誰かの妄想 -14ページ目

法律ってのは悪用されることを前提に考えるべきなんだが・・・


言うまでもなく、法律ってのは、国家権力が主権者たる国民の権利を制限する機能を持っているわけで。なので、政府(国会)が法律を作ろうとしている時は、国民はその法律が悪用された場合、どうなるか考えるのが基本。


もちろん、法案提出者は「悪用なんてしませんよ」って言うに決まってるわけです。
日本の国家総動員法もナチスの全権委任法も審議ではそう言って国民を騙したわけです。
最近の例では国旗国家法ですね。教育関連の法案もおそらくそうでしょう。


悪用されるものと想定して法案のあらを探すのは野党の重要な役目です。
つまり、野党は批判ばかりしている(対案を出せ)、っていう非難は基本的に的外れなわけです。
対案は出せるときと出せないときがあって、何でもかんでも「対案」って言って野党批判をする人は、まず間違いなく与党の工作員(統一協会・創価学会とかか?)か盲従する支持者(党員とか信者とか)かそれに踊らされている人(ネトウヨ)のどれかでしょう。

当然ですが対案も法案であって、そこには必ずあらがあります。与党としては野党対案のあら探しをして、与党法案のあら探しをする暇を与えない、という戦術が取れるわけですね。その戦術を使って最終的に数の力で法案を通されてしまうと、成立した法案は十分に吟味されていないものになっている可能性が高いわけです。

野党に対案を求める人は、結局のところ、成立法案の粗悪化に手を貸してるわけですな。


それはそれとして、mujinさんのところ で知ったこと。

「著作権法の非親告化」法案の件。

「権利者当人がなにも言ってないのに、赤の他人が先回りして二次利用を制限するってのがおかしい、つー話。」
に全面的に同意です。

著作権侵害については、著作権の所有者自身が侵害を確認した場合に親告すれば言いだけの話なのに、なぜ非親告化が必要なの?
これに賛同している人たちって、多分、違法画像だとかそういうものが取り締まられるんだろう、と素朴に考えているんだろうけど、この法律も本来なら悪用されることを考えるべきなんだよね。


著作権法に詳しいわけではないので以下の例が適切かは断言できませんが。


例えば、イラク戦争での被害を訴えるような映画があったとします。
地方の町内会の委員がこの映画のDVDを借りてきて公民館で放映したとします。
映画の著作権者は、反戦を訴えるためなのでそういうところでの放映は構わないと考えていたとします。
でも町内会の委員は著作権法違反で捕まりました。
その事実は特に著作権者に伝えられることもありませんでした。


こんなことが起こってもおかしくないわけですよね。

別にDVDでなくても反戦団体が配布しているチラシや冊子の内容を別の反戦団体が二次利用した場合も摘発可能ですよね?


同じく、ブログで誰かの上手い表現を持ってくることも危険なわけですよね?
”安倍壷三”とか。”Abend”とか。(引用の範囲で済むのかも知れんけど)


一体誰が被害者なの?と言う事例で摘発される可能性があるわけですよ。


竹熊さんの言っている漫画家などの表現に対する懸念 もさることながら、それ以上に怖い法案だと思います。



裁判の意味をわかってないのでは?

なんだかね、このニュース。


痛いニュース(ノ∀`):光市母子殺害事件 弁護側「死姦は蘇生行為」と主張

個人的に「容疑者許せん」と考えるのは、別に構わんのだが、弁護団を批判するのは違うだろ。


どうも、裁判を、被害者に対するリンチを正当化するものと勘違いしている人が多いような気がする。

頭の中が近代以前という感じ・・・。




書評・どこの架空世界だ?これ?

マンガ日狂組の教室/大和 撫吉
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作者は漫画の読みすぎだと思う・・・。というか漫画にしても、今どきこの設定はどうなの?
まあ、ただの漫画なら、第一話で転校生が校門で地雷を踏んで爆発しても、水をかぶって女になっても、引き出しから青い猫が出てきても、男子の制服を着た女子生徒が薔薇の花嫁争奪に参加しても、別に構わんのだが(どれも古いなあ・・・)。

これで教育問題をわかった気になるバカが素でいそうなので・・・。



マンガ日狂組の教室 (単行本)

