誰かの妄想 -13ページ目

これは自爆なのか?

ネトウヨさんがコメント欄にネタを提供してくれました。


韓国人男性のアジア児童買春深刻=米国務省報告書
脱北者数万人が売春・強制労働

 米国務省は12日、「2007年人身売買実態報告書」を発表した。同報告書は、毎年世界で80万人(うち女性80%以上、未成年者50%以上)が人身売買されていると推計している。国務省は2000年に制定された「人身売買被害防止法」(TPVA)に基づき、01年から毎年、世界各国の人身売買根絶努力や被害状況を分析し、報告書を出している。今年は北朝鮮・ミャンマー・シリアなど16カ国が最低基準も満たせない最悪の「第3分類」に入った。

◆「脱北者に売春・労働を強制」
 同報告書は北朝鮮に対し「悲惨な北朝鮮の現状を逃れ、中国国境を越えた北朝鮮の人々数万人は、中国をはじめ東南アジアなどで売春や強制労働せざるを得ない状況に追い込まれている」と指摘している。さらに「脱北者はほとんどが不法滞在者で、女性は人身売買組織に捕らえられ結婚を名目に売られたり、売春を強要されたりしているケースが多い。また、北朝鮮は15万-20万人を収容所に入れ、奴隷のように強制労働させている。だが、北朝鮮の現政権は人身売買根絶のための努力を少しも行っていない」とも書いている。


ま、韓国や北朝鮮がこんなにひどい、と言いたいのでしょうが・・・。


で、アメリカの人身売買実態報告書の原文を見てきました(主にランキングだけ)。

Trafficking in Persons Report

http://www.state.gov/g/tip/rls/

で、2007年のランキングを見てみると、こんな感じ。


・第1階層: 政府が、人身売買被害者保護法(TVPA)の求める最低基準を完全に順守している国。
 先進国ほとんど、韓国含む。


・第2階層: 政府が、TVPAの求める最低基準を完全に順守していないが、順守に向け大きな努力をしている国。
 日本、台湾、イスラエル、南米、東欧など


・第2階層監視リスト: 政府が、TVPAが求める最低基準を完全には順守していないが、順守に向け大きな努力し、かつ以下の条件に該当する国。
 a. 過酷な形態の人身売買の被害者の絶対数がかなり多いか、またはかなり増加している。
 b. 前年からの過酷な形態の人身売買対策強化を示す証明を提示していない。
 c. 翌年にかけさらなる措置を講じていくという国のコミットメントに基づいて、その国が最低基準順守に向けて大きな努力をしていると判定した場合。

中国、ロシア、インドなど途上国


・第3階層: 政府が、最低基準を完全に順守せず、順守に向け大きな努力をしていない国。

北朝鮮、イラン、ミャンマー、キューバ、マレーシア、クウェート、サウジアラビアなど


・・・あれ?


・第1階層:韓国

・第2階層:日本


日本は韓国より下なんですけど・・・。


というか先進国で第2階層ってかなり恥ずかしいぞ。


ちなみに韓国は確認した限りでは2001年に第3階層(このころは第2階層監視リストがなかった)だけど2002年に第1階層になって以降ずっと第1階層。

日本は2003年まで第2階層、2004年に第2階層監視リストが新設されるとそこに入っている。2005年に第2階層に復帰。以降ずっと第2階層。2005年に第2階層になったのは、刑法226条に人身売買罪を明文化して、ジャパゆきさん対策をとったからでしょうな。まあ、それでも韓国以下ですが。


他の先進国も以前は低い階層にもいましたが、ここ2~3年ほどで第1階層まで改善されたようですね。


さあ、日本。下ばかり見ている場合じゃないぞ。



ネトウヨさん、面白いネタをありがとうございました。

これから報告書の本文も読んでみますね。


産経症・都合のいい証言は盲目的に信用する

コメント欄から、慰安婦の話。


「1942年 - 1974年まで大日本帝国陸軍少尉であった小野田寛郎氏は慰安婦についてこう述べています。コロコロ変わる慰安婦の証言とどちらを信じますか。」


はなっから慰安婦証言を貶める表現を使うあたりがネトウヨ・クオリティですが、小野田証言は面白いので見てみましょう。


大体、個人の体験談として、

・酷い目にあった慰安婦を見た
・酷い目にあった慰安婦など見なかった

両立可能であって、一方が事実としても他方が虚構になるわけではありません。


つまり。

「酷い目にあった慰安婦もいたし酷い目にあわなかった慰安婦もいた」
と言う場合、二つの体験談は両方とも事実になります。


こんなの基本的な論理です。
いちいち説明するのも恥ずかしいくらい。


一部を観察した結果を全体に適用するには、細心の注意が必要であって、それを無視した論は信じるに値しません。これも推測統計の基本です。


私自身の認識としては、日本軍慰安所で慰安婦として就労した女性には、もともとの職業的売春婦もいたであろうし、騙されたり、人身売買の犠牲者であった女性もいたであろうし、軍人などに強要された女性もいたであろう、というものです。
軍が利用し軍が管理した慰安婦が、人身売買の犠牲者でないことを軍や政府は保証しなければならないし、そうしたことが起こらないよう最大限の努力を払う必要があったわけですな(実際には未成年慰安婦がビルマまで渡航している(国際条約違反)ので、努力のかけらも感じられませんけど)。
もっと根本的には、そもそも犯罪行為につながる可能性の高い慰安婦の募集を、軍・政府が行うこと自体間違っていると言えます。


で、小野田証言です。


前知識として知っておくべき?なのは、この人は中野学校出身だと言うこと。中野予備校じゃないですよ。


知らない人のために説明しておくと、中野学校とは、日本陸軍のスパイ養成所のことです。

つまり小野田氏は、ネトウヨレッテルとしての「プロ証言者」と比べるべくもない、紛れもないプロの工作員です。(もっとも小野田氏が出た中野学校二俣分校は、情報戦よりゲリラ戦を専門としていましたが)

慰安婦証言を疑う基準を持ってすれば、当然小野田証言も疑ってかかるべきですが、さてどうなんでしょうね。


一応、小野田氏が嘘をついていないことを前提として、以下の文章を検証してみましょう。



小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」

「正論」平成十六年一月号より

 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。


★1930年代まで廃娼運動が進んでいることも事実です。公娼の存在自体に疑問符を投げかける世論もあったわけですね。小野田氏は1922年生まれなので、1937年当時は15歳。廃娼運動の存在自体、どの程度理解していたか・・・。
★しかし、「治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火」といいつつ、南京事件を否定するのは理解に苦しむところです。


 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従堰慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。


★言葉の問題は言いがかりですな。昭和時代に昭和天皇と呼んだ人間はいないでしょうが、かといって昭和天皇がいなかったわけじゃありません。


 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。


◆漢口の「慰安所」を見学

 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。


★察するに1939年3月くらいですかね。当時の中国戦線は日本軍優勢で進んでおり、比較的安定してました(武漢でほぼ攻勢限界に達して、これ以上の奥地への侵攻がほとんど出来なくなっていきますが・・・)。


 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。


★この辺からも戦況が安定していることがわかります。つまり、前線の兵が交代され後方(といっても武漢だが)で休暇が取れるようになっているわけです。戦況が厳しくなると、兵の交代制が取れなくなっていきます。


 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。


★ネトウヨのコメント「いくら15歳でも普通は何かいかがわしい仕事だと察するよなあ、普通。」
★そんなことを言ったら、17歳で慰安所を餅・饅頭・うどんがサービスされる場所だと思っていた小野田氏の立つ瀬がないじゃないですか。

★要は30過ぎのヒキコモリ感覚で判断するな、ということで。




 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。


★こういう商社にとっては、戦争はいい飯の種、ということですね。


 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働げば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。


