養老の滝 | 不思議なことはあったほうがいい

 やあやあ、今年も忘年会のシーズンがやってきてしまいましたクラッカー

 去年は、「酒は百薬の長おくすり」などと調子に乗って、京浜東北線のホームでみんなと別れたはずが、気づいたら常磐線に乗っていた…ここどこ? ガーン。 あの時は「お姉さんもう一本!」「ハイ、喜んで!」だったけども、ときには「親孝行と勤勉」について考えつつしみじみ飲むのもいいもんだ。


 前回 壬申の乱で勝利した飛鳥浄御原の政権は、数々の国家的プロジェクトをなしとげてゆく。その中心は云うまでもなく、大海人皇子=天武天皇と、その妻・鵜野皇女=持統天皇(彼女は天智天皇の次女、すなわち大友の母違いの姉のでもあった)。ところが、二人の子で将来を期待された草壁皇子が皇太子のまま死去、その子・文武天皇も早死にし、つぎの首皇子(つまりのちの聖武天皇)が成長するまで、阿閉皇女(天智天皇四女で・草壁の妻で・文武の母=元明天皇)と、草壁の娘・氷高皇女(元正天皇)が間をつなぐことになる…。


 その、元正天皇が、717年の九月、美濃国に行幸する。血なまぐさい思い出の地・琵琶湖を望む行宮には山陽、東四国の諸国の国司が参上し、それぞれの国の歌や舞を披露したという。
 で、目的地・美濃の当耆(タキ)郡の多度山にて、「美泉」なる所を訪れた。

 後日、そのときのことを「詔」の形で語る。

「自ら手面を盥ふに、皮膚滑なるが如し。亦痛処を洗ふに、除き癒へざるということ無し。朕が躬に在て、甚だ其験有り。又、就て、これを飲み浴する者は、或は白髪黒に反り、或は頽髪更に生じ、或は闇目明なるが如し。自余の痼疾、咸く皆平愈せり…」

 なんでも中国は後漢・光武帝の時代にもこれが涌き、病者は元気になり、老いを養なう聖なる清水=大瑞である。よって、「天下に大赦して、霊亀三年を改め、養老元年と為すべし!」


 もともとの「霊亀」という元号も、帝王の星、北極星・北斗七星を柄にもった亀を献上されたので記念につけたのだが、昔はそんなことでコロコロ元号を変えていた。銅がでたから「和銅」、宮中上空に縁起のいい雲が見えたから「慶雲」、対馬から金がでたので「大宝」(じつは嘘だった…)、縁起のいい赤い鳥が奉られたから「朱鳥」……つまり、逆に、現実世界がヒジョーにキビシー状態だったからこそ、そういうモノに期待をよせたんだろうなあ。


 で、「養老元年」を記念して、八十歳以上の老官人を昇進させた(って何人いたんだ?)。さらに年末にはこの清水を汲んでこさせて正月のアマザケ=醲酒(コサケ)を造らせた。年明けて二月には再び同地に行幸、前回以上の長逗留となり(前回は九月十一日出発で二十八日帰京、今回は二月七日出発で三月三日帰京)、そのたびに随行した官人や輿担ぎのような雑仕もふくめて褒美を出し、途中通った地域の国司・郡司には位を昇進させ(行宮を用意したり、見世物を用意したりした)、その前後にも、たびたび大赦を実行している。よっぽど気に入ったんだろうなあ。でも七年後、白い亀が献上されるとアッサリ「神亀」と年号を改めた…。

 

 この美泉=醲泉が、どうして養老なのかという、根本的話は、より後世の説話に語られている(ほんとうは『十訓抄』のが古いのだそうだが、持ってないので、ほとんど同じだというから、『古今著文集』巻八で代用する。)


 かの地に、「まづしく賤しき男有りけり」。その老父がヒジョウな酒好きで「朝夕あながちに酒を愛ほしがりければ、なりひさごといふ物を腰につけて、さけうる家にのぞみて、常にこれをこのひて父をやしなふ」。

 あるとき、山中でコケに滑って崖に転落、イテテ~…ン? なんかいいニオイがするぞ…「石の中より水ながれ出る所あり。其色酒に似たりければ、汲みてなむけるに、めでたき酒なり」ということで、その酒で父ちゃんを喜ばせた…という孝行話を聞いて、我等が元正女帝が興味ひかれて行幸したんだと。そいで、そんなものを発見できたのは、彼の孝心に「天神地祇あはれみて、其徳をあらはすと」いうことだからと、美濃守に大抜擢したのであった! (『続日本紀』では養老改元の前年六月に、美濃守・従四位下、笠朝臣麻呂に尾張守をも兼任させたという記事があるから、その人はクビになったちうこと?(x_x;))

