亀を助ける話 | 不思議なことはあったほうがいい

ウサギと対になるものといえば…競争相手のカメさんがピーンとくる。


♪昔、昔、浦嶋は助けた亀に連れられて竜宮城へ行ってみれば、絵にも描けない美しさ‥


 渋川版『御伽草子』では、こんな↓かんじ


 「昔、丹後国に浦嶋といふもの侍りしに、その子に浦嶋太郎と申して、年の齢二十四、五の男有りけり。明け暮れ海のうろくづをとりて、父母を養ひけるが、有日のつれづれに、釣をせんとて出でにけり。……ゑしまが磯といふ所にて、亀をひとつ釣り上げける。浦島太郎この亀にいふやう、

 「汝、生有るものの中にも鶴は千年、亀は万年とて、命久しきものなり。忽ちここにて命をたたん事、いたはしければ、助くるなり。常にはこの恩を思ひ出すべし」とて、亀をもとの海にかへしける」


 ……あれ? イジメられていたのを助けたのじゃないのか…。

 そのあと、謎の女が舟に流されてきて、家まで送ってゆくと、そこが竜宮城で、契りを交わしてラブラブ仲良く楽しくすごしたが、太郎は残してきた父母のことが気になって帰郷を申し出る。すると


 「今は何をか包みさふらうべき。自らはこの竜宮城の亀にて候が、…御恩報じ申さんとてかく夫婦とはなり参らして候…」

 とカミングアウトして玉手箱をくれました。

 古典文学の例にもれず、渋川版も原本によってさまざま異同があるそうで、東大にある資料ではここのところ、  「竜宮の乙姫にて候が亀の姿に身を変じ、海上に遊びしにゑしまが磯にて御身に命を助けられ…」

 と彼女は語る。


 チョットのことだけれど、カメはあくまでカメなのか、それとも乙姫さまその人なのか、でだいぶ様子が変わるのじゃないか。

 

 もともとはどうだったのかしら?

 たとえば

  『日本書紀』

 雄略天皇二十二年の

「秋七月に、丹波国の余社郡の管川の人・瑞江浦嶋子、舟に乗りて釣りす。遂に大亀を得たり。便ちに女となる。是に浦嶋子、感りて婦にす。相逐ひて海に入る。蓬莱山に到りて仙衆を歴りみる。語は別巻に在り。」

 ほほお「史実」なのか‥って、戻ってきてオジイサンのときは何年?? ここに位置する意味は?? とにかく「別巻」を見ないとカメ=乙姫か否かはわからない。


 その「別巻」の断片ぽいのが、元丹後国司で大宝律令作成の中心人物でもあった伊豫部馬養が記した文をもととしているという『釈日本紀』所収の「丹後国風土記」逸文

 同じく雄略天皇の時代の出来事で、丹後国与謝郡日置郷筒川村が舞台。主人公は日下部首等先祖・筒川の嶼子(水の江の浦嶼の子)が…

「独り小船に乗り海中に汎び出でて釣するに、三日三夜を経るも、一つの魚だに得ず、乃ち五色の亀を得たり。心に奇異と思ひて船の中に置きて、即て寐るに、忽ち婦人と為りぬ。其の容、美麗しく、更た比ふべきものなかりき。」、ナンダ君ハ??

 女は微笑んで

 「風流之士、独り蒼海に汎べり。近しく談らはむおもひに勝へず、風雲の就來つ‥天上の仙の家の人なり。請ふらくは、君、な疑ひそ。相談(アヒカタ)らひて愛しみたまへ」。

 それで彼女に言われるまま眼をつぶると海上の大島「蓬莱」へ到着、ここでスバルやアメフリとであった話は前出た。‥(「八女 」)。このとき連中は嶼子を「亀比売の夫」と呼んでいるから、彼女は「亀比売」さまというのであろう。仙女ではあるが、蓬莱の王女というわけではないのかもしれない。

 

 このときの亀は「五色」であったが、「延喜式」の大瑞に「神亀」というのがあって、これは「五色鮮明」とある。吉凶・存亡を明らめる存在なのだと。じゃあ、この五色亀の造形は大陸の知識に影響されている可能性大ということ。

 5色というのは陰陽五行の五色 (青(緑)・赤(朱)・白・黒(玄)・黄)のことであろう。この亀は本来が「黒神之精」(玄武)であるから、他の神獣・方位・季節をも包含するというわけだな。この考えでは貝類も同じ仲間になるので、「蛤女房」の話があるのもうなずける。亀なんてみたことない!っていう漁民だっておったろう。


 ちなみに、浦嶋太郎の話は、『万葉集』巻九に高橋虫麻呂が歌にしているけれども、そこでは「亀」は出てこない。また『続日本後紀』嘉祥二年の長歌には「天女を釣った」とあって亀は出てこない。

(そのた浦島関係「陽成院の釣り怪人(浦島太郎の弟)→大仏開眼供養


 亀と竜宮城(蓬莱)の関連とは?

