坂と文学の街・歴史ある風景の残る街、文京区を歩く〈第5回〉──白山エリア(2) | TABIBITO

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パソコンの調子が悪く、難儀しているうちに間が開いてしまったが、前回にひき続き白山エリアを歩く。

 

白山通りを北に行くと、「白山下」のY字路交差点があり、白山通りは斜め左・北西方向に進むが、斜め右・北東方向へ行く道は「旧白山通り」とよばれ、都営地下鉄三田線の上を進み、数百メートル先の「白山上」で中山道(17号)に合流、その後、千石駅のあたりで再び白山通りに合流し、JR巣鴨駅をぬけていく。

 

 

白山下から小石川植物園へと続く蓮華寺坂。

 

 

 

白山下の北側にある京華通り商店街。

 

 

 

白山下から旧白山通りを歩くと、すぐに都営地下鉄三田線の白山駅があり、その右手(東側)に、本郷台地に登る「浄心寺坂」がある。そして、その途中の左側に、赤い「奉納 南無八百屋於七地蔵尊」ののぼり旗が立っている。「八百屋お七」のお墓がある「圓乗寺」である。

 

 

まず参道の入口右には、背の高い大きな石碑が立っていて、左側には、「八百屋於七地蔵尊」が鎮座する。

 

 

最初、訪れた時は、これだけでもすごいと思ったものだが、墓は、さらに参道をすすんだ左手にある。しかし、お七の墓は、3基もあって、真ん中の小さい供養塔は、当時の住職の建立した一番古いものだそうで、その右側にあるのが、寛政年間(1785~1801)に歌舞伎でお七を演じて当たり役をとった、岩井半四郎がに建てた113回忌供養塔。左側にあるものは、町内有志が270回忌に建てた供養塔だという。

 

 

井原西鶴の「好色五人女」などで有名になり、縁結びにご利益があると、お七の墓には「恋の願掛け」に訪れる女性たちが後を絶たなかったという。彼女達が「お守り用」に墓石を削り取って持っていくことがはやって、最初の墓石が小さくなってしまったという話もある。

 

八百屋お七の放火事件のあらすじはこうだ。お七の生家は、駒込片町(本郷追分)などで、かなりの八百屋であった。天和の大火(天和2年、1682年12月近くの寺院から出火)でお七の家が焼けて菩提寺の圓乗寺に避難した。その避難中、寺の小姓佐兵衛(吉三郎だったという説もある)と恋仲になった。やがて家は再建され自家に戻ったが、お七は佐兵衛に逢いたい一心で、付け火をした。放火の大罪で捕えられたお七は、3日間、馬上に縛られ、江戸市中を引き回しの上、天和3年3月29日に品川の鈴が森で火あぶりの刑に処せられた。

 

当時、16歳になったばかり(満年齢で14歳)のお七を憐れんだ町奉行が、15歳以下ならば、罪一等を減じ、親戚預かりにできたので、「お七、お前は15であろう」 と再度にわたって問いただしたのに、お七が宮参りの札まで見せて「16歳です」と主張したので、掟どおりに火刑に処せざるをえなかった、と伝えられている。

 

「八百屋お七」は実在したが、昔から人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられ、脚色されて、今日に伝えられて来ている部分もあり、その物語には諸説あるようだ。その点で、東京消防庁のホームページの「消防雑学辞典」の「ぼやで身を焼く八百屋お七」が一番わかりやすく、(公的機関として)客観性を持っているようだ。消防庁らしく、当時の「放火に関する刑罰」についても詳しく書かれている。

https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_31.htm

 

なお、お七については、圓乗寺にお墓があるだけではない。円乗寺のそばにある大円寺には、お七を供養するために建立されたお地蔵 「ほうろく地蔵」 があり、大円寺から少し離れた本駒込の吉祥寺には、1966年(昭和41年)5月29日のお七生誕300年記念に日本紀行文学会が建てた 「お七と吉蔵の比翼塚」がある。さらに、千葉県八千代市の日蓮宗長妙寺や岡山県御津町にもお七の墓があるそうだ。

 

 

