思い違いをしていた。
過去の記事で今野敏氏の警察小説『晩夏-東京湾臨海署安積班-』を引き合いに出し、「タイトルの「晩夏」が意味するのは人生において「青春」の後に訪れる季節のこと」と書いたが、誤りであった。

「青春」の後に訪れるのは「朱夏」であり、それが書かれていたのは同じ今野敏氏の警察小説でも別シリーズの作品『朱夏-警視庁強行犯係・樋口顕-』においてである。
件の記事では先の引用部に続けて「青春が終わってこそ、真っ赤に燃え盛る夏が来る、ということを中年の刑事達が噛み締めるという熱い話」とまで書いているので気付いてもよさそうなものだが、読み返しもせず記憶だけを頼りに書いてしまったので気付くことができなかったのは大いに反省している。
また、「青春の後の季節」というのは特に好きな題材であり、記事を書いた前後で知人・友人にもよく話していたはずなので、反省すると共に非常に気恥ずかしい。

 

さて、そんな思い違いに気付いたのは、安積班シリーズの最新作『秋麗-東京湾臨海署安積班-』を読んだからだ。
タイトルからも察しが付く通り、春も夏も過ぎ、本作では主人公の安積班長を初めとして登場人物達の人生の秋が見えてくる。

物語の端緒として、70代の男性の遺体が見つかる。
遺体の身元はかつて特殊詐欺の「出し子」だった男のものだ。
捜査が進むに連れ、被害者やその仲間は例外なく高齢で家族もなく、悲しいことに詐欺だけが唯一残された生き甲斐だったということが判明する。
特殊詐欺というと高齢者が被害に遭っているイメージがあり、本作において警察もそのような誤解をする場面があるが、高齢者が加害者側であるというのは本作における一つの肝である。

事程左様に、本作では「世代」や「年齢」といったものが重要なテーマとなっている。
遺体として見つかった男性のみでなく、主人公である安積班長も含めて、登場人物達は自身の年齢や世代と否応なしに向き合うことになる。

象徴的なところではセクハラの扱いだろう。
遺体の捜査を進めるのと同時並行で、安積班長は付き合いのある若手の女性の新聞記者が職場でベテラン記者によるセクハラ被害に遭っていることを知る。
話を聞く限り、セクハラの内容は体型や容姿に関する発言のみで、身体的な接触や何かしらの行為の強要がないということを理由に、安積班長は警察官としての法的な対処ができず、なかなか解決できない。
安積班シリーズではお馴染みの豪傑、高機隊の速水隊長でさえ、セクハラの加害者であるベテラン記者に直当たりするものの話を聞いているうちになんとなく共感してしまう。
このベテラン記者には、相手の成長を願う本人なりの親心があってセクハラ(のフリ)をしていたということが明らかになるのだ。

ここがどうにも納得できない。
筆者が過去に受けたハラスメント防止研修においては、数あるハラスメントの中でもセクハラに関しては完全になくすことができると教わった。
ビジネスシーンにおいて、性差にまつわる発言や行為は全く必要ないからだ。
身体接触や行為の強要がないからといって介入できずにいる安積班長も、加害者の話を聞いて尻込みしてしまった速水隊長も、対応としては物足りないと言わざるを得ない。

加えて、安積班長はセクハラに限らず、ハラスメントに関しては「何をされるか」という事実ではなく「誰にされたら許せないか」という受け手の感じ方であるという旨の発言もしている。
残念ながらこれは誤りである。
例えばパワハラに関しては、3つの定義や6つの行為類型を他ならぬ厚生労働省が定めている。
https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000366276.pdf

 

つまり、「何をされるか」という事実が重要なのだ。
行為類型のうち、例えば「身体的な攻撃」について、自分のことを慕っている部下に対し、上司が冗談で肩を小突く等、「相互の関係性によっては許容される」と考える向きも現実にはあるだろう。
しかし、そう考えるのは早計である。
なぜなら「第三者」という視点が欠けているからだ。

たとえ当人同士は冗談のつもりでも、事情を知らない第三者の視点から見れば「職場で暴力が振るわれている」という光景以外の何物でもなく、恐怖感を与えることになりかねない。
そうでなくても、冗談で人を小突くようなマッチョなノリは男性の筆者からしても見るに堪えないほど不快なものだ。
どうしてもやりたいのであれば第三者のいない密室か、業務時間外でやればいい。