 竜宮城といえば、ワタツミの宮。

 海神城を訪問する話はいろいろあるが

(たとえばむかで 」「勢田唐橋 」「機織淵 」「竜宮童子 ‥ヒレ振りのオサヨさん(壷坂霊験記 ))、、、


 『日本書紀』神代下海幸・山幸物語の一書その3では、豊玉姫(と玉依姫)が出産のため、地上へ上がってくるときに大亀の背に乗って海を照らしてやってきた、とある。フカなんだから自分で泳げば‥なんてつっこまない。(→「隼人」 )(「ウガヤフキアエズ」


 『古事記』神武東征の始めのころ、吉備から畿内へと進む一行の前に「亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遭ひき」。瀬戸内の海路の案内役をかってでた彼こそ、大和国造の祖・サオネツヒコであった(『書紀』では小舟に乗ってやってきた珍彦(ウズヒコ)で、後にシヒネツヒコと呼ばれた)。


 カメ=カミ、というシャレ的発想もあるけれども、カメは現実と異界の渡し役であった。

 異界への「乗り物」としての亀が、一方で「イキモノ」の亀として自律して、ギリある人に「恩返し」するのも亀じしんの意思という場合もある。


 『日本霊異記』上とか『今昔物語集』巻十九にある話。

 朝鮮半島動乱に軍事介入した日本政府軍は最終的に白村江の戦いに敗れ敗走したが、その中に備後国三谷郡大領の祖先となる人がいた。「もし平らかに還り卒らば、諸神祇の為に伽藍を造り立てまつらむ」と請願し、弘済という百済僧を伴って命カラガラ帰国した。

 日本で仏教を広めようと決意する弘済は、仏像を造るため町へでて、アレコレ買物をしたその帰り、四匹の亀が売られているのをみて哀れんだ。これらを買い取って、放してやった。

 その帰りの舟で、乗組員たちが、弘済の持ち物に目をつけた。まずは弘済の弟子達を海にドボン、続いて弘済もドボーン! 南無三宝!

 気がつくと、弘済は海に沈まず、石の上に立っていた。助かった? よくみると彼の足元にはあのときの亀が! 恩返しに助けてくれたのだ!!

 こうして無事に帰ったが、この海賊どもがそうと知らずに、ノコノコ強奪品を売りに来てバッタリ。しかし弘済は彼らの過ちを許したという。


同じく『今昔』巻十九、継子物の話。

 延喜帝(醍醐天皇)の頃、藤原山陰というものがあり、カワイイ男の子があったが、母親は後妻であった。母はこの継子を亡き者にしようと、山陰が太宰帥として九州へ向かう船上、「はい、ヨチヨチ、オチッコですかあ?」とかいって抱えあげるや、ドボン! と海へたたきおとした。ザーとらしく動揺してみせる継母母!

 ところが、「大笠ばかりなる亀の甲の上にこの児ゐたり」‥。

 その晩の山陰の夢に出てきて亀曰く、「一年ほど前に鵜飼に捕られてたカメです。あのときアナタが服を脱いで代金として私を買って、放してくれたので恩返しです」みたいなことをいって、実はドボン犯は継母であるという証拠ビデオを夢見せてくれた。‥のちにこの子は「如無」という僧になり宇多天皇によくつかえたという。


 こうして、亀=女、じゃあそれは乙姫サマってことでいいだろう、という発想から、亀を乙姫の化身とする感性が、平安時代にはもう混在化していたらしく、

 『今昔物語集』巻二十八にはそれを前提とした笑い話がある。

 「万石大夫」とあだ名された紀助延という成功者が、備後国に出張して用事もすんだので、部下たちと浜辺で網をかけて魚捕りして遊んだとき、甲長一尺ほどの亀がかかった。郎党のなかで五十くらいのオッチャンがあって亀を見るや「己が旧き妻の奴の逃げたりしは、これにこそあれ!」 