重罪で14歳で命の火を消したお七だが、その後、たくさんの物語が語り伝えられ、お墓もいくつもつくられ、「放火犯」なのに東京消防庁までもが紹介するという、きわめて特別で不思議な存在である。「悲劇のヒロイン」どころか、「江戸の伝説のスーパースター」といっていいだろう。

 

 

圓乗寺から、白山駅の方に戻り、西側に行くと、白山神社がある。

 

 

白山神社の創開は古く、天暦2年(948年)に、加賀国(現在の石川県の南半部)の白山比咩神社から勧請を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建された。後に、元和年間(1615~1624年)に2代将軍徳川秀忠の命で巣鴨原(現在の白山3丁目・小石川植物園内)に移ったが、明暦元年(1655年)、その地に館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が作られることになったため、現在地に遷座した。その屋敷が「白山御殿」であり、移された(現在の白山5丁目)白山神社は、「屋敷神」として、綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰された。

 

 

天皇によって勅使が遣わされて祭礼が執り行われる神社のことを「勅祭社」とよび、これに準ずる格式のある神社のことを「准勅祭社」というが、白山神社は、明治初期に「准勅祭社」として定められていた東京十社(富岡八幡宮、芝大神宮、山王日枝神社、品川神社、赤坂氷川神社、根津神社、神田神社、亀戸天神社、白山神社、王子神社)のひとつとなっている。

また、この一帯の「白山」という地名の由来ともなっている。

 

 

白山神社は平安初期に加賀国一宮神社が移されてのが始まり、元は白山三丁目にあったが、五代将軍徳川綱吉の白山御殿、屋敷造営のため、現在の地に移された。(1655年)以後、白山御殿の屋敷神とされ「綱吉」と生母「佳昌院」の熱い庇護を受けた。

 

その時期、白山神社境内には10種類3000本の紫陽花が咲き乱れ、見事な景観を愛でる人々が絶えない。歯痛に効く神様と知られている。

 

■白山神社については、前にアジサイが満開のときに行った記事がある。

https://ameblo.jp/satoyamatabibito/entry-12531458859.html

 

 

白山神社から、西に歩き、白山通りを渡ったところに、白山通りから小石川植物園の方角に登る「逸見坂」がある。

 

 

白山神社のところで少し触れたように、その昔、現在の小石川植物園の場所には、白山御殿があったが、御殿が廃止された後、「白山御殿跡地」と称し(その後「白山御殿町」に)、江戸時代には旗本屋敷があり、その中に「逸見某」(逸見弥左衛門との説もある)という武家屋敷があったことから、「逸見坂」と呼ばれるようになったと言われている。

 

 

坂の途中の西側には「本念寺」があり、そこには「蜀山人」(しょくさんじん)の名前でも知られる大田南畝(おおたなんぽ・1749~1823 年)の墓がある。江戸時代中・後期に活躍した蜀山人は、下級武士でありながら、狂歌師や戯作者、また学者としても人気を博した。

 

 

この南畝を中心にして、武士や町人たちの身分を越えて、さまざまな絵画や文芸が花開いたという。

 

 

坂を下っていくと小石川植物園がある。

 

 

正式な名称は、「東京大学大学院理学系研究科付属植物園」である。しかし、元々は東京大学が開設した施設ではなく、江戸幕府により薬になる植物を育てる目的で、1684年(貞享元年)に白山台地にあった第5代将軍・徳川綱吉の別邸・小石川御殿(白山御殿)に造られた「小石川御薬園」である。綱吉の死後、御殿は廃止され小石川植物園の前身となる「小石川薬園」が置かれた。

 

小石川植物園となったのは、1877年 (明治10年)に東京大学が開設された際に附属施設として改称され、 同時に、一般にも公開されるようになった日本最古の植物園である。

 

一歩園内に入ると、周りはすべて木々に囲まれ、とても都心にあるとは思えない景色が広がる。約16万㎡の広大な敷地には、台地、傾斜地、低地、泉水地と起伏に富んだ地形を巧みに利用し、3000種の植物を配置するほか、11000種の熱帯・亜熱帯の植物を栽培する温室など、約4000種類の野生植物が栽培され、春はウメやサクラ、秋にはイロハモミジなど、四季を通してさまざまな花木を楽しむことができる。2012年(平成24年)には歴史的価値が認められ国指定の名勝及び史跡となった。