★後に日本の軍票は、インフレで紙切れ同然になりますが、1939年時点の中国戦線では価値を維持してました。理由は単純で、蒋介石政権が正規の中国通貨である法幣を発行しているため、その対抗上、日本は軍票の価値を落とすわけにはいかなかったわけです。
★そういったことを考慮して、娼妓の内地と戦地の利益を比較すれば、戦地の方が儲かったのは確かでしょう。需要が多い分。ただし、通貨の安定、ひいては戦局の安定が前提条件となるわけですが。



◆どこにもいなかった「性的奴隷」

 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。


★さて、17歳の小野田氏が読心術を使えるのでなければ、これが本音かどうかはわからない。
★経営者が、単に薄給でこき使える朝鮮人を多く雇っていた言い訳ともとれるのでね。



 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。


小野田氏自身、公娼自体が事実上の人身売買であることは認めてますね。それに奴隷や女郎だって、一時も楽しい時がなかったわけではないでしょう。
★何より、上記の記述は、1939年には戦線後方の安定した武漢のこと、に過ぎないことは重要です。


 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。


★これに至っては、小野田氏自身、騙された女性の話も強かな女性の話も聞いているわけです。一方だけを信じ、他方を無視するのは何故でしょうか?
★そもそもネトウヨ基準では”伝聞証拠”として切り捨てられるべきところのような気もしますが・・・。



 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。


★この当時の貯金はほとんど強制で、事実上の税金に等しい様子がわかります。親のすねをかじっているネトウヨには関係のない話でしょうけど。



 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約4円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。


★ちなみに平均的なサラリーマンの月給は87円程度の時代。
★この辺、恣意的としか思えないのだが、では慰安婦は何人いたのか?これが述べられなければ132万円が多いのかどうかは判断できない。


 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。


★慰安婦の人数を把握せずに132万円が多いと言っているのなら、商社マンとしては失格だろうし、これでよく中野学校に行けたものだと思う。


 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。


★金を払ったから商行為だと言うのなら、強姦後に金を叩きつけても商行為なわけだが・・・。この程度の問題認識能力でよく中野学校に行けたものだと思う。


「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。


★1939年の漢口(3年半いたのなら1942年までだが、「一般在留邦人が入れない場所」なので頻繁に行ったとも思えない)の慰安所を述べただけで1945年まで中国ほぼ全土からビルマ、マレー、インドネシアと極めて広範囲にわたった日本軍占領地に多数作られた慰安所の実態を把握できたと本気で考えているのならおめでたい話である。よく中野学校に行けたものだと(以下略)。


◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

 次に、軍関与の暴論について証言する。私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。


★では、少なくとも1942年時点での慰安所については、何の実体験もないことになりますな。


 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。


★この時点でかなり不思議な状況ですね。武漢は大都市であり既存の売春宿もあったでしょうし、民間人の進出も早かったでしょうが、南昌から30キロ離れた田舎には既存の売春宿などなかろうし、民間人が進出してきたとも考えにくいです。軍として慰安施設が必要なら南昌で求めるという選択肢もあったはずです。この時期は既に太平洋戦争に突入し、前線の兵を交代で休ませるという交代制が機能していなかったのではないかな。
★そう考えると、田舎に駐屯する連隊本部内に慰安所があったことの説明がつきます。


 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。


★そういう視点も確かにあるでしょう。しかし、医師や病院もない、しかもゲリラの襲撃があるかもしれない田舎になぜ慰安所を作らなければならなかったのでしょうか。それに対する視点が欠けている。よくこれで中野学校に(以下略)。



 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。


★経営者が慰安婦が酷い目にあってるなどと言うと思ったのだとすれば、小野田氏はセールストークにも騙されやすいことになるが、元商社マンがそんなことにも気づかないとはね。よくこれで(以下略)。


 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。


不完全なのは小野田氏の認識であると思われるが・・・。17歳の商社マンが見学した1939年の武漢の慰安所。20歳の初年兵が警備した慰安所経営者との立ち話。これだけで従軍慰安婦の何を語れるのだろうか?
★言い換えてみる「すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更慰安婦問題はでっち上げと騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそしらばっくれていれぱ、なかったことにできると狙っているということだ。」
★大体、証拠が不完全なのは、旧日本軍が破棄し、現日本政府が公開しないからなんだけどね。



 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。



★・・・「周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れない」。えーと、宣撫工作に思いっきり失敗してたってことですな。正直でよろしい。
★で、そんなところに民間人女性が自由意志で売春婦として大挙押し寄せた、と。なんかすごい不自然なんですが。



 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。


★じゃ、なんで連隊本部内に慰安所があるの?後方の治安の安定した都市部において、兵に休暇を与えて行かせればよかったんじゃない。


「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。


★まあ無理だから「兵士による強姦と略奪・放火」がおこったわけですが(南京とかで)。

★前線勤務の兵に休養を与えるだけの余力がないことが問題なんですけどね。
★どうして、兵のために女を与えろとは言うのに、休暇を与えろとは言わないんだろう?



 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。


★何が証明されたのか、さっぱりわからん。兵にとっては「有り余った金ではなかった」でしょうね。だから、「兵士による強姦」は絶えなかったんでしょうけど。


「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。


どうも、小野田氏は戦争や徴兵・出征、身売りを天災と勘違いしているようですが、これらは人災です。ま、政府には国民を守る責務などない、とお考えなら何も言いませんけど。


「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。


「軍の弱み」ときた。小野田氏の頭の中の日本兵はボッタクリ・バーで金を巻き上げられるサラリーマン並みに弱かったらしい。それこそ自虐史観だと思うが。


***


で、総評として、小野田氏の証言が全て正しいと仮定しても、1939年の武漢の慰安所と1942年の南昌郊外の田舎の連隊本部内の慰安所の話に過ぎないわけですね。しかも本人は慰安婦の境遇について直接慰安婦と話をしていません(少なくとも上記中では)。言ってしまえば、自分が子供の頃に見た芸妓・酌婦と同じと思い込んでいるだけです。
他の時期・場所ではどうだったのか?どころか実際に見た慰安所の実態がどうだったかすら正しく認識されていない様子が見て取れます。

あまり価値の高い証言とは言えませんね。


正直言って、中野学校を出た将校にしては分析能力に疑問符がつきますな。


興味深い点は、1939年と1942年の慰安所の形態が異なっている点。

1939年時点では、慰安所を利用するに際し前線から後方の武漢まで戻っている(休暇か交代かはわからないが)。これに対して1942年時点では、前線に近い連隊本部内に慰安所がおかれておりゲリラに襲撃される危険すらある。

慰安所設置の基準が3年間のうちに大きく変わっていることをうかがわせる記述と言えよう。


まあしかし、概して具体的な内容に乏しく、少なくとも慰安婦の実態を考える上で慰安婦証言と比較することすら馬鹿馬鹿しいほど参考にならないと思われます。


で、ネトウヨさんは、これがどういう根拠になると考えているんでしょうか?

そもそも文章をちゃんと読んでますか?



産経症・この程度の認識で防衛大の校長が勤まるなんて、我が国の国防は大丈夫か?