今、学校が危ない! 日教組(日本教職員組合)が引き起こしている「教育テロ」の実態がマンガでわかる!!
◇あらすじ
瀬良中学に転校してきた村上宏一は始業式で驚くべき光景を目にする。そこでは、君が代の斉唱を拒否して日の丸を引き裂く過激な教師や生徒たちが学校全体を牛耳っていた。彼らは我が物顔で自虐的な歴史教育、行き過ぎた性教育、ジェンダーフリー思想を子どもたちに押し付けていた。そんな状況を打ち破るべく、新任教師の桜井旭が立ち上がった。彼は校内にはびこる偏向教師たちを次々に論破して、子どもたちを惑わせる諸悪の根源に迫る。果たして、偏向教育の背後に潜む黒幕とは? 子どもも親も知らなかった教育界最大のタブーに、真っ向から斬り込む野心作がついに登場! 教室で起こっている"教育テロ"の実態を暴く!!

◇マンガ本編
 ◆一限目 荒れる始業式 ----「日の丸・君が代」問題
 ◆二限目 サヨク教師の「特別平和授業」---- 偏向歴史教育
 ◆三限目 セックス革命 ---- ジェンダーフリーと性教育
 ◆四限目 「教育テロ」集団 ---- 日教組の正体


ちなみに、「君が代の”君”は、天皇を指すか、二人称の”あなた”を指すか決まってない。それなのに君が代が国家主義みたいに言うのはおかしい」的な主張をまんがの転校生君はするのだが・・・。


確かに、もともと君が代の元になった歌では、二人称の意味で”君”を使ってます。それは、雁屋哲(ネトウヨの言う「反日漫画家」、捕鯨問題では相当アメリカを叩いてたんだけどなあ・・・。ネトウヨは従米なのか、単に読んでないのか・・・)の「日本人と天皇」でも出てきます。


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ただし、雁屋氏がこのまんがを書いた前後1999年7月に状況が変わります。

国旗国歌法を巡って、当時の総理大臣小渕くんが以下のように発言しています。


平成11年07月28日 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会
○国務大臣(小渕恵三君)
 橋本聖子議員にお答え申し上げます。
 国旗と国歌を法制化する意義についてお尋ねがございました。
 議員御指摘のとおり、日の丸と君が代はともに長い歴史を有するもので、さまざまな国際会議や、議員が出場されたオリンピック大会など国際競技大会でも我が国の国旗と国歌として内外にあまねく認知されてきたものであります。
 政府としては、このように日の丸と君が代が、長年の慣行により、それぞれ我が国の国旗・国歌として内外で広く定着していることを踏まえ、二十一世紀を迎えることを一つの契機として、成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに法制化を行うことといたしたものであります。
 君が代の「君」に関する解釈についてお尋ねでありますが、政府といたしましては、日本国憲法下における国歌君が代の「君」は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、また君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当であると考えております。


もう、日本の内閣総理大臣が、「国歌君が代の「君」は、(中略)天皇のことを指して」いる、と断言しちゃってるわけですな。
特に失言と言うわけでもないらしく、以後も政府委員が以下のように説明してます。

(国会議事録で1999年から2007年まで「君が代 天皇」で検索したけど、特に取り消すような発言は見当たらなかった)


平成11年08月02日 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会

○政府委員(竹島一彦君) 政府といたしまして、まず君が代の「君」につきましては、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇、要するに象徴天皇のことを指しておるというふうに申し上げておりまして、その「君」に関して国民が同時に入るという見解は政府としてはお示しをしておりません。
 しかしながら、君が代とはという段になりますと、これは日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであると。「代」というのは本来、時代、時間概念でございますけれども、広辞苑にもございますように、これは転じて国をあらわすというふうにも使われておる言葉でございまして、君が代というのは象徴天皇の代ということではなくて、象徴天皇、まさにこれは日本国及び日本国民を象徴されておる、その日本国民から成る日本国、それが君が代である、それで君が代の歌詞全体もそのような日本国、我が国の末長い繁栄を祈念したものである、こういうことになっておりまして、そこまで御説明申し上げると国民主権との関係も何ら矛盾がないというふうに私どもは考えております。


平成11年08月06日 参議院 国旗及び国歌に関する特別委員会
○政府委員(竹島一彦君) 君が代の解釈について戦後いろいろあったのではないかというお尋ねでございますけれども、政府といたしましては、今回、政府見解でお示ししているのと同様でございますけれども、君が代の「君」は、一言で申し上げますと象徴天皇を指す、君が代は我が国のことを意味している、君が代の歌詞の意味は我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものであるということについては変化がないと思っております。