 

そして、小石川植物園といえば、ドラマにもなった山本周五郎の小説で有名な『赤ひげ診療譚』の舞台となった小石川養生所があった場所である。

享保7年(1722年)1月21日に、和田倉門外、辰ノ口の評定所前に設置された目安箱に投げ込まれた訴状を八代将軍徳川吉宗が目にしたことを契機に造られた、無料の医療施設である。

 

その訴状を出したのは小石川伝通院で町医者をやっていた小川笙船(おがわしょうせん)だった。一握りの裕福な町人しか薬(漢方薬)を手に入れられなかった時代にあって、病を持つ貧民の窮状を見ていた小川笙船は、幕府医師による診療を無料で受けられる施設である施薬院の設立を提案したのである。それを見た吉宗は、施薬院の設立を検討するよう町奉行・大岡忠相に命じ、その年の12月に「施薬院」を設立。医長は提案者である小川笙船自身が務めた。施薬院は、翌年の享保7年に「小石川養生所」と改名。その後、明治維新によって廃止されるまで、140年にわたって、貧しい病人たちの生命をつないでいたと言う。

 

小石川植物園の南東側を千川通り方向へ下っている「御殿坂」。白山2丁目と3丁目との間にある。

 

 

そして、この坂を下りきって、植物園の入口方向と逆に、通りを南東方向に歩いて行くと、小さな印刷、製本、製版などの街工場がところどころにある、昔懐かしい街並みが続く。

 

 

この一帯には、歴史を感じさせるお店や建物がある。

 

 

 

白山浴場。白山浴場は、見た目には、「ビル型」の銭湯だが、創業は古く、明治の時代から先祖代々続く老舗銭湯だという。

 

 

白山銭湯の裏手には、長屋のようなアパートがある。

 

 

 

この辺りは、東側も南側も坂になっている。つまり、東側が白山台地、南側が本郷台地で、「谷底」となっている。回り保を見渡すと、三方が坂道となっている。

 

 

 

 

小石川植物園に戻り、塀沿いに歩く。

 

植物園の正門から少し行き、千川通りに繋がる路地に、64年前から営業しているというお蕎麦屋、斉藤庵さんがある。1956年(昭和31年)創業だ。歴史を感じさせる店構え。

 

 

 

 

小石川植物園の敷地内の一番北西側にオレンジ色が鮮やかな和洋折衷の建物が「東京大学総合研究博物館小石川分館」である。

 

 

東京大学総合博物館小石川分館は、東京大学の学校建築としては現存する最古の建築物で、1876年(明治9年)に建てられた旧東京医学校本館を活用している。元は東京大学本郷キャンパス内に建っていたものを、1969(昭和44)年に現在の位置に移築。1970年(昭和45年)に重要文化財に指定された。2013年には、「建築ミュージアム」としてリニューアルしたが、歴史ある建物と空間をそのまま残している。

 

その塀で隔てられた外側からは、町名が「白山」から「千石」に変わる。

ちょうどその境の通りの坂道が「網干坂」とよばれる。

 

 

白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。後ほど登場するが、小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあうようにしてある。なぜ「網干」か?ということだが、昔は,坂下の谷は江戸湾の入り江がこの辺りまで食い込み、舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したという。
 

その坂の隣に、簸川神社がある。473(孝昭天皇3)年の創建と伝えられる古社で、氷川神社の末社であるが、「ひかわ」を簸川と書く神社は非常に珍しいという。

 

 

そして、神社の丘上の社殿に上がる長い石段の右脇に、2㍍もある立派な「千川改修記念碑」が建っている。

 

 

千川は「谷端川」とよばれ、豊島区要町2丁目、粟島神社境内にある弁天池を水源にして、そこから千川上水からの流れと合流して池袋周辺を蛇行するように流れ、大塚を経由して小石川を通って最後は現在の後楽園のあたりから神田川へと注いでいた川である。源流点近くの上流では「谷端川」で、途中板橋区や北区との境を流れ、文京区にはいると「千川」とか「小石川」と呼ばれたといわれたという。