セクハラに至っては客観的要件に加えて受け手の感じ方が重要なのであって、やる側の気持ちで正当化されるものではない。
本作におけるベテラン記者のセクハラの動機が親心だったとしても、相手が不快に感じているのであればハラスメントであることに変わりはない。

このベテラン記者からは、部下以外の女性をも当然の如く美醜で判断するような発言も見られる。
もはや親心ですらなく、純然たる女性蔑視、ルッキズムだ。
これらについてはどれだけ自戒してもし過ぎることはないはずだが、たとえ動機が何であれ日常的にセクハラをしていると、きっと境界線を見失ってしまうのだろう。

偉そうに語ってはいるが、女性への差別的な発言や表現に対してそれなりにセンサーを働かせてきたつもりだった筆者も、つい先日映画『バービー』を観たところ自分と照らし合わせて気恥ずかしくなるようなシーンが多々あり、慢心してはならないと思い知ったところだ。
ベテラン記者が相手に動機を説明した上でしっかりと謝罪し、許されるにせよ許されないにせよ明確な決着を付けてほしかった。
 

安積班シリーズは、1988年に刊行された『東京ベイエリア分署』に始まり、2023年現在で35年にも及ぶ歴史のあるシリーズである。
しかも、サザエさん同様、安積班長ら登場人物達は明示的には年を取っていない。
変わらぬ男達が、変わりゆく時代に立ち向かうからこそ読んでいて胸が熱くなるシリーズだった。

 

 

ところが、本作では登場人物達に変化が見られる。
例えば、安積班長の部下の須田は、シリーズ開始当初から一貫して安積班長のことを「チョウさん」と呼んでいた。
須田の新人時代に巡査部長だった安積の呼び名の名残だ。
一方で、本作に始まったことではないが須田はいつの間にか安積班長のことを「チョウさん」とは呼ばなくなっている。
ドラマシリーズのタイトルに合わせる形で「ハンチョウ」と呼んだり、本作では「係長」と呼んだりしているが、須田としてもさすがに昔の呼び名で呼ぶのは気恥ずかしくなったのではないかと思わせるような成熟を感じさせる。

それ以上に、シリーズの主人公である安積班長と、その同期にして相棒の速水隊長の変化が大きい。
『秋麗』の最後の場面では、安積班長と速水隊長は庁舎の屋上で共に秋の訪れを感じている。
単なる季節の話ではなく、『朱夏-警視庁強行犯係・樋口顕-』を踏まえると二人は人生において最も燃え盛る時期の終焉を感じているといえる。

致し方あるまい。
シリーズが開始した時代を考えると、二人が長く生きてきたのは上司が部下に怒鳴り(パワハラ)、男性が女性を軽く見るの(セクハラ)が当たり前だった時代だ。
誰もが(といつつ、実際に許されたのは男性のみだが)シャカリキに働くのが当然だった時代でもある。
それに対して、ハラスメント防止や働き方改革が本格化したのはここ数年の話に過ぎない。

今を生きる人間は、その時代に合わせて絶えず自らの価値観をアップデートする必要がある。
セクハラに対して厳正に対処できなかった安積班長や速水隊長のように、価値観をアップデートすることに限界を感じる人間は、表舞台から退場するしかない。
そのうら寂しさを『秋麗』の最後の場面では表現しているように思う。

 

 

最後に自分の話をしたい。
一方的な作品批評は本記事(ブログ)の目指すところではなく、本作にしても自分の境遇と重なるところがなければこれほどまでに刺さっていないからだ。

安積班長や速水隊長ではないが、筆者とて働くことが好きだ。
最近では激務の前にRHYMSTERの『待ってろ今から本気出す』を聞いて気合を入れる。
一仕事終えた後に飲む酒は何物にも変え難いと思っている。

一方で、仕事漬けの生活をずっと続けたいとは思っていない。
本格的に身体を壊したことこそないが、激務の後の一定期間は必要最低限の仕事しかせずに早く退勤する。
というか、それ以上やる気がなくなる。
その意味では、同じRHYMSTERでも『予定は未定で。』の「スキマだらけでいいんじゃない?アソビだらけでいいんじゃない?」という歌詞に共感する時もある。
余談だが、これらの曲を同じアルバムに収録するRHYMSTERはさすがである。

