Aerosmith's Joe Perry and Steven Tyler join forces with Sea Shepherd for the oceans
65歳でこの若さ!信じられない!!!
ダンディ&キュート
スティーヴン・タイラーの顔好きだなぁ
本名、スティーヴン・ヴィクター・タラリコ 1948年3月26日生まれ
エアロスミスはアメリカ北東部ニューイングランドで誕生した。
スティーヴン・タイラーの幼少時代に両親はニューイングランド
に別荘を持っていた。
毎年、夏になるとそこに出かけて行き畑を作ったり
テニスコートの整備をするなどの手伝いをさせられた。
その頃には、バンドメンバーのジョーペリー、トム・ハミルトン
ジョーイ・クライマー、ブラッド・ウィットフォードらとの出会いがあった。
1 1975年スィートエモーションがヒットし
今現在も世代を超えて根強い人気があるが
何がここまで長く愛されていると思いますか?
歌詞が良く、メロディーが良かったから
それは魔法ですよ
とにかく、運が良かった。
メロディーと言葉がうまくハマった。
16歳頃から歌を作り始め
20歳頃には大半が出来上がっていた。
そういった経過がありコロンビアとの間で契約が成立した。
2 ジョーとは一緒のアパートに住み歌を作っていたんですか?
みんなが一緒にアパートに住んでいたから曲を作ることができた。
みんなで一緒に薬物もやっていたが共に成功したかった。
バンドが成功したのは、仲間と一緒に苦労を分かち合い
部屋代を払わなくちゃいけないと一生懸命に曲を書いていた。
当時は、Love&peaceの時代でしたからね
今はインターネットの時代ですからね
なんでも早過ぎる気がするんですね
3 父親としての役割は果たしてきましたか?
そんなにいいとはいえないと思いますね。
殆どの時間を一緒にいないですから。
子供は、親がハッピーならば
子供も幸せでいられると思いますね。
私は薬物に手を染めた事もありますし、
酒に依存したことも怒りに身を任せた事もありますし・・
4 あなたのお父様はクラシックピアニストで、おじさま、お爺さまも
皆さんがクラシックの音楽家だったそうですが、DNAによって
音楽家になることが運命づけられていたと思われますか?
そうですね。
1912年にタラリコブラザーズと書いてある
パンフレットが家にありました。
チェロ、ビオラ、ピアノ、ギターのバンドでした。
彼らは電車で移動していたんです。
ホテルを巡り演奏活動をしてツアーだったんですよ。
まさに流浪の民ですよね。
私のバンドもそうです。
5 まさに演奏家の血筋ですね?
その通りです。
6 お父様の演奏を覚えていますか?
父のピアノの傍にいたのは覚えています。
父はアパートのリビングにベビーグランドピアノを持っていたんです。
リビングといっても3m×4mぐらいの狭い部屋ですが
当時はブロンクスに住んでいました。
父のピアノを聴いて育ったようなものですが
少し大きくなると、ピアノのサウンドボード(響板)に
届くようになり、手を伸ばしてそこを触っていましたが
サルのようにぶらさがって遊んでいた記憶があります。
すると大きな埃が目に入ってしまい目が開けられませんでした。
ドビュッシやブラームス、バッハやベートーヴェンを聴いて
育った子供の頃の痛みとでもいうんでしょうか。
埃が目に入って痛かったのが一番の思い出ですが
毎日2時間、父のピアノの練習するのを見て育ったんです。
それが5歳頃になるまで毎日でした。
そして、初めてジョー・ペリーに会った時
彼はイギリスのバンドのコピーを演奏していました。
それだったら、一緒に夢を追えると思ったんです。
私がメロディーを提供して魔法が起きると思いました。
7 曲を作る時は、どのようにして作るんですか?
私が育った時代ですが・・・
初めてつきあった女の子にキスをする前夜でしたが、
彼女が僕にレコードを持ってきて、
「この曲、とってもセクシーだから聴いてみて」と言われて
その頃、女の子が「セクシー」なんて言うのを聞いたことが
なかったんです。
当時、私は17歳でした。
そのレコードは、ジミー・ヘンドリックスの最初のアルバムでした。
それを聴いて、エッチな気分になり顔が赤くなったのを覚えていますが
そういう時代だったんです。
それに加えて父の音楽の影響もありましたし、
女の子にキャーキャー言われるバンドにいると自負もありました。
ジョーなんか、女の子にサインをねだられてましたからね。
私は、その頃、ジャニス・ジョプリンのようになりたいと思っていて
いつも、そんなスタイルをしていました。
そのうち、マイクスタンドに自分の好きな物を巻きつけてみたりして
次第に自分のスタイルを確立していったんですね。
そして魔法が起きたんです。
ジョーの演奏は素晴らしいもので、トムと一緒に聴き惚れました。
それを見ていたら、まるでそこに歌詞が書いてあったかのように
自然と歌詞が出てきたんです。
スィートエモーションでも他の曲でも
不思議と自然に口から歌詞が出てきたんです。
まるでスペースを埋めるようなものですよね。
もちろん、よく考えて詞を書くこともあるんですが
曲の断片を聴いただけで、ジョーの演奏と
私の発した一行の言葉で充分な時もあるんです。
まるで、2枚の板を合わせるかのように
ジョーのギターだけで、私は自然と詩を書けたんです。
8 あなたの書いた歌詞は、多くの人にとって
忘れられないものになっていますね。
まるで宗教のようになっていることがあります。
あなたは長老派のキリスト教会で
聖歌隊のメンバーだったんですよね?