というわけで、日本政府の解釈において、君が代の「君」は「天皇」であることは明白です(”君が代”=我が国、という言い訳はありますが)。

まあ、雁屋氏のまんがは、この政府発言の前(記載のある第4章は1999年6月初出)に書かれているもので別におかしくはないのですが、大和氏のまんがは、政府発言から既に8年経っている時点で「今ごろ何言ってんの、こいつ?」という感じですね。


大体、日の丸・君が代について語るんなら、国旗国歌法制定時の国会論議くらいは把握しとくべきと思うんですが・・・。

ま、「日の丸万歳、君が代万歳、俺って愛国者、みんな俺を褒めて」という自己陶酔満載の結論が最初にあるから、そういうことは調べないんだろうね・・・。

これを読んで「日の丸万歳、君が代万歳、俺って愛国者、みんな俺を褒めて」型ネトウヨが量産されるんだろうな・・・。


今度は誰のせいにするんだろう。

石原都知事の痴能が高いのは、もう今さら、という気もするのでいちいち言及しませんが。


擁護するネトウヨについては、イナゴ並みに、はしご状神経系しかなくて多分「脳」と呼べるほどには神経が発達していないと思われるのでどうでもいいや。


従軍慰安婦問題、「軍が調達した事実はない」 石原知事(2007年05月18日10時37分)

またもばかげた妄言ですが、いろんな所で散々突っ込まれているので、ここでは突っ込みはしません。


ただ気になってるのは、


今度は誰のせいにするのかなあ?


という点。


いい年して、と言うべきか、いい年だから、と言うべきか、自分の尻も拭けないお人のようなので・・・




雑学はあっても、知識を処理できない人


社会派くんがゆく!乱世編/唐沢 俊一
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この人の雑学は面白いんだけどね。

まあ、雑学なんて、面白いけど役に立たない知識なわけで、要するに色んな知識が体系化されず、ばらばらになっている状態。根拠のない都市伝説のようなものだと考えれば罪はない。


でも、富田メモが怪しい、なんていい始めた段階で、おいおい(苦笑)、と。

で、言っている根拠は青インクって・・・

タイミングがよ過ぎるって・・・


(関連エントリ)

天皇発言に疑問あり?http://ameblo.jp/scopedog/entry-10014988274.html

時期の問題1・2006年7月20日というタイミングhttp://ameblo.jp/scopedog/entry-10015092931.html

時期の問題2・昭和63年1988年4月28日というタイミングhttp://ameblo.jp/scopedog/entry-10015094523.html



唐沢俊一氏は「学びて思わざれば~」を地でいってるのかね?


それとも、ノストラダムスの大予言や「アポロは月に行ってない」論と同レベルで楽しむべきなのか?



産経症・今さらだけど、古森氏の記事

産経の古森記者が、(米軍も日本側の慰安婦は民間調達と認めていた。 2007/05/14 22:59 )と言う記事で、まるで新発見の資料かのように(「戦時の日本軍の慰安婦に関して、日本側の民間業者が慰安婦候補とした女性家族にまず現金を支払って彼女らを取得していたことを示す米陸軍の調査報告書があることがわかった。」というくだりとか)主張している資料。

既にいろんなところで突っ込まれているので、今さら観たっぷりですが、まとめてみました。


まず、原文ですが、表題部分がこうなってます。
「 A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA.

Note: The following is derived from interrogation at C.S.D.I.C.(I) of M.739, and from O.W.I. Interrogation at Ledo Base Stockade of 20 Korean “comfort girls”,

Report dated 21 Sept. 1944.」


「Report dated 21 Sept. 1944.」の前で改行されていますね。

なので一見すると、「A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA.」と言う名前の報告書が1944/9/21に作られたかのように感じるんですが、よく見ると「“comfort girls”,」の最後がカンマになっているわけです。


本当なら
「Note: The following is derived from interrogation at C.S.D.I.C.(I) of M.739, and from O.W.I. Interrogation at Ledo Base Stockade of 20 Korean “comfort girls”, Report dated 21 Sept. 1944.」
こう続けて表記される部分です。


なので「報告書は米国陸軍の戦争情報局心理戦争班により第二次大戦中の1944年9月に作成された」というのは間違いで、1944年9月に作成された」のはこの報告書が参照している尋問記録であって、この報告書本体についてのことではないんですね。


そう考えると、この部分、dempaxさんが紹介されている(http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070512 )吉見義明氏の「従軍慰安婦資料集」(p458)にある記載そのままであるとわかります(CSDISはCSDIC(Combined Services Detailed Interrogation Centre)のタイプミスでしょうけど )。
「以下の記述は,CSDIS(I)において行われたM739の尋問,ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである.」