 

 

また、年齢的には30歳を超え、社会人としても10年弱の経験を経たところだ。
今の会社に転職してからは1年経過したばかりだが、持ち前の「馴染み力」を活かして入社直後から古参の雰囲気を醸し出し過ぎたせいか、今後は自分より下の世代の育成の役割を担うことになり、自分がフロントに立つ機会は減ることになった。
最前線で「斬った張った」の仕事をしていたい筆者としては、なかなか忸怩たる思いがある。

人生としてはまだまだ「朱夏」の真っ只中ではあるが、これまで最前線での仕事を謳歌した分、徐々に後進に道を譲らなければならないフェーズに入ったのだろう。
夜風が涼しくなってきた。

Netflixのドラマ『サンクチュアリ-聖域-』を観た人は多いだろう。
筆者とて、予告動画が解禁された時から配信開始を楽しみに待ち、開始後は一気に観た。
主演の一ノ瀬ワタルは映画『ある用務員』における抜群の存在感が印象に残っていたが、その風貌からして主役に据えるのはいい意味で「どうかしている」。
その意図は完璧にハマっており、ドラマ単体として非常に楽しめた。
 

それだけではない。
『サンクチュアリ』の観賞をきっかけに、個人的には空前の相撲ブームが訪れた。
まずは自主トレとして、相撲の稽古である四股踏み、摺り足、テッポウをやるようになった。
武術を習っているので過去にも一応は教わったことがあり、怪我で対人稽古が思うようにできない時等にはやったこともあるが、ドラマを観ていたら身体を動かさずにはいられなくなった。
ドラマでの登場人物達の動きをイメージしながらやると、過去にはできなかったほど腰を落とせるようになり、早速効果が現れている。

 

 

また、相撲を題材とした他のコンテンツにも手を出した。
図書館で偶然『力士ふたたび』(ハルキ文庫)という小説を見つけて手に取ったのをきっかけに、その後は『おれ、力士になる』(講談社文庫)と、同じ須藤靖貴著の小説を読んだ。
これらの作品では、ストーリー上のわかり難さや意外性のなさといった難点はあったが、他では大っぴらには描かれない相撲業界の「親方株」の仕組みやその裏で動くカネの話、「阿吽の呼吸」「かわいがり」といった風習が詳しく取り上げられておりなかなか面白かった。
 

同じ須藤靖貴の作品でも、『大関が消えた夏』(PHP研究所)は文句なしに面白かった。
格闘技やスポーツで黒人選手が活躍する一方で、黒人力士が現れないことにかねてより疑問を持っていたが、本作は見事な回答であった。
事実上の主人公である荒把米(あらばま)は元アメフト選手で、スカウトされて入った相撲界では史上初の黒人大関にまでなった人物だ。
度重なる差別や嫌がらせにも負けず横綱の座にも手がかかるが、そこから陰謀に巻き込まれていく。


最終的には、荒把米は陰謀を逆手に取って念願だったNFLのチームとの契約を勝ち取る。
相撲を引退するかに思われたが、なんとNFLでプレーしつつ相撲でも横綱を目指すという驚異の「二刀流」を宣言する。
しかも、その実現プランが非常に論理的且つ爽やかで応援したくなるのだ。
 

現実世界では、野球の大谷翔平選手が投手と打者の二刀流によってメジャーリーグで大活躍しており、中学生で空手・柔道・相撲・ボクシング・レスリングの「五刀流」でいずれも全国レベルの選手も存在する。

かつては「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざに代表されるように、何事においても一つのことに専念しないのは悪徳とされていた。
しかし、実際にはスポーツで二~五刀流を高い次元で両立するような選手が現れ、ビジネスでも副業・複業が当たり前な時代になってきた。
それは決して「どっちつかず」なあり方ではなく、全てに全力で取り組むからこそ見える景色がある。
いつの日か、NFL選手と大相撲の関取を兼任するような小説レベルの人物が活躍するのを楽しみに待っている。

 

 

