。ここに香坂王、歴木(クヌギ)に騰り坐すに、ここに大きなる怒り猪出て、その歴木を掘りて、即ちその香坂王を咋ひ食みき」。にもかかわらず、忍熊王は軍を興し、皇后の船を攻撃、「皇后も死んでしまったよ」という嘘にまたはまって武装解除したところを襲撃され、最後は琵琶湖に身を投げた。

 ウケヒ狩りは、彼らの敵である神功皇后が先に「鮎釣伝説 」で行っていた。ことにあたって二つの結果を予測し、狩り(釣り)の結果、どちらにころぶかを占うのである。ここのとこところ、『日本書紀』では「『若し事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む』」として二人桟敷に控えていると…「赤き猪忽ちに出て桟敷に登りて、カゴサカ王を咋ひ殺しつ。軍士悉に慄づ。忍熊王『…是事大きなる怪なり…』…則ち軍を引きて更に返りて…」ということで若干ニュアンスが違うが、結局敗北する。

 さきにオホナムジを殺したのは偽の赤猪であったが、猪だけでなく、赤いということにナニカの符号があるのであろうか??


 ●『播磨国風土記』

 この書には鹿狩りの話が多くあるが、また、猪狩りにまつわる話もいくつかある。それらは生活の糧のための狩猟ではなく、ウケヒ狩りである

 揖保(イヒホ)郡邑智(オホチ)駅家に、品田天皇=応神天皇が訪れて、山で狩りをした。「槻弓を以て走る猪を射たまふに、其の弓折れき。故、槻折山と曰ふ

 託賀郡都麻里にて、応神天皇刈りのとき、愛犬・マナシロが猪を追って山を登った。「天皇見たまひて『射よ』と云ひたまひき。故、伊夜岡と云う。

 白犬は猪に目を突かれ重傷を負った。それでそこを「目前田(マサキタ)/目割」と呼ぶ。そしてついに「此の犬と猪と相ひ闘ひて死にき。即ち墓を作りて葬りき。故、此の岡の西に犬墓有り」。一方の猪も「矢を負ひてあたきしき。故、阿多賀野と曰ふ」。アタキとはうなるとか・叫ぶとか、そういう感じ。

 同じ宍狩でも、鹿より猪狩りはより命がけであった…というわけ。


 

『古事記』応神天皇

 応神の後継者は末っ子の宇遅能和紀郎子であったが、長兄・大山守命は応神死後、極秘に武装を整え、宇治川辺に潜ませていた。ウジノワキは船乗り(舵取り)に変装して舟をこいでいると、大山守が乗りこんできた。

 大山守が「『この山に忿怒れる大猪ありと伝に聞けり。吾その猪を取らむと欲ふ。もしその猪を獲むや?』」と発すると、楫取り答えて曰く「『能わじ…時々、往々に取らむとすれども得ざりき。』…河中に渡り到りし時、その船を傾けしめて、水の中に墜し入れき」。助けを求める大山守を伏兵どもが刺し殺し遺体はそのまま流れていった…。

 舵取りに変装した皇太子と反逆者の息つまりやりとりであるが、 『書紀』ではこの猪狩りの会話がない。大山守がじしんの野望を成就できるかどうかの占い=ウケヒ狩りを試みたともとれる箇所であった。


『日本書紀』「允恭天皇」

 即位十四年目の秋、天皇一行淡路島に狩猟に出た、大鹿・猿、そして猪が「莫莫粉粉、山谷に盈てり。炎のごと起ち蝿のごとく散ぐ…」。ウホー! 

 ところがエモノがぜんぜんとれない。それは嶋神の祟りである、海底の真珠を奉れと託宣あって、以下…角無しサザエ」の真珠をめぐる遭難話 となる。これもウケヒ狩りと同様なもんだったのだろう。


『日本書紀』「雄略天皇」

 五年目の春、葛城山で狩りをしたとき、「霊鳥(あやしきとり)」が「努力努力(ユメユメ)」と啼いた。

 「俄にして、逐はれたる嗔猪(イカリヰ)、草中より暴に出て人を逐ふ。猟徒、樹に縁りて大きに懼る」。    

 天皇の舎人も恐れて失色状態、猪は天皇に食いつこうとしていたが、そこはわれらがワカタケル、「弓を用て刺き止めて、脚を挙げて踏み殺したまひつ」。

 事件後、舎人のだらしないのを怒った雄略が彼を斬り殺そうとすると、舎人は歎いて歌った。

「やすみしし・我が大君の・遊ばしし・猪の・怒声畏み・我が逃げ縁りし・アリヲの上の・榛が枝・あせを」。 れをきいた皇后・草香幡梭姫が、そんなことはやめなさい”と、天皇を諌めると、雄略は”オレの命より舎人の方が大事なのか!”と、スネタ。皇后は、”それでは陛下は狼のようじゃあありませんか”と意見した。それで処刑は取りやめた。

 雄略曰く「楽しきかな。人皆禽獣を猟る。朕は猟りて言を得て帰る』」。

 ところが、『古事記』ではここのととろ、雄略じしんが、猪に襲われて逃げ回り木に登る。そして助かって自ら歌う、という、話になっていて、ワンクッション違うのであるが、まあ、天皇が弱っちいのはみっともないから改変したのかもしれない。

 とにかく、猪狩りのおかげでコトバを得たというのが面白い。



●ところで、猪というのは野性のもので、飼いならされたら豚である。「養豚」というのは何時頃からあったんだろうか?

