坂と文学の街・歴史ある風景の残る街、文京区を歩く〈第4回〉──白山エリア(1) | TABIBITO

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続いて白山エリアへ。

 

前回の本郷・菊坂エリアから白山エリアに続いてもよいのだが、ここでは、JR水道橋駅から、白山通りを北上してみたい。

 

 

水道橋駅を降りて北側に歩き神田川を渡る。

 

 

外堀通りと白山通りの交差点。

 

 

信号を渡ると都営三田線の後楽園駅があり、さらにすすむと、文京区のランドマークともいえる東京ドームシティー(東京ドーム、後楽園遊園地、商業施設などの複合施設)がある。

左手には、地上43階建ての東京ドームホテルがそびえ立つ。

 

 

白山通りをさらに北上すると、都営三田線の春日駅。都営三田線は、白山通りに沿って走っている。

 

春日駅の西側には、もう一つのランドマーク、地上27階の文京シビックセンター(文京区役所)が見える。文京シビックセンターは1999年に完成し、高さが142mで都内の区役所の中では最も高い施設ということだ。25階(地上105メートル)に展望ラウンジがあり、南側のレストランの部分をのぞいて、東側には東京スカイツリー、西側は富士山に、池袋や新宿の街、北側に秩父連邦と、360°のパノラマを楽しめる。

 

 

都営三田線春日駅を出て、北東方向に200mほど行くと前回の本郷・菊坂で紹介した「菊坂下」に出る。

 

前回紹介した、白山通り沿いの紳士服店の店先にある樋口一葉終焉の地碑を少し行くと、「オリンピック白山店」があり、そこを斜め右(北東方向)に折れて進むと、西方1丁目が終わり、その先右手が西方2丁目、左手は白山1丁目となる。

その交差点に、古い建物が並んでいる。

 

 

 

 

さらに、その道を進むと、重厚な店構えの銭湯、「富士見湯」がある。いまでは、唐破風屋根の入り口というのも珍しい。富士見湯は、昭和31年(1956年)に建てたられたそうで、昔は「たぬき湯」という愛称で地元に親しまれていたという

 

 

 

 

そして、その先に、「アイドル」という喫茶店がある。

 

 

メニューは豊富で、この日は、ハムエッグライスを注文。

 

 

ご夫婦でお店をやっていて、マスターにお聞きしたら、1976年(昭和52年)創業で、今年で44年になるということだ。

昨年の夏に、「じゅん散歩」で高田純次がこのお店が訪れたそうで、そのときの高田さんのサインと写真が飾られている。

高田さんは、お店の看板メニューのアイドルジュースを飲んだそうだ。アイドルジュースは、「りんご」と「にんじん」がある。

 

 

 

昔のこの界隈の様子や、ご夫婦のなり染めまでお聞きして、楽しい時間だった。

 

このお店のそばの奥まったところに、こんな民家が。

 

 

手摺りの意匠が気になる。

 

 

 

さて、「富士見湯」と「喫茶アイドル」のある通りから西側のエリアが旧白山花街である。

 

この界隈は、戦災からも免れているため、花街時代の細い路地に木造2階建ての建物が最近までもいくつも残されてきた。建物の外装は下見板張り系が多く、意匠が施されたり、屋号が刻まれているものもある。

 

現在の文京区白山は、旧小石川区指ヶ谷(さすがや)町、白山前町などを合わせた新しい地名で、地域内にある白山神社に由来している。

 

指ヶ谷町(さしがや)は、「さすがや」が正当な読みで、「さすがい」(砂子)とも呼ばれ、かつて文京区に存在した旧町名である。江戸期には1・2丁目があったが、昭和41年の町名変更によって現在では白山の1、2、4、5丁目となっている。

小石川台・本郷台・白山台地の間に位置し、江戸時代、時の将軍3代目家光公がこのあたりに鷹狩りに赴いた際に、まだ谷であった一帯を「あの谷」と指差し、「そのうち人が住むであろう」と言った為に「指ヶ谷」となったという。

 

旧指ヶ谷にはかつて花街があった。江戸時代は、小役人屋敷が並んでいたが、明治時代に農地として開墾され、明治20年(1987年)頃になると、農地を開発し、明治27年(1894年)、銘酒屋(飲み屋に見せかけ、私娼をおいて売春させた店)を開業させたのが花街の起源となった。
 

その付近に居住していた樋口一葉の短編小説『にごりえ』が発表されたのが、明治28年(1895年)9月で、その当時の指ヶ谷界隈の様子が描かれている。『こごりえ』は、この銘酒屋街にあった銘酒屋「鈴木亭」(小説では「菊の井」)で働くで女性をモデルににした『お力』という私娼を主人公にした小説である。

 

 

しかし、明治後期は、風紀取り締まりが強まり、それまであった指定地(慣例地)だけに限定され,それ以外の私娼街は存続できなくなったため、明治末期まで都心部では新たな花街が生まれることはなかった。
 

その銘酒屋街を芸妓の花街に転身したのは明治45年(1912年)のことである。花街の発起人となったのが小石川で酒屋兼居酒屋を経営する秋本鉄五郎という人物であった。秋本は三業地指定の許可を再三警察に出願しながら当時の政治家の助けを借りて6年目の明治45年(1912年)指定地許可が下りた。こうして指ヶ谷は指定地制定後最初の花街となり、大正から昭和初期にかけて多くの新花街を誕生させる先駆けとなった。昭和初期で、芸妓置屋160軒、芸妓60人、料亭39軒。
 

 

 

昔の花街の入口にあたるところの狭い路地に、「花みち」という貸しスペースがあり、映像関係のロケや会合などにも使われている。趣きある建物で、以前は「田川」という屋号の待合茶屋だったそうだ。

 

 

 

 

黒板塀に囲まれた建物。元料亭だった「濱乃家」である。

 

 

 

 

2階の手すりには「濱乃家」と、屋号の透かし彫りが施してある。

 

 

 

この界隈の料亭の建物も10年ほど前までは、何軒も残っていたが、次々と取り壊されて、当時の姿をそのまま残している建物はこの「濱乃家」ぐらいとなってしまった。

 

 

 

 

 

料亭だった「竹乃家」の跡。現在は民家として使われている。

 

 

玄関の上部が湾曲した珍しいデザインとなっている。以前は、竹が埋め込まれていたという。

 

 

 

格子が巡らされた窓

 

 

 

北側にあるまつざかや質店。

 

 

 

 

 

他にも、所々に、風情のある建物が佇む。

 

 

 

 

 

 

 

旧花街の北側に、「満津美」という名前の昭和12年(1937年)創業の老舗の鮨屋さんがあったのだが、昨年3月で82年の歴史に幕をおろした。

 

 

 

なお、それ以外に、これまでアップしてきた建物の中でも、すでに解体、建て替えされるなどで、今ではなくなっている場合もあると思うので、ご了解いただきたい。

 

 

次回に続く。