次に観たのはディズニープラスのオリジナルドラマ『シコふんじゃった!』だ。
1992年に公開された映画『シコふんじゃった。』の周防正行監督が原作・総監督を務めるリメイクであり、世界観・キャラクター及びそれを演じる俳優を引き継いだ正統続編でもある。
筆者が大好きな『コブラ会』や『クリード』とまったく同じ構図である。

本作において何よりも印象的なのは、女子相撲の有力選手であり、作品の舞台である大学相撲部の主将役を演じる井原六花の四股踏み、摺り足、テッポウがなんとも美しいことだ。
登美丘高校時代に部長として日本高校ダンス部選手権を制したのも頷ける、極めて高い身体能力と表現力を感じさせる。

また、後にオリジナルである映画版と見比べて気付いたことだが、きちんと現代的にアップデートされている点が素晴らしい。
映画版では、男子に対する蔑称として「女みたい」「女々しい」「オカマ」という言葉が平然と使われ、女子が土俵に上がるのは禁忌として描かれた。
つまり女性蔑視が全面に現れているのだ(そして悲しいかな、それが今に至るまで現実の相撲界、延いては社会の現状でもある)。
実際、負傷した男子選手の代わりに女子のマネージャーが試合に出る場面があるが、体格という才能に恵まれているにも関わらす、本来土俵に上がることを許されていないため女子であることを隠して(具体的には胸をテーピングして)試合に出ている(結果としては見事に勝っている)。
その点、ドラマ版では先述の通り女子が大学相撲部の主将を務めており、公式戦でも男女混合戦が行われ女子が堂々と土俵に上がることができている。
映画公開当時の時代の限界に向き合ったのは見事だ。
 

それだけに、主演の井原六花にステレオタイプな「田舎者」の演技をさせたのが残念でならない。
設定上、青森の高校からスポーツ推薦で東京の大学に進学したキャラクターであり、方言で話すことは全く問題ないのだが、現代の大学生活を送る上で履修登録や課題の提出等、すべてがオンラインで行われる中で、スマホも持っていなければネットも使えないという田舎者描写はあまりに無理がある(そのような描写は序盤だけで、中盤以降は鳴りを潜めてくるのだが)。
「黒人は頭が悪い」「女子は力が弱い」と他者を勝手なステレオタイプに当てはめることから差別は始まる。
相撲における女性差別に正面から向き合ったからこそ見えた課題である。
是非とも第2シリーズ以降を作って挽回してほしい。
 

ちなみに、Netflixのドキュメンタリー『相撲人』で取り上げられている女子相撲の今日和選手は、『シコふんじゃった!』で井原六花が演じるキャラクターと同様、青森出身で一人称が「わー」であり、同キャラクターのモチーフになっている可能性があるが、今選手はストイックに相撲に励む一方でおしゃれもすれば友達と遊びにも出かける、普通の女性の一面も持ち合わせている。
どうせモチーフにするならこの両面を描いてもよかったのではないだろうか。

 


最後にして最高の相撲コンテンツは、高校相撲から大相撲までを題材にした漫画『火ノ丸相撲』だ。
週刊少年ジャンプでの連載時に読了した作品ではあるが、堪え切れずに読み返すに至った。
読み返してみると、想像していた以上に強く影響を受けていることがわかった。
「弱者が地道に鍛錬して強者を打ち負かす」「逃げに思える行動に実は戦略がある」「精神論ではなく、勝ち方にちゃんと理屈がある」「因縁や相性によってマッチアップが決まる」といった、筆者がエンタメ作品に求める要素が網羅されている、否、本作を読んだからこそ他のエンタメ作品に求めるようになった要素が多々ある。
 

本作のポイントの一つは「異種格闘技」の描写だ。

かつて、アメフト出身の格闘家ボブ・サップと元横綱の曙がリング上で対戦したことがある。
アメフトのラインズマンも力士も、同じく「相手にぶつかる」プロであり、同試合は「アメフト対相撲」等ともてはやされはしたが、実際のところ曙は横綱時代の身体能力とは程遠く、ボブ・サップの圧勝に終わった。

事程左様に、異種格闘技戦というものは「どの格闘技が強いか」ということには答えてくれない。
あるのは「誰が強いか」という現実のみである。
そのことを『火ノ丸相撲』におけるライバル校の選手にして元柔道チャンピオンの荒木がはっきり言うのがいい。

