「刀自」を集めてみたヨ その01 | 不思議なことはあったほうがいい

まゆとじめ 」から派生して、

意味のあることかどうかわからんが、


飛鳥~奈良時代の「刀自」という名をもつ人を軽く並べてみたヨ。



01、刀自古郎女……蘇我馬子の娘で、聖徳太子の奥様、伝承上は山背大兄王の母。超有名人。


02、膳大刀自……聖徳太子と一緒に葬られた最愛の妻・膳大郎女『上宮聖徳法王帝説』では「刀自」と記されている。


03、耳面刀自……藤原鎌足のマイナーな娘さんで、大友皇子に嫁ぎ、壱岐姫王の母となった人、『懐風藻』で鎌足が「臣に息女あり、願はくば後庭に納れて、以て箕箒の妾に充てむ」と語ったその人のこと…らしい。壬申の乱(672)後、親族のツテをたよって「中臣勝海」とともに鹿島に逃げようとしたが、北九十九里で力尽きたと千葉県宍粟の伝説ある。彼女を祀る神社近くの古墳から、高貴な女性の遺骨が掘り出されたりして地元ではチョットした騒ぎになったことがあるそうな。


『万葉集』

04吹芡(フフキ)刀自……「吹黄」とも書く。大友皇子の正妻、十市皇女に仕えたらしい。

巻一、天武天皇の四年(675)二月、十市チャンが阿閉皇女(=元明女帝)とともに伊勢神宮参拝の折に同行し、波多横山の巌を見て詠んだ歌。(22)
川の辺の ゆつ岩群に草むさず 常にもがもな 常処女にて
 また、巻四に載る相聞歌
真野の浦の 淀の継橋 心ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆる
川の上の いつ藻の花のいつもいつも 来ませわが背子 時じけめやも
(490-491)



05、氷上大刀自……巻二十に

朝夕に 音のみし泣けば 焼き太刀の 利心も 我れは思ひかねつも」(4479)

と歌った「藤原夫人」。

藤原鎌足のメジャーな娘さん。天武天皇の夫人の一人で但馬皇女の母、その字。


06、大原大刀自……05氷上大刀自の妹、五百重娘。これも天武夫人で新田部皇子の母、天皇死後、不比等と婚して麻呂の母。その字。
巻八、夏の雑歌

霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに」(1465)


★考古資料より


07、黒売刀自……群馬県高崎市「山ノ上碑」の文章より、隣接する古墳に葬られたといわれる。彼女は「佐野三家(屯倉)」を定めた健守命の孫で、新川臣の子・斯多々弥足尼(シタタミノスクネ)孫・大児臣と結婚した。その子が「放光寺」の長利という僧になり、亡き母・黒売刀自の菩提を弔うべく碑文を残した、という。「辛巳歳」=天武天皇十年(680)の作製であると記されている。ケドネ、一巡して天平十三年(741)のほうがしっくりくるみたい。この年は聖武天皇が国分寺建立詔をぶちあげた年であるから、「法光寺」(前橋総社の山王廃寺跡がそうだという)もそのときくらいに建てられたンじゃないかな。古墳と碑文が同時に作られたとはかぎらないから。


★以下しばらく、『続日本紀』より


08、茨田連刀自女……元正天皇の養老五年(721)正月、学業を深く修めたものたちを模範として褒賞を与えた際、「唱歌師」五人に絁十疋・絹糸十絇・麻布十端・鍬十口を与えた。うち三人が女性で、その一人。時の位は従六位下。あの河伯をヒョウタンで騙した茨田連祥子の一族の出、築堤技術者=鎮水祭祀集団の童的存在…か。


09、他田舎人直刀自売……養老七年(723)正月の叙目で正五位上を授けられた。敏達天皇ゆかりの土地に属した一族であろうか…。


 ※同時に大春日朝臣家主という人に従五位下が授けらたが、並び順からみて、「家主」という名の女性も「刀自」と同格の女人であろう(彼女はさらに天平九年・従五位上に昇進)。

 けど以後はとりあえずそういう人はオミットして「刀自」だけにする。


10、他田君目頬刀自……神亀三年(726)丙寅二月廿九日、「金井沢碑」(群馬県高崎市)を作製した一家の家刀自。上野国群馬郡下賛郷高田里の「三家(=屯倉)の子孫」を称し、先祖七代と父母のために、仏縁を結ぶ旨宣言した文章で、その娘「加那刀自」、その子(つまり孫)「物部君午足」、「蹄刀自」「乙蹄刀自」という名が見える。「ヒヅメ」という名前がご近所・多湖碑の「羊大夫 」とのかかわりを髣髴させてしまう…。また07との関連は??