要するに古森記者は、既に吉見義明氏により日本語訳され出版されている内容の英語原文を”個人的に”新発見しただけですね。何のことはありません。なおかつ、報告書作成日について、誤認、あるいは改竄しています。


ちなみにCSDICは、Combined Services Detailed Interrogation Centreという、イギリスの組織でMI5やMI9と共同で諜報活動を行っていた組織です。(http://en.wikipedia.org/wiki/Combined_Services_Detailed_Interrogation_Centre
抑留者、亡命者、ナチス捕虜、日本兵捕虜の尋問を専門に行っており、1947年に閉鎖されています。



さて、私自身、そんなに資料を見ているわけではありませんが、最近教えてもらった物も含めると、ビルマ・ミッチナの慰安婦に関する資料で目を通したのは、以下の3つです。


1.アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日(以下、「OWI報告49号」)
2.東南アジア翻訳尋問センター心理戦 尋問報告 第2号 1944年11月30日(以下、「SEATIC報告2号」)
3.ALLIED TRANSLATOR AND INTERPRETER SECTION SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS , RESEARCH REPORT No.120
AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES(1945年11月15日)(以下、「ATIS報告120号(1945/11/15)」)


で、時系列を整理してみます。


・1942年5月初旬、東南アジア方面の慰安婦募集のため周旋業者が朝鮮に到着。
・1942年8月20日ごろ、800人の慰安婦がラングーンに到着。
・時期不明、40~80人程度の慰安婦がミッチナに到着。歩兵第114連隊管轄。
・1943年1月までにミッチナに2つの慰安所が開設。
・時期不明、ミッチナでキョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤの4つの慰安所を開設。
・時期不明、バクシンロウをキンスイに吸収。
 キョウエイ:朝鮮人慰安婦22人
 キンスイ:朝鮮人慰安婦20人
 モモヤ:中国人慰安婦21人(広東から)

・1943年6月、第15軍司令部、返済の終わった慰安婦の帰国を手配。
(捕虜となった慰安婦達のうち1名は返済が終わっていたが説得され帰国を断念している)
・1944年7月31日夜、慰安婦ら63名がイラワジ川渡河。
・時期不明、慰安婦らワインマウ付近に上陸。
・1944年8月4日、慰安婦らワインマウ付近を出発。
・1944年8月7日、小規模な戦闘が発生し、一行はばらばらになる。慰安婦らは兵士とはぐれた。

(その他の慰安婦について、
 中国人慰安婦20人はジャングルに隠れ中国軍に投降した。
 別の20人ほどの朝鮮人慰安婦は日本軍についていき、まだ同行しているのを8月19日に別の捕虜が目撃している。)


捕虜になった慰安婦らは、いかだをつくるため2日間廃屋に隠れており、そこには日本の負傷兵も一人いた。
(Prisoner of war's party took shelter in an abandoned native house where they remained for two days while prisoner of war tried to construct a raft;with them was a wounded Japanese soldier.)


逃走開始時にいた63人中、4人は死に(事故死?)、2人が日本兵に誤認され(この部分追加修正2007/5/26)誤射された。

1944年8月10日、慰安婦らがイギリス軍に捕らえられる。


ここまでが、「OWI報告49号」「ATIS報告120号(1945/11/15)」からわかる、慰安婦らが捕らえられるまでの状況です。
それ以後は以下のような感じ。



時期不明、捕虜(慰安婦ら)、ミッチナに移動。
1944年8月15日、捕虜(慰安婦ら)、レド捕虜収容所に到着。
1944年8月20日~9月10日、捕虜に対する尋問を実施。
1944年9月21日、尋問記録を報告(Report dated 21 Sept. 1944.(以下、「尋問報告1944/9/21」))
時期不明、CSDICによる楼主に対する尋問を実施。
時期不明、CSDICによる楼主に対する尋問記録を報告(詳細不明、多分イギリスが保管。以下、「楼主尋問報告X」)。
1944年10月1日、Alex Yorichiによる「OWI報告49号」が報告される。
1944年11月30日、「尋問報告1944/9/21」及び「楼主尋問報告X」を基に「SEATIC報告2号」が報告される。

(終戦)

1945年11月15日、「SEATIC報告2号」を基に「ATIS報告120号(1945/11/15)」が報告される。


こんな流れでミッチナ慰安婦関連の連合軍側資料が作成されたようです。他にも戦犯裁判用にまとめた報告書はあるかもしれませんが、あるとすればアメリカではなくイギリスの方が可能性が高いでしょうね。


