神功皇后鮎釣伝説 | 不思議なことはあったほうがいい

 最近はデブデブしているにもかかわらず、チビを抱っこして歩き回るこのごろ…足が痛くてかなわんので、静神社手接足尾社に願掛けにいったツイデ…にしては距離があるが…前回、アユの友釣りに触れて触発されたわけでもないが、茨城の山奥へアユの塩焼きを食いに行った。出不精のこのボクが!

 『常陸国風土記』にもある。

久慈郡…郡の東…山田の里あり。…有る所の清き河は、源、北の山に発り、近く郡家の南を経て、久慈の河に会ふ。多く年魚を取る。大きさ腕の如し。…

まあ、そんなデカイのは普通売ってはいないけど…実際にはアルらしい。


 アユを「年魚」と書くのは、その寿命が一年きりと思われていたからであるが、オスは生物のイトナミに精も根も尽き果ててしまうが、メスは案外しぶとく、翌年までも生き延びるものがけっこうあるそうな(そういうのを古背とか通しアユとか呼ぶ)。


 『播磨国風土記』によると、飾磨郡で

品太天皇、此の川に御手を洗ひたまひき。故、手沼川と号く。年魚住む。有味し

という話があって、アユの美味いのは八幡様のおかげ? ということであるのかどうか…。


 海にいるこどものころは、プランクトンやボウフラを食べて肉食だが、成長して遡上すると、ベジタリアンになって、石に付いたケイソウを食べるようになると、独特のイイ匂いになって、丸ごと食べてもこれが美味い(キュウリウオなんていいかたもある)。成長してからムシをまったく食わないというわけでもないらしいが、ミスタの「人間の肉はまずい説」に賛成!

  

 ところで、現代では、魚偏に「占」と書いて「アユ」と読むが、本来中国ではこれは「なまず」のことで、アユが占いに使われる魚ということもあって、いつのまにか違ってつけられた…という話は前にやった(「なまず 」)。中国では「香魚」というのが普通だそうな。


 アユが占いの魚…という話も前にやったが(「志自岐丸 」)、いまいちど振り返ろう。


 仲哀天皇が熊襲攻撃の陣中で、后・息長帯姫=神功皇后に憑いた住吉神の託宣を信じないで祟り殺され、残された皇后らが海をわたって新羅王を平伏させた。その前後の出来事として、

 「…筑紫の末羅県の玉島里に到りまして、その河の辺に御食したまひし時、四月の上旬に当たりき。ここにその河中の磯に坐して、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌にしてその河の年魚を釣りたまひき。かれ、四月の上旬の時、女人裳の糸を抜き、粒を餌にして年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。」(『古事記』

 ということがあった。

 『日本書紀』は実はこの釣りのとき、皇后がある願をかけ占ったという。

石の上に登りて、鉤を投げて祈ひて曰はく、『朕、西、財の国を求めむと欲す。若し事を成すこと有らば、河の魚鉤飲へ』とのたまふ。因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后の曰はく『希見(メヅラ)しき物なり』とのたまふ。故、時人、其の処を号けて、梅豆邏国と曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり。是を以て、其の国の女人、四月の上旬に当る毎に、鉤を以て河中に投げて、年魚を捕ること、今に絶えず。唯し男夫のみは釣ると雖も、魚を獲ること能はず」。


 こうして、占いによって戦勝を確信した皇后は新羅侵攻へと踏み切る…という筋。

『肥前国風土記』でも同様の話だが、皇后の占いは最初から「新羅を征伐」するとか、「細鱗之魚」が釣れるかどうか、というふうにより具体的内容になっているが、これは記紀の存在あっての記録と考えてよいだろう。また女たちがアユ捕り行事をおこなうのが「孟夏四月」と表現されているのは現実に近づけた記述の変更であろうか。


 ともかく、このアユ占いは万葉歌人のロマンス、想像力をかきたてずにおかない。


『万葉集』巻五

養老二年(718)年、隼人の反乱に際し、「征隼人持節大将軍」となり、また、神亀元年(724年)には「太宰帥」となって、北九州に赴任した大伴旅人は、当然、この地域を巡検するなりなんなりしていたであろう。松浦の鮎捕る乙女に一目ぼれした男の恋心と乙女とのやりとりを記録した。


