京都大学霊長類研究所というところがある。
世界的に霊長類の研究所と知られ,で京大総長の山極壽一さんが有名である。
京大総長となると2代前の御池和夫先生は,いわゆる町内会。(プチ自慢)
この研究所の教授の方が書かれた記事がFBで紹介されていたので読んだ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688
まあ,えらい先生が言われていると事だから間違いは無いと思う。
私のような凡人がとやかく言うことではないのだが少しばかりプチンときてしまった。
タイトルは
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 ~実は障害者ではない!」
というもの。
本来なら講談社から出ているブルーバックスを購入してきちんと読んでから自分の意見を言うべきなのだが,記事を読んでの独断と偏見になるので,(これが私の利点?)お許しを願いたい。
記事では,自閉症を
”オタク的傾向が顕著な発達「障害」として一般的によく知られるようになってきた。”と書いている。
しかも,
「この「障害」はおおよそ,遺伝的要因によって生ずると考えるのが定説となっている。」とも書かれている。
そして,発症率の値が他の遺伝的障害に比べて極端に大きい。
これはダーウィン流の「淘汰圧」が働かなかったからだととらえ,
自閉症には淘汰圧がかからなかった。つまり「存在意義」があったのだと結論づけている。
ここまで読んで,もうずいぶん前のことであるが,忘れられない教え子のことが浮かんできた。
彼はズシャンヌ型の筋ジストロフィー。
隣のクラスであったが小2の時に遠足で比叡山に一緒に登った。
いざというときには私が(こう見えても力自慢であった)オンブするつもりで行ったのだが,殆どを自力で歩いた。
そして,3年の頃からよく転倒するようになり,途中から車椅子となった。
私の転勤後だが,5年生の時の泊まり込みの野外学習にはご両親が施設の近所に宿をとって参加できるようになったということだ。
(これもおかしな話だとは思う。)
きっとその時いたら私は管理職に噛みついていたと思う。
高校からは筋ジスの子ども他達ばかりの養護学校へ。
級友達が少しずつ居なくなっていくなか,先生達は子どもたちに,明日への希望を持たせ,生きる力の意欲を喚起させるか,本当にご苦労されていた。
彼は,無事に高校を卒業し作業所で印刷関係の仕事(名刺作り・ポストカード・や年賀状作等)をずっと続けていたが,30歳を過ぎて天国へ旅立った。
彼に「淘汰圧」がかかったのでしょうか?
彼には「存在意義」がなかったのでしょうか?
・・・・
ふざけるな!!
人の命を,「淘汰圧」とか,「存在意義」とか,学術的かも知れないが,そんな言葉でとらえないでほしい。
10ヶ月もの間,愛おしさの中で,お腹で守り,そして,生まれてきた我が子を,
一所懸命に育み成長を見守ったお母さん。
共に支えてきたお父さん。
そして家族や周囲の方達の「思い」を推し量るべきだろう。!
少なくとも大学で「教授」と名乗るなら。それぐらいの人としての能力はあるはず。
この文章を見て,どれほどの方が悲しい思いをされるのだろう。
私は「怒り」しか覚えない。
人は,全ての人に生きる権利がある。全ての人に存在意義がある。
「障害」という言葉で人を分けるものなんだろうか?
副題の「実は障害ではない」という表現にも違和感を覚えてしまう。
頭のいい,偉い学者さんだから理論的に書かれているのだろうが・・・,
ならば「一般的によく知られている」とか
「主張する研究者もいる」なんて他に責任転嫁するような書き方をするなよ!と思ってしまう。
この方の言わんとすることは理解できる。
書かれている内容を否定なんてする気はないどころかその通りだとも思う。
ただ,素直に受け取れない私。
表現の仕方,物事の捉え方にすごく本能的な嫌悪を感じてしまう私がいる。
こればかりはどうしようもない。
「障害」があるとかないとか,それはやはり片側,いわゆる多数派からの観点だろうなと思う。
「障害」という線を引いて,線の向こうとこちらに分けてしまっているような気もする。私の浅はかな読み方・捉え方の勘違いであって欲しい。
古くは,ナチスドイツに始まる片側からのもの見方は,
極端だが,
相模原の「津久井やまゆり園」での大量殺人事件につながり,
そして,「生産性がない」とほざく,
人として最低の議員に行き着くのではないかと思う。
感情のおもむくままに,独断と偏見で一気に書いた文章です。
後で,自分の愚かさに気づき削除するかも知れません。
20180924am04:30 m(_ _)m