上に列記した流れで作成された報告書は、以下5種類。

「尋問報告1944/9/21」
「楼主尋問報告X」1944/9-11頃
「OWI報告49号」1944/10/1
「SEATIC報告2号」1944/11/30
「ATIS報告120号(1945/11/15)」


このうち、「尋問報告1944/9/21」「楼主尋問報告X」については、内容を確認したわけではないのですが、おそらく存在しており、尋問の口述記録であろうことと考えられます。ただし、それを参照した資料に重大な疑義でもない限り、尋問のやり取りを一字一句調べる必要性はないと思うので、特に調べる気はありません。


ただ、新資料を探すなら、少なくともビルマ方面に関しては、米国公文書館より英国公文書館を探すべきだと思います(→古森君)


基本的にビルマはイギリス軍の担当で、イギリスの組織であるCSDICが尋問していますので。



「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」に関連して


ネトウヨサイト(http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/index.htm )で参照している捕虜尋問報告49号の訳文だが、そこかしこで見かけるけど、かなり雑な訳なので信用できない・・・。


例えば、以前も書いたけど
”They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places.”「彼女らはビルマの他の所と比べて高級地近くに住んでいた。」と訳すのはね・・・。

なお、吉見教授の「従軍慰安婦資料集」では、「ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。」と訳されている。


”They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles.”
「彼らは贅沢に暮らした、それは彼女らの食事や物質は大量には配給されず、彼女らが望む品物を買えるだけの十分なお金を持っていたからである。」これも、文章が変になってますね。


「従軍慰安婦資料集」訳「食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。」
"not heavily rationed"は、”ひどく配給制限されることはない”と訳すべきで、つまり「食料・物資の配給量は多くなかった」が正しいでしょう。
ついでに”They lived well”を、「彼らは贅沢に暮らした」とは誇張しすぎな気がします。


あと酷いのは、誤訳ではないけど
”A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers.”
「「慰安婦」とは、売春婦にすぎない。もしくは「野営追随プロ」、軍人の利益の為日本陸軍に付属する。」と訳している点。ネトウヨサイトでは、これをして、得意げに「慰安婦はただの職業的売春婦だ」というわけだが、これは全く時代背景を無視した論調(今の価値観で過去を裁くな、とか言うくせに)。
つまり、この報告書が作成された1944年時点の米軍にとって"comfort girl"という言葉が、売春婦を連想させるものではなかった、連想できたとしても、字義上の意味と異なる隠語なので、報告書では説明が必要だったわけですね。


最後に「1943年後半、陸軍は債務を返済した女性へ帰省を命令し、何人かの女性は寄って、韓国へと帰国した。」と得意げに書いているが、これは完全に誤訳か改竄。

原文は、これ。
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.


”Some of the girls were thus allowed to return to Korea.”
直訳すれば、”何人かの女性は朝鮮に帰ることを許された”であって、「韓国へと帰国した。」ではない。吉見教授の「従軍慰安婦資料集」でも「1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める旨の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。」とのみ訳されており、「帰国した」とは書いていない。


ちなみに、「従軍慰安婦関連資料集成5」26.調査報告書 No.120「AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」(1945年11月15日)「II AMUSEMENTS、9.Brothels、b.BURMA」節の中の(pdfファイルのP178、「従軍慰安婦関連資料集成5」のP152、米軍報告書のP18)には、第49号にある朝鮮人慰安婦ら22人(楼主含む)について、
"When a girl is able to repay the sum of money paid to her family, plus interest, she should be provided with a free return passage to KOREA, and then considered free. But owing to war conditions, no one of prisoner of war's group had so far been allowed to leave; although in June 1943, 15 Army Headquaters had arranged to return home those girls who were free from debt, and one girl who fulfilled these conditions and wished to return was easily persuaded to remain."

