白雉(はくち) | 不思議なことはあったほうがいい

 年明けからは「日本の国技」の方でいろいろお騒がせがありましたねえ。


 ちなみに日本の「国鳥」といえばキジ。戦後になってから「日本鳥学会」が決めたのだそうな…。「国旗」「国歌」みたく、法的拘束があるわけではない。まあ異論もそんなにないのであろうし、究極的には「どうでもいい」話なのだけれども。



 これまで<キジ>の話としては、そのケーンケーンと響く鳴き声について気にしてきた。


「雉も鳴かずば…」  / 「哭き婆」  / ヌエ  / 「百合若大臣」


 先日、手賀沼の近くの田んぼで野性のキジを見かけた。こんな街の近くにも出るのか…と思っていたら、例の「一色さま」の近く(千葉・埼玉・茨城の接点付近)の河原にもいた。へえ、いるんだあ。


 で、記念にキジの活躍ぶりをパッと振り返ってみることにした。(上代~平安初期)


 ●他の鳥と同様に、季節の小道具として文学上に生かされている。

 『万葉集』巻十(NO.1866)(詠花)

 「雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも」


 ●しかし、春は狩りの季節。不用意に鳴くので獲られてしまう。

 『日本書紀』仁徳三十四年。狩りの最中現れたので鷹で獲った、これが鷹甘の起源とか。

 だいぶ下るが『日本後紀』(逸文)、淳和天皇は天長七年(830)十月、翌二月にそれぞれ北野、水成野に行幸し多くの鶉・雉を獲った、と記録する。具体的に獲物名を書いてないだけで、「行幸」は数々あったわけで、おそらくはそのたびに雉はエモノになっていたであろう。雉を「国鳥」とした理由の一つは狩猟の対象としてオナジミだから、というのがあげられるという。そういえば宮中の宴のメニューに雉の干し肉「雉脯」があり、保存食としても活用されたのだった。

 そのお肉は贈答用にも用いられたらしい。

『伊勢物語』(52段)

 「むかし、男ありけり。人のもとより飾チマキおこせたりける返ごとに

「アヤメ刈り君は沼にぞまどひける、我は野に出でて狩るぞわびしき」

 とて、雉をなむやりける。」

 男はもちろん在原業平。

 この話は『大和物語』では第164段で、その話順でスナオに読むと、「人」とは例の二条后・高子となる。例の「鬼一口 」事件でひきさかれたその後によりをもどそうとしたあたりのエピソードという…。(雉が恋の使いをしている?)


 なお、「延喜式」では「御贄」として雉を進ぜるのは尾張国、正月・各節句などに雉を担当するのは隣の参河国とルールがあった。


 食料だけでなく装飾にも用いられた。『日本書紀』推古十九年の第一回薬狩に際して大礼以下の位のものは髪に鳥尾をつけたというが、これは雉の羽という説が有力。


 ●で、その鳴き声は、恋心を表したのだった。

 『万葉集』巻八(NO.1446)、大伴家持、春の雉を歌う…

「春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ」

 

 同巻十九(NO.4148と4149) 家持、暁に雉の鳴くを聞く歌。
「杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも」
「あしひきの八つ峰の雉鳴き響む朝明の霞見れば悲しも」
 (これは天平勝宝二年三月二日の作だそうな)

  

 『古今和歌集』巻十九(NO.1033) 平貞文

「春の野のしげき草ばの妻恋に飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く」

 へえ、♪ホロロ~なんだ。(ケーンケーンは繁殖期の雄の鳴き声)

 

 『日本書紀』皇極三年、大化改新のクーデタの約一年前にワザウタが流行、そのひとつに

「彼方の浅野の雉響さず、我は寝しかど、人ぞ響よもす」。

 上宮家の悲劇を中大兄が晴らすというような意味というが、単純に読めばやはり恋の噂が人知れず立つという歌である。


●『古事記』、八千矛(大国主)が沼河姫にヨバイをかけ、板戸をどんどんがたがたやっていたが…

 「青山にヌエは鳴きぬ、さ野つ鳥・雉はとよむ、庭つ鳥・鶏(カケ)は鳴く、うれたくも鳴くなる鳥か、この鳥も打ちやめこせぬ、いしたふや天馳使い…」

 事が成らぬうちに夜明けを告げ鳴いた(ヌエに次いで)。キジはニワトリと同じ仲間になるので、早起き鳥なのだ。

 また、おなじヨバイをかけるにも、キジが鳴く=夜明けちゃうから、あわててサアサア、という呼びかけもある。

 『万葉集』巻三(NO.3310)