 

明治の末頃までは 千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた 水田地帯であった。その後,住宅や工場がふえ,大雨のたびに洪水となり,1934年(昭和9年)に千川の流域、豊島、小石川全域に亘る暗渠化が完了したことを記念して建てられたのがこの碑である。

 

それまで大雨の度毎に洪水が見舞う千川どぶも、永井荷風の『日和下駄』が世に出る前まで、川底の小石が見える程の清流で、「小石川」の地名はここから生まれたといわれる。
 

1960年代には全て暗渠化され、今では川があったことなど想像もつかない。千川については、後でまた触れたい。

 


 

簸川神社の急な階段を上って、右手の方を見ると、隣の東京大学総合研究博物館小石川分館の屋根と植物園の森が眺められ、遠くには文京シビックセンターも上の方だけが見える。

 

 

社殿は社殿は東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に再建されているが、当時としては珍しいコンクリート製にしたという。

 

 

 

簸川神社の北西側に、網干坂と平行に、「氷川坂」が通っている。

 

 

氷川坂を下り、人が1人通れるような細い路地を通り、千川通りに出ると、「老人保健施設ひかわした」があり、その前の植え込みの一角に、「氷川下セツルメント 草創の地」と書かれた石碑が設置されている。

 

 

 

「セツルメント」 (Settlement)は、都市の貧困地域(スラム街)などにボランティアが居住し、保育・学習・授産・医療・法律相談など、生活改善をはかる活動を行うものである。1760年~1840年代にかけての世界に先駆けての「産業革命」によって大規模な工場生産を行うため、「囲い込み運動」により多数の農民が土地を奪われ、都市に集中して労働者となるなどして、やがてスラムを形成する。工場での長時間・低賃金の奴隷的労働に加え、密集した住宅環境、不潔・不衛生な生活環境が労働者の健康を害し、疾病を蔓延させた。また、単純労働に女性や児童が酷使され、一方で男性の熟練労働者は失業した。こうした中で形成された大規模な「スラム」で、1884年にイギリス・ロンドンの貧民街で、経済学者のアーノルド・トインビー(1852~1883年)らが発起人となり、その後、牧師のサミュエル・バーネット(1884~1913年)などに受け継がれ、「トインビーホール」が建てられたのを最初に、貧困に苦しむ労働者たちに直接接して、生活をともにしながら生活状態を改善する「セツルメント運動」が始まり、世界に広がっていった。

 

日本では、1891(明治24)年に、アメリカの宣教師アリス・ペティ・アダムス女史によって「岡山博愛会」が設立され、1897(明治30)年には、片山潜が東京三崎町に「キングズレー・ホール」を設立し活動を展開したのが最初とされる。以降、東京、大阪を中心に広まり、関東大震災のあと1922年、関東大震災の救済の一環として 東京本所に東京大学の学生セツルメントが生まれた。

 

その約30年後の1953年に、日本医科大学、お茶の水女子大学、東京大学、東京教育大学、跡見学園女子短期大学の学生の手によって氷川下セツルメントが設立された。零細な印刷関連業者が集まっていた氷川下地区に「セツルメント・ハウス」を設立し、診療所も併設。常時100名を越える学生たちが、診療部や法律相談部、栄養部などの各セクションに分かれ、地域に根ざした広範な活動を行っていた。

 

しかし、戦後になると, 公共団体が 貧困・教育・差別・環境問題などの対策を講ずる施設として「隣保館」を設置する動きにもつながったものの、セツルメント活動自体は、1950~1960年代をピークに、 高度経済成長時代を過ぎると活動する拠点が減り、活動の内容が変化してきた。

 

しかし、無料の医療施設だった小石川療養所の功績と並んで、氷川下セツルメントのとりくんだ事業は、その後の貧困対策や福祉事業、ボランティア活動へと受け継がれていく重要な歴史的意義を持つ活動だったと思う。

 

氷川下セツルメント 草創の地の石碑のある場所から、千川通りを、元来た白山の方向に戻ると、材木店がある。都心で、材木店があるのも珍しい。

 

 

私の今は亡き父親が、木工所をやっていたので、とても懐かしい。

 

 

 

──次回に続く