宗教は大きな要素ですか?
それとも宗教より音楽ですか?
ブロンクスの教会でしたが、説教の時間になると
退屈でよくあくびをしていました。
信者席に座っていて歌い出しますよね、
それに習い一同が歌い出すんです。
牧師はテーブルの前に立っていて
牧師の後ろには大きな十字架がありました。
テーブルには大きな布がかけられていて、
私は、ずっと神はテーブルの下にいるんだ
と思っていました。
神が何者なのかはわかりませんが、
スピリチュアルな何かというのは、
歌を唄う人の中にあると感じました。
そして、ある時、神は天にいるのだと感じた時
私は恐怖を感じました。
力強いパワーを感じたからです。
その時、自分以外の何かが音楽を作り
歌を唄わせているんだと感じたんです。
9 あなたは、サナピーコというご家族の別荘でも
パワーを感じたそうですね?
静寂というスピリチュアルなマジックを感じたと
言ってますが、サナピーコについて教えてください。
イタリア系の家族というのは、本当に大声で騒々しいですが
私はサナピーコの森にパチンコやビービー缶を持ち込みましたが
本当に静かだったんです。
その静けさの中に、私はある存在を感じました。
エネルギーを感じたんです。
まるで、命が身体の中に入ってくるような感じがしました。
その静けさの中には魔法のようなものがあったんです。
それはステージで全ての楽器が鳴る時と似ていて
何か感じるものがあるんですね。
1975年です。
お香があるわけではないのに、その香りが漂ってくるような感じでした。
有機的な生き物の音が聴こえてくるんです。
そして、バンドの音を出すと彼女を引き寄せてキスをする・・
当時のロックンロールはそんな感じのものでした。
音楽には人の魂を動かす魔力があるんです。
10 あなたはあらゆる成功を手に入れましたが
反面で、リハビリ施設に8回も通っています。
ヒット曲は、サナピーコの森で感じた
静寂に立ち帰ろうというものですよね。
その過程はどれほど辛いものでしたか?
バンドに、いっぱいメンバーがいる夢をみるんです。
1年目は良くて、そして3年目に入ります。
そして4年目にスタジオでレコードの収録をします。
数か月経ってプレイバックを聴いていると
それに酔ってしまうんです。
想像力も創造する力も人もどこかいなくなってしまうんです。
そこには、ただ神がいると思います。
何もないところから創り出すんですからね、病みつきになるんです
薬でハイになるのと、作った音楽を聴くのと同じなんです。
2,3か月前のこと、飛行機のファーストクラスで
私のファーストアルバムの曲を聴いていたら
まるで赤ん坊のように泣いてしまいました。
麻薬の陶酔感と一緒なんです。
私は、かれこれ11年も禁酒しています。
そして、足の手術をしたときに睡眠薬を服用しましたが
その時の感覚は、あれを彷彿させるものでしたね。
そのような陶酔感は、本当に凄いものなんです。
ステージに立つと、毎回、その陶酔感を感じます。
毎回4回は泣きますね。
曲を書くのには4カ月はかかります。
1番ができると、2番は?と尋ねられると
こんな感じと唄ってみせます。
すると、全然できてないじゃないかと言われて
私は、中指を突き立てるんです。
でも、そうやって書き直しをしていくんです。
なので、ステージで唄っている時は
その創作の時の感覚を思い出すんですね。
私は、音楽でも陶酔感に浸れますが
中には大麻がないとダメな人もいますよね。
そして、痛みや不安感を忘れたいわけです。
薬物を続けて忘れようとしても、結局
それをやめられなくなってしまうだけなんです。
11 あなたの代表曲は?
どの曲にも、スティーヴン・タイラーの
情熱が込められているんです。
その情熱のために私は生きているんです。
なので、まだ書いていない曲の3番目も
書こうという気持ちが湧いてくるんですよ。
スティーヴン・タイラーはクラシック音楽家の家庭に育ったと知った。
65歳ながらセクシーで色気のあるミュージシャンで
アメリカンアイドルの審査員として見ていた時も、
破天荒で心の温かい人柄に魅力を感じた。
65歳でこの若さ!信じられない!!!
