本郷通りから、本郷4丁目と本郷5丁目の境目に沿った「菊坂」に入る。
「菊坂」という「通り」と言っているが、やはり「坂道」なのである。ここから、北西の方向に、「菊坂下」までの長さ620メートル、高低差11メートルの長いゆるやかな坂道がのびている。この辺りは、江戸時代には一面の菊畑だったそうで、菊作り植木職人が多く住んでいたことから「菊坂」と呼ばれたという。
この菊坂と、その周辺は、古の明治・大正の時代に活躍した文豪たちの住居跡があるなど、ゆかりの地であり、下町情緒あふれる街並みが所々に残されている。
坂を緩やかに下りながら程なくあるくと右手に「金魚坂」の入り口がある。
細い金魚坂を上ると、江戸時代から350年続く、金魚の卸問屋と、「珈琲金魚坂」がある。
お祭りでなくてもいつでも金魚すくいも楽しめる。当ブログで、前にとりあげたことがある。
https://ameblo.jp/satoyamatabibito/entry-12531454658.html
(記事の前段の代々木の「金魚CAFE」は、すでに2016年2月末で閉店している)
「金魚坂」の入り口のお宅の2階窓の手摺りの模様が特徴的。陽に当たり、陰が芸術的。
さらに先に行った左手に、魚屋さんと、肉屋さんが並んでいる。
肉屋さんは、「まるや肉店」といい、「菊坂コロッケ」で有名で、1個130円。
アツアツの揚げたてを、店のベンチに腰掛けて食べるのがいいが、冷めてもおいしい。
そのすぐ先に少しずれた十字路がある。左が「本妙寺坂」で、本郷台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂から登っていくと、春日通りの石川啄木喜之床跡のある信号のあたりに出る。下の写真では、左右に菊坂、向かいの坂が本妙寺坂。
菊坂から右の坂を上って行くと「本妙寺跡と明暦の大火」「私立女子美術校菊坂校舎跡」の碑が立っている。
明治43年に巣鴨に移転してしまったが、以前に、この場所に本妙寺という法華宗の寺があった。ここが、明暦3年(1657年)に起きた「振り袖火事」といわれる「明暦の大火」の火元と言われている。
さらに坂を上り、左に入ると、「本郷菊富士ホテル跡」の碑が建っている。
菊富士ホテルは、大正3年に開業し、多くの作家や文化人、政治家が宿泊した。右端の黒御影石には、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、竹久夢二、三木清、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、伊藤野枝など、著名人の名前が刻まれている。昭和20年、焼夷弾で消失した。
同じ敷地内には、明治41年に石川啄木が初めて上京したとき、金田一京助と同宿した「赤心館」もあった。「たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩歩まず」はこの場所で詠まれたという。
また、菊坂に降りて、風情のある商店街を歩いていくと、左側に古民家があり、電信柱には「本郷4-33」の住所表示と「坂口医院入口」の案内がある。
この古民家の脇の石段を右に降りていくと菊坂界隈でも一番低い「菊坂下町」と呼ばれる地域に入る。
石段を降りると、菊坂に沿って細い通りがある。下町の路地のようなこの道は「菊坂下通り」とよばれる。左に少し行くと樋口一葉ファンのご夫婦が営む「小さなカフェ「おやすみ処ひとは」が立つ。店内は、一葉グッズであふれ、素敵な水彩画も飾られている。店先には、今では珍しい防火水槽が置かれている。
さらに進んだ左側の菊坂に登る石段の途中に、宮沢賢治の旧居跡がある。賢治は、岩手県花巻から、大正10年(1921年)1月に家人に無断で上京。このすぐそばいあった二軒長屋に間借りして、東大赤門前の印刷所で働きながら、創作活動に専念し、この時期に、童話集『注文の多い料理店』に納められた「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」など作品が書かれた。同年8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで、トランク一杯の原稿を抱えて急ぎ花巻に帰ることになったという。
「菊坂下通り」を、また、少し戻り、先ほどの「おやすみ処ひとは」の隣の細い路地を入ると、長い石段の坂道にたどり着く。
「炭団坂」である。
本郷台地から菊坂の谷へ下る坂で、名前の由来として、この地域では、炭団などを商売にする者が多かったという説や、切り立った急な坂のうえに、斜面が北側でじめじめしていたため雨上がりなどには転げ落ちて“たどん”のように泥だらけになった者がいたからだという説もあるという。
