壷坂霊験記 | 不思議なことはあったほうがいい

 ちょい前、テレビでドラマ「はだしのゲン」を見ていたら、ゲンが農家の軒先で ハア~ペンペン♪ とか歌って泣かせていたのが、このお話。


 大和の国。

 盲目のあんま・沢市と、美人で気立てやさしいお里は、誰もが認める仲良し夫婦だが、沢市が仕事に出ている間、お里もどこかへ出かけている。沢市は疑って、さては浮気か、けしからぬ女! と付けてみれば、お里は険しい山道乗り越えて「壷坂寺」に願かけで、「沢市っつあんの目が治るように」と一心にお百度参りの様子……。

……こころ恥じた沢市は……

 「わしのような 不自由者がいつがいつまでもながらえておりましたら、世間の人様から「お里は器量よしじゃ・別嬪じゃ」と褒めていただける、そなたが「一代メクラの女房じゃ」と後ろ指をさされ影口言われてこの世をおくらねばなりませぬ、それが不憫ゆえに死んでゆきます。沢市が冥途へいったそのあとは ただ一心に観音様へお願い申し、ありがたいご利益を頂いて、心やさしいお人のもとへかしずき、楽しいこの世をおくってくだされ。そなたのシアワセを草葉の影から祈りますほどに 「無慈悲な夫」と沢市を、かならずうらんでくださるなや……。

 壷坂寺に祭らせたもう大慈大悲の観音様、直りもしませぬ眼病を「どうぞお直しくだされ」と女房里がムリな御願をかけました、ごめんなされてくださりませ。なんぼあなたさまのご利益あらかたにありますとも、一旦つぶれましたこの目はかならず明きはいたしませぬ。のがれようとものがれられませぬは仏法で申すインネンごとでございます。手前のこの目は一代開かぬと諦めまして、あなたのお谷へ入ってあの世へやっていただきますほどに、あとにのこって親兄弟や夫にさきだたれ、便りのないお里が心やさしいお方のところへ嫁入りして、うれいしい月日のくらせますようにあわれなお里の身の上をお守りなされてくださりませ」

 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……寺近い狼谷の川底へと身を投げた。

 お里は愕然。こけつまろびつ、まろびつこけつ、「ここで分かれていつの世に逢えようものぞ、逢わせてたべ、大慈大悲の観音様!」

「沢市っつあああん!! 目の見えないのに一人で死んで、弥陀の浄土に行く道は誰を頼りにゆかしゃんす。沢市さん、男の心は白状な、おなごの心はそうじゃない……あなた一人はやりはせん……」

……ザブーン……あとをおって身を投げた……。

 とたんに観音様のご利益で沢市パッと目が空いた、ありがためでたの物語。(引用は百円ショップで買った難波亭綾太郎の浪曲CDより。知っていたのとチョット話が違うが雰囲気はバッチリ!)


 そもそも、この大和・壷坂寺は千眼千手の観音さまが眼病に効くという噂で平安の頃から信仰があったそうな。

 ちなみに壷坂寺の公式(?)な由来は以下の通り。
 大宝三年(703年)、元興寺の弁基上人がここで修行をしていたが、ある日、持っていた壷(水晶でできていたという)の中に、例の千手千眼観音の姿が現れた。そこで小さなお堂を作って、壷を安置しておったのだが、養老元年(717年)、元正天皇がこれを知って立派なお寺の体裁をととのえさせた。そこで上人が夢に見た観音様を彫ってお寺に修めた‥‥。あんましオモシロイ話ではありませんね。


 ところが、壷坂の縁起にまつわる別のお話に、こんなのがある。

 とある長者があったが、父は亡くなり、母は目を患う、娘は東北の人買いに売られて行った。売られた先で、娘は大蛇のイケニエにされるのだが、父の形見の護符の力で逆に大蛇の呪いを解いた。大蛇はこれが実は龍神の娘。神女は、娘に尊い如意宝珠を与えると、壷坂の観音様になりました。その宝珠で、なでさすれば、母の目がパッとあき、母娘ともに幸せな晩年で長寿を成し、やがて琵琶湖・竹生島の弁天様となりました、とさ。