いいとこなしの太平洋戦争終盤を何とか美化したい、というのはわからんでもないが、そんなのは飲み屋だけでやってほしい・・・。


【正論】防衛大学校長・五百旗頭真 栗林中将は「重きつとめ」を果し得た

 ■硫黄島の苦闘が本土決戦を阻んだ

 ≪「勝利は論外」の戦い≫

 国の為重きつとめを果し得で/矢弾尽き果て散るぞ悲しき

 壮絶な硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将の辞世である。自らの状況をかくも冷徹に描きうるものであろうか。将兵にバンザイ突撃による玉砕を禁じ、地下にもぐっての「死よりつらい」徹底抗戦を命じ、米軍に日本軍を上回る死傷者を強いた。が、ついに「矢弾尽き果て散る」ほかのない事態に至った。そこまでやっても「重きつとめを果し得て」ではなく、「果し得で」なのである。国のための任務は何だったのか、それを果たし得なかったのか。

 硫黄島守備隊の任務は、侵攻する米軍に勝つことではなかった。圧倒的な敵制海空権下で勝利は論外であった。敗れるにせよ、1日でも長く抵抗を続け、米軍の日本本土攻略を遅らせること、この限られた目的が任務であった。


★通常、要塞防衛戦を行う場合、目的は敵を破ることではなく、ある一定の期間維持することなのは基本。このパターンは2種類あって、ひとつは味方の増援が到着するまでの間の維持(日露戦争の旅順防衛のロシア軍、バルジ戦のバストーニュ防衛の米軍など)、もうひとつは後方の味方が防衛・反撃体勢を構築するまでの間の維持(アラモ砦の防衛隊、関が原戦直前の上田城攻防戦の真田軍など)である。
★硫黄島の場合、前者は既に目途が立たない状況なので、後者です。
★とは言っても本土の防衛反撃体勢なんて現実的な時間感覚で設定できる状態ではなかったわけ。だから具体的に何日、という設定はできない。この結果「1日でも長く」という単なる”先延ばし”的な目的となったわけです。
★この場合、”戦略目的を達した上での降伏”というものがあり得ない。かといって勝利もあり得ない。結局、「そこで死ね」と言っているに等しいわけです(真田軍の場合、秀忠軍が戦場に間に合わなくなった時点で降伏しても戦略的な役割は果たしたと言えますが)。硫黄島の日本軍は、自身も日本そのものもあまりにも絶望的な状況だったわけで全く救いがないと言えます。


 栗林はその任務を立派に果たしたのではなかったか。敵上陸時をたたく日本軍の伝統的な水際作戦を捨て、後退し叫び声をあげないゲリラ戦を命じたのは、栗林が敵を知り己を知り、そして戦場を知っていたからである。米国民がもっとも嫌がる戦いを知米派の栗林は編み出した。その結果、敵将スミス中将が「5日」とした作戦予定を7倍する36日間の抵抗を続け、日本側2万1000の死に対し、米側2万8000の損失を課した。「国の為重きつとめ」を立派に果たしたと言うべきではないか。


★水際作戦が不利であることはこの時点では明白だったわけですが・・・。栗林が編み出したと言えるかどうか。作戦を認可した点は評価されるべきですけど。


 ≪東京大空襲が始まった≫

 そうもいっておれない衝撃的な作戦が行われた。栗林が抵抗を続けていた昭和20年3月10日、マリアナ諸島を発ったB29の大編隊が硫黄島のはるか上空を飛んで東京大空襲を敢行した。栗林が妻への手紙に度々警告し、それを遅らせるためにこそ戦うとしていた事態が早々に現実となったのである。現場将兵の命を捨てての奮戦も、戦争の大局を変えることはできない。10万の東京市民が逃げまどい焼死する地獄絵を、硫黄島の抗戦はくい止めることができなかった。家族・同胞を敵の攻撃から1日でも守る栗林の切なる願いは、無残に砕かれた。「国の為重きつとめを果たし得で」は、栗林が曇りなくその現実を直視したことを意味しよう。


★こんなことは硫黄島戦が始まる前からわかってる話ですな。大体、大本営は硫黄島を維持することで何をするつもりだったのかが全く不明。要はただの先延ばし。今日できることを明日に伸ばした結果、2万人の将兵を無為に死なせたわけですよ。


 政府・大本営の大局を誤った開戦決定を、現場の全将兵が命を費やして戦っても挽回(ばんかい)できるものではない。硫黄島の涙を禁じ得ない敢闘もその冷厳な事実を告げる。


★戦略上の失敗を戦術上の成功で取り戻すことができないのは、軍事上の常識でしょう。問題はなぜ政府・大本営が大局を誤ったのか、という点です。


 ≪悲壮な抗戦で得たもの≫

 そうした認識を私が改めたのは、米国公文書館で米国政府・軍部の文書を読んだ時であった。予想を超える硫黄島の犠牲は米国内で広く報道され、国民に衝撃を与え怒りを呼び起こした。わが政府と軍はどういう戦争をしているのか。米軍部はガダルカナルで22対1であった日米死傷者比率が、硫黄島で1対1となったことに衝撃を受けていた。火力と物量ではますます圧倒しているのに、日本本土に近づくにつれ、日本側の抵抗は熾烈(しれつ)となり、死に行く日本兵は米兵を地獄へ1人ずつ道連れにする形をとり始めた。本土決戦はペイする戦争でありうるのか。


★よく使われるトリックですが、「1対1」なのはあくまでも”死傷者”であって”死者”ではないんですね。無論、後方の救護体制に影響されるわけですが、米兵の死者は7000人足らずです。



 4月1日に始まった沖縄戦も、1カ月の作戦予定が3カ月に及ぶ苦戦となった。この時期、米政府内には「無条件降伏=本土決戦を通しての完全勝利」の方式への修正が始まる。5月末、グルー国務次官が天皇制の容認を含む穏当な対日条件を声明して、日本を降伏へ誘導する提案を行った。それに対し、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官は大筋の賛同を与えた。時期は先送りされたが、それが連合国によるポツダム宣言へと展開する。


★はい、これもよく使われるトリックです。4月から5月末までの間に重大イベントがヨーロッパで生じてます。言うまでもなく、同盟国ドイツの無条件降伏です。ソ連軍が極東に送られる前にけりをつけたい、と思うのはアメリカとしては当然の思考です。必ずしも対日戦での苦戦が原因とは言えないわけです。わざと、ドイツ降伏に言及しない、というのは日本を過大評価するために使われる詐術のひとつですな。



 栗林中将の死闘は根深いところで動き始めた。米国側が、硫黄島・沖縄に続く本土決戦に疑念を呈し始めた。母や妻の声を尊重する民主主義社会は犠牲者数に敏感である。ベトナム戦争やイラク戦争の悲惨を、米国政府は日本本土の戦いについてはあらかじめ硫黄島で告げられたといってよい。無条件降伏の方式を事実上撤回し、穏当な条件を記したポツダム宣言が発せられた。本土決戦回避を米国の国益が望むに至ったのである。


★この文章では硫黄島戦を美化するのに上記詐術が使われいると考えられます(防衛大の校長が1945年5月のドイツ降伏を知らないとは考えられないので)。


 鈴木貫太郎内閣が原爆投下とソ連参戦をうけ、聖断という非常手段によりポツダム宣言を受諾した。これにより栗林らの苦闘がよみがえった。「重きつとめを果し得で」と栗林は嘆じた。けれどもその悲壮な抗戦が敵の本土侵攻を1日でも遅らせるどころか、本土決戦をなくし、故郷の家族が平和を得て、復興の日を迎える政府決定の基盤を醸成したのである。(いおきべ まこと)


★ついでに、本土決戦では米兵に多くの犠牲者が出るであろう、という予測は、原爆投下の正当化に多用されるロジックですが、その予測自体、疑問符がつけられることも少なくないようです。
★硫黄島戦美化のロジックはそれよりも劣ります。なぜなら、ポツダム宣言の内容が日本にとって望ましいのなら、原爆投下やソ連参戦の前に降伏することも出来たからです。
★広島・長崎・満洲の犠牲者は、ポツダム宣言後もうじうじと先延ばししようとした軍・政府首脳の優柔不断によって生じたことになります。


(2007/06/10 05:01)


結局何が言いたかったのか、を考えてみると、政府や自衛隊トップが大局を誤っても、末端の兵士は死ぬ気で頑張れ、という風にしか思えませんね。

防衛大学校は自衛隊の幹部を育てるところのはずですが、こんな思考を持った幹部がぞろぞろ出てきたら最悪・・・。



そもそも証言原文を確認することなく、証言の不一致を指摘すること自体ナンセンス

粘着しているネトウヨ君がコメントにコピペしている「慰安婦証言は信用できない」という陰口(反論というレベルに達していない)だが、どうも韓国語原文にあたることなく言いがかりをつけている様子。


例えば、これ。
「李容洙(???)お婆さん証言集
(中略)
家族はお婆さんとお父さん、お母さんと慰労お兄さん一人、そして弟が四つで皆九家族だった。」


明らかに日本語が変です。おそらく機械翻訳でしょう(「慰労お兄さん」って何だよ?)。
大雑把な大意はわかるでしょうが、これで詳細を理解できるんでしょうか?