ダンディ&キュート
スティーヴン・タイラーの顔好きだなぁ
本名、スティーヴン・ヴィクター・タラリコ 1948年3月26日生まれ
エアロスミスはアメリカ北東部ニューイングランドで誕生した。
スティーヴン・タイラーの幼少時代に両親はニューイングランド
に別荘を持っていた。
毎年、夏になるとそこに出かけて行き畑を作ったり
テニスコートの整備をするなどの手伝いをさせられた。
その頃には、バンドメンバーのジョーペリー、トム・ハミルトン
ジョーイ・クライマー、ブラッド・ウィットフォードらとの出会いがあった。
1 1975年スィートエモーションがヒットし
今現在も世代を超えて根強い人気があるが
何がここまで長く愛されていると思いますか?
歌詞が良く、メロディーが良かったから
それは魔法ですよ
とにかく、運が良かった。
メロディーと言葉がうまくハマった。
16歳頃から歌を作り始め
20歳頃には大半が出来上がっていた。
そういった経過がありコロンビアとの間で契約が成立した。
2 ジョーとは一緒のアパートに住み歌を作っていたんですか?
みんなが一緒にアパートに住んでいたから曲を作ることができた。
みんなで一緒に薬物もやっていたが共に成功したかった。
バンドが成功したのは、仲間と一緒に苦労を分かち合い
部屋代を払わなくちゃいけないと一生懸命に曲を書いていた。
当時は、Love&peaceの時代でしたからね
今はインターネットの時代ですからね
なんでも早過ぎる気がするんですね
3 父親としての役割は果たしてきましたか?
そんなにいいとはいえないと思いますね。
殆どの時間を一緒にいないですから。
子供は、親がハッピーならば
子供も幸せでいられると思いますね。
私は薬物に手を染めた事もありますし、
酒に依存したことも怒りに身を任せた事もありますし・・
4 あなたのお父様はクラシックピアニストで、おじさま、お爺さまも
皆さんがクラシックの音楽家だったそうですが、DNAによって
音楽家になることが運命づけられていたと思われますか?
そうですね。
1912年にタラリコブラザーズと書いてある
パンフレットが家にありました。
チェロ、ビオラ、ピアノ、ギターのバンドでした。
彼らは電車で移動していたんです。
ホテルを巡り演奏活動をしてツアーだったんですよ。
まさに流浪の民ですよね。
私のバンドもそうです。
5 まさに演奏家の血筋ですね?
その通りです。
6 お父様の演奏を覚えていますか?
父のピアノの傍にいたのは覚えています。
父はアパートのリビングにベビーグランドピアノを持っていたんです。
リビングといっても3m×4mぐらいの狭い部屋ですが
当時はブロンクスに住んでいました。
父のピアノを聴いて育ったようなものですが
少し大きくなると、ピアノのサウンドボード(響板)に
届くようになり、手を伸ばしてそこを触っていましたが
サルのようにぶらさがって遊んでいた記憶があります。
すると大きな埃が目に入ってしまい目が開けられませんでした。
ドビュッシやブラームス、バッハやベートーヴェンを聴いて
育った子供の頃の痛みとでもいうんでしょうか。
埃が目に入って痛かったのが一番の思い出ですが
毎日2時間、父のピアノの練習するのを見て育ったんです。
それが5歳頃になるまで毎日でした。
そして、初めてジョー・ペリーに会った時
彼はイギリスのバンドのコピーを演奏していました。
それだったら、一緒に夢を追えると思ったんです。
私がメロディーを提供して魔法が起きると思いました。
7 曲を作る時は、どのようにして作るんですか?
私が育った時代ですが・・・
初めてつきあった女の子にキスをする前夜でしたが、
彼女が僕にレコードを持ってきて、
「この曲、とってもセクシーだから聴いてみて」と言われて
その頃、女の子が「セクシー」なんて言うのを聞いたことが
なかったんです。
当時、私は17歳でした。
そのレコードは、ジミー・ヘンドリックスの最初のアルバムでした。
それを聴いて、エッチな気分になり顔が赤くなったのを覚えていますが
そういう時代だったんです。
それに加えて父の音楽の影響もありましたし、
女の子にキャーキャー言われるバンドにいると自負もありました。
ジョーなんか、女の子にサインをねだられてましたからね。
私は、その頃、ジャニス・ジョプリンのようになりたいと思っていて
いつも、そんなスタイルをしていました。
そのうち、マイクスタンドに自分の好きな物を巻きつけてみたりして
次第に自分のスタイルを確立していったんですね。
そして魔法が起きたんです。
ジョーの演奏は素晴らしいもので、トムと一緒に聴き惚れました。
それを見ていたら、まるでそこに歌詞が書いてあったかのように
自然と歌詞が出てきたんです。
スィートエモーションでも他の曲でも
不思議と自然に口から歌詞が出てきたんです。
まるでスペースを埋めるようなものですよね。
もちろん、よく考えて詞を書くこともあるんですが
曲の断片を聴いただけで、ジョーの演奏と
私の発した一行の言葉で充分な時もあるんです。
まるで、2枚の板を合わせるかのように
ジョーのギターだけで、私は自然と詩を書けたんです。
8 あなたの書いた歌詞は、多くの人にとって
忘れられないものになっていますね。
まるで宗教のようになっていることがあります。
あなたは長老派のキリスト教会で
聖歌隊のメンバーだったんですよね?