また、荒木は主人公チームのエースにして元レスリング国体王者の國崎と試合をするが、この時の「異種格闘技」的な戦いは漫画ならではのカッコよさで、現実の試合ではあり得ないような見事なものだ。
しかも決着の付き方は異種格闘技ではなく相撲のそれである。
正直なところ、『火ノ丸相撲』における個人的ハイライトはこの荒木対國崎の試合だ。

元レスリング国体王者の國崎や、同じく主人公チームで空手経験者・元番長のユーマ等、相撲は素人でも過去に別の競技で技術を磨いた「異能力士」が、自らの得意を活かすことで本作では活躍する。
そこが何より素晴らしい。

筆者自身のことを思い起こせば、学生時代から得意科目と苦手科目が極めて明確であり、高校受験でも大学受験でも苦手な数学は捨てて得意な英語が大きな比重を占める学校を受けることで、それなりの名門校に行くことができた。
「自らの得意を活かす」という戦法は元々好きなのだ。

社会人になってからも、最初に海外事業の部署に配属され、他のビジネススキルはともかく英語のスキルで(自分で言うのもなんだが)1年目から大いに活躍した。
それだけに、他でもない英語によるミス・コミュニケーションによって他者に迷惑をかけたことは何よりも堪えた。
その後、全くの異業種に転職し、英語のみならず過去に培ったスキルで勝負せざるを得なかったため、「異能力士」の考え方は心の拠り所でもある。

再びスポーツ界に目を向ければ、2020年に大学1年生の時に全日本相撲選手権で優勝したアマ横綱の花田秀虎選手は大相撲入りを嘱望されながらもNFLを目指してアメリカの大学に編入した。
「日本の国技がアメリカの国技にどこまで通用するか。ここで挑まなければ死ぬ前に後悔する」と語る花田選手が、異能力士としてNFLで活躍すること、贅沢を言えば大相撲でも活躍することを願って止まない。

 

 

今後の楽しみとしては、『火ノ丸相撲』の作者の新作『アスミカケル』が週刊少年ジャンプにて連載開始された。
主人公は祖父から武術を習っており、その技術をベースに総合格闘技に挑むのだが、その発想がなんとも「異能力士」っぽい。
第1話でのカタルシスを生む展開も含め、『火ノ丸相撲』と相通ずるものがあり、今後の展開が楽しみである(第1話では「國崎」という名前も出てきたので、彼の再登場も期待する)。
 

また、ドキュメンタリー『相撲道-サムライを継ぐ者たち-』では、密着している相撲部屋の力士を製作陣が焼肉屋に連れて行き、会計が80万円に登るというシーンがある。
力士の食べる量や食生活については上記の作品でも描かれているところではあるが、実際のところを学んでみたく、『ルポ筋肉と脂肪-アスリートに訊け-』という本も手に取り始めた。
 

最後に、相撲の歴史は敬愛する今野敏の小説では多くの作品で神話の時代にまで遡って描かれている。
これらも早晩読み返さねばなるまい。

日本の国技である相撲の奥深さを今更ながらに感じ始めた今日この頃だ。
国技館のチケットこそ取れなかったが、9月場所もテレビで楽しく観賞したい。

前回の記事で、藤井太洋氏の小説の魅力と映像化との相性について書いた。
書いていて思ったが、映像化の観点では筆者が敬愛する他の作家についても一定の相性があると思う。

過去の記事で取り上げた作家で言えば、月村了衛氏の作品は映像化ともドンピシャではないだろうか。

代表的なところでは『機龍警察』シリーズだろう。
「“至近未来"警察小説」と銘打たれている通り、テロや民族紛争が激化した世界で、核兵器に代表されるような大規模破壊兵器は実質的に使用不能であり、それに代わって発達した「着る」近接戦闘兵器、機甲兵装を操る警察官(厳密には警察と契約した傭兵)を主役とした物語である。