 

 『日本書紀』応神三十一年、武庫港で火災があって、多くの船が失われた。その火元が新羅使たちであったらしく、批難があった。新羅王はこれを訊いて、復興のための工匠を派遣したが、彼らが後の「猪名部」の祖であるという。彼らが飼猪をもちこんで養豚を伝えたのではないか? 仁徳天皇時代には「猪飼津」に「小橋」を造ったという短い記事があるが、彼らが猪を飼っていたからそういわれたのかもしれない。大阪でコリアンタウンで知られる「猪飼野」地域がその名残ではないか、といわれるそうな。


 一方、『播磨国風土記』に、その仁徳天皇のころ、日向の肥人・朝戸君が、天照に献上する猪(伊勢に奉る?)を放牧した「猪養野(ゐかいの)」と名づけられた土地があることが記される。九州で既に飼っていた豚(猪)を播磨にも枝分けしたということであろう。


 『古事記』安康天皇の時代に、次期皇位継承候補者・市辺之忍歯王は、即位前の雄略天皇から、鹿猪狩りにさそわれて、その最中に謀殺された。(『日本書紀』では雄略はわざとらしく「猪あり!」とか言って弓を射て、獲物と勘違いした=事故にみせかけた)。その彼の忘れ形見である意祁/袁祁(憶計/弘計)両皇子は、播磨に潜伏することになる。この課程で、山城の苅羽井というところで非常食を食べていると、顔にイレズミした老人が、彼らのお弁当を奪った。奴さんは「山代の猪甘ぞ」と名乗った。

 苅羽井は現京都府の南端・旧山城町あたり、かの蟹満寺 のあるあたりであるという。そこにて養豚(養猪)を職とする人民がいた、というのである。


 『続日本紀』の元正天皇・養老二年四月に筑後・肥後の守を兼任した道君首名という人物が死んだときの記事がある。彼は、大宝律令選定メンバーに抜擢されるなど、法律の専門家でもあり、任地でもさまざまな規定をつくって、農地開拓や灌漑・用水事業を積極的に行った。それは「鶏・豚に及ぶまで章程有て、曲に事冝を盡せり」。あまりのハリキリぶりに人々は最初は不満を言っていたが、やがて「是に由て人其の利を蒙て、今に于て温給する。…卒するに及んで百姓之を祀る」。ら~めん天社宮とか天社神社とかいう名で熊本各地に残る小社の祭神となっている。雑炊とか与次郎さんとか羊さまとか一色さまとかみたいな地方の英雄。しかし、ラーメンのおいしいのもひょっとしたら首名様のおかげかもしれない、ということ。


 仏教の影響で放生や家畜・肉食の禁止がたびたび出されるうちに、鷹や鵜、鶏などとならんで、猪の名も見えており、四足を食わない習慣が生まれるによって、他の労働力としての使用ができない猪は飼われなくなっていったのだった。

 都市部のえらい知識人らは肉を食わんでもよかったが、山間部ではそうもいえず、また、農作物を荒らす害獣でもあるから、狩猟は続いた。野性の猪の習性を利用したヌタ場(体についた虫を取るのにドロを体に塗りたくる。その時の様子をヌタウツという)での猟にかかわって、そこでの鬼神との出会いが語りつがれたりした。しかし一般には、猪は子沢山なので、それにあやかった亥子の祭りのほうが習俗としてはメジャーになった。


●これらの総合的話と考えられるのが『日本後紀』和気清麻呂没伝にある有名なエピソード。


 神護景雲三年(769)の宇佐八幡神託事件で、道鏡の天皇即位を否定する内容の神託を貰って帰った清麻呂と妹・法均(広虫売)は、称徳女帝の怒りをかって、【別部穢麻呂】・妹は【狭虫】と改名させられ、それぞれ大隈・備後に左遷されることになる。そのとき、

清麻呂が脚萎え起立すること能わず。八幡神を拝む為、輿に病し路に即く。豊前国宇佐郡楉田(しもとだ)村に至るに及び、野猪三百ばかり有て、路狭く列をなし、徐歩前駆すること十許里、山中に走り入る。見る人共に之を異とす。社を拝す之日、始めて起歩することを得…

 護王神社の起源譚でもあり、いわゆる「いのしし」紙幣の由来譚でもあるが、まるでもののけ姫みたいな猪の大群が神の使いとなって清麻呂を導き助けたのであった。


 (日本の)神様というのは、敵にすれば恐ろしく、味方にすれば心強い。そんな性質を顕すのに、荒くれ者のイノシシはかっこうの存在だったといえようか。


●で、冒頭のシシカシラのことである。

 例の宗像教授説では、飢饉に際して人身供犠=人肉食いがあって、それを狩りに見立てることで罪の意識を減じたのだ…という、ショッキングな話があったけれども、たしかに「宍」の意味ではあったろうけれど、普通、獅子頭といえば獅子舞のアレだし、ちうことは本来は鹿のことだったろう。(→「シシ踊り 」)
 それがイノシシに変容していったのはなんでかな? と考えると単純にコトバのアヤだけではすまない何かがあったんだろう。


…結局、わからんので宿題とする。