宗教は大きな要素ですか?
それとも宗教より音楽ですか?
ブロンクスの教会でしたが、説教の時間になると
退屈でよくあくびをしていました。
信者席に座っていて歌い出しますよね、
それに習い一同が歌い出すんです。
牧師はテーブルの前に立っていて
牧師の後ろには大きな十字架がありました。
テーブルには大きな布がかけられていて、
私は、ずっと神はテーブルの下にいるんだ
と思っていました。
神が何者なのかはわかりませんが、
スピリチュアルな何かというのは、
歌を唄う人の中にあると感じました。
そして、ある時、神は天にいるのだと感じた時
私は恐怖を感じました。
力強いパワーを感じたからです。
その時、自分以外の何かが音楽を作り
歌を唄わせているんだと感じたんです。
9 あなたは、サナピーコというご家族の別荘でも
パワーを感じたそうですね?
静寂というスピリチュアルなマジックを感じたと
言ってますが、サナピーコについて教えてください。
イタリア系の家族というのは、本当に大声で騒々しいですが
私はサナピーコの森にパチンコやビービー缶を持ち込みましたが
本当に静かだったんです。
その静けさの中に、私はある存在を感じました。
エネルギーを感じたんです。
まるで、命が身体の中に入ってくるような感じがしました。
その静けさの中には魔法のようなものがあったんです。
それはステージで全ての楽器が鳴る時と似ていて
何か感じるものがあるんですね。
1975年です。
お香があるわけではないのに、その香りが漂ってくるような感じでした。
有機的な生き物の音が聴こえてくるんです。
そして、バンドの音を出すと彼女を引き寄せてキスをする・・
当時のロックンロールはそんな感じのものでした。
音楽には人の魂を動かす魔力があるんです。
10 あなたはあらゆる成功を手に入れましたが
反面で、リハビリ施設に8回も通っています。
ヒット曲は、サナピーコの森で感じた
静寂に立ち帰ろうというものですよね。
その過程はどれほど辛いものでしたか?
バンドに、いっぱいメンバーがいる夢をみるんです。
1年目は良くて、そして3年目に入ります。
そして4年目にスタジオでレコードの収録をします。
数か月経ってプレイバックを聴いていると
それに酔ってしまうんです。
想像力も創造する力も人もどこかいなくなってしまうんです。
そこには、ただ神がいると思います。
何もないところから創り出すんですからね、病みつきになるんです
薬でハイになるのと、作った音楽を聴くのと同じなんです。
2,3か月前のこと、飛行機のファーストクラスで
私のファーストアルバムの曲を聴いていたら
まるで赤ん坊のように泣いてしまいました。
麻薬の陶酔感と一緒なんです。
私は、かれこれ11年も禁酒しています。
そして、足の手術をしたときに睡眠薬を服用しましたが
その時の感覚は、あれを彷彿させるものでしたね。
そのような陶酔感は、本当に凄いものなんです。
ステージに立つと、毎回、その陶酔感を感じます。
毎回4回は泣きますね。
曲を書くのには4カ月はかかります。
1番ができると、2番は?と尋ねられると
こんな感じと唄ってみせます。
すると、全然できてないじゃないかと言われて
私は、中指を突き立てるんです。
でも、そうやって書き直しをしていくんです。
なので、ステージで唄っている時は
その創作の時の感覚を思い出すんですね。
私は、音楽でも陶酔感に浸れますが
中には大麻がないとダメな人もいますよね。
そして、痛みや不安感を忘れたいわけです。
薬物を続けて忘れようとしても、結局
それをやめられなくなってしまうだけなんです。
11 あなたの代表曲は?
どの曲にも、スティーヴン・タイラーの
情熱が込められているんです。
その情熱のために私は生きているんです。
なので、まだ書いていない曲の3番目も
書こうという気持ちが湧いてくるんですよ。
スティーヴン・タイラーはクラシック音楽家の家庭に育ったと知った。
65歳ながらセクシーで色気のあるミュージシャンで
アメリカンアイドルの審査員として見ていた時も、
破天荒で心の温かい人柄に魅力を感じた。