…僕問ひて曰く、『誰が郷誰が家の児らぞ、若疑(けだし)神仙ならむか』といふ。娘ら咲みて答へて曰く、『児らは漁夫(アマ)の舎の児、草庵の微しき者にして、郷も無く家も無し、…今より後、豈偕老にあらざる可けむ』といふ。下官対へて曰く、『唯唯、敬みて芳命を奉る』といふ。………

松浦川の瀬光り、あゆ釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ

松浦なる玉島川にあゆ釣ると立たせる子らが家路知らずも

遠つ人松浦の川に若あゆ釣る、妹が手本をわれこそ枕かめ

それらに返す娘の歌

若あゆ釣る松浦の川の川波の並にし思はばわれ恋ひめやも

春されば我家の里の川門にはあゆ子さ走る君待ちがてに

松浦川七瀬の淀は淀むとも、われは淀まず君をし待たむ


この話を訊いた旅人の感想。

松浦川川の瀬速み紅の裳の裾濡れてあゆか釣るらむ

人皆の見らむ松浦の玉島を、見ずてやわれは恋ひつつおらむ

松浦川玉島の浦に若あゆ釣る妹らを見らむ人の羨しさ」(855―863)


じつはこのやりとりからなにから、全部旅人の創作だったという説があって、よく考えると、鮎捕りは神事なのだから、そういう人にナンパをするっていうのは不謹慎なかんじもする。地元の乙女もそうカンタンに応じはすまい。

それをしてしまうのは、地域の習俗に疎いということだし、ナルホドそうかもしれない。


なお、旅人はやはり九州赴任がイヤだったらしく、

隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり」(巻六・960)

などとふるさとを思ったりしている。


さて、同時期、筑前守であった、山上憶良は旅人の邸宅の宴にまねかれるなどして交流もあった。彼が、この松浦鮎乙女の一件を手紙で知って、感想としてしたためた歌

君を待つ松浦の浦のをとめらは 常世の国の海人をとめかも」(865)


松浦といえば、もうひとつ「松浦佐用姫」のヒレ振り伝説を忘れてはいけないけれども、とうぜん、憶良も歌っているけれども(→「壷坂霊験記 」)、それらと並んで、

多良志比売神の命の魚釣(ナ)らすと 御立たせりし石を誰か見き…一に云はく、「あゆ釣る」と」(869)

というアユ釣り伝説もちゃんと歌っておる。


 皇后の占い=釣り=アユという関連はこの時点でハッキリ繋がっていたのかどうか…(記紀の成立からそんなに時のたっていない時期であり、旅人や憶良が意識していたかどうか…。

ちなみに彼らの歌の「アユ」は「阿由」であり、漢字の意味は加味されていない。


 ところで、鮎捕りというと、縄張り意識を利用した友釣りが有名で(鮎の字は、ウラナウではなくシメルの意味をとって、縄張りを占める魚の意味でもちいているのだ、という説もある)、普通の釣り方だとムシを食わなくなる成長後はむかない。網とかヤナでとるが、むしろ「鵜飼」のほうが漁法として風流である。


こもりくの泊瀬の川の 上つ瀬に鵜を八つ潜け 下つ瀬に鵜を八つ潜け

上つ瀬のアユを食はしめ 下つ瀬のアユを食はしめ 

くはし妹にアユを惜しみ くはし妹にアユを惜しみ

投ぐるさの遠ざかり居て 思ふそら安けなくに 嘆くそら安けなくに

衣こそばそれ破れぬれば 継ぎつつもまたも合ふといへ

玉こそば緒の絶えぬれば くくりつつまたも合ふといへ

またも逢はぬものは妻にしありけり

(『万葉』巻十三・3330)