 「…たな曇り雪は降り来・さ曇り雨は降り来、野つ鳥雉は響む・家つ鳥鶏も鳴く。さ夜は明け、この夜は明けぬ、入りてかつ寝むこの戸開かせ!」

 似た感じの話は『日本書紀』継体七年、勾大兄皇子(安閑)が春日山田皇女に歌った歌。

 「…熟睡寝し間に庭つ鳥鶏(カケ)は鳴くなり、野つ鳥雉は響む…」。

(なお山田皇女は子供の出来ないことを嘆いてその名を土地に残そうとした。安閑紀にはそんな彼女のために大河内味張の「雌雉田(キジタ)」を屯倉にしようとしたが、味張はナンダカンダといって断った。キジは瑞物であったということからの「良田」という意味か?)


 雉の鳴き声を「時計代わり」(?)にした、という表現例。

『万葉集』巻三(NO.388)作者不明だが、若宮年魚麻呂が吟じたという船旅の歌。

 淡路の磯に停泊しつつ、寝付けないまま夜明けを待っていると

「…滝の上の浅野の雉、明けぬとし立ち騒ぐらし。いざ子ども、あへて漕ぎ出む、海面(ニハ)も静けし。」

  

 ●しかし、その鳴き声はロマンチックなだけでなく、「悪いこと」を表現する場合もある。

 『古事記』、高木神に使わされた伝令役の「鳴女」がアメワカヒコに射殺される。アマノサグメはこれを「その鳴く音いと悪し」と評したからだが、それはその鳴く内容が「悪」だったわけで、アマノサグメはあくまで出雲派であったということか。雉はただお使いをしただけであるのに…神話で、同じく使い役をするカラスや鹿との比較も面白かろう。

 ちなみに『日本書紀』では「無名雉」、「一書6」ではまず雄が使いとなり、帰らなかったので(雉の頬使(ヒタツカヒ))、続いて雌が使いをして射殺される。

 

 そのアメワカヒコの葬儀に際して「哭女」を勤めたのも雉であった。

(被害者の身内が加害者のために腰をあげるというのもヘンナ話。だからかなあ、『日本書紀』「本文一云」ではミソサザイが哭役)


 『続日本紀』神亀二年九月、聖武天皇が詔の中で中国の聖帝の徳を称え、「昔、殷宗、徳を脩めて雊雉の寃を消し…」などと表現。雉が騒ぐのは現実世界でも不吉なことの象徴であった。


 よくあるのが地震の表現で、『続日本紀』天平十四年(742)十一月二十三日、大隅国で地震発生の報告に「…空中に声有り大鼓の如し。野雉相驚き、地大ひに震動す」。『文徳実録』嘉祥三年(850)八月にも地震あって、「鶏雉皆驚く」…

 『塵袋』に引く「伯耆国風土記」逸文にも「振動の時は鶏雉悚懼(しょうく)して則ち鳴く」とある。引用者はそれは、「鶏・雉・ヤマドリ、これらはみな陽の気をうけたる鳥なり。地震は陰陽ふさがるとき、必ずある事なり。されば陽の精なるによりて、いたみおどろくか?」と言っている。おなじみのキジ科は太陽とともに起きるからかな。また同じ箇所に雷のときもよく鳴くとあるが、これは雷が天帝に対する候であるから、同類とおもって感じて鳴くのだ云々…このあたりは漢代の書物による知識らしい。


 ●そうなると、本来いないはずの場所に雉があらわれるだけで小パニックとなる。なにか起こるのではないか? と悲喜こもごもになったであろう。

 六国史上をざっとみると…

『日本後紀』(逸文)

延暦十三年(794)正月。「雉有り、主鷹司垣根上に集まる」。(次の記事が地震というのも面白いが、この平安遷都前後には地震や祥瑞の話がケッコウ多い)
延暦十六年(797)五月「雉有り、禁中正殿に集まる」。同十月。雉が兵衛陣に止まり、そのあと禁中諱房(親王の曹司)で捕らえられた。