普通は無理ですよね。


また、以下の比較もそうですね。

「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」(1993年11月明石書店)
「証言集会(同志社大学)」(2005年4月21日)

本の内容は確認してませんが、証言集会(http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2005/leeyongsoo.htm )では、通訳の李其珍さんが「今日通訳を務めさせていただきます、李と申します。大学院生です。私は日本語のネイティブではないので、少し日本語が聞き取りづらいかと思いますが、どうかご理解の上、お聞きください。」と述べているように、専門の通訳ではないようです。自分の精通する分野以外の翻訳は難しいので、李其珍さんの通訳が正確でない可能性もあります。



正確かどうかわからない日本語訳を比較して詳細が違うと言って、「m9(^Д^)プギャーーーッ」とか言って喜んでるわけです。
書いたネトウヨが小学生くらいなら、まあ微笑ましいですが。
知的レベルはともかく、実年齢は小学生では多分ないでしょうから、キモイだけですけど。


韓国人元慰安婦の証言は、ほぼ間違いなく韓国語でされているわけで、検証するなら原文にあたるべきなのは基本中の基本ですが、それすらやっていない。訳文の間に不整合があるなら、まず考えるべきは「訳が間違っているのではないか」であるはずですが、結論先にありき、ではそれすら見えない。

怪しい訳文だけを検証して証明できた気になっているのは痛いにも程がありますね。

ま、このレベルだから産経記者の捏造にも騙されるんでしょうけど。


いたいけな知能のネトウヨをかもにするなんて、産経って罪深い新聞だなあ・・・。


他にもまあ色々。
あまり調べていないのだが、金学順さんについて。

どうにもね。「キーセン学校」についてよく知らずに語ってますね。
金学順さんは14歳から「キーセン学校」に行ったことになっているが、別の証言(これも翻訳だ)では「キーセン検番」(日本でいう置屋)になっている。

さて、「キーセン」だが「妓生」のこと。で、「妓生」を売春婦だと直結させるバカが多いのだが、「妓生」はどちらかと言えば日本の「舞妓」に近い。(参考:http://www.tanken.com/kisan.html


京都の東山女子学園は「舞妓」の学校でもあるが、彼女らを売春婦と呼ぶのは普通ははばかられるだろう。


無論、「舞妓」にしろ「妓生」にしろ売春と無縁ではないが、本業は芸能である。「妓生学校」もそういう芸能を学ぶ場所である。
「妓生」自体は、日本統治下でどんどん売春婦としての色が濃くなっていくが、それゆえに「妓生学校」にいた金学順さんが目をつけられたとも考えられる。

これが「十七才の時騙されて慰安婦にされた。」という部分につながる。


こうして考えると、ネトウヨさんのコメントだけでも別に不自然な箇所はない。
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10035706576.html


中国東北部で生まれ、生後百日で父が死に、母と平壌に移った。四年生まで普通学校(小学校)に行き(当時の朝鮮の学制によるが10歳くらいか?)、14歳で「妓生学校」(多分、平壌)に行き(多分、義父の薦め(妓生にはこういう人がよくついた。「検番の義父」と言う表現からも類推できる※))、17歳で義父に売られた先が慰安婦としてだった。本人は説明を受けていない。義父が知っていたかは不明。内容を知って嫌だったけど、日本軍人に強制的にトラックに載せられ、中国へ連れて行かれた。


全然、不自然じゃありません。
経緯を見れば「金学順さんは、「女子挺身隊」として連行などされていない事を、8月14日の記者会見で自ら語っている。」のも当然です。金学順さんについて言えば、そんなこと、そもそも主張していないのですから。


明らかになったのは、当時の朝鮮に関するネトウヨさんの知識不足くらいのものだろう。
というか、
「→平壌へは売られていったんですよね??」
批判する文章すら読んでませんね。



※大阪産業大学教授 藤永壮氏の「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程 より引用

「朝鮮王朝時代の妓生は、基本的に中央や地方の官庁に所属する「官妓」であり、いわゆる「八賤」のひとつ―賤民の身分に置かれていた。その主な役割は、宮中・官庁で行事や宴会があるときに歌舞を演じ、出席者の接待にあたることである。ソウルで宮中行事などに参席する官妓は、中央官庁に所属する「京妓」と、地方官庁から送られてきた「郷妓」(または「選上妓」)―とくに平壌は名妓の産地として有名である―から構成されていた。また官妓は官吏の求めに応じて自宅で宴を催し、酒食を提供したり歌舞を披露することもあった。しかし妓生に対する国家の給与は充分ではなかったため、朝鮮王朝時代の後期になって、下級官吏が「妓夫」(または「妓生書房」「仮夫」)と呼ばれる後援者となり、この妓夫の仲介によって、特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取り、場合によってはとして扱われるようになった。妓夫をもたない妓生は、彼女を養育し技芸を教えた収養父・収養母が同様の役割を果たしたという。一般に京妓は妓夫をもつケースが多く、郷妓はもたない者が多かったので、前者を「有夫妓」、後者を「無夫妓」と呼ぶ場合もあった。」


妓生は、売春婦というよりは富裕層の愛人・妾といった形態であったと言える。妾自体は戦前の日本でも珍しくなく、本妻などからの差別はあったにしても一般的に売春婦と同等に見られることはなかっただろう。


【追記2007/6/13】
コメントいただいた中にある黄文雄の著作。


大予言 中国崩壊のシナリオ (新書)
内容(「BOOK」データベースより)
90年代、中国は崩壊する。大洪水、大旱魃、政局の混乱。難民の噴出は第一の前兆だ。中国潰滅のプロセスを克明に描いた「日本人」への警言。


21世紀になりましたが、崩壊してませんね。いつ崩壊するんでしょう?

ネトウヨは慰安婦を嘘つき呼ばわりするのに、黄文雄は信じるんだ。

大予言、大外れなのに~。



【追記2・2007/6/13】
ネトウヨは証言にある日付が違う、とか言って嘘だと断定するわけですが、それがいかに間の抜けた指摘か山木さんのエントリを見ればわかりますね~。

http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20070613

是非、ネトウヨの感想が聞きたいものですが・・・



戦前の為替相場

中外商業新報「金融為替日報」の見方


神戸大学附属図書館作成の金融為替日報のテキストデータには、為替相場そのものがありません。

なんでだろ・・・。


それはともかく、以下は1940年12月17日時点の為替相場です。画像から読み取りました。


正金為替相場(電信売)
ロンドン:1志2片
シドニー:1志2片1/2
パリ:9法200
スイス:1法00 1/4
ローマ:4利64
ドイツ各地:0麻 28 1/4
アメリカ各地:23弗9/16
カナダ各地:27弗
リオデジャネイロ:4ミルレイ240
アレキサンドリア:2磅68
インド各地:77留比3/4
ジャワ各地:42盾3/4
シンガポール:201円1/2
磐谷(バンコク):129円1/4
マニラ:213円
香港・広東:107円3/4
河内(ハノイ)・西貢(サイゴン):98円1/2
上海・漢口:--
天津・北京:100円1/4
青島:100円1/4