とあって、1943年6月に第15軍司令部は返済の終わった慰安婦を帰国させる手配をしたが、条件を満たした女性(一人)は留まるよう説得され、戦況の悪化により、結局この捕虜グループからは誰も帰国していない旨が述べられている。


実際に帰国できなかったとしても、帰国を許可したんだから”いい関与”だ、と主張する人がいそうなので追記しておく。


明治33年1900年2月大審院判決
「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」


「娼妓取締規則」明治33年1900年10月内務省令第44号
第6条 娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得ず


この判決と内務省令の意味するところは、娼妓は楼主からの借金返済に際し娼妓であることを強制されることはない、ということ。つまり、借金の有無に関わらず自由に廃業して構わない、ということ。
もう少し言い方を変えると、借金を返すための手段は自由に選べる、と。

「娼妓取締規則」は、現実的な返済手段が娼妓しかない女性にとっては不完全なものではあったが、自由廃業の権利を勝ち取った人権問題上の大きな転機ではあった。


さてもし、ビルマにいた慰安婦が公娼(娼妓)であったなら、自由廃業の権利があったはずで、日本軍には返済の有無によって帰国の是非を決める権利はないわけです


”orders that certain girls (中略)could return home”を軍が発行すること自体、軍が自由廃業を阻害していたこと(そもそも自由廃業の権利を知らしめてないであろうこと)を示しており、娼妓取締規則そのもの、あるいはその精神に反するわけです。


「帰国の許可」の存在は”いい関与”を示すものではなく、”悪い関与”を浮き彫りにするものです。




備忘録・日本人捕虜尋問報告 第49号に関し気になった点(追記あり)

「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日」にある記載で、ちょっと気になった点を記載しておく。

以下の記載。


「捕虜 朝鮮人慰安婦20名 」

Prisoners: 20 Korean Comfort Girls

「 この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。」

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.


何かというと、この時捕らえられたのは、20人の朝鮮人慰安婦の他、楼主2人であるのに、慰安婦のみが捕虜とされている点。


記載漏れかとも思ったのだけど、Civilianと書いている以上、Prisoners of War(捕虜)として扱われたとは考えにくい気がする。


つまり、アメリカ軍からは、慰安婦は軍人・軍属としてみなされた、ということかな、と。


で、そうだとすると、楼主2人に対する尋問というのは、民間人の参考人としての聴取に近いものだったのかな、と。


まあ、そんな感じのことを考えました。


「見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。」


この部分が、どうにも楼主2人の発言としか考えられないので(慰安婦本人が言うわけないし、米兵が聴取で判断できる内容でもない)、上記のようなことを考えてみました。



(追記2007/5/14)
eichelberger_1999さんからのご指摘で、楼主も「捕虜」として扱われていることを知りました。
根拠となる資料は、「従軍慰安婦関連資料集成5」で、

26.調査報告書 No.120の「AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」(1945年11月15日)
の中の「II AMUSEMENTS、9.Brothels、b.BURMA」(pdfファイルのP179、「従軍慰安婦関連資料集成5」のP151、米軍報告書のP17)に「A prisoner of war, a civilian brothel-owner, captured with his wife and twenty army prostitutes near WAINFMAW on 10 August 1944,」とありました。

この資料の参照先は、「SEATIC Interrogation Bulletin No.2 doled 30 November 1944, Pages 10-13」になってます。
dempaxさんのエントリ「『心理戦 尋問報告 第二号』/吉見義明『従軍慰安婦資料集』を読む」(http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070512 )で言及されているのがこれでしょうか。

(わかったこと)

まず、捕虜にした慰安婦20人及び楼主2人の計22人に対し、尋問を行った(the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians)。これが1944年8月20日から9月10日。

(この尋問のやり取りそのものの文書記録が作成され、これがおそらく9月21日に報告されている。)

この尋問のみを参照して主として「慰安婦」に関してまとめたのが、49号(1944年10月1日)。
このため、49号には慰安婦自身の証言の他、慰安婦に関する楼主の証言も含まれている。これに対応する「楼主」に関する報告書もあるんじゃないかな、と思うんですが・・・。

dempaxさんのエントリでは、「以下の記述は,CSDIS(I)において行われたM739の尋問,ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである.」とあるので、上記の尋問の他に、M739(楼主)に対して、CSDISという部門があらためて別に尋問を行ったわけですね。
で、その結果を連合軍東南アジア翻訳尋問センター(SEATIC)が報告書にまとめたのが2号(1944/11/30)。こちらはどうも軍事的情報価値の高いものを尋問したという感じをdempaxさんのエントリから(全文ではないので感じだけ)受けます。慰安婦がどういう状況に置かれたかよりも、軍隊内の位置付けや運営などに大きな興味があるのでしょう。

さらに、この報告書を基に、連合軍翻訳通訳部局(ATIS)が「調査報告書 No.120 AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES」として1945年11月15日にまとめたようです。






