坂と文学の街・歴史ある風景の残る街、文京区を歩く〈第3回〉── 本郷菊坂(2) | TABIBITO

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自然に 素朴に 明日をみつめて

本郷6丁目の路地をさらに北東の方角に行った静かな住宅街の中に、突然、モダンな建物が現れる。「求道会館」である。

 

 

 

 

浄土真宗の僧侶、近角常観(ちかずみじょうかん・18701941)が自身の説法場として建てたもので、ヨーロッパの教会と日本の寺社建築の様式が融合した独特の造りとなっている。京都大学の建築学科を率いた建築家武田五一(たけだごいち・18721938)が設計し、大正4年(1915)に竣工した

 

 

欧米に渡り3年間、欧米の宗教事情を視察し近角が、多様な活動を行うキリスト教教会の姿に衝撃を受け、帰国すると本郷のこの地に学生寮を開き、キリスト教のように日曜講話を始めたところ大好評で、狭い学生寮には収まらなくなった。そこで新たな集会所を建てることになった。

 

 

一方で、新進気鋭の建築家だった武田も、東大で教えられる建築学には満足できず、最先端を求めて欧州に渡り、ドイツなどで近代芸術に新しい潮流を作った「セセッション」(ウィーン分離派)などに影響を受け帰国し、従来の様式から脱却した新しい建築様式を求めていたところに、近角に出会い意気投合し、当時としては型破りな建築デザインの仏教の教会堂が誕生したといわれる。

1915年に竣工した求道会館は説法の場として使われたが、近角常観やその親族が相次いで没するなどの中で、昭和28年(1953)以降、50年もの長期に渡り空家となって使われなくなり一時荒廃したが、東京都の文化財指定を受けたことで平成8年(1996年)から、保存修復工事が行われ、平成14年(2002年)に修理が完了し当初の形に復元され、現在に至っている。

 

 

 

鳳明館森川別館と求道会館のある場所から、東側に少し行けば、本郷通りであり、東大の正門も近い.,

本郷通りに出て、菊坂入口方向へと南下すると、樋口一葉が幼少期を過ごした家があった場所だ。

 

 

 

東大の赤門の横断歩道をはさんで向かいに、浄土宗・法真寺 ( ほうしんじ )がある。その法真寺の東隣に一葉が幼少期を過ごした家があったそうで、その入口に「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」の案内板が立っている。

 

 

 

樋口家は明治9年(1876年)4月、この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳~9歳)住んだ。45坪もある立派な屋敷で、庭には立派な桜の木があったという。一葉家にとって経済的にも恵まれ、最も豊かで安定していた時代であった。

一葉が24歳の若さで生涯を閉じる直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、このを「桜木の宿」と呼んで子供時代の幸せな頃を回想し懐かしんでいたという。

 

 

 

 

 

もう一度、本郷通りから、本郷6丁目の路地へと戻る。

所々に古民家が現れる。

 

 

 

 

さらに、西の方へと戻り、石川啄木ゆかりの旧太栄館・蓋平館(がいへいかん)別荘跡へ。

石川啄木が赤心館に暮らしたものの、下宿代が滞りわずか4か月で、新築間もないここに移った。明治41(1908)9ヶ月間宿泊し、小説を執筆。北原白秋等が文芸雑誌『スバル』の編集のために宿泊した宿で、北原白秋なども出入りしたという。啄木は、西向きの部屋から、富士山が見えるのを喜んだという。当時は「蓋平館」(がいへいかん)だったが、その後、昭和10年頃「大栄館」と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。「太栄館」として残ったが、2014年に閉館した。

すでにマンションになっているが、玄関前に「蓋平館別荘跡」の説明板があり、啄木の歌碑が建立されている。

 

 

 

そこからは、「新坂」を下って言問通りに下っていく。新坂という名前のつく坂は、文京区内になんと6つもあるという。

 

 

 

 

そこから、菊坂下に。菊坂下交差点近くのお店。

明治20年(1887年)創業の石井いり豆店。

 

 

石造りの気になるお店。

 

 

さらに西に歩き、白山通りに。

本郷菊坂めぐりの最後に、本郷菊坂で最も存在感のある文豪・樋口一葉が最後の命を燃やした地を訪ねる。

 

白山通りを西方交差点を右折して、北に歩いていくと、そこは、「本郷」から「西方」に町名が変わっている。

西方交差点から、250メートルほど、オフィスビル沿いを歩くと、紳士服の店頭の片隅に、「樋口一葉終焉の地」の記念碑がある。

 

 

 

本郷の住居を離れた一葉は、当時の下谷区竜泉に10か月住んだ後、明治27年(1894年)、23才のときに小石川台地と本郷台地に挟まれた、坂下の線川沿いの、この新開地丸山福山町(現在の西方町)に移った。うなぎ屋屋守喜の離れで、6畳2間と4畳半の3間、庭にはがけの湧水で造られた池があったという。この家も、福山藩阿部邸に面した崖下の家であった。

 

明治時代は、この辺りは、銘酒屋が並ぶ私娼窟で、一葉は、私娼に客への手紙の代筆を頼まれたり、相談に乗ったりするなど、交流があったことから、隣にあった銘酒屋「鈴木亭」で働く女性をモデルに『にごりえ』を書いたという。主人公のお力のモデルとなったのは、親しかったお留という女性だったとされる。この地で、一葉は、その後も精力的に『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』などの代表作を次々に発表した。その時期は「奇跡の14か月」と呼ばれた。

しかし、一葉は、2年後,結核のため24歳の若さでこの地で生涯を閉じた。終焉の地碑は『塵日記』の一節で,平塚らいてう氏の筆である。

 

 

 

 

 

 

「文豪」といわれた、樋口一葉や、石川啄木、夏目漱石などが、名作を書き上げる舞台となった本郷。

前回紹介した、老舗旅館・鳳明館では、「文豪缶詰プラン」という、出版社に缶詰めにされて編集者から原稿を催促されて、明治・大正の文豪の気分を味わえるという宿泊プランがあるそうだ。

 

 

本郷は、その昔、一大旅館街で、100軒以上の旅館が軒を連ねていたという。東大生など学生が多かったため、当時の旅館は「下宿屋」も兼ねていた。そこに文豪たちが、こもって作品を書き上げていったという。売れっ子作家だと、締め切りに追われ、編集者に監視されながら「缶詰」になって執筆していたという。

 

しかし、そんな旅館も、今では、片手で数えるまでに消えてしまっているらしい。

新型コロナが収束したあかつきには、ぜひ、鳳明館森川別館に宿泊して、一泊二日で、街歩きをしてみたいものである。

「缶詰」ではなく……。

 

 

次回は、白山エリア。