 ともかく、これが今、岐阜県養老町の「養老の滝」の起源なり。近くの神社には「菊水霊泉」というのがあって、今でも湧き水は名水として有名だそうな(ほの甘いらしい)。


 さらに後年の世阿弥「養老」では、時代は雄略天皇時代の話で本巣郡の話、噂を聴いた天皇が、使いを送り調査をさせると、件の親子と出会い、その話を聞く。すると、老父のために薪をとっていたとき、たまたま喉が渇いたので飲んでみたらそうだった、というちょっと緊張感のない説明。

子「さながら仙家の薬の水も、かくやと思ひ知られつつ、やがて家路に汲み運び、父母にこれを与ふれば…」

父「飲む心よりいつしかに、やがて老いをも忘れ水の」

子「朝寝の床も起き憂からず」

向かい合って一緒に「夜の寝覚もさびしからで、勇む心は真清水の、絶えずも老を養ふ故に、養老の滝とは申すなり!」以下、そのスバラシイことを歌い踊り、使者もさっそく天皇に報告しようと帰路につこうとすると…

「言ひもあへねばふしぎやな、天より光かがやきて、滝の響きも声澄みて、音楽聞こえ花降りぬ。これただごととは思はれず…」、最後は山の神さまも現れて、清水の奇跡を寿ぎ万々歳


 ところで、同様の「醲泉」は、この美濃養老滝事件(?)から約25年前の持統天皇七年にも近江国益洲郡の都賀山で葛野羽衝と百済羅羅女というもが発見していたことが『日本書紀』にある。このとき天皇は沙門・法員らを遣わして、試飲させている。報告によると、この泉水のおかげでやはり多くの病人が治療されたというので、これを褒めて郡の税を免除し、発見者二人に褒美をとらせ、(なぜか)国司らの位を上げた。


 わが千葉県にも「養老渓谷」というイかした名前の温泉郷があるので、ここもそうかなあ、と思っていたが、もともとここの養老川は江戸時代には「用呂川」とか「勇露川」と書いたそうで、養老滝伝説にちなんで近年・改名したということらしい。地名も素直に古事と結びつけるわけにはいかないのだった。

 ただし、同じ千葉でもずーと上の方だが、松戸に「子和清水」(子は清水)というのがある。お父ちゃんが飲むと酒だが、コドモが試しに飲んでみたらただの水だった云々という話で、これなんか、お父ちゃんがコドモのやさしさに気遣って演技していたんだろうなあと、親孝行・子孝行の双方があったと想像されるが……。

 ちなみに、山梨の左右口(うばくち)峠というところに、おんなじストーリーがあるが、「子は」が訛って「ゴワ」になって、「強清水」という。ここは古代の八代郡。おなじ甲斐国でもまったく東側、都留郡には「菊花山」というのがあって、この山谷から流れる水が菊花を洗う。「その水を飮む人は、命ながくして、つるのごとし。仍て郡の名とせり」と「甲斐国風土記」にある、と「和歌童蒙抄」に引くそうな。  


 風土記といえば「播磨国風土記」の印南郡・含芸(カムギ)里の条に「大帯日子(景行天皇)の命の天皇の御世、酒の泉湧き出でき。かれ、酒山といふ。百姓の飲む者、すなはち酔ひて相闘ひ相乱りき」。それで、危険地帯ということで埋めてしまったが、この地はもとは「瓶落」といって、他田熊千という人が、土地をもとめて旅していたとき酒の入った瓶を落っことした、それでカメオチだったのが訛ったのだ云々、それは仁徳天皇の時代のことだそうな。そして、どういう経緯があったのか、天智天皇九年になって酒山を掘り起こしたので、いまでも酒のニオイがする云々。

 探せばほかにも似たのはいっぱいある。

 健康によい酒が湧くというのは、これ鉱泉のことで、お肌スベスベで元気になるというのも湯治温泉の定番。いわゆる「飲泉」療法をした、飲んでみると酸性でピリっと酸っぱい、昔の酒は今の清酒ではなく、濁り酒で、なおかつ酸っぱいものであったそうだから、養老の霊泉もはじめはそんなところからきているので、これが滝の清水に変ったのは、滝が竜神の住まう霊所でもあったからだろう。また、酒を造るのには清らかな水がかかせないから、清水が酒にかわる。

 

 清水、温泉、酒、孝心とテーマはいくらでもひろがってしまうのであった。


 清水は冷たく清らかに、

   お酒はおいしく楽しく、

     温泉はゆったりのんびり、

        孝行は是非・親孝行&子孝行

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