慰安婦高給・高収入・高額報酬説まとめ


ネット上にあふれる「慰安婦は高給取りだ~」「慰安婦は儲かる商売」「女子特殊軍属は破格の高給」「陸軍大将や総理大臣より高額報酬」とかの都市伝説に対し、色々検証してみました。


1.従軍慰安婦問題・慰安婦高額報酬説のトリック

2.都市伝説・慰安婦高額報酬説(追記)

3.慰安婦と軍票


結論から言うと、慰安婦の報酬が高額だったという確たる証拠はありませんでした。

慰安婦の証言に対し「裏づけのない証言は信用できない」などと主張する否定論者が、ろくに調べもせずに都市伝説を垂れ流している、という構図が浮かび上がった観があります。


調査対象は以下の通りです。


A.「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告」の記載(現物画像、原本テキスト、翻訳テキストからの検証)
B.元従軍慰安婦文玉珠氏の貯金に関する件(現物画像からの検証)
C.朝鮮での慰安婦募集のチラシの件(現物画像からの検証)
D.「関東軍女子特殊軍属服務規程」の記載(現物確認できず、伝聞のみ)



「A」「B」については、当該時期・地域における軍票のインフレ状況から高額とは言えないと判断できた。
「C」については、勤務地域・条件詳細が不明のため判断できなかった(高給とも薄給とも言えず)。
「D」については、伝聞として「月800円」「年800円」の2情報があり、現物確認まで判断を保留した。


上記中の不明事項・上記以外の根拠をもって、「慰安婦は高給取りだ」と主張される方がいるなら具体的な情報をいただけると幸いです(特に「関東軍女子特殊軍属服務規程」がどこで参照可能かご存知の方はいればご教示くだされば非常に助かります)。

なお、ここで高給と言うのは、内地での月給30~60円程度を指すのではなく、少なくとも月給100円以上として考えてますのでご理解ください。
石川啄木が「月に三十円もあれば、田舎にては 楽に暮らせると- ひよつと思へる。」と詠んでいるので、明治ごろの田舎なら月50円でも高給でしょうが(逆に月給30円でも都市部なら薄給だったのでしょう)、昭和初期の都市部では「昭和6年の政府の家計簿調査によると、都市部勤労者世帯の1か月の平均収入は86円」だそうですから、都市部で高給と言えば月給100円以上と考えてそう間違ってはいないと思います。

李容洙証言は否定できるか?

李容洙氏は複数回の証言において、拉致時点の年齢が変わっており、慰安婦否定派やネトウヨたちからは「嘘つき」と誹謗されている。李容洙氏が虚偽証言をしていると仮定しても、全ての慰安婦の証言が覆るわけでもなく、事件全体としてはほとんど影響しないはずなのだが、ネトウヨ得意の「一部の否定を全体に適用する手法」が多用されています。


とりあえず、今回は李容洙証言は虚偽と言えるか、について検討してみます。


ネトウヨの主張する虚偽とは、年齢と勤務期間に関することのみである様子。


まず、李容洙氏が1928年12月13日生まれであることを前提として以下の記事を考えてみよう。


赤旗新聞(2002/6/26):拉致時点「14歳」、証言時点73歳(数え年74歳)(記事内:74)
朝日新聞(2007/4/27):拉致時点「15歳」、報道時点78歳(数え年79歳)(記事内:年齢記載なし)
朝鮮日報(2007/4/30):拉致時点「16歳」、報道時点78歳(数え年79歳)(記事内:79)


朝日新聞については、記事内に現在の年齢の記載がありませんが、赤旗・朝鮮日報では数え年で表記しています。記事の方針と言うよりは、この年代の人達の習慣として数え年で応えたのでしょう。


で、実際に拉致されたのはいつか?

http://toron.pepper.jp/jp/syndrome/ianfu/shougen/lieyousu20.html
2004/1/26日付の記事にある証言(日本語・多分機械翻訳)


によると、拉致された後、台湾へ移送中の船舶で年が明け、その年に終戦。朝鮮に帰国したのは「麦が青く上って来る頃」なので1946年の春と考えられる。

すると、1944年に拉致され、1946年までの足かけ3年にわたって拘束されたことになる。


さて、拉致されたという1944年の時点(秋なので12月以前)で、李容洙氏の年齢は、満15歳、数え年で16歳です。


なので、朝日新聞(2007/4/27)と朝鮮日報(2007/4/30)の記事は矛盾せずに共存しえます。ひょっとしたら朝日新聞の記者は、拉致当時の満年齢で聞いたかもしれません。少なくとも李容洙氏の嘘と断定することは出来ません。