全部、わかるわけではないのでわかるとこだけ抽出


まず、ロンドン:1志2片とは1シリング2ペンスのことで、これは1日本円あたりの金額。
ポンドに直すと、
1ポンド=20シリング=240ペンス=17円14銭
というところです。


ローマ:4利64とは4リラ64サンテシミのことで、これも1日本円あたりの金額。
つまり、1リラ=0円22銭


ドイツ各地:0麻28 1/4は、0マルク28プフエニヒと1/4のこと、これも1日本円あたりの金額。
つまり、1マルク=3円54銭


アメリカ各地:23弗9/16は、23ドル9/16のことで、これは100日本円あたりの金額。
つまり、1ドル=4円24銭


シンガポール:201円1/2は、100海峡ドルあたりの日本円金額。
つまり、1海峡ドル=2円1銭
ちなみに海峡ドルは1906年にイギリスポンドにリンクしており、このリンクレートは1海峡ドル=28ペンス
つまり、1ポンド=12セント=17円14銭、1円=14ペンス=0.5海峡ドル


インド各地:77留比3/4とは77ルピー3/4のことで、これは100日本円あたりの金額。
つまり、1ルピー=1円29銭


マニラ:213円は、100ペソあたりの日本円金額。
つまり、1ペソ=2円13銭
ちなみに、フィリピン・ペソはアメリカ1ドルの半分の価値、つまり1ペソ=0.5ドル
つまり、1ドル=2ペソ=4円26銭(端数の計算で若干ずれてますが、ドル円レートと等価)


一応、上記であってると思います(近い時期の相場や固定レートの情報から判断してます)が、間違いに気付いた方がいれば突っ込んでくださると助かります。



日本軍侵攻前の通貨流通量

神戸大学附属図書館はいい仕事をしているなあ・・・。

時折、誤字があるのはご愛嬌。そういう時は原文の画像を確認。


で、どっかの誰かが、
南発券の発行数が「1942年12月に4億6326万円、1944年末に106億2296万円、1945年8月に194億6822万円」と増えているのは、単に現地貨幣と入れ替えるために増やしたみたいな主張をしてましたが・・・。


では、日本軍侵攻前の南方に流通していた通貨はどの程度だったか?シンガポールを例にとってみましょう。



新聞記事文庫 東南アジア諸国(10-039)
大阪朝日新聞 1942.3.23(昭和17)


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まず通貨を収縮

英の後始末マレーの金融工作

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昭南港にて太田特派員二十日発
二億一千万ドル(海峡ドル)に上る旧流通紙幣および膨大なイギリス系有価証券の処理、敵性銀行の押収につぐ金融機関など昭南特別市およびマレーの経済再建に当って直面する重大問題は全く文字通り山積の有様である、しかし軍政部の下に昭南特別市をはじめマレー各州の行政機構の整備に伴い各種経済工作もその諸につき四月には内地より多数の専門家を迎え本格的な再編成に着手することになっているし、二十日には当地における正金、台銀両支店の開業さえ見るにいたった、しかして当地の専門家筋ではマレーおよび昭南島の経済再編成につき大要左の如き見解をとっているようである
本年二月十六日すなわちシンガポール陥落直後の当地におけるイギリス政庁の紙幣発行高は二億二千万ドルであり、銀行手持三百万ドル、実際流通高二億一千万ドル、その差額七百万ドルは昭南島より逃亡したイギリス人華僑が持出したものである、イギリス当局は東亜方面における情勢の急変に対応して戦備強化をはかり多額の軍用資金をマレー戦直前にふり撒いたため相当のインフレ状況を呈していたしかし今後米英敵性の完全な排除と戦前暴騰していた錫、ゴムの平常価格への復帰、一時的資金需要の減退などを考慮すれば適正な通貨は○○○ドル限度となり、したがって過剰紙幣は回収を必要とする、このため速かに既存の本邦銀行を再開させて預金吸収をはかる必要がある、しかして資金の分布状況は昭南島に三分の一、マレー半島に三分の二という割合が適正な配分状況と見られている
なお押収した英米蘭の敵性銀行は敵産管理委員会に移され再開させないが、敵性国人にたいする債権債務は十分考慮されることになっている、支那系銀行の処理は上海、香港で行われた方針が踏襲されるであろう、そして彼ら華僑銀行が銀行家自体で今後の整理具体案を作成させて資本金の減額、預金払戻し割合の公正な比率決定を行った後日本側の厳重な監督の下に再開させることになるだろう


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データ作成:2004.4 神戸大学附属図書


えー、2億2千万海峡ドルです。

日本軍は、公式レートを1円=1海峡ドルとしてましたから、流通通貨をすべて回収して軍票に置き換えるとすると、2億2千万円で十分です。

とすると、1944年末に106億2296万円となっているのはなんでしょうね。

シンガポールを除く南方占領地の戦前の貨幣流通量が、円換算で100億円以上ないと上記仮定は成り立ちません。





生暖かく見守る

相変わらずですな。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/14
lunakkoさんの発言


爆笑ポイント1
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/11/77
lunakkoさんの発言
「よって、イギリス軍票の価値が無くなったビルマでは日本軍票(ルピー表示)が刷りあがるまで、当面、イギリス軍票:日本軍票:内地円=1:1:1で使用することにした。そもそも、資源の無い日本は、紙で出来た軍票をそんなに刷れない。

いや、あの、当時の日本って、そんなに資源がなかったの?紙幣を刷る紙がないほど?



爆笑ポイント2
「イギリスの占領地ビルマが日本に占領される。
(中略)

(中略)
イギリスが現地通貨(イギリス軍票)の使用禁止を宣言する。」


イギリスはどうやって日本軍占領下のビルマで、現地通貨が使用されるのを禁止するのだろう?

これはlunakkoさんの致命的な勘違いなんですよね。
「そもそも、占領地を占領したら、現地通貨の価値が0になるのですよ?敵国貨幣なのですから。」
という発想も上記の論理に支えられているわけですが。

敵国貨幣が流通している地域を自国が占領した場合、その現地通貨(敵国貨幣)を使用できるかどうか決定できるのは占領軍しかいません。当たり前ですけど。
ビルマの場合、日本軍がビルマを占領した後、それまでビルマで使用されていたビルマルピーが従来どおり使用可能かどうかを決めるのは、日本軍(政府)であって、イギリス軍(政府)ではないんですね。(さらに言えば、通貨の価値を最終的に決めるのは利用者であって政府じゃありません。)
そして、日本軍は基本的に現地通貨であるビルマルピーの使用は禁止しませんでした。したがって現地通貨の価値は、(占領直後に)0にはなりませんでした。


爆笑ポイント3

(軍票を大量発行してもインフレが起こらないロジック)
「軍票を発行したけれども、総流通貨幣量が変化しない場合ですよ。」

これを示す資料は、1943年8月の新聞だけです。
「現在の通貨流通量は戦前通貨流通量と大差なき状態にあるものとして推定せられ、悪性なインフレーションなどの傾向は起っていない。」
しかも、”1943年8月当時”の推定です。21世紀の今日、半世紀にわたる歴史研究の結果として、日本軍票がインフレをおこしたことは明白なわけですが、それよりも”1943年当時の推定”を信じるわけですね。面白いなあ。
この方は、きっとミッドウェイ海戦も日本が勝ったと思ってるんでしょうね。

爆笑ポイント4(これが一番面白い)
lunakkoさんの発言
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/14/19?fromtreemode=1
「(小林英夫は、本を書くにあたり、自分の主張と史実が合わないがため、わざと、指数グラフを使用し、あたかも物価が上がっているように思わせたと、私は推測しました。ご自分で判断してください。)」

