産経症・この程度の認識で防衛大の校長が勤まるなんて、我が国の国防は大丈夫か?
いいとこなしの太平洋戦争終盤を何とか美化したい、というのはわからんでもないが、そんなのは飲み屋だけでやってほしい・・・。
【正論】防衛大学校長・五百旗頭真 栗林中将は「重きつとめ」を果し得た
■硫黄島の苦闘が本土決戦を阻んだ
≪「勝利は論外」の戦い≫
国の為重きつとめを果し得で/矢弾尽き果て散るぞ悲しき
壮絶な硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将の辞世である。自らの状況をかくも冷徹に描きうるものであろうか。将兵にバンザイ突撃による玉砕を禁じ、地下にもぐっての「死よりつらい」徹底抗戦を命じ、米軍に日本軍を上回る死傷者を強いた。が、ついに「矢弾尽き果て散る」ほかのない事態に至った。そこまでやっても「重きつとめを果し得て」ではなく、「果し得で」なのである。国のための任務は何だったのか、それを果たし得なかったのか。
硫黄島守備隊の任務は、侵攻する米軍に勝つことではなかった。圧倒的な敵制海空権下で勝利は論外であった。敗れるにせよ、1日でも長く抵抗を続け、米軍の日本本土攻略を遅らせること、この限られた目的が任務であった。
★通常、要塞防衛戦を行う場合、目的は敵を破ることではなく、ある一定の期間維持することなのは基本。このパターンは2種類あって、ひとつは味方の増援が到着するまでの間の維持(日露戦争の旅順防衛のロシア軍、バルジ戦のバストーニュ防衛の米軍など)、もうひとつは後方の味方が防衛・反撃体勢を構築するまでの間の維持(アラモ砦の防衛隊、関が原戦直前の上田城攻防戦の真田軍など)である。
★硫黄島の場合、前者は既に目途が立たない状況なので、後者です。
★とは言っても本土の防衛反撃体勢なんて現実的な時間感覚で設定できる状態ではなかったわけ。だから具体的に何日、という設定はできない。この結果「1日でも長く」という単なる”先延ばし”的な目的となったわけです。
★この場合、”戦略目的を達した上での降伏”というものがあり得ない。かといって勝利もあり得ない。結局、「そこで死ね」と言っているに等しいわけです(真田軍の場合、秀忠軍が戦場に間に合わなくなった時点で降伏しても戦略的な役割は果たしたと言えますが)。硫黄島の日本軍は、自身も日本そのものもあまりにも絶望的な状況だったわけで全く救いがないと言えます。
栗林はその任務を立派に果たしたのではなかったか。敵上陸時をたたく日本軍の伝統的な水際作戦を捨て、後退し叫び声をあげないゲリラ戦を命じたのは、栗林が敵を知り己を知り、そして戦場を知っていたからである。米国民がもっとも嫌がる戦いを知米派の栗林は編み出した。その結果、敵将スミス中将が「5日」とした作戦予定を7倍する36日間の抵抗を続け、日本側2万1000の死に対し、米側2万8000の損失を課した。「国の為重きつとめ」を立派に果たしたと言うべきではないか。
★水際作戦が不利であることはこの時点では明白だったわけですが・・・。栗林が編み出したと言えるかどうか。作戦を認可した点は評価されるべきですけど。
≪東京大空襲が始まった≫
そうもいっておれない衝撃的な作戦が行われた。栗林が抵抗を続けていた昭和20年3月10日、マリアナ諸島を発ったB29の大編隊が硫黄島のはるか上空を飛んで東京大空襲を敢行した。栗林が妻への手紙に度々警告し、それを遅らせるためにこそ戦うとしていた事態が早々に現実となったのである。現場将兵の命を捨てての奮戦も、戦争の大局を変えることはできない。10万の東京市民が逃げまどい焼死する地獄絵を、硫黄島の抗戦はくい止めることができなかった。家族・同胞を敵の攻撃から1日でも守る栗林の切なる願いは、無残に砕かれた。「国の為重きつとめを果たし得で」は、栗林が曇りなくその現実を直視したことを意味しよう。
★こんなことは硫黄島戦が始まる前からわかってる話ですな。大体、大本営は硫黄島を維持することで何をするつもりだったのかが全く不明。要はただの先延ばし。今日できることを明日に伸ばした結果、2万人の将兵を無為に死なせたわけですよ。
