その08 の続きヨ
◎正倉院文書の神亀三年(726年)度の山背国愛宕郡出雲郷雲上里(上出雲郷とも)計帳に載る刀自さん習合。
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★紙市戸主・出雲臣冠(57・両耳が聞こえず、左の指爪を失っている)の戸に名を残す人たち。
●出雲臣鴨刀自売(7)…戸主の娘と登録されている。
●出雲臣広刀自売(14)…左目が悪いそうな。前後名簿とのカンケイは書かれていない。
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★出雲臣川内(57)の計帳に名前のある人たち
●出雲臣秋刀自売(17。左腕にホクロがある)&出雲臣嶋刀自売(11。左頬に傷がある…女の子なのに顔にキズ!)&出雲臣春刀自売(14。上唇にホクロがある)。…以上三人とも川内の娘たち。納税はもらしちゃいけないから、いろんな身体特徴が記されているのだった。
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★大初位上・出雲臣千依の計帳に載る人
●出雲臣族刀自売(18。左目の下にホクロ)…出雲臣族果安(53片腕を喪失)の娘。
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★大初位下・出雲臣粳(75)の計帳に載る人
●出雲臣刀自売(61)…粳には姪にあたる。頬に傷がある。
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★従八位下・出雲臣真足(51)の計帳に載る人たち
●出雲臣豊刀自売(19)…真足の弟で従八位下・出雲臣豊足(48)の娘らしいが、長兄以外の兄姉6人とともに現在は筑紫在住とある。イトコの田主(31)なども筑紫にいるという。
租税は戸籍・計帳の登録地=「本貫地」をもって課されるから、勝手に住地を移動することは禁止されていのであった。
この計帳には「和銅五年逃」とか「逃近江国蒲生郡」とか、単純に「逃」など書かれている人がけっこうある。「逃」というのは、ホントウに税金逃れで逃げたのだろうが、「筑紫在」と書かれた豊刀自売たちは、「逃亡」したわけではなく、彼女にはおばあちゃんにあたる赤染依売が筑紫国出身で、そういうツテで「引越した」というほうがいいのかもしれない。対象者は他所に住んでいるが納税は山背国に収めていたというところか。
●出雲臣継刀自売(4)…上の豊足の更に弟・少初位上・出雲臣国継(32右兵衛)の娘。
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●出雲部浄刀自売(2)。…同計帳に載っている人は多いが、パッと見では他者との詳しい関係性は不明。「出雲臣」と「奴」の間にいる「出雲部」。奴隷じゃないけど支配下にあるというところか
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●秦黒刀自売(44)…出雲臣友足(57)の妻。左右の頬にホクロあり。26歳の息子・千倉は養老四年に逃散している。
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●尾張連族刀自売(23)…左頬にホクロあり。
※※その名のとおり、出雲郷には出雲臣氏やその支配下にあった出雲部氏が住んでいた。つまり出雲国からあるとき(七世紀)集団移住してきたと思わる。
出雲国造や出雲臣の祖先は、大国主を祀った天穂日命であるが、そのコドモの武日照命=天夷鳥(アマノヒナドリ)が杵築大社(一説には意宇の熊野大社)に五種神宝を蔵した。後年、崇神天皇が「是を見欲し」とワガママいったとき、出雲神宝の管理責任者であった出雲振根は外出中で、困った弟・飯入根は勝手に天皇にこれを献上、帰宅した兄貴は大激怒。後日、弟の刀を竹光と摩り替えて、水浴びに誘って殺してしまう。話を聞いた天皇政府は、吉備津彦と武渟河別を派遣して振根を殺させる。残された一族は恐れてその後しばらく出雲大神を祀るのをやめてしまった…という話が『日本書紀』にある。
この振根が最初留守にして出かけていた場所というのが、「筑紫」であった。なんで筑紫にいっていたのか理由は書いていない。けれどもそのころから出雲と筑紫にカンケイがあっただろうことはクウソウされるのよ。(ちなみに竹光作戦は『古事記』ではヤマトタケルが出雲健を倒すときのエピソードとやり口が一緒…どっちかの話がどっちかの話をパクったのだ)
一方で、この戸籍では逃亡先として「越前」「越中」が記されている例がけっこうあって、越国と出雲との交流のあったことも伺える…ヤマタノオロチも越出身だし。
というわけでその例↓
◎同・出雲里雲下里(下出雲郷)計帳
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★少初位上・出雲臣広足(69)の計帳に載る人
●出雲臣刀自売(26)…広足の姪。右眉にホクロあり。
●出雲臣刀自売(34)…兄の出雲臣意美麻呂(34)の妹。母・丸部蓑美奈売(76)とともに
和銅二年、越中国蒲原郡へ逃げてしまった。
●宍人刀自売(37)…別項によると、もとは別の宍人荒海という人の余戸郷(50戸に満たない戸)にいたが、宍人阿美売(41)とその五人の子と一緒にこちらに編入された「帳後新附」。
このグループは唯一の男の子・大石主寸百嶋(3)を基点とするが、彼にとっての「従母」関係なのだとあるから阿美売の妹だろう。本文では名前は「刀美売」になっているので、そっちが正しいか。注して「大倭国十市郡」とあるが、彼女だけさらに移動(逃亡)したということであろうか。
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★出雲臣大海(28・右鋳銭寮使部)の計帳に名の残る人たち。
●出雲臣刀自売(22)…大海の「兄」少初位上・出雲臣置見(52・鋳銭寮史生)の娘。右眉にホクロ。
●出雲臣吉刀自売(9)…園池司使部の少初位上・出雲臣阿多の孫。父の名は蓑麻呂(33)
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★出雲臣麻呂(40)の計帳に名の残る人。
●出雲臣古刀自売(24)…右瞼にホクロあり。臣麻呂の従父「初少位下」出雲臣沙美麻呂(40)の妹?