 このオッチャンは、「虚」を好むお調子者で、どうやら日頃、自分の妻は竜宮城の姫様だったのが海にかえったのじゃ、とオンナに逃げられたのかモテナイのか、自分の境遇を茶化して周りに話しては昔話の主人公をきどっていたらしい。まあ、回りはたぶん「オヤジまた吹いてるぞ」ってかんじで笑っていたんだろうけれど、

 で、このオヤジ、おーイトシの彼女! と いきなり亀に抱きついてキスをする。キスマークチュー

 びっくりしたのは亀。(そもそもオスかもしれないし)。びっくりして、オヤジの口に噛み付いた! のでイテテ!! 回りの仲間が甲羅を叩いて放そうとすると、ますます食い込む、、、結局亀の首を切り落としたが、口元にブラーン。大変血がでで、へんてこに腫れて、一同笑うを越えて「憎む」ありさま。ヤレヤレ…ウソがウソを呼んでゆく「少女地獄」ならぬ「おやじ地獄」…ぼくの身近にこういうタイプいます。マジで。

 

 「地獄」ついでに‥

『今昔物語集』巻十七

近江国甲賀の貧しい下人が、妻の織った布を持って矢橋津にゆき、漁師の獲物と交換しようとしたが、魚は取れないで亀が取れた。

 「亀はこれ命永き者なり、命ある者は命をもちて財とす。われ家貧しといへども、布を棄ててなんぢが命を助くるなり」。

 手ぶらで帰った男に妻の「責めにくみて謗り恥かしむること限りなし」。

 その後、男はポックリ死んで、愛のない女房はその遺体をポイと山中に棄てちまう(いや、そいう風習だったのかもしれないけれど)、、ともかく、男はななんと、三日後に生き返る!!。

 男の証言によると、冥途の広野で地蔵菩薩に助けられたのだという。その地蔵さんはじつはあのときの亀であった。亀地蔵の口ぞえで地獄の官人から許された男であるが、そのときたまたま行逢った見知らぬ女も一緒に連れて帰ったという…この話は前でた。(→めいどの土産



 「鶴の恩返し 蟹の恩返し因幡の白兎の予言も恩返しといえるし、兎といえば、「カチカチ山」の兎とか、「ぶんぶく茶釜」の狸とかも、後年の作品では「恩返し」がらみで説明されている絵本や童話があるそうな。

 恩返し=よいこと、に限らず、ズバリの悪報や、人魚 を食ったから死なないとか、坊さん殺した から一家滅んだ、とかいう原因説明全般は、仏教でいうところの因果応報である。われわれは人生の短いことを知っている、欲望の抑えにくいこともしっている。よって、結果は早く知りたい・得たい。けれども、それでいいのですか、生きるっていうのはそうせっかちなことをすることなのですか、「生命」は永遠なのではないですか、あせらずゆこうよ、いいことすれば・いいことはいつかきっとかえってくるよ、たとえそれが孫の世代になってまでも……なーんてかんじのながーいスパンでものを感じ・考えるためお説教をソフト化するさいに、「長生き」亀は都合のよい存在だったのだな。……


★★★

 長生き=縁起がいい! ということでさきの五色亀にかぎらず、ちょっと珍しい亀は縁起のいいものだともてはやされた!‥‥‥雉ちゃん、兎ちゃんの前例があるので、とうぜん亀さん篇。六国史からめでたい亀の登場を拾ってみた。

★★★


『日本書紀』
 天武天皇十年(681)九月。周防国より「赤亀」献上、嶋宮(元・馬子の邸宅あとで、このときは草壁皇子の宮殿)内の池に放生した。

 赤亀なんだ…。

『続日本紀』
 文武天皇四年(700)八月。長門国から白亀献上。

 以後、この手の話は「白亀」が多い。


 元明女帝の和銅八年(715)八月「左京の人・大初位下・高田首久比麻呂、霊亀を献ず。長さ七寸、闊さ六。左の眼白く、右の眼赤く、頚に三公を著し、背に七星を負ひ、前の脚に並に<離の卦>有り、後の脚に並に<一爻>有り。腹の下赤白ふして両点あり。八字を相ひ次つ。」

