またヘッドフォンを買った。


山田で買った。


余計な出費である。


7200円→5000円くらい→3700円くらい。


この一年間のうちにである。三代目のヘッドフォン。前のがもじけたのである。(もじけた=壊れた=和歌山弁。)


山田の店員さんに聞いてみた。 「試着してもいいですか?」 フィッティングの感覚でお願いしたのである。


あっさり断られた。 「断じて出来ぬ」って感じで。 山田は僕のような頭のでかい消費者を理解していないね。


そう思った。


この一年間で三台買った、ヘッドフォン。懐の暖かさと比例して、購入に投じる金額が反比例していった。


今、ドキドキしながらヘッドフォンを装着したよ。


「ナニー。」 → 「過去三台のうちで一番音がいいやないか。」 → 「うれしい誤算。」


そうです。今、僕はメディアルームにいますが・・・。


僕のヘッドフォンと同じのを装着している男子が一人。


カブッタ。もうカブッタよ。こんな至近距離でカブッテシマッタ。


山田さん。あんたが売上高一兆円企業になった理由がようやくわかったよ。


恐るべし、山田の脅威。

1995年、僕にとってサッカーがとても身近なものになった。


「Jリーグ開幕。」


サッカーを見る、プレイする、応援する習慣が一気に全国に波及する。センセーショナルな開幕であった。


そのとき僕は、小学校6年生。学校ではサッカークラブに参加していた。内心、バスケが大好きだったが。環境がなかったのだ。


話を戻して。学校には、二大チームが存在していた。僕が所属していたのは「名古屋パンパース。」

寒さを通り越し、呆気に取られる最低なネーミング。

しかし、その名前を疑う術もなく、パンパースに誇りさえ感じていた。そんなもんである。小学生の自分は。


当時のポジションは、ボランチかディフェンダー。皆さん思うでしょう。「シブいとこいったね」って。

その頃は身長も高く(後に失速)、少し控えめだったので、誰もやらないポジションに就いたのかもしれない。 しかし、なかなか活躍しました。点もチョコチョコ取ったし、中学生にも勝った。


「中学に入ったらサッカー部に入ろうや。」皆と話していた。しかし、僕は内心「ディフェンダーでは日の当たる活躍が出来るだろうか。」ってとても疑問だった。


僕は、バスケ部に入った。サッカーよりバスケが好きだったから。それだけだった。


Jリーグ開幕の時。Jリーグを実際にスタジアムに行ってみることは、とても困難なことであった。プレミアムチケット。本当に入手困難だった。


当時、神戸に親戚がいた。今もいるがおっちゃんはいない。


神戸の大和ハウスに勤めておられた神戸のおっちゃんは、友人の広告代理店の方にチケットをもらったのだと言っていた。兄貴と僕が二枚もらって、おっちゃんとお母さんがスタジアムまで見送りに。それからは広告代理店のお兄さんと彼女と四人で見ることになったのである。代理店のお兄さんは、ルールもままならず、ルールブックを持って観戦していた。