日本近代経済史・アジア経済史専攻の大学教授を呼び捨てにした挙句、「わざと」と誹謗までしてますね。
ちなみに「指数グラフ」ではなく「対数グラフ」です。


そもそも物価指数の考え方自体、基準時点に対するある時点の物価の増減を比で表したものです。例えば物価が年間50%増で推移した場合、
基準年:100
第1年:150
第2年:225
第3年:338
第4年:506
第5年:759
第6年:1139
となります。これを通常の軸でみると、基準年から第1年までは50しか増えていないのに、第5年から第6年の間は380も増えており、視覚的に第5年から第6年の方が、基準年から第1年までより悪化しているように見えてしまいます。言うまでもなく物価上昇率は50%で同じなのに、です。これでは物価指数の増減を見る上で適切ではありません(なぜなら基準年の取り方によって、恣意的に視覚的印象を操作できるからです)。

こういった視覚的誤認を避けるため、変化率がごく小さい場合(1~5%程度)を除いて、対数グラフを使うのが基本です。対数グラフを使うと、物価上昇率が一定の場合、傾きが一定になります(つまりグラフ上は直線に見えるわけです)。なんらかの政策や事件により物価が上がったりすると、直線から上にそりあがった曲線になり、逆に物価が下がると下にそった曲線に変わります。対数グラフだとこういう変化が視覚的に読みやすいわけです。


「日本軍政下のアジア」p179のグラフは、ビルマの物価についてほぼ一貫して上昇していることを示してます。日本軍撤退の時期を契機にやや上に沿った曲線を描いているので、日本軍撤退がさらに悪化の原因となったことがわかります(これは当たり前)。問題は日本占領下でほぼ一貫して上昇していること。これほとんど直線です。つまり日本軍・政府はインフレに対して有効な対策を取れなかったことを意味しているわけです。


それはともかく、「あたかも物価が上がっているように思わせた」ではなくて、実際に物価が上がっていたわけです。まあ、「私は推測しました」なので、推測するのは自由ですが・・・。


物価指数推移の表示において対数グラフを使うべき(変化率がごく小さい場合を除いて)だというのは、右派左派、従軍慰安婦高給説賛成派否定派に関係なく一致した意見だと思います。
http://ex20.2ch.net/test/read.cgi/wall/1180512078/
にいるlunakkoさん応援団は違うかもしれませんが。


そう言えば、「ご自分で判断してください」と書いていたので、私の判断を書いておきましょう。


その推測は間違ってますよ。



ちなみに、ラングーンの物価指数推移を四半期単位の物価上昇率で見ると
1943.12   1718
1944.3    2629 53%
1944.6    3635 38%
1944.9    5765 59%
1944.12   8707 51%
1945.3   12700 46% 
1945.6   30629 141%
1945.8  185648 506%
こんな感じ。
誰とは言いませんが「ほら、日本軍撤退後に増えてるじゃない!」とか言い出しそうなので、楽しみに待っていよう。
いずれにせよ、日本軍占領下で3ヶ月ごとに物価が40~50%上昇する(年間上昇率は400%、つまり物価は5倍になってます)と言うのは異常ですな。

ま、lunakkoさんによると、悪性インフレではないらしいですが(新聞記事は1943年8月なので上記の論拠にはなりません)。

えー根拠は示されてませんね。何かなあ。楽しみだなあ。




外貨軍票の払出、預託、引換に関する日本陸軍通牒(1942/3/19)

kmiuraさんが、紹介していた資料をテキスト化してみた。
旧字は新字に直しました。
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070531/1180562339


軍人、軍属以外の人が、外貨軍票を日本円に換金しようとすれば、師団長、兵団長クラス(つまり将官)の発行する引換証明書が必要だということ。



陸亜普第一八二号 (甲) 外貨表示軍用手票ノ払出、預託及引換ニ関スル件陸軍一般ヘ通牒

昭和十七年三月十九日 陸軍省副官 川原直一

外貨表示軍用手票(以下外貨軍票ト称ス)ノ払出、預託並外貨軍票ト日本通貨等トノ引換ニ関シ通定メラレタルニ付通牒ス

一 支出官又ハ資金前渡官吏ハ日本銀行本店ノ外別表第一ノ支店又ハ代理店ニ於テ外貨軍票ノ払出又ハ預託ヲナスコトヲ得

前項外貨軍票ノ払出又ハ預託価格ハ額面価格ニ対シ別表第三ノ換算価格ニヨリ換算シタル価格トス

ニ 軍人、軍属(出納官吏ヲ含ム以下之ニ同シ)ノ所持スル外貨軍票ハ内地、朝鮮、台湾、南洋群島、関東州、満洲国又ハ北支那ニ在リテハ陸軍経理部及陸軍東京経理部又ハ日本銀行本店、支店若ハ別表第二ノ代理店(出張所ヲ含ム以下同シ)及派出引換所ニ於テ額面価格ニ対シ別表第三ノ換算価格ニヨリ換算シタル金額ヲ以テ日本通貨引換ヲ受クルコトヲ得(出納官吏ニ在リテハ引換ヲ受クルモノトス)

三 軍人、軍属前号以外ノ地域ニ於テ外貨軍票相互ノ引換及外貨軍票ト円表示軍票トノ引換ヲナサントスルトキハ前号に準シ陸軍経理部又ハ日本銀行代理店ニ於テ之カ引換ヲ受クルコトヲ得但シ外貨軍票相互ノ引換価格ハ別表第三ノ各外貨軍票ト円トノ換算価格ニ依リ決定スルモノトス

四 軍人、軍属以外ノ者ノ所持スル外貨軍票ハ軍ノ交付セル引換証明書ヲ所持スル場合ニ限リ前二号ニ準シ引換ヲ受クルコト得

前号ノ引換証明書ハ部隊ニ於テ特ニ引換ヲナスヲ適当ト認メタル場合ニ限リ本人ノ願出ニ依リ軍、師団又ハ之ニ準スル兵団以上ノ部隊長之ヲ発行スルモノトス

五 前ニ乃至四号ニ依リ陸軍経理部及陸軍東京経理部又ハ日本銀行本店、支店若ハ別表第二ノ代理店及派出引換所ニ於テ外貨軍票ノ引換ヲナスハ左の各号ノ一ニ該当スル場合ニ限ルモノトス

 1 軍人軍属ナルコト明カニ認メラルル場合又ハ軍人軍属ニシテ軍ノ身分証明書ヲ所持スル場合
 2 軍ノ引換証明書ヲ所持スル場合
 3 前各項ニ掲クル場合ノ外一人一回ノ引換要求額十円以下ナル場合

六 軍人、軍属ノ所持スル汚損及(ママ)ハ毀損シタル外貨軍票ニシテ表裏両面ヲ具備シ其ノ三分ノ二以上ヲ存スルモノハ額面金額ノ全額、五分ノ二以上ヲ存スルモノハ額面金額ノ半額ヲ以テ無手数料ニテ所属部隊出納官吏、陸軍経理部及陸軍東京経理部又ハ日本銀行本店、支店若ハ別表第二ノ代理店及派出引換所ニ於テ之カ引換ヲナスモノトス表裏ノ模様大部分認識シ難キモ紙質、色彩等ニ依リ真正ノ外貨軍票ト認メタルモノ亦前項ニ同シ

七 外貨軍票ノ細片ヲ合シ其ノ各片相吻合シ又ハ相吻合セサルモ同一軍票ノ紙片ナルコトヲ認メタルモノニ付テハ前号ノ規定ヲ適用スルモノトス

八 前二号ニ該当スルモノト雖モ紙質又ハ色彩ノ変化其他ノ原因ニヨリ真偽鑑定シ難キモノハ之カ引換ヲ為ササルモノトス

九 前二乃至四号及七号八号ニ依リ陸軍経理部及陸軍東京経理部ニ於テ引換ヲナシタル外貨軍票ハ更ニ日本銀行本店、支店若ハ別表第二ノ代理店及派出引換所ニ於テ日本通貨又ハ其ノ他所定ノ軍票ト引換ヲナスモノトス