 三公とは天子の補佐をする三人の大臣で、大熊座の足部分の三星をいい、いいタイミングで天子の乗り物である北斗七星があるという、つまり、天皇を支える車と臣がせいぞろいしている。雉のときもそうだが、めでたい験というのは、臣がシッカリしているからこおそ顕れるのである。で、翌九月、元正天皇(氷高)即位に際して年号を「霊亀」と改める。久比麻呂は従六位上としたくさんの褒美が出た。(といっても、例の養老の滝発見で「養老」と年号は変わる)


 養老七年(723)十月。左京の人、無位・紀朝臣家が白亀を献ず。長一寸半、廣一寸、両眼並に赤し。‥図諜を調べた結果、『孝経・援神契』によると「天子孝あるときは則ち天龍降り、地亀出づ」。また『熊氏瑞応図』には「王者偏ならず党ならず、耆老を尊用ひ、故旧を失せずして、徳沢流洽するときは、則ち霊亀出づ」。よってこれは「天地の霊貺、国家の大瑞なり」と結論した。

 この手の「調査報告」は後の平安時代の瑞亀出現にさしてもいちいちされている。(めんどうなので以下は解説は抜かない)

 とにかく、発見地には免税を、罪人には特赦を、紀家と大倭国造に褒美がでた、ということは亀は大和で見つかったのだろう。年改まって、位を甥っ子・聖武天皇に譲ると、「今、将に嗣ぎ座さむ御世の名を記し応へ来たり、顕れ来たる物に在るよしと所念坐して」「神亀」と改元した。


 その神亀三年(726)正月京職が白鼠を、大倭国が白亀を献上。
 長屋王の変の興奮さめやらぬ、六年目(729)六月、左京職(藤原麻呂)が、長さ五寸三分闊さ四寸五分の亀を献上、その甲に「天王貴平知百年」と文字があった。それで「天平」と改元した。このとき発見者は河内国古市郡の無位・賀茂子虫。褒美に従六位上の位をもらった‥。
 天平十七年(745)十月。河内国司・大伴宿禰古慈斐の報告に、右京人・尾張王が古市郡古市里の田家の庭で白亀一頭(長九分、闊七分、兩目並赤。)を見つけた。年明けてから、例によって免税・叙位・褒美。

 天平勝宝四年(752)正月。大宰府が白亀献上。

 天平勝宝五年(753)十一月。尾張国が白亀献上。

 神護景雲二年(768)七月。日向国宮崎郡の大伴人益が白亀献上。眼は赤い。同時期に参河から白烏、肥後からは「青馬の白髪尾」もみつかり例によって調べたら大瑞である、とくに神亀は「天下之宝」であるとでた。以下例によって同様。

 神護景雲四年(770)八月、肥後国葦北郡の日奉部広主売と、益城郡の山稲主がそれぞれ白亀を献上した。十月には例によって叙位・褒美・減税などあって、年号を「宝亀」に変更。
 宝亀三年(772)十月。肥後国葦北郡家部嶋吉と八代郡高分部福那理がそれぞれ白亀献上。

 宝亀六年(775)四月。近江国が赤眼の白亀を献上、同九月には河内国が白亀を進呈。


 ‥フウ…まだやる? じゃあ、駆け足!


『続日本後記』

 承和十五年(848)五月。大宰府より白亀献上。これは豊後国大分郡の伴公家吉が寒川郡でとらえた。おなじみの免税・叙位・褒美あり。「嘉祥」と改元


『文徳実録』

 嘉祥三年(850)六月。美作国英多郡より霊亀を献上。「雪白可愛」。

 同七月。備前国磐梨郡から白亀献上。同時期に石見国では甘露が発生。
 同九月。摂津嶋上郡河上から白亀献上。とこのとしは白亀ラッシュ。これを延引として翌年「仁寿」改元


『三代実録』 

貞観十二年(870)二月。佐渡国「奇亀」を一匹献上。「鳥觜」を持ち、甲羅は赤く、地は黒であった。
貞観十八年(876)七月。肥後国合志郡・正六位上奈我神社の川辺から白亀一匹。長五寸、闊四寸五分。
元慶改元もこれが因?

元慶七年(883)八月、因幡国が白亀一匹献上。

仁和二年(886)十月、宮中で宴のあった日、大学寮が白亀を捕らえて献上。

仁和三年(887)七月、東宮の建物に虹が降り立った不思議の日、綾綺殿と仁寿殿の間で白亀が見つかり、神泉苑に放たれた(その夜地震があったという)。

……亀といえば、占いのことも忘れてはならない…けどね、それいつか続くちうことで…