機甲兵装はサイズ的に、『ガンダム』シリーズのモビルスーツや押井守氏が監督するアニメ作品『パトレイバー』、ギレルモ・デルトロ監督の映画『パシフィック・リム』に代表されるような巨大ロボットと、MCUの『アイアンマン』や『仮面ライダーアギト』のG3(派生であるG3-X、G4含む)のようなパワードスーツの中間くらいだ。
優れた作品が多数あることからわかる通り、映像化に大変向いている題材であり、実際に漫画化もされている。

今後、アニメにしろ映画にしろ、ファンとしては上に挙げた作品を作った名監督によって映像化されることを願ってやまない。

 


とはいえ、月村了衛作品の中で『機龍警察』シリーズだけが映像化に向いているという訳ではない。
月村了衛作品で映像化に向いた要素は他にもいくつかある。

一つは、「移動」という見せ場だ。
MCUにおける『シビル・ウォー/キャプテンアメリカ』と同様、主人公(チーム)がある地点から別の地点に到達すれば勝ちで、それを阻止すれば敵(チーム)の勝ちというわかり易い構図に基づいた見せ場である。
『土漠の花』『影の中の影』『脱北航路』等、作品の舞台や登場人物の背景は違えど、いずれにしても同じ構図の見せ場がある。『槐』については、移動を成功させたら勝ちなのが敵チームでそれを阻止したいのが主人公チーム、と勝敗の付き方が逆だが構図としては同じである。
このような見せ場は割と大規模な映像作品に向いていると思う。

映像化に向いている二つ目の要素は、過去の記事でも書いたような疑似家族、すなわち運命共同体の物語だ。
父親が家族のために詐欺を働く(『十三夜の焔』、『詐す衆生』)、異なる立場の人間同士が連帯して巨悪を打つ(『十三夜の焔』、『影の中の影』の一部)、優等生が嫌っていた悪い奴と連帯する(『土漠の花』、『槐』)、自らの過去を告白することで他者を説得する(『影の中の影』、『機龍警察』の一部)等。
こちらは大規模な見せ場にはならないが、名俳優によるドラマが見てみたいものである。

最後の要素はずばり「武道」だ。
『土漠の花』では合気道、『槐』では柔道と薙刀のそれぞれ達人・選手が登場し、道場で培った技を命のやりとりという緊迫した場面で使う場面がある。
武道が見せ場になる作品群の中でも特に思い入れが強いのが『影の中の影』だ。
過去の記事にも書いた通り、主人公は元々剣道をやっており、後にロシアの武術であるシステマを学び、更には古流の抜刀術を修めることで唯一無二の達人となる。
日本の技術と外国(ロシア)の技術、現代武道と古流武術の融合であり、現実にできる人間は限られている(筆者の武術のお師匠はそれができる稀有な存在である)。
更にいえば、メッセージが重要である。
主人公が体現しているのは、何か(システマの修行)に専念することで、捨てたはずのもの(剣道の技術)が逆説的に活かされるという哲学で、人生においても非常に有用なメッセージである(これも筆者のお師匠が実現している。すごい)。

大規模な映像作品にはならなくても、低予算でできる映像作品として、充分に成立する見せ場である。

 

 

様々な小説作品が好きな筆者にとって、藤井太洋氏もまた敬愛する作家の一人である。

取り上げられるテーマは作品毎に異なるが、いずれも舞台は現実の日本社会や世界と地続きになっている。

筆者にとっての作品の魅力は大きく分けると二つある。

一つ目は倫理観だ。

作品の舞台となる社会では、現実と地続きなだけあって、様々な差別やヘイト、合理的な根拠のない誤解や偏見で満ち溢れている。

そのような社会において、主人公を主人公たらしめている素質が「倫理的であること」だ。
そして、主人公が「倫理的であること」が読んでいて非常に心地が良く、それ自体がエンターテイメントになっている点が素晴らしい。

主人公だけではない。
悪事を企んでいたかに見えていた人物も、対話をしてみれば邪な動機はまったくなかったり、たとえあったとしても考えを改めたりする。

いずれの作品においても、最終的に情報をオープンにすることや、その上で対話や議論を重ねるという展開に着地する。

登場人物のような人達と現実において仲間になれるのであれば、この先の未来も暗いことばかりではないというほのかな希望を感じることができ、「情報をオープンにして対話や議論を重ねる」というのは本来の民主主義の姿であって、そのような社会を実現しなくては、と叱咤激励される。