彼女が可哀想だった。だから、僕がルールを教えていた。そしたら、代理店に睨まれたのである。僕は権力に屈する形で兄貴に助けを求めたのだった。


神戸ユニバー記念競技場。この頃は、恩師のおられるヴィッセル神戸も存在せず、清水エスパルズがなんでか試合を神戸で定期的に行っていた。


トニーニョ。沢登。大榎。堀池。シジマール。


感動した。満員のスタジアムでプレーする選手たち。羨ましかった。本当に。


感動の瞬間から10年。自分の紆余曲折と同じように、Jリーグも成長していた。


10年間。様々なことがあった。神戸のおじさんも交通事故で亡くなられた。


あんなに素晴らしい思い出を頂いたのに。お返しすることも出来なかった。


本日。12月3日。2005年度のJリーグチャンピオンが決定する。


本当に楽しみである。14時のキックオフ。小学6年の時と同様にドキドキしている。


ドキドキドキドキ。ヤバイ。Jリーグがもうすぐ始まるよ。


少し前のこと。


大分トリニータホーム最終戦で感動的な瞬間があった。涙が出てきた瞬間。


ゴールキーパー 岡中 勇人 の 引退セレモニーである。


「引退」


岡中さんにとって、人生の分岐点。大きな帰路である。プロとして華々しく生きてきた選手にとって、引退後のセカンドライフは深刻な問題である。


プロとして生きる人たちは、一般社会人よりとてもリスキーな人生であるかもしれない。

自分という商品の価値を上げ続け、チームとの契約を勝ち取らないといけない。


失業状態はざらで、怪我をすればお払い箱。プロの世界は非常なまでにシビアである。


岡中さんの引退には、正直納得することが出来た。年齢37歳。プロ生活の大往生である。

肉体的な衰えもあっただろうし、モチベーションが保てられなくなったのかもしれない。


しかし、何より今年大ブレークした「西川 周作」の存在があるだろう。


若手の台頭。


ベテラン選手が、自分の所属チームのことを一番に考えるのなら、若手の台頭はとても喜ばしき事態である。 しかし、もし自分のポジションを確保することだけを考え、保守的な考えをするのなら。若手の台頭を喜ばしくは思えないだろう。


岡中さんはもちろん前者である。チーム第一主義を貫き、自分の退路を示したのである。


自分に置き換えて考えてみた。


昨日の会議の席で。四回生の友人が隣に座っていた。今後のISE活動を考えていたとき、この二文字がふと出てきたのである。


「引退。」


僕もそろそろ引退の時期である。ISEを卒業し、新たな人生の目標を達成すべく努力をしなければいけない。


後輩たちと過ごす時間は、本当に楽しかったし、皆の考えは斬新で生き生きとしたものであった。


ISE第一主義を自分は貫きたいと思う。それなら、スムーズな世代交代が必要不可欠である。


素晴らしい後輩たちに送られて、自分がISEを卒業できるのなら。


自分にとって、最高の引退の美学である。


突然ですが。


温泉ってなかなかいいもんやね。最近やっと思えるようになった。


僕はすぐにのぼせてしまう。短時間ですっかり湯ダコになってしまう。


ついには鼻血が出たりして。


そんなこんなで、あんまり温泉が得意ではなかった。


しかし、最近毎日のように温泉に通っている。


冬の温泉は乙なものです。 特に、露天風呂がよろしかとです。


温泉は会話の弾む空間であります。たわいもない日々の話を。永遠としたりなんかして。


「呑みニケーション」って言葉があります。飲み会の席は最高のコミュニケーションの場って。


じゃあ、温泉は 「NY nication」 って名づけましょう。


僕は別府生活四年目で初めて、温泉にはまりました。


僕の大学生活はもうほんの少し。貴重は時間をたくさんの友人と温泉で語らいたいと願っています。


追伸。


横浜に独りで行くことがある方に。


横浜駅周辺にある、「SKY SPA」をお勧めします。


十四階にあるこのスパは、最高の夜景をバスタブから楽しむことが出来ます。


至福のときを是非。



記憶は・・・ 時と共に色褪せていく。


頭に何度も叩き込んでも。幾度となく努力しても。記憶は果かなく失われていく。


想い出は・・・ 時と共に鮮明になっていく。


悔やんでも悔やみきれない出来事も。楽しくて仕方がなかった貴重な時間も。想い出はふとした時に色鮮やかに思い出される。


何を言いたいわけではないが。


大切な人に謝りたい気持ちで一杯である。



自分自身に。


大学三年の時、一年間自分なりにISEを必死にやってきた。何とか結果も残った。辞めそうになった時も、責任を逃れたかったときも、最後には思いとどまった。


僕はISEを必死にやった。だから、失った時間もある。犠牲にしたことも。人の優しさにもたくさん甘えた。甘えすぎて自分を心底見失った。芯を失ったコマのようだった。ブレにブレ、たくさんの迷惑を掛けた。