外貨軍票ノ払出又ハ預託ノ事務取扱ヲナス支店及代理店
大阪支店
横須賀代理店
弘前代理店
呉代理店
佐世保代理店
福岡市内代理店
台北代理店
高雄代理店
澎湖代理店
トラック代理店
上海代理店
広東代理店
河内代理店(筆者注:ハノイのこと)
西貢代理店(筆者注:サイゴンのこと)
香港代理店


外貨軍票ノ引換事務取扱ヲナス代理店及派出引換所
横浜代理店
横須賀代理店
宇都宮代理店
旭川代理店
弘前代理店
大湊代理店
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外貨軍票換算価格
使用地域:蘭領東インド
形式区分:は号
外貨:10グルデン=10円
外貨:5グルデン=5円
外貨:1グルデン=1円
外貨:半グルデン=50銭
外貨:10セント=10銭
外貨:5セント=5銭
外貨:1セント=1銭

使用地域:英領マレー及英領ボルネオ
形式区分:に号
外貨:10ダラーズ=10円
外貨:5ダラーズ=5円
外貨:1ダナー=1円
外貨:50センツ=50銭
外貨:10センツ=10銭
外貨:5センツ=5銭
外貨:1センツ=1銭


使用地域:フィリピン
形式区分:ほ号
外貨:10ペソス=10円
外貨:5ペソス=5円
外貨:1ペソ=1円
外貨:50センタボス=50銭
外貨:10センタボス=10銭
外貨:5センタボス=5銭
外貨:1センタボス=1銭

使用地域:ビルマ
形式区分:へ号
外貨:10ルピース=10円
外貨:5ルピース=5円
外貨:1ルピー=1円
外貨:半ルピー=50銭
外貨:1/4ルピー=25銭

使用地域:英領外南洋及豪州(各委任統治地域ヲ含ム)
形式区分:と号
外貨:1ポンド=10円
外貨:10シルリングス=5円
外貨:1シルリング=1円
外貨:1/2シルリング=50銭



軍票の話1・ルピーと円の公式レートと実勢レート

何だか・・・。


http://ianhu.g.hatena.ne.jp/kmiura/20070518#c
ni0615さんに対するlunakkoさんのコメント。


「>軍票(ルピー)が、「円と等価である建前」と、300倍(45年)も違う「大きな較差の実勢」という「2つの交換基準」をダブルスタンダードだといってるのです。
ですから、この考えにいたった資料をくださいといっているのですよ。あなたの考えや、ネットに落ちている証拠の
ないブログはいりません。」


まず、重要な点として、太平洋戦争当時、日本国内に流通している円を南方占領地に持っていくこと・南方から日本に現地通貨を持ち帰ることは厳しく制限されていました。
このことは、1942年2月18日の読売新聞「大東亜経済建設の指標」という記事の

「本邦業者にせよ在来企業家にせよ差当り資金を必要とする時にはすべて南方開発金庫より軍票を借受けるのであって、たとえ三井財閥であっても内地より円資金を現地に持込むことは許されないこの反面現地で或程度の資金が集積してもこれを内地に送金出来ないのであって、現地で得た利潤は現地開発に当てねばならない、」
と言う記載から、少なくと占領当初において制限されていたことは間違いないでしょう。


次の記事
「新聞記事文庫 産業(8-163)

東京新聞 1943.8.4-1943.8.6(昭和18)共栄圏建設の方向と現状 (上・中・下)
通貨問題
南方各占領地の各使用通貨は軍票であるが在来通貨も之が使用を許し今は二本建の通貨制度が行われている、しかし
両者の価値関係等価の政策を採り、この関係は南方において円滑に行っている、勿論現地における軍票は所により在来通貨以上に現地住民の信頼を見、円滑な流通を見ているのであるが、在来通貨も軍票に対する価値低下を防止しているので両者の順調な流用は今後とも持続するであろうしこの現象は通貨工作上注目すべきものである 現在の通貨流通量は戦前通貨流通量と大差なき状態にあるものてして推定せられ悪性なインフレーションなどの傾向は起っていない、ここに注目すべきことは現地通貨と本邦通貨又外国通貨の価値関係の成立又現地各通過間の為替は立たないようにしているので、南方とわが国との交易等には臨時軍自□資金を利用して之を通しこの南方開発国庫よりの融資制度によって実施せられている、これが南方通貨、交易等の実況で将来の対策としては具体的に研究を進めている 」


1943年8月時点でも、日本国内の円と占領地通貨の取引が制限されていること、また、現地表示軍票と現地通貨が等価

であること、がわかります。(また、従来の通貨使用を認めていることから、旧通貨の回収を目的とした軍票と旧通貨の交換を行っていないこともわかります)


次の記事。

「新聞記事文庫 東南アジア諸国(16-066)
東京朝日新聞 1942.12.16(昭和17)南方軍政の展開ビルマ篇
全鉄道の九割開通 軍票への信頼絶対的
一般金融
わが帝国軍票ルピーおよびダラーならびにセント紙幣の信用度は実に皇軍が泰緬国境シャン山脈を越え、ビルマ国内
に一歩を踏み入れた瞬間から全く圧倒的なのに驚いた程である、山の中の樵夫、狩人たちは日本軍を待ちかねていたように旧イギリス紙幣の束をつかんで駈出し、兵隊さんたちに軍票との交換をせがんだ、軍票への信頼は絶対的だ、去る四月末横浜正金ラングーン支店が再開されると、ビルマ人、印度人の預金者殺到、毎朝黒山を築き整理員が声を嗄らす騒ぎ、現在までにモールメン、マンダレー、バセイン、ペグーに各支店を開設しているが、現地人の預金額は実に○○万円を突破するという盛況である、行政府ではバ・モ長官の命令第一号として貨幣調整令を公布、十月十五日から施行し従来の『アンナ』『バイ』を廃止し十セントを一ルピー(あるいは一ダラー、日本の円と等価)としたが、最初は少し混乱したものの今ではすっかり慣れ市場の売子も『ハイ、お釣りを三十銭とお客の兵隊さんに日本式にやってのけているのは微笑ましい風景である」(2007/6/12「三十」を「三十銭」に訂正(脱字のため))


少なくとも1942年12月の時点で1円=1ルピーであることがわかります。



「新聞記事文庫 通貨問題(1-031)
読売新聞 1942.2.18(昭和17)
大東亜経済建設の指標 (1・2)
南方開発金庫
 本金庫は前記の如く南方資源開発、物資蒐集、破壊施設復旧等に要する資金の融資を第一の使命としているが、こ
の融資資金はすべて臨時軍事費特別会計より軍票で借受けることになっており、円通貨を現地において使用しないことになっている。本金庫の資本金一億円、第一回払込二千万円の資金は内地における経費その他内地で必要なる資金に充てられるのである、しかして現在南方に使用されている軍票は満洲、支那で使用された軍票と異ってペソならペソ、海峡植民地ドルなら海峡植民地ドルにマークを付した現地通貨が円と等価の関係で使用されているのであって、これは従来見られなかった初めて□□□□□□、本金庫がこの軍票のみを使用することも本金庫の一大特色である、すなわち本金庫がかかる軍票のみを使用して直接円系通貨を使用しないこととしたことは満洲、支那における幾多の経験より出たものであるが、これによって円貨と南方諸通貨とは一応直接的連繋を断ち切られると同時に本金庫を媒介として間接的に連繋もするという頗る巧妙なる行き方をしているのである、戦争行為継続中現地の或る程度のインフレーションは不可避的であるが、円貨と南方諸通貨とが切離されていることによってこの現地のインフレは何等円貨に影響をおよぼさないのである
 またこのように両者が切離されていることは円貨への悪影響を避ける許りでなく日本と南方諸国との関係が日本と
満洲、支那の関係と違うことをも意味し、南方経営の将来の動向を示唆しているともいえよう 」