 物語名は「さよひめそうし」。つまりヒロインの名は「佐用姫」。ン?? 佐用姫といえば、ヒレフリで有名な伝説の聖女である。


 『万葉集』にて山上憶良が歌ったとされる「遠つ人松浦佐用姫ツマ恋に領布(ヒレ)振りし負へる山の名」などなど(巻五)。

 大伴佐堤比古(大伴連狭手彦)はひとり朝命を受けて海をわたって朝鮮半島・任那の地へ旅立った。佐用姫はこの簡単な別れと・困難な再会を歎き「即ち高き山の峰に登りて、遥かに離れゆく船をのぞみ、悵然に胆を断ち、暗然に魂を消す。遂に領布を脱ぎて振る。傍らの者、涙を流さずといふことなかりき」。

 『日本書紀』によると、これは欽明天皇の23年(562年?)八月のことである。すでに新羅は任那の宮家を滅ぼし、さらに進撃、危機に瀕した百済への援軍として赴いたのだ。このとき狭手彦は新羅軍を撃破し、その城中より七織帳を奪って天皇に献上したという。……

 ……これに先立つ七月、新羅軍の進撃に蹂躙された日本の駐屯軍はずたずた状態で将軍の一人・河辺臣は自分かわいさに妻を敵にさしだすという醜態をさらした。一方、調吉士・伊企儺(ツキノキシ・イキナ)は捕らわれてもけして下らず、「新羅の王、我が尻を喰らえ」(今風に言えば、「クソクラエ」)と叫んだりしたので、遂に一家皆切り殺された。そのとき生き残った、イキナの妻の大葉子は歌った。「韓国の城の上に立ちて大葉子は、領巾振らすも、ヤマトへ向きて」……。

 別文献にて展開される・一月違いの妻たちの姿。さて、どっちが先で、どっちがパクリか。それともヒレ振りは古代日本女性の共通作法であったか……。

(ではなく……→「袖引き小僧 」参照)


 ここ、松浦は、神功皇后がアユをつかまえて、「めずらの国」といったから訛ってマツラになったちう話は幽霊船 のところで出てきたが、あとで「神功宮皇后鮎釣伝説 」でも触れるが、古代日本と朝鮮半島との物語には、なにかとにかかせない土地であった。

 

……で、当地の「肥前国風土記」によると、狭手彦は餞別に佐用姫(オトヒメ)に鏡を渡していたが、ボンヤリしていたのか、姫は川底に鏡を落としてしまう。鏡とは、己を映し出すものイコール自分自身の魂である。その魂の鏡を水底に沈めたことは、イコール水神に身を捧げたということでもあろう。
 そして、数日後、狭手彦そっくりの男が現れる。紐をつけておくと、山の上(領巾振山)へ登っていった、そこには沼があり、人が駆けつけたときには、すでに姫は沼の底にとらわれていた、男は蛇神であったのだ……(なおこちらの話は一代前の宣化天皇の時代の話になってるが)。後年の説話では、海岸にたたずんで石になってしまったという話もあるが、この風土記の話のほうが好きだなあ。

 

 で、「さよひめ」というのは、先の『さよひめそうし』もそうだが、水神につかえイケニエとなる娘の名なのである。お里が狼谷に身を投げたのは、物語上は、あの世で目の見えぬ沢市の手を引いてやるためであるのだが、実際は、水神にその身をささげたという古い話がベースになっておるのではなかろうか?  

 そういえば、風土記版の蛇神様の話は、おなじみ三輪山大物主イクタマヨリ姫の話・ヤマトトトヒモモソ姫箸墓伝説とよく似ておる。→なぜかがんばり入道で触れた。


 朝鮮…大葉姫のヒレフリ

 肥前…佐用姫のヒレフリ・紐付け蛇

 大和…三輪山の紐付け蛇 & 壷坂寺のさようひめ

 以上の離合集散→壷坂のお里


(……盲目の門付けなどはよく同伴者にで引いてもらって歩いているようだが……)


わが貞女・お里の原名は「お佐用」だったんじゃないんだろか?

 ちなみに、三輪山の主は大物主=大国主といわれるが、前回(少名彦と大国主 )では、オホナムチ(大国主)とコンビを組んだ(イコール同化した)、海底からきた謎のカミサマということでしたから、これはもともとは海蛇で、それが山蛇に変化したのか??

 

  思うに、弁基上人が来る前にこの山に既に先住のカミサマがいたのかもしれず、それは出雲の海からきたのか、東北の湖から来たのか知れないが、お寺さんの信仰に利用されたんではなかろうか?


‥‥などなど、思いつきで記すのであるよ‥。夫婦愛の物語(盲目を伴った)はほかにも仏教説話に探せばありそうだなあ。宿題ということで‥。