忙しさを理由に楽しさを失った。引き換えに、引き換えに、引き換えに。


そのまますぐに就活に突入した。内定をもらった。うれしかった。自分なりの最高の会社だったから。

プレッシャーもあった。僕が内定をもらえなかったら、後輩に示しがつかないと本当に思ったからだ。

面接をしている時、何度もISEのメンバーの顔が浮かんだ。だから、頑張れたと思う。本当に感謝である。


四回生になって、春2セメスターと夏セッションで単位が終わってしまった。


やることがなくなった。


僕は、燃え尽きた症候群になったみたいだった。


残りの学生生活を隠居生活のように過ごすことも悪くないと思った。


最近思うことがある。ISEの後輩と語っているとき。僕は全て経験則で話している。

過去の栄光。(たいしたものではないが)そんなものにしがみついてるような気がする。


情熱を持った後輩たち。スポンジのように知識を吸収していく。キラキラと輝く目。羨ましくさえ感じる。


後輩たちを見ていて、僕はやっと気づいたような気がする。


自分は何をすべきなのか。


「馬鹿になること。我武者羅にやること。今を楽しむこと。皆に感謝すること。自分に正直に生きること。」


僕はやれるだけやってみようと思う。


僕は今、最低最悪に不細工である。こんな自分にはなりたくない。そう思うから、本当にやろうと思う。


リスタート。


もう失うものなど、ないに等しいのだから。


11月24日。レインズインターナショナルに取って、とてもとても重要な一日がやってきた。


「パートナーズフォーラム2005 オータムキャンペイン アワード」 @横浜アリーナ


全国から4000人を超えるパートナー、社員、役員、株主が集まってくる。

僕は内心ビビッていた。規模のデカサに圧倒された。そして、この会社に内定したことを誇りに思った。


パートナーズフォーラムとは、レインズ業態のナンバーワン店舗を決定する大会のこと。

とても高い目標を達成し、お客様に認められ、厳正に審査される。


僕はFC化された店舗はオモシロさにかけると思っていた。全国均一の味、マニュアル化されたサービス。

「どこの牛角行っても、土間に行っても一緒じゃん」って少し思ったことがある。


しかし、現実は大きく違った。


優良店といわれる店舗は、サービスを超えたサービス。お客様の期待を超越したサービスを継続的に提供している。そう、「感動」という二文字をお客様に提供することが出来る店舗なのである。


正直驚いた。


横浜アリーナでフォーラムの会場を待っていたとき。正直、引くような金髪、ドレッド、の人たちが集まっていた。少し、怖い人たち。なんか近寄れない感じ。渋谷センター街って感じがしました。深夜のコンビニにたむろしてるような。


フォーラムが開幕して僕は感動した。


さっきのヤバめの人たちは、レインズの大切な大切なパートナー(アルバイトさん、パートさんをレインズでは同じ志のパートナーと呼ぶ。)であった。


彼ら、彼女たちは、涙を流し、横浜アリーナを圧倒する声で発表する。彼ら彼女たちは、キラキラと輝いていた。胸を締め付けるような感動を僕は何度も味わった。僕も涙が出た。そして、「ごめんなさい」って彼らに思った。

彼らが流した汗は計り知れないだろう。僕はその努力の汗に感動し、涙となって流れたのだと思う。


「アルバイト」「パート」(パートナー)が目指す甲子園。国立競技場。花園。そんな大会でした。


職場は最大の学び舎である。パートナーは店長からたくさんのことを学び、自発的に行動できる人間となる。僕は、店舗勤務を舐めていたのかもしれない。「店長なんてすぐに卒業したい」とも思っていた。


こんな考えのままだったら。僕はずっと店長どまりだったと思う。


店長とは先生のような一面がある。「教育」の場。それがレインズの職場にはある。

たくさんのことを学び充実した時間を過ごす。そして、対価としてお金がついてくる。この順序が正しいのである。


責任のある立場に僕は今後就こうとしている。僕が勉強を繰り返し、パートナーから学び、イノベイションを繰り返さないとき。僕には彼らに何も教えることなどなくなると思う。