 

 

もう一つの魅力はシンプルな見せ場があることだ。

主人公やその仲間達は、パルクールやロードバイクといったようにいずれも特殊な技能やツールを使いこなす。
それによってある地点から別の地点へ「移動すること」が作品上の見せ場になっている。

最新作である『第二開国』でも、二つの魅力が存分に発揮されている。
ちなみに移動手段はシーカヤックと伝統的な手漕ぎの漁船だ。

見せ場があるということは、映画好きでもある筆者にとって重要なポイントだ。
ストーリーの進行だけでなく外見的な見せ場があり、両者がしっかりリンクするということはいい映画の必須条件だからだ。
藤井太洋氏の作品はいずれもその点を押さえているので、いつの日か映像化されることを願ってやまない。

2022年の映画初め(年が明けて最初に映画館で作品を観賞すること)は印象に残っている。

正確な日付は覚えていないが、午前中に『レイジング・ファイア』、午後は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』を観賞した日だ。
調べ直してみると前者が2021年の12月24日、後者が2022年の1月7日に劇場公開されているので、1月の上旬のことであるように思う。

『レイジング・ファイア』は、『イップ・マン』シリーズや『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』でお馴染みのドニー・イェン主演の香港アクション映画だ。
ストーリーは、警察の元同僚同士が、運命のいたずらで後に敵対することになって戦うという、筆者にとって大好物のものだった。
「香港アクション映画」と書いたがカンフーアクションではなく、ドニー・イェンの総合格闘技的なアクション、強さを堪能することができた。

 

 

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の方は、要素を挙げていくと切りがないがとにかく最高だった。
サム・ライミ監督・トビー・マグワイア主演の『スパイダー・マン』の1作目が公開されたのは2002年。
10歳前後の時、当時の友達と一緒に地元の映画館で本作を観賞したのが、筆者にとって親抜きでの初めての劇場体験だった。
それ以来映画、特にヒーロー映画が好きで、マーベル映画にしてもすべて映画館で観賞し続けてきたことが、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』によって全肯定された気持ちになった。
2022年の映画初めは非常に縁起がいいものだった。

 

 

2023年は、年明けに体調を崩してしまい外出がままならなかったことや、テンションの上がる大作映画があまりなかったこともあり、家で配信作品を観賞することが多かったが、1月も終わりに差し掛かってようやく映画館に行った。
例によって1日で2本立てである。

1作目は『非常宣言』。
飛行機の中でバイオテロが発生するというパニック映画で、ソン・ガンホとイ・ビョンホンという2大スター共演の韓国映画である。
航空自衛隊の戦闘機が成田の上空で民間機相手に威嚇射撃をするような、所謂「ツッコミどころ」「トンデモ描写」が多かったり、登場人物の行動原理がいずれも「自己犠牲」に寄り過ぎていたりする点は気になるが、年明けに観賞するには打ってつけの娯楽作だった。
しかも、娯楽作であるにも関わらず、昨今世界中で起こっている拡大自殺や、飛行機の受け入れ(着陸)を巡る世論の分断を描く、といったような新しい試みを欠かさない韓国映画の力を見せつけられた。

 

 

続いて観賞したのは『カンフースタントマン』。
香港アクション映画のスタントマン達に関するドキュメンタリー映画である。
前半は、京劇に始まる香港カンフー映画の歴史が描かれる。
第一世代のサモ・ハン、実戦性を持ち込んで変革を起こした(なのに大きな軋轢を起こさなかったのは人格故と思われる)ブルース・リー、第一世代の系譜でコメディと「本当にやる」とうことを極めたジャッキー・チェン。
 

これらのキーパーソンの存在も確かだが、香港映画の成功の裏には、画面に顔も映らない、名も知られない幾多のスタントマン=ヒーロー達の存在があったことがわかる。
親や友達と映画館に行くようになるより前、テレビで『酔拳2』を初めとした香港映画を楽しみに観ていた筆者にとって、感謝してもし切れない。