11、県犬養宿禰広刀自……県犬養宿禰唐の娘で、聖武天皇との間に安積親王井上内親王不破内親王をもうけた(!みんな悲劇の人だ!)。天平八年(737)二月、正五位下から従三位、のち正三位。天平宝字六年(762)十月死去。県犬養は「犬飼」で、狩猟犬や番犬の世話をした一族…か。


12、丈部(はせつかいべ)直刀自……天平八年(737)、従七位から外従五位下となる。武蔵国造をつとめ、防人を輩出した東国の武人系列の家。


13、大辛刀自売……右京人・上部乙麻呂の妻。天平十八年(746)正月、女の三つ子を産んだ。その褒美に正税四百束を賜った。大=多であろうか。

 六国史にはたびたび、三つ子や四つ子を生んだ女性の名が記され、稲や乳母、それを養う稲などの援助があった。


14、藤原朝臣殿刀自……天平十九年(747)正月、無位から正四位上に。大伴古慈斐の妻だったらしい。古慈斐は天平勝宝八歳(756)年五月、朝廷を誹謗したという罪で淡海三船と共に数日禁固刑にされ(同族の家持はそれを恨む歌を『万葉集』に残した)、土佐守に左遷された。翌年、橘奈良麻呂の乱に連座したとしてそのまま土佐に配流。許されたのは光仁天皇の治世であった。宝亀八年(777)、古慈斐が死んだときの薨伝に「贈太政大臣藤原朝臣不比等、女を以て之に妻(メア)はす」とある人が殿刀自だろうという。政略結婚であったとはいえ心中穏やかではなかったろうに。


★「正史」を離れて文芸より


15、日下部真刀自……聖武朝の頃、防人となった、武蔵国多摩郡の人・吉志火麻呂の母。従者として九州へ付いていった。ところが火麻呂は妻子とわかれるのがいやで、道中、母を殺してその喪に服する名目で国へ帰ろうと、トンデモナイことを計画する。山の中で法会があるといって母を騙して連れ出し、今まさに斬ろうとしたとき、地が裂け、火麻呂は地獄におちた…母は寸前まで彼の罪を許してもらおうと祈ったのだが…(『日本霊異記』)。


16、椋椅部刀自売……孝謙女帝の時代、天平勝宝七歳(755)、大伴家持が中心となって諸国の防人歌を集成した、その中に歌を残す。武蔵国荏原郡の物部歳徳の妻。
草枕 旅行く背なが 丸寝せば 家なる我れは 紐解かず寝む

 『万葉集』巻二十(4416)。


17、物部刀自売……同上の時、武蔵国埼玉郡の上丁・藤原部等母麻呂が

足柄の御坂に立して袖振らば、家なる妹は清(サヤ)に見もかも」と歌う。

妻であるカノジョが、それに返歌。
色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む」(4423、4424)



★ここで一服。番外編


0A、わが子の刀自……大伴坂上郎女が、外出中の「跡見庄」より、家で留守番をしている娘・大伴坂上大嬢のことを称して『万葉集』巻四に歌う。
常世にと わが行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし わが子の刀自を
 ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし わが身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ
 かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも ありかつましじ
」(723)
このとき、坂上の家は母から娘に引き継がれていたと思われる。


0B、母刀自……一家の主=お母さん、単純に母を尊敬してこういう場合も多い。

『続日本紀』天平十一年(759)三月、「石上朝臣乙麻呂久米連若売を姧すといふに坐せられて、土佐国に配流せらる。若売は下総国に配せらる」という事件があった。そのとき配所へ立つ乙麻呂の歌、『万葉集』巻六に
君に 我れは愛子ぞ
母刀自に 我れは愛子ぞ
参ゐ上る 八十氏人の 手向けする 畏の坂に 幣奉り
我れはぞ追へる 遠き土佐道を
」(1022)
 ちなみにこの若売さんは、宮中に仕える女官であったらしく、どうやら宝亀十一年(780)六月に「散位従四位下久米連若女卒。贈右大臣従二位藤原朝臣百川之母也」と記された人と同一人物らしい。つまり藤原宇合の奥さん。当時は広嗣の乱の直前というピリピリした時期であり、宇合が西へ東へ大忙しだった時期でもある。そのすきに…という話。


上の13、14と同期の桜の「防人歌」に登場する刀自。

0C、母刀自その2)……駿河国の坂田部首麻呂の歌。

真木柱ほめて造れる殿のごと いませ母刀自面変はりせず」(4342)

母ちゃんこそ大黒柱ジャ!


0D、阿母刀自……意味は母刀自と一緒。常陸国の津守宿禰小黒栖の歌。
阿母刀自も玉にもがもや 戴きてみづらの中に合へ巻かまくも」(4377)

玉のようなお姿をホントに玉にして持ち歩きたい!!


0E、櫛造る刀自……『万葉集』巻十六。「忌部首が、数種の物歌を詠みこんだ戯れ歌。
からたちの茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自」(3832)
神聖な行事にかかせない櫛、恋愛の小道具にもなる櫛、それと、あろうことか「クソ」をシャレで引っ掛けている。作者名は不明だが、壬申の乱で活躍した「忌部首子首」説が有力(黒麻呂という人も万葉歌人でいるが、この人は万葉時代中に連姓になっている)。忌部氏は藤原氏台頭によって中臣氏に神事の仕事を奪われてゆく課程であった。こんなことやってるから…あるいはそうなったからヤケクソになった?


0F、目豆児の刀自/身女児の刀自……『万葉集』巻十六、能登国の歌。
鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自
」(3880)
目豆を「めづ」身女を「みめ」と読むか。

母さんでもなく、父さんでもなく、このわたしに頼ンげん!



★再び『続日本紀』


18、漢人刀自売……河内国石川郡の人。天平勝宝八歳(756)七月、漢人広橋等十三人とともに「山背忌寸」姓を賜った。このときまで姓がなかったということは(東か西か分らんが)漢氏のもとに組織された人々であったか。



キリがないので その01 終わり。→「その02」へつづく