「想いは手法の上流にあり」


強い強い想いを持って、我武者羅に僕は東京でやりたいと思った。


この想いがたくさんの仲間と重なるとき。社会に変化を起こし、お客様に「感動」という二文字を継続的に提供できる人間になれると思う。


東京にて。最高の感動を僕は味わった。



ドラフトマスターズの次の日。


東京にてノープランの僕は、行く当てもなく内定者の友達と東京駅をうろついていました。


やっぱり東京は人が多い。ひとひとひとひと。ヒトヒトヒトヒト。


甘いものを見つけた蟻が一斉に群がるように。ミツバチが花の蜜を探すかのように。

世界各国、全国各地から、ここ東京駅に大量のヒトが集まってきているように感じます。

東京という名の甘い誘惑に僕も引き寄せられた蟻の一匹であることに間違いありません。

東京には特別な引力があることを身をもって感じます。


そうこうしていた時、友達と山の手線の周辺を見ていたら。

日本で今、やばいくらいホットな場所を見つけてしまいました。


その名も、「秋葉原。」


行ってみたい。強い衝動に駆られました。見てみたい。実写版、電車男の世界を。


東京駅より二駅。ここ秋葉原には平日というのにたくさんのヒトで栄えていました。

昔は、電気街として。現在は、オタク。マニアの聖地として、ここ秋葉は栄えているようです。

電気(IT)とマニア(メディア)の融合。嗜好と嗜好がクロスし、ひとつの街を形成していました。


いつかブログで書いたことがあると思います。僕は、電車の車中でで「マニア」と呼ばれた人間です。

さして、特殊な嗜好をもった人たちを自分とは違うヒトだとは思えないでいます。


物は試しに。経験こそ全てとばかりに。

僕は生まれて初めて友達とハニカミナガラ、「メイドカフェ」に行くことにしました。


「メイドカフェ」。

僕はカフェが大好きです。スタバにターリーズ。様々なカフェに行ったことがあります。

しかし、この特殊空間は僕の額に汗を掻かせ、なんとも言えない緊張感、疎外感を感じさせてくれるものでした。


ピンク一色の世界。コスプレに包まれた従業員。

一般社会の中でこれほどまでに非日常的な感覚を味わうことは、カフェという括りではないと思います。


想像の世界(ニュースより)では、入店時「いらっしゃいませ、ご主人様。」という掛け声がありました。

しかし、この店はとてもサッパリとした接客スタイルでした。


注文を普通に聞き、普通に時は過ぎていきます。

僕はカフェオレを。友達はカプチーノ+文字入りを注文しました。


「+文字入り。+100円。」


メイドカフェの術中に嵌りかけていることに友達は気づいていませんでした。

メイドさんが表れ、カフェオレを僕に。カプチーノを友達に。そっと置いたその後で。


チョコレートが細く出る容器を持ったメイドさんが友達に質問してきます。

「なんとお書きしましょうか?」友達は「お任せします。」と返事をします。


衝撃の瞬間。カプチーノの泡の上には、「○○さま。大好き。ハートマーク」と書くではないですか。


友達の顔は見る見る赤ら顔になり、うっすら笑みさえ浮かべています。

単純にうれしいのです。単純に男という生き物はうれしいのです。


不思議な光景でした。ヒトはこうも容易く感情をコントロールされるのだろうかと。


この気持ち、この光景こそが、「萌」というのでしょう。そう感じました。


飲食業に携わる身として、僕はこんなにお客様の感情をコントロールできる技術を持っていません。


「萌」という名の感動を、友達は心に刻まれたことでしょう。


「萌」が次の「萌」を誘発し、お客様をリピーターに変えていきます。


友達はスタンプカードをもらい、「また来るかもね」とニヒルな笑顔を浮かべたのです。



こんにちは。パンのミミです。久しく書いてなかったので再開しましょう。


僕は今、東京に来ています。内定先の企業が実施しているプログラムに参加するためであります。

今回は、「ドラフトマスターズ」というものに参加してきました。 「ドラフトマスターズ」?皆さん聞いたことありますか?僕はぜんぜん知らなかった。こんなのがあるなんてね。


麒麟麦酒東京本社。ドラフトマスターズスクール。


ここは、生ビールをおいしく注ぐための特殊学校であります。

ビールの注ぎ方。機械のメンテナンス。樽の保存の仕方などなど、生ビールに関するお勉強を行います。

ビールは繊細な生き物であります。鮮度、品質、等が温度や時間によって急激に変化していきます。そのため、ビールを取り扱うには一定の知識がいるようです。


質問。皆さんは居酒屋さんに入店し、とりあえず何を頼むでしょう?


多くの場合、「じゃあ、とりあえず生6つ。」 と頼むと思います。


生ビールはみんなが酔ってない状態で飲む最初の飲み物であります。つまりは正確な判断が味に対して行うことができるのです。


この生ビールの良し悪しが今後のお客様の料理の注文、ビールのおかわり、お会計を左右するわけですね。


深いね。ビールって。苦いね。人生のように。


ドラフトマスターズで学んだこと。


○ビールを注ぐ人間は、生産者(麒麟麦酒)の気持ちを一杯一杯に込めて提供しないといけない。

○ビールは生き物である。


注意事項。


僕はこの学校を卒業しましたが、やっぱりビールをおいしいとは思えませんでした。


残念無念。



こんばんは。パンのミミです。いやー、久しぶりすぎますね。更新するの。すっかり書かなくなってしまって。

なんか、文章に表すと安っぽくなってしまうような気がして。たぶん文才のなさでしょうが。

表現しきれない気持ちの奥から生まれるジレンマが自分を追い込んでいってるような気がしてたからです。


「書こう。」って何か急に思ったから書くことにします。今、自分をタイピングさせている力はとても強いものだと思います。


最近の僕は単位を取り終え、フラフラと本を片手に出歩いています。最近読んだ一冊の本。今の自分を瑞瑞しい人間にしてくれました。


リリーフランキー著。「東京タワー オカンと 僕と ときどき オトン」。


この本を読んで何か大切なものを再確認しました。それは「愛」と「死」の狭間に生じる空間です。そう。この空間は時間軸と共に幾度となく、喜びと落胆を連続させ、死を意識し生に感謝し、愛を信じ愛に生きる空間なのです。