政府・大本営の大局を誤った開戦決定を、現場の全将兵が命を費やして戦っても挽回(ばんかい)できるものではない。硫黄島の涙を禁じ得ない敢闘もその冷厳な事実を告げる。
★戦略上の失敗を戦術上の成功で取り戻すことができないのは、軍事上の常識でしょう。問題はなぜ政府・大本営が大局を誤ったのか、という点です。
≪悲壮な抗戦で得たもの≫
そうした認識を私が改めたのは、米国公文書館で米国政府・軍部の文書を読んだ時であった。予想を超える硫黄島の犠牲は米国内で広く報道され、国民に衝撃を与え怒りを呼び起こした。わが政府と軍はどういう戦争をしているのか。米軍部はガダルカナルで22対1であった日米死傷者比率が、硫黄島で1対1となったことに衝撃を受けていた。火力と物量ではますます圧倒しているのに、日本本土に近づくにつれ、日本側の抵抗は熾烈(しれつ)となり、死に行く日本兵は米兵を地獄へ1人ずつ道連れにする形をとり始めた。本土決戦はペイする戦争でありうるのか。
★よく使われるトリックですが、「1対1」なのはあくまでも”死傷者”であって”死者”ではないんですね。無論、後方の救護体制に影響されるわけですが、米兵の死者は7000人足らずです。
4月1日に始まった沖縄戦も、1カ月の作戦予定が3カ月に及ぶ苦戦となった。この時期、米政府内には「無条件降伏=本土決戦を通しての完全勝利」の方式への修正が始まる。5月末、グルー国務次官が天皇制の容認を含む穏当な対日条件を声明して、日本を降伏へ誘導する提案を行った。それに対し、トルーマン大統領やスティムソン陸軍長官は大筋の賛同を与えた。時期は先送りされたが、それが連合国によるポツダム宣言へと展開する。
★はい、これもよく使われるトリックです。4月から5月末までの間に重大イベントがヨーロッパで生じてます。言うまでもなく、同盟国ドイツの無条件降伏です。ソ連軍が極東に送られる前にけりをつけたい、と思うのはアメリカとしては当然の思考です。必ずしも対日戦での苦戦が原因とは言えないわけです。わざと、ドイツ降伏に言及しない、というのは日本を過大評価するために使われる詐術のひとつですな。
栗林中将の死闘は根深いところで動き始めた。米国側が、硫黄島・沖縄に続く本土決戦に疑念を呈し始めた。母や妻の声を尊重する民主主義社会は犠牲者数に敏感である。ベトナム戦争やイラク戦争の悲惨を、米国政府は日本本土の戦いについてはあらかじめ硫黄島で告げられたといってよい。無条件降伏の方式を事実上撤回し、穏当な条件を記したポツダム宣言が発せられた。本土決戦回避を米国の国益が望むに至ったのである。
★この文章では硫黄島戦を美化するのに上記詐術が使われいると考えられます(防衛大の校長が1945年5月のドイツ降伏を知らないとは考えられないので)。
鈴木貫太郎内閣が原爆投下とソ連参戦をうけ、聖断という非常手段によりポツダム宣言を受諾した。これにより栗林らの苦闘がよみがえった。「重きつとめを果し得で」と栗林は嘆じた。けれどもその悲壮な抗戦が敵の本土侵攻を1日でも遅らせるどころか、本土決戦をなくし、故郷の家族が平和を得て、復興の日を迎える政府決定の基盤を醸成したのである。(いおきべ まこと)
★ついでに、本土決戦では米兵に多くの犠牲者が出るであろう、という予測は、原爆投下の正当化に多用されるロジックですが、その予測自体、疑問符がつけられることも少なくないようです。
★硫黄島戦美化のロジックはそれよりも劣ります。なぜなら、ポツダム宣言の内容が日本にとって望ましいのなら、原爆投下やソ連参戦の前に降伏することも出来たからです。
★広島・長崎・満洲の犠牲者は、ポツダム宣言後もうじうじと先延ばししようとした軍・政府首脳の優柔不断によって生じたことになります。
(2007/06/10 05:01)
結局何が言いたかったのか、を考えてみると、政府や自衛隊トップが大局を誤っても、末端の兵士は死ぬ気で頑張れ、という風にしか思えませんね。
防衛大学校は自衛隊の幹部を育てるところのはずですが、こんな思考を持った幹部がぞろぞろ出てきたら最悪・・・。