産経症・今さらだけど、古森氏の記事
産経の古森記者が、(米軍も日本側の慰安婦は民間調達と認めていた。 2007/05/14 22:59
)と言う記事で、まるで新発見の資料かのように(「戦時の日本軍の慰安婦に関して、日本側の民間業者が慰安婦候補とした女性家族にまず現金を支払って彼女らを取得していたことを示す米陸軍の調査報告書があることがわかった。」というくだりとか)主張している資料。
既にいろんなところで突っ込まれているので、今さら観たっぷりですが、まとめてみました。
まず、原文ですが、表題部分がこうなってます。
「 A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA.
Note: The following is derived from interrogation at C.S.D.I.C.(I) of M.739, and from O.W.I. Interrogation at Ledo Base Stockade of 20 Korean “comfort girls”,
Report dated 21 Sept. 1944.」
「Report dated 21 Sept. 1944.」の前で改行されていますね。
なので一見すると、「A JAPANESE ARMY BROTHEL IN THE FORWARD AREA.」と言う名前の報告書が1944/9/21に作られたかのように感じるんですが、よく見ると「“comfort girls”,」の最後がカンマになっているわけです。
本当なら
「Note: The following is derived from interrogation at C.S.D.I.C.(I) of M.739, and from O.W.I. Interrogation at Ledo Base Stockade of 20 Korean “comfort girls”, Report dated 21 Sept. 1944.」
こう続けて表記される部分です。
なので「報告書は米国陸軍の戦争情報局心理戦争班により第二次大戦中の1944年9月に作成された」というのは間違いで、「1944年9月に作成された」のはこの報告書が参照している尋問記録であって、この報告書本体についてのことではないんですね。
そう考えると、この部分、dempaxさんが紹介されている(http://d.hatena.ne.jp/dempax/20070512
)吉見義明氏の「従軍慰安婦資料集」(p458)にある記載そのままであるとわかります(CSDISはCSDIC(Combined Services Detailed Interrogation Centre)のタイプミスでしょうけど )。
「以下の記述は,CSDIS(I)において行われたM739の尋問,ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである.」
要するに古森記者は、既に吉見義明氏により日本語訳され出版されている内容の英語原文を”個人的に”新発見しただけですね。何のことはありません。なおかつ、報告書作成日について、誤認、あるいは改竄しています。
ちなみにCSDICは、Combined Services Detailed Interrogation Centreという、イギリスの組織でMI5やMI9と共同で諜報活動を行っていた組織です。(http://en.wikipedia.org/wiki/Combined_Services_Detailed_Interrogation_Centre
)
抑留者、亡命者、ナチス捕虜、日本兵捕虜の尋問を専門に行っており、1947年に閉鎖されています。
さて、私自身、そんなに資料を見ているわけではありませんが、最近教えてもらった物も含めると、ビルマ・ミッチナの慰安婦に関する資料で目を通したのは、以下の3つです。
1.アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日(以下、「OWI報告49号」)
2.東南アジア翻訳尋問センター心理戦 尋問報告 第2号 1944年11月30日(以下、「SEATIC報告2号」)
3.ALLIED TRANSLATOR AND INTERPRETER SECTION SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS , RESEARCH REPORT No.120
AMENITIES IN THE JAPANESE ARMED FORCES(1945年11月15日)(以下、「ATIS報告120号(1945/11/15)」)
で、時系列を整理してみます。
・1942年5月初旬、東南アジア方面の慰安婦募集のため周旋業者が朝鮮に到着。
・1942年8月20日ごろ、800人の慰安婦がラングーンに到着。
・時期不明、40~80人程度の慰安婦がミッチナに到着。歩兵第114連隊管轄。
・1943年1月までにミッチナに2つの慰安所が開設。
・時期不明、ミッチナでキョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤの4つの慰安所を開設。
・時期不明、バクシンロウをキンスイに吸収。
キョウエイ:朝鮮人慰安婦22人
キンスイ:朝鮮人慰安婦20人
モモヤ:中国人慰安婦21人(広東から)
・1943年6月、第15軍司令部、返済の終わった慰安婦の帰国を手配。
(捕虜となった慰安婦達のうち1名は返済が終わっていたが説得され帰国を断念している)
・1944年7月31日夜、慰安婦ら63名がイラワジ川渡河。
・時期不明、慰安婦らワインマウ付近に上陸。
・1944年8月4日、慰安婦らワインマウ付近を出発。
・1944年8月7日、小規模な戦闘が発生し、一行はばらばらになる。慰安婦らは兵士とはぐれた。
(その他の慰安婦について、
中国人慰安婦20人はジャングルに隠れ中国軍に投降した。
別の20人ほどの朝鮮人慰安婦は日本軍についていき、まだ同行しているのを8月19日に別の捕虜が目撃している。)
捕虜になった慰安婦らは、いかだをつくるため2日間廃屋に隠れており、そこには日本の負傷兵も一人いた。
(Prisoner of war's party took shelter in an abandoned native house where they remained for two days while prisoner of war tried to construct a raft;with them was a wounded Japanese soldier.)
逃走開始時にいた63人中、4人は死に(事故死?)、2人が日本兵に誤認され(この部分追加修正2007/5/26)誤射された。
1944年8月10日、慰安婦らがイギリス軍に捕らえられる。
ここまでが、「OWI報告49号」「ATIS報告120号(1945/11/15)」からわかる、慰安婦らが捕らえられるまでの状況です。
それ以後は以下のような感じ。
時期不明、捕虜(慰安婦ら)、ミッチナに移動。
1944年8月15日、捕虜(慰安婦ら)、レド捕虜収容所に到着。
1944年8月20日~9月10日、捕虜に対する尋問を実施。
1944年9月21日、尋問記録を報告(Report dated 21 Sept. 1944.(以下、「尋問報告1944/9/21」))
時期不明、CSDICによる楼主に対する尋問を実施。
時期不明、CSDICによる楼主に対する尋問記録を報告(詳細不明、多分イギリスが保管。以下、「楼主尋問報告X」)。
1944年10月1日、Alex Yorichiによる「OWI報告49号」が報告される。
1944年11月30日、「尋問報告1944/9/21」及び「楼主尋問報告X」を基に「SEATIC報告2号」が報告される。
(終戦)
1945年11月15日、「SEATIC報告2号」を基に「ATIS報告120号(1945/11/15)」が報告される。
こんな流れでミッチナ慰安婦関連の連合軍側資料が作成されたようです。他にも戦犯裁判用にまとめた報告書はあるかもしれませんが、あるとすればアメリカではなくイギリスの方が可能性が高いでしょうね。
上に列記した流れで作成された報告書は、以下5種類。
「尋問報告1944/9/21」
「楼主尋問報告X」1944/9-11頃
「OWI報告49号」1944/10/1
「SEATIC報告2号」1944/11/30
「ATIS報告120号(1945/11/15)」
このうち、「尋問報告1944/9/21」「楼主尋問報告X」については、内容を確認したわけではないのですが、おそらく存在しており、尋問の口述記録であろうことと考えられます。ただし、それを参照した資料に重大な疑義でもない限り、尋問のやり取りを一字一句調べる必要性はないと思うので、特に調べる気はありません。
ただ、新資料を探すなら、少なくともビルマ方面に関しては、米国公文書館より英国公文書館を探すべきだと思います(→古森君)
基本的にビルマはイギリス軍の担当で、イギリスの組織であるCSDICが尋問していますので。