天長七年(830)十月。一雌雉来りて、左衛門陣、建春門北垣欄中に集まる。衛士射て獲る。」
『続日本後紀』

天長十年(833)四月。出雲国造・出雲豊持等らが「神寿」を献上、その中に生雉が一羽あったので叙

位。

承和十四年(847)三月。雄雉が東方から禁中へ飛来、右近衛の役人六人が無傷で捕らえた。後日、北野に放しと高く遠く飛び去った。

『三代実録』

元慶六年(882)九月、雌雉が清涼殿上に止まり突然建物内に入った、東宮は捕まえさせようとしたが結局逃げられた。

元慶八年(884)六月。雉が式部省の建物に侵入。

 

 ●しかし、雉といえば「白雉」は瑞物としてオナジミ。「延喜式」には「中瑞」とある(同格で、首の白い雉というのもある)。「岱宗之精也」という。つまり泰山=中国皇帝が封禅の儀を行うというあの山の精である…と…(ちなみに「黒雉」は「下瑞」)


(1)『日本書紀』推古七年(599)、百済がラクダや羊とともに白雉を二羽奉ったとあるのが記録のはじめかな。

(2)大化六年(650)四月、穴戸(長門)国より白雉の献上があった。

 当時日本にいた百済の皇子・豊璋によると後漢明帝のときも現れたと云々。

 道登法師は高麗で白鹿・白雀・三本足の白烏のあらわれた例を紹介し、これは「休祥(ヨキサガ)」であると。

 さらに初代遣隋使団のメンバーとして有名な僧・晃がダメオシで

「王者四表(ヨモ)に旁(あまね)く流(ほどこ)るときは白雉見ゆ。

又、王者の祭祀、相蝓(あやま)らず宴食衣服、節有るときは至る。

又、王者の清素なるときは、山に白雉出づ。

又、王者の仁聖にましますときは見ゆ」

 その他周代や晋代の故事やら並べ立てた。

 よって「祥瑞」と決して宮中の園に放つこととなり、大々的なイベントを決行、群臣・左右儀仗兵いならぶなか、雉は輿に乗せられしずしずと進み、孝徳天皇に閲覧させた。

 当の孝徳天皇は謙遜してか、「朕はこれ虚薄(イヤシ)」、自分が聖王なのではなく、公卿・臣・連・伴造・国造らが「まことの誠を尽くして制度に奉り遵ふに由りて致す」のだと詔して、精勤を褒め大赦をおこない、とくに長門国では鷹狩りを禁止。

 そして年号を「白雉」と改めた…(改元の話→「養老の滝 」)

 ‥ふうん。けどね、このこの前年には蘇我倉山田麻呂の冤罪事件があったり、わずか数年後には中大兄・大海人・間人皇后たち首脳は天皇を置き去りにして難波を退去してしまうのだ(「鼠の宿替 」)。

 つまりホントウは現実がヨクナイからこそ、ほらこんなにイイカンジなんだぞ、と宣伝したかったのであろう。


 せっかくなので、そのあと六国史上に現れる「白雉」を並べてみた。


『日本書紀』

(3)天武二年(673)三月、備後国司が亀石郡で白雉を捕えて献上。


『続日本紀』

(4)和銅六年(713)十一月、但馬国より白雉を献上。(同時に大倭から蓮、近江から木連理


(5)翌月、丹波国より白雉を献上。(同時に近江で慶雲、二国ともに曲赦。)


(6)天平十二年(740)正月、飛騨国より白狐・白雉を献上。


(7)神護景雲二年(768)六月、武藏国・久良郡で白雉を発見。橘樹郡の飛鳥部吉志五百国(あすかべの・きし・いおくに)が献上。

 このときは詳細に審議が行われ、

【雉】とは「群臣一心忠貞」の様子に天が応えたことであり、

それが【白】いのは「聖朝重光」が遍く照らすの意味である、

更に発見地が【武蔵】であることも「武より文」(文治)、

【久良】郡というのも「明宝暦延長」(天皇の長命…触れられていないが五百国が「橘樹郡」の人というのも同様の解釈をできそうではある)、

捕まえた人が【吉志】姓であるのは民の心が国=天皇の子であるという意味を表し、

その名が【五百国】というのも、「五方朝貢」の験…

いいことずくめなので、武蔵国の免税、久良郡の免税、五百国には位と褒美を与えた。

当の高野女帝(称徳)は当然「虚薄」であると謙遜を忘れない。

 淳仁天皇・恵美押勝との闘争に勝利し、法王・道鏡が全盛期を迎える時期である。なるほど、人心をまとめなくてはならないのであった。


(8)宝亀元年(770)七月、筑前国・嘉麻郡の財部宇代が白雉を捕らえたので、位二級と稲五百束を褒美にやった(同時に常陸で白烏も捕獲)。


(9)宝亀二年(771)三月、大宰府から白雉献上。


(10)同・閏三月には壱岐島から白雉献上、国守らを叙位、褒美を与え、田租も三分の一に。


(11)宝亀六年(775)四月、山背国から白雉献上(同時期近江からは赤眼の白亀)