後半は、香港映画が現在では冬の時代を迎えていることが描かれるのだが、作り手達が後進の育成やワイヤの活用、安全策に取り組んでいるらしいことはなんとなく伝わってくるとはいえ、かつての黄金時代から冬の時代に至る背景と、それによって引き起こされた具体的な変化があまり説明されなかったのは残念なところ。
「もう30分短くてもいい」と思う映画は多々あれど、「もう30分長くしてほしい」と願う映画は稀で、上映時間が1時間32分しかない本作は紛れもなく後者である。

 

それでも、現在の作り手として俳優だけでなく監督も務めるドニー・イェンが登場し、自身の作品に中国武術だけでなく総合格闘技を取り入れたことを語ったのは、我が意を得たりという気持ちになった。
2022年の年明けに観賞した『レイジング・ファイア』を、1年越しで改めて香港映画の系譜の中で捉え直すことができたのである。

 

 

遅ればせながら、夢枕獏先生の小説を読み始めた。
2021年に当時の会社の上司に勧められ、年末に『神々の山嶺』(上下巻、集英社文庫(2001))を読んだことがきっかけだ。

前人未到のエベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂に挑む登山家の話だが、読み始めて2~3行で「あ、これいい作品だな」と直感した。

スケールが大きいのと同時に、人の心情にどこまでも深く入っていく。

最後まで読むと読み始めた時の直感が正しかったことがわかった。

個人的には、読んでいた時期が雪の降る北陸旅行の最中であったり、外気温の低さで室外機が停止したことにより自宅のエアコンが一時的に動かなくなったりした時期であり、「雪」や「寒さ」と隣り合わせだったのがよかった。
エベレストの寒さが日本の冬とはレベルが違うことは百も承知ではあるが。

また、2021年7月にはフランスでアニメ映画化された本作が日本で「凱旋」公開され、新宿ピカデリーで鑑賞することができた。
たかーい山に挑む小さーい人間という構図は劇場でこそ味わうことのできる醍醐味であり、原作を読んだ時の感覚とも一致していた。

 

 

『神々の山嶺』の次に読んだのが『大帝の剣』シリーズ(株式会社エンターブレイン)だ。
舞台は関ヶ原の戦いの後の世。異形の大剣を背負った巨漢、万源九郎を主人公にした歴史改編SF時代劇だ。
宮本武蔵や柳生十兵衛といった実在の剣豪と、異星人や死んだはずの佐々木小次郎が織りなすとんでもない群像劇が魅力である。

作中で明かされることだが、万源九郎の正体は黒人侍として織田信長に仕えたヤスケの息子だ。
ヤスケと言えばNetflixでアニメ化されており、こちらもSF時代劇である。

 

音楽が大変すばらしいのだが、それもそのはずで手がけているのはFlying Lotus。
アニメファンにとっては、渡辺信一郎監督の『ブレードランナー ブラックアウト 2022』『キャロル&チューズデイ』を手がけているのと同じ音楽プロデューサーと言えばわかり易いだろう。

 

Netflixオリジナルではないが、スチームパンクアニメ『Levius』が大好きで、それに近い作品を探して辿り着いたのが『あしたのジョー』連載開始50周年企画の『メガロボクス』だ。
セカンドシーズンの『NOMAD メガロボクス2』の音楽も、なんかいいなと思ってクレジットを見ていると、mabanuaが手がけていることがわかる。
あちこちで自分の好きな作品(いずれも広義のSFに属する)が好きな音楽家と結び付いていて、因果を感じる。

 

このように、メディアミックスや他作品へのシナプスが一気に繋がったことを含めて、夢枕獏作品にハマることになった。

ようやく本題に入るが、『神々の山嶺』の後に読んだのが『東天の獅子ー天の巻・嘉納流柔術ー』(双葉社(2008))のシリーズ計4巻だ。

 

 

嘉納治五郎や、講道館四天王と謳われた西郷四郎、横山作次郎ら、柔道の創世記の物語だ。
筆者は以前にも、明治期に従来の柔術から「柔道」が成立する過程や、琉球(沖縄)の秘術であった唐手が日本全土に広がり「空手」となるまでを小説で追ったことがある。

また、柔道の創始者である嘉納治五郎のカウンターパートとして、大東流合気柔術・中興の祖である武田惣角や、嘉納治五郎の思い描いた理想の柔道を戦前・戦中・戦後に体現した木村政彦という武道家についても、