これは南方で使用された軍票(厳密には南発券と異なる)についてですね。ペソ、海峡ドル(この時点ではビルマのルピー軍票は発行されていない)が円と等価であることがわかります。また、円通貨を現地で使用しない方針であることがわかります。
しかも「現地のインフレは何等円貨に影響をおよぼさない」ことを狙っていることもわかります。


つまり、

・建前として、1ルピー=1円(1944年以降、戦争中にこの公式レートが改訂された事実があればご指摘ください)である。
・しかし、一般にルピー・円の換金はできない。
・現地通貨と現地軍票は等価の建前である。


ことは明白です。
最後に、林教授から提供頂いたデータですが、
「太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』(吉川弘文館、1967年)によると、ビルマでの1945年初頭時点での物の値段は次のようです。
コーヒー 5ルピー    
背広1着 1万ルピー 
シャツ1枚 300-400ルピー  
絹ロンジー1着  7000-8000ルピー 」
ですので、1945年時点のビルマでルピーがインフレを起こしていることは明白です。
また、同時期(終戦以前)の日本国内では、ここまでのインフレは起こってません。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/table/120-63.html を参照すると、1939年から1945年7月まで大きな変動はない。ちなみに昭和10年(1935年)のカレーライスの値段は1皿30銭、これにはコーヒーがついていた。5ルピー(公式レートで5円相当)のコーヒーが如何に高額か想像できる。)

以上から、ルピー軍票が円と等価である建前でありながら、実勢価値は等価から大きく離れていたことがわかります。


lunakkoさんのコメントより。

1.金庫券発行の実施日について

●私の資料

南方開発金庫券発行要領
    昭和十八年三月 大東亜大臣達

    第一条 南方開発金庫券ハ左ノ通貨単位名称ノ南方開発金庫券(以下金庫券ト称ス)ヲ夫々ノ地区毎ニ発行スベシ
     「ドル」(弗)   馬来及北「ボルネオ」地区
     「ペソ」     比島地区
     「グルデン」(盾) 東印度地区
     「ルピー」(留比) 緬甸地区
     「ポンド」(磅)  濠州地区(委任統治区ヲ含ム)
    第二条 金庫券ノ発行ニ付テハ大東亜大臣ノ定ムル金庫券発行計画ニ拠ルベシ
    第三条 金庫券ノ種類及様式ハ外貨軍票ト同一トス
      附 則
    第十条 金庫券ノ発行ハ昭和十八年四月一日ヨリ之ヲ実施スベシ
    第十一条 既発行ノ外貨軍票ニ付テハ国庫ニ対スル整理ノ関係ヲ除キ凡テ金庫券トシテ取扱フベシ

    [図録 日本の貨幣 10 外地通貨の発行(1)より]
    主要条文抜粋

以前のエントリで林教授のサイト「大東亜共栄圏の実態」 よりの引用として南発券の発行数を1942年12月に4億6326万円、1944年末に106億2296万円、1945年8月に194億6822万円、」と記載した。

これに対して、南方開発金庫が発券機能を持ったのは、1943年3月であることから、記載は信用できない、という趣旨が上記のコメントで述べられている(そう明言しているわけではないが、そう解釈できる書き方)。

「日本軍政下のアジア」を確認してみたところ、p159に同じ記載があり、p160のグラフからも、同等の額であることが確認できた。そして、その引用元は、「日本金融史資料昭和編」第30巻、となっている。

lunakkoさんのように、ブログは信用できない、資料・証拠を出せと思うなら、上記の日本金融史資料をあたることをお薦めします。


ちなみに、1942年12月の額について、私の解釈を示すなら、「4億6326万円」とは、南方開発金庫券発行前の南方向け軍票の発行高を指すものと考えます(1943年4月の発券後の6月に南方開発金庫は臨時軍事費特別会計に対して南発券の貸し出しを行っており、その額が5億2551万円である。1943年1月から3月までの発行高が6000万円程度であるとすると、1942年12月の南発券発行量と合致する)。


南方開発金庫そのものは、1942年4月1日に開業しています。では、1943年の4月まで何をしていたかというと、上記「読売新聞 1942.2.18(昭和17)」の記事にあるとおり、日本政府の臨時軍事費特別会計から軍票で借り受け、南方で貸し出す、という業務を行っていたわけです。

1943年4月以降に発行する南発券は、本来なら南方占領地経済に裏づけされた通貨であるため、厳密には軍票ではありません(ほとんど軍票同様に使われたため、一般には軍票と呼ばれるが)。


軍票と一口で言っても、形態は色々あって、同じ日本軍が使用したものでも中国と南方では異なります。

この辺は、今後の勉強課題です。


疑問【解決2007/6/4】

山木さんがエントリで、関東軍女子特殊軍属服務規程について言及されてました。


慰安婦に関する元軍人の証言(3) 関東軍女子特殊軍属服務規定 【追記6/1】

1992年当時、78歳だった元軍医の電話での話として、


「「軍女子特殊軍属服務規定」は分厚い規定書で、詳細な規定が網羅されていました。関東軍後方部隊3100部隊の衛生部の所轄でした。いわゆる、慰安婦の取扱い規定で、女子特殊軍属というのは、「朝鮮ピー」のことです。この中には給与規定もありました。女性たちの月給は、800円とありました。日給がおよそ70円だったということです。その他、被服、寝具、化粧品なども貸与する書かれていました。この書類は、敗戦で逃げるときにみんな燃やしてしまいました。」


とかかれています。1940年の満州だそうです。

この時期に月給800円なら、高額です。場所は「牡丹江の奥」ということで新京に比べれば田舎です。

「日本軍政下のアジア」p179や

http://www1.ttcn.ne.jp/~crescentmoon/hyoden/chap12/12tsuzuki.html

「昭和15年(1940年)、満州では物価騰貴が進み、インフレーションの懸念が深刻化したため、内地送金が禁止になります。」

の記述を見ると、満州でもインフレが進んでいたことがわかりますが、後の太平洋戦争末期に比べれば大したことはないでしょうから、事実、月給800円なら高額だと思います。


ただし、上記の証言には気になる点があります。

「月給は、800円とありました。日給がおよそ70円だったということです」

月給が800円なら、普通は20日か30日で割って、日給は30~40円程度になるはずです。これが70円と言うのはおかしい気がします。

800÷70=11.5

なので、ひょっとしたら年収800円、月給70円の間違いではないでしょうか?


ま、現時点では仮説に過ぎないので、とりあえずは、「従軍慰安婦110番」の記述を確認してみたいと思います。


ただ、取材形式を考えると、78歳の元軍医の勘違い、電話を受けた人の聞き違い、本にした人の書き間違い、などが考えられるので、山木さんが正確に引用していても、直ちに従軍慰安婦の月給が800円だったという証拠にはなりません。


従軍慰安婦否定・正当化論者は、慰安婦の証言を証拠能力なしとみなす人が多いので、まさか、元軍医の証言を基に慰安婦が高収入だと主張したりはしないでしょうし。
証言通りなら「軍女子特殊軍属服務規定」は焼却され、現存していないわけで、藪の中、かなぁ・・・。


【追記2007/6/4】
山木さんが、「従軍慰安婦110番」を確認されたところ

「この証言を解説したページを確認したところ「給料は年800円」(p.99)と記載されていました。正しくは「年収800円、月給70円」だと思われます。」

とのことでした。

電話でのやり取り記録を精査して、おかしい個所について解説で説明した、ということかも知れません。

山木さん、ありがとうございました。