問題は、赤旗新聞(2002/6/26)の記事ですが、これは李容洙氏の初期の証言です。
そして、70歳の老人に60年前の出来事を聞いているわけです。記憶違い・言い間違いなどの可能性があっても不思議ではありません。以後証言を重ねるにつれて、記憶が鮮明になったり思い違いが訂正されたりするのも不思議ではありません。


周りに70歳超の人がいるなら、一度聞いてみるといいと思います。例えば「山本五十六が戦死したとき、おじいちゃん(おばあちゃん)何歳だった?」とか。おそらく勘違いしている人は少なからずいるでしょう。
要するに、証言によるこれらの年齢のずれは、証言の信憑性を損なうほどの重要性を持っていない、と考えるべきでしょう。


次にこれですかね?

http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-590.html
【2004年12月14日】「京都の市民集会」:
 「16歳の時に台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された」。

【2007年4月28日】にハーバード大学:
 「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」。「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」と証言している。


要は、3年なのか2年なのか、と、1944年に連行されて2年(3年)なら戦後も慰安婦だったのか、と言う疑問(というよりいちゃもんに近い)。


例えば
「「16歳の時に強制連行され」たとすれば、1944年12月~1945年12月(誕生日前)の時期の出来事となる。それから「2年間日本兵の慰安婦をさせられた」(同証言)とある、とすれば、1946年12月~1947年12月(同じく誕生日前)まで、「日本兵の慰安婦をさせられた」ことになる。 」


極端な例を言うなら、大晦日の夜にお参りすることを2年参りと呼びますが、これに「2年間参拝しているわけじゃない!虚偽だ」という馬鹿はどこにもいないでしょ。

つまり、3年間というのは、「1944年に拉致され、1946年に帰国するまでの"足かけ"3年」のこと。満州事変1931/9/18から日本敗戦1945/8/15までは、期間としては14年間足らずであるが、足掛けで「15年戦争」と呼ぶのと同じ。


1946年に慰安婦であるはずはない、と言うのはその通りだが、船舶のほとんどを失った日本が台湾から朝鮮までの船をすぐに手配できるわけもない。1945年内に帰国することができないのは不思議でもなんでもない(引揚事業がどれほどの規模かを知っていれば納得できる)。そしてその間、台湾を管理したのは誰だったかと言えば、ほぼ間違いなく日本軍なわけですよ。つまり李容洙氏にとっては、終戦後もなお日本軍が周りにいる状態だったわけです(国民党軍もいたでしょうけど)。また、慰安業務を行ったかどうかはともかく立場上は「慰安婦」のままなので、「日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された」と言うのは間違ってはいません。

そして、日本敗戦後を含まないのなら、足掛け2年になるわけです。1944年秋から1945年8月までなので実質的には1年未満でしょうが、これを「2年」と呼ぶことは、慣用的によくあることです。


こんな感じですかね。
いずれも重大な疑問というには程遠いですな。
李容洙氏が、実際に日本軍慰安婦として被害にあった方かどうかは、自分で調べたわけではないので断言は出来ませんが、上記のような年齢、期間の表現上のずれをもって虚偽だとは思えません。多くのネトウヨの「年齢、期間の表現上のずれ」に対する論証(と呼べるかどうかはともかく)よりは、多くの研究者や記者が李容洙氏に行ったであろう検証の方が信頼できると考えるのが自然でしょう。
「年齢、期間の表現上のずれ」など極端な話、ただ単に記者の誤記である可能性すらありますし。


とは言え、研究者や記者が常に正しいわけでもありませんので一言。


もし、李容洙証言が虚偽であることを主張したいのなら、1944年秋から1945年までの期間、どこにいたかを調査するべきでしょう。もし、ずっと朝鮮にいたことが証明されれば、虚偽であることを示せます。あるいは、台湾以外の別の地域にわたったことを示す渡航記録とかね(本気でこれをやれば、日本が終戦時に資料を大量に処分したことがいかに歴史研究を阻害しているかがわかると思いますが)。

家に篭もってネットと新聞を見ただけで全てを知った気になるのは、かなり恥ずかしいことですよ。


証言を否定・批判するにしても手順というものがあり、それを無視すればゴロツキと変わりません。「年齢、期間の表現上のずれ」程度で、個人を「嘘つき」呼ばわりして「韓国はいい加減にしろ!」などと誹謗中傷を続けることが、道義的・法的にいかなることかくらいは理解するべきですな。