この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥の旧居跡がある。坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。同地は坪内逍遥転居後、松山出身者向けの寄宿舎「常盤会」となり、正岡子規、川東碧悟堂などが居住した。
現在は「BRANZ本郷真砂」というマンションが建っている。炭団坂を上り切ったところから、このマンションの西側に沿って細い通路があり、そこから眺める風景がこれ。下をみると、切り立った切り立った「崖」のようになっている。
「崖沿い」の細い通路は、「鐙坂」につながっている。
鐙坂にぶつかる手前に、古い建物が何軒かまとまって残された一角がある。
鐙坂に出る。坂の下を見る。
坂を少し下ると、言語学者として有名な金田一京助、そしてその長男で、国語学者の金田一春彦がかつて住んでいた場所に行きつく。石垣のところに文京区の説明板が立っている。
そして、そこから、さらに坂を下ると、右手に木の門があり、その先に細い路地がある。
その先に、小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉(1872~1896年)の旧居跡がある。
明治時代に小説家、歌人として活躍した樋口一葉の24年間の短い生涯のうちの明治23年から27年にかけての3年ほどを、この本郷の旧居跡地で暮らした。木造の風情のある民家が坂道に囲まれた路地裏にひっそりと建つ。
この菊坂時代は、明治法律学校に学んだ兄泉太郎の死に続く父の事業の失敗と病没という不幸の中を、戸主となった一葉が、母や妹と洗張りや仕立物でかろうじて生計を立てていた。そうした中で私塾「萩の舎」に通うかたわら、処女作『闇桜』などを書いた所でもある。
一葉旧居跡は向かい合うように2棟あり、最初に明治23年に住んだのは、左側の家。明治25年には、一部屋多いからと右側の家に移ったという。
樋口一葉も使ったという井戸は当時のまま残っている。現在はポンプ井戸になっている。
ポンプの先の路地を進み、左に行くと、鐙(あぶみ)坂に戻る。
一葉は明治24年の日記で、お茶の水橋の開通を見に行くとき、ここを通ったと書いている。
「菊坂下町」から菊坂に戻り、少し行くと、「ズボン堂」という看板。1950年創業で、ズボンの販売、修理をしている、現役の洋品店で、その名の通り、ズボンに特化したお店だ。この辺りの風景がとても味がある。
さらにすすむと、右側に木造二階建ての家と蔵が現れる。すでに廃業しているが、質店「伊勢屋」で、樋口一葉も度々利用したといわれ、当時の姿のままで残っている。
伊勢屋の裏手から見る風景は、とても東京と思えない。
菊坂通りは、まもなく終わり、「菊坂下」の交差点へと降りていくのだが、その手前の、本郷5丁目郵便局の少し先を右に曲がると急な坂を上って行く。「胸突坂」だ。
文京区内には、「胸突坂」と呼ばれる坂道がこの本郷5丁目も含めて3つある。もう一つは、西片2丁目と白山1丁目の間にある「胸突坂」で、さらにもう一つが、関口2丁目と目白台1丁目の間にある「胸突坂」。いずれも、その名の由来は、急な坂のため、昔は、体を前に倒し、地面につくような姿勢で、胸を膝で突くように上ったからだという説や、険しくて胸を突き上げるような苦しさだったからだという説があるようだ。いずれにしても、勾配が急でのぼるのに一苦労する坂というのは間違いないようだ。
途中に立派な古民家がある。
坂を上りきったところに、明治38年(1905年)に創業、築102年の木造2階建の近代和風建築の、「鳳明館」本館がある。下宿屋として営業していたが、昭和になって下宿屋兼旅館に改造し、昭和20年(1945年)に旅館建築に模様替えしたという。本館の他、本郷の町に3つの館を持ち登録有形文化財にも指定されている老舗旅館である。
このときは、何やら撮影をしていた。
本館と路地を挟んですぐ隣に「台町別館」がある。
昭和25年(1950 年)創業で、個人の邸宅だったものを改装して、旅館としての営業をはじめたという。「台町」というのは、この付近の台地の上が「菊坂台町」と呼ばれていたからだ。
鳳明館の本館と台町別館は、本郷5丁目にあるが、もう一つ、少し離れた本郷6丁目に、鳳明館森川別館がある。
こちらは、創業は昭和30年(1955年)だという。森川別館は3つある建物のなかでは1番新しいというが、一番風情がある。
坂道に沿って建てられている、その姿が特徴的だ。
この角度からの眺めに惹きつけられて、足がしばらく動かなかった。
文京区を歩く〈第3回〉── 本郷菊坂(2)に続く