これは亡くなった妻=くはし妹にアユをくわしてやればよかったというシャレ。


あらたまの年行き変り 春されば花のみにほふ

あしひきの山下響み 落ち激(タギ)ち流る辟田の川の瀬にあゆ子さ走る

島つ鳥鵜養伴なへ 篝さしなづさひ行けば

我妹子が形見がてらと 紅の八入(ヤシホ)に染めて

おこせたる衣の裾も とほりて濡れぬ」(巻十九・4156)

これはたぶん、大友家持の歌。鵜飼を歌ったが、主役は裾を濡らした我妹のイロケ。


 神話では、大国主が国譲りに際して、 


水戸の神の孫、櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、祷き曰して、櫛八玉神鵜化りて海の底に入り、底のはにを咋ひ出で、天の八十びらかを作りて、海布の柄を鎌りて燧臼に作り、海藻の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出でて…」(『古事記』)

 その火でサカナを調理しましょう云々と歌った。

 獲物を捕るということだけでなく、儀式に重要な火を作るための道具を海から引き上げた、というあたり、操作があるようではある。また、「ウガヤフキアエズ 」のように出産にかかわる鳥でもあったらしいが、これらの話の舞台は海辺である。

 鵜といえば川のものと思いがちであるが、実は現代の中国南部では川鵜を使うが、日本では海鵜を使う。中国では離し飼いだが、日本では紐につなぐ、中国はいろんな魚を捕るが、日本ではほぼアユ限定…という違いこそあれ、大陸と列島をゆききしていた海人族の、かなり旧くからの伝統の行き来があった、そのあたりの錯綜であろうか。…。


神武天皇ウカシ兄弟を平らげ、吉野方面を巡察のおり、

水に縁ひて西に行きたまふに及びて、亦梁(揶奈=ヤナ)を作ちて取魚する者有り。天皇問ひたまふ。対へて曰さく、『臣は是、ニヘモツが子なり』とまうす。此則ち阿太の養部(鵜飼部)らが始祖なり」(『書紀』)

 鵜飼の先祖というが、やっていることはヤナ漁であった。両刀使いということであろうか?

 (ちなみに天武天皇はその四年目に肉食の禁止を詔したが、その中に「梁を置くこと莫」とある。仏教振興のためであったろうか。ダマシ取りは良くないということであろうか?

 このニエモツは【贄者】という意味に違いなく、ともかくアユは古くより奉納・献上品であったことはわかる。

 その後、ヤソタケル族を倒すに際し、神夢を見て、土器をつくって、水無しに飴を作る魔法をすると、それらを丹生川にしかけた。魚が酔っ払って浮いてくればこの戦上々、と占うと、「頃ありて、魚皆浮き出でて、水の随にアギトふ」。
 これによって、天皇みずから高皇産霊尊の顕斎となり、道臣を斎主・厳媛とし、土器を厳瓮とし、焼いた火を厳香来雷(イツノカグツチ)とし、水を厳罔象女、食い物を厳稲魂女、薪を厳山雷、草を厳野椎とする…としたと云々。けっこう豪華なメンバーではないか。

 このときの魚=酒菜はナニとはないが、これこそアユだったに違いない…ということで、後年の朝賀には、アユと瓶を描いた幡を立てる習慣がおこり、このアユを特別に「国栖魚」と呼ぶそうな。


 さて、神功皇后の話にもどって、その舞台となる、松浦国といえば『魏志倭人伝』に「末盧国」とある北九州沿岸の小国と同一の地域のことで、「好んで魚鰒を捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」という古代はアマ漁の土地柄であった。アユ釣りじたいやっていたかどうか…?と疑問もあるが、神功皇后と卑弥呼を同一人物視するアナクロな説もあるけれども、まあ、皇后の云々以前から地名はあったのであろう。地元に伝わる住吉系海人族=膳夫・安曇氏?の古伝承を中央皇族の歴史にすべりこませたというのが実像かもしれない。この伝説のヒロインは息長帯的・卑弥呼的な、九州のアマ族の巫女だった可能性もあるのだった…。


 焼けたアユを頬張るとき、ボーと清流を眺めたりするだけでなく、何か、願をかけてみるのも一興であったろう。予習してから旅行すればよかった。