僕の母親は、僕が大学1年の夏休み。急に体調を崩し、病院に通いました。痛烈な腹痛が幾度となく母親に襲い掛かり、苦痛な叫びが続きました。


痛みの分かる人間に僕はなりたいと思います。でも、この時の痛みは自分の想定を超越した痛みのようでした。我慢してました。母親は。大丈夫、大丈夫と繰り返して。大丈夫と何度も聞くと、余計に心配になりましたが、その言葉しか信じるものはありませんでした。

しかし母親は急に入院しました。僕はそのときを知りません。大丈夫と信じ、大丈夫だからと送り出され、僕はタイにいたからです。タイから帰り、空港の到着ゲートから出た僕は父親の脇で小さく小さく立っている母親に視線が集中しました。尋常じゃない空気。僕は母親の本当の痛みは分からなかったけど、空港の片隅の尋常でない空気は読める男でした。

母親の目には涙とともに愛情が、にがいくらいに込み上げては流れ。込み上げては流れ。繰り返していたのです。

帰路に就き。父親の初めて見る涙とともに死の宣告に近い病名を聞くことになりました。


癌という名の生き物でした。


死に限りなく近い病気であることは周知の事実でした。僕は腰が抜けたというか、父親の初めて見る涙とともに異次元の世界。つまり、嘘が凝縮したトマトジュースを一気に飲み干したような感じ。ドロドロとした飲み心地になりました。僕は無力感から自動車学校を無断で休み、両親に木っ端微塵に怒られました。こんな時なのに何で怒らすのって言われました。僕はお墓に行ってました。死んだおじいちゃんに伝えたいことがあったからです。「お母さんを奪わないで欲しい。頼むよ。じいちゃんって。」

知らない神様に縋りたくはなかった。死んだじいちゃんに縋りたかった。だって一番、頼りになる神様だったからです。

そして木っ端微塵のまま、僕は大学のサークルで屋久島に行くことになりました。

「僕が傍にいても何かが変わるものではない。私が頑張るから。」母親にそう言われました。「あんたは自分のやらないといけないこと、やりたいことをやりなさい。」そう何度も言われました。僕は妙に納得しました。生きたいと願う人は妙に美しかったからです。この時、もらった言葉は今も僕の行動規範です。


時間軸は進んでいきました。今、本当に思い出しても思い出せない部分が多々あります。それは、僕が闘病の母親を故郷において、遠く離れた九州の土地で普通に普通に登下校を繰り返していたからです。

離れた母親と連絡は取りませんでした。取りたかったけど取れなかった意気地なしでした。

泣きました。ずっと。帰りの下校のバスの中さえも。


連絡がないことを逆に祈りました。連絡がないことが母親が元気である唯一の証拠だったからです。


時間軸は進んでいきました。時間は傷を癒し、病を屈服させ、治療と共に母親の体は少しずつふっくらと笑顔が優しくなっていきました。


もう僕は卒業の季節を迎えようとしています。故郷にはいつも母親の笑顔で満ちています。


幸せとは日常の生活に満ちている。朝起きて、顔を洗い、トイレを済まし、コーヒーを頂く忙しない朝の風景にも。


母親が病と面と向かって闘った日々は、日常の生活とはかけ離れていました。そう思います。


しかし、それも今は昔。今昔物語であります。


母親が病に倒れた時間。「愛」と「死」の狭間で生じた空間は、過去のこととして今の僕は冷静に語ることだって出来るようになりました。この文章を綴っている自分自身が日常の日々に飛び切りの喜びを感じています。加えて、母親が生きていることに感謝しています。


母親がパソコンスクールに通いだしたことを最近知りました。


タイピングを習っている母親の姿を想像すると、僕は自然と顔が朗らかになってきます。


「生きること」の素晴らしさを教えてくれた母親は、今日も元気に元気にパソコン教室に通っています。


じいちゃん。ありがとね。