(12)宝亀八年(777)十一月、長門国から白雉献上。


(13)延暦六年(787)四月。山背国から白雉献上。


『日本後紀』(逸文)

(14)延暦十一年(792)三月、美作国白雉献上。


(15)延暦十五年(796)正月、長門国白雉献上(同時に石見より白雀)。宴して被(フスマ)を賜った。


(16)弘仁五年(814)二月、陸奥国が白雉を捕らえる。


(17)天長四年(827)五月、武蔵国白雉献上。


『文徳実録』

(18)天安二年(858)七月。武蔵国が白雌雉一羽を献上。(これを記念して「天安」に改元)


『三代実録』

(19)貞観十八年(876)正月、越中国にて白雉を獲る。


(20)元慶元年(877)正月三日、陽成天皇の即位に際して但馬国獻白雉一、後日減税。(尾張から木連理、備後から白鹿)


 ……地域的にみると、国内初登場の長門国は三回登場するが、これとわずか海を隔てた北九州(筑前・大宰府・壱岐)チームと合計で六例、畿内とその近郊(但馬、美作、丹波、山城)チーム六例、長門と並ぶ三例の武蔵国を中心とした東国信越チーム(陸奥、越中、飛騨)六例と、なんかバランスがいい(海外組の百済とちょっと他と離れた備後が微妙なところ)。

 白雉にかぎらず、雉そのもののよく獲れたところ、と思っていいのだろうかな?
 これ以外に白鹿・白烏・白雀・白亀・白狐・白猪…などなどあったわけで、並べてみたらなにか傾向と対策(??)が見えてくるかもしれない。。。

 ともかく、「白」が聖なる色として好まれること全般も考察対象であろう。(「オシラサマ 」「白山=ククリヒメ」などもカンケイしてくるのか)

 

●その雉のよく出た武蔵野の雉を歌った東歌…

『万葉集』巻十四(NO.3375)

「武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ」


●その他…気がついた不思議な話。


『塵袋』巻八に引く「常陸国記」(何時ごろの書であるか不明)に曰く、として…兄妹があって、田植えをしていたが、日も暮れて遅くなった。すると伊福部神が怒って、妹を蹴殺した。兄が恨んでいると、雌雉が肩にとまる。その尾にヘソ(績麻)をつけて放つと、伊福部丘の神の岩屋へ行き着いた。兄はそこにいた雷神を斬ろうとしたが、命乞いをされて許す。以後、彼の子孫には雷の害がない。

 これは日立市の川尻あたりの話であると地元の人はいうそうだが(名前だけとれば例の奥久慈(→「ダイダラボッチ」 )に近いところに「雷神山」てのがあるのが気になるが)、「伊福部」といえば、因幡国一宮宇部神(武内宿禰)を祀る一族ではないか? 何か連絡があったであろうか? ちなみにその川尻の隣辺地は、かのヤマトタケルが狩りをして獲物が多すぎてもう飽きたヨ、といったという話が『常陸国風土記』に残る。これは鹿狩りであったらしいが、さぞ雉も多くいたであろう。しかし、先の功績あって、地元の人は決して雉を獲らないという。

 
 ②『続日本紀』神亀四年(727)五月、楯波池のほうから風が吹き、南苑の樹が二本折れた、するとその木が即ち、雉と成った。(???) 「雉が蛤になった」という話もあったけれども(→「雀魚」 )、これは木が雉になった。それも雷ならまだしも、大風で??…事実というより、「ワザウタ」に類する噂話であろうか? …あるいは、楯波池は、都の西北=乾に位置した、その方角に意味があるであろうか? この年、生後まもない基皇子の立太子という異常なできごとがあったり、渤海との国交が復活したりした時期である(翌々年、長屋王の変)。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥ キリがないので (いつか)続く。