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★少初位上・出雲臣深嶋(造宮省工)
●出雲臣刀自売(9)…出雲臣荒麻呂(52)の娘。
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★出雲臣族足桙(35)の計帳に…
●出雲臣族古刀自売(23)…足桙の妹。顔にホクロあり。上の姉・万売は和銅五年に逃げたという。
●出雲臣族稲刀自売(12)…これも妹。右頬にホクロあり。
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●出雲臣真刀自売(12)…出雲臣宿奈麻呂(38)の娘。
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●秦川辺古刀自売(28)…家族関係不明。
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★出雲臣文田(72)の計帳に載る人たち
●出雲臣広刀自売(26)…文田の娘。右腕にホクロ。
●出雲臣古刀自売(17)…文田の息子の大初位下・出雲臣忍人(36左大臣の資人)の四人の子の一人。右鼻にホクロ。
忍人は「左大臣の資人」、つまり公的雑用係。
神亀三年当時の左大臣は長屋王。その長屋王邸出土の木簡の中にも「十一月十一日」「政人三口米二升二合五勺」の荷受人としてその名が登場する。
同じ長屋王邸出土木簡に、「「 」位出雲臣安麻呂/年廿九/山背国乙当郡」「上日/日三百廿/夕百八十五/并五百五」と書かれたものがある。
これは「無位・出雲臣安麻呂((19歳)山背国乙当=愛宕郡出身)が、日勤320日、夜勤185日、合わせて505日分出仕した」という記録。
この雲下里計帳に、大初位上・出雲臣筆(70)の息子で、大初位下・出雲臣安麻呂(42。眉黒子)「北宮帳内」とある人物と同一ではないかと思われる(「北宮」は長屋王の后・吉備内親王の住まい)。ほぼ休みなく働いたおかげで19歳で無位だったのが42歳で大初位下まで昇進したのであった。…
↓それでついでに
……●長屋王邸から出土した木簡に名のある刀自さまたち。
(奈良文化財研究所の木簡字典データベースより(http://jiten.nabunken.go.jp/ ))
193 粟田刀自女……「山方王子」なる人の「御湯曳米二升半」を彼女が受領したという伝票。書いた人は「君万呂」。
長屋王のきょうだいに、『続日本紀』天平十七年(745)八月に「正三位山形女王薨す。浄広壱壱・高市皇子の女也」とある人物があるが、女王である。‥あるいは記録に残らない彼女の兄弟であろうか?
194 狛刀自女……「七月十八日」に「内進米一斗」を受領。記録した人は多分「綱万呂」
195 石川大刀自…「九日」、米を進上された。石川というからには蘇我倉山田石川麻呂系統の人であろう‥室町時代の『本朝皇胤紹運録』には、桑田王の母として「石川忠丸の女」という人があって、この人ではないかといわれているそうな。
‥別に”「十九日」に「石川夫人」の御所にきた「飯四升‥」を「●刀自」が受領した”、という木簡も残る。
196 安倍大刀自……天平の中納言・安倍広庭の娘で、長屋王の妻。万葉歌人・賀茂女王の母。
「九月十六日」、その御所に「米一升」「進米五升」が入った。受領したのは「物部立人」、記録したひとは「道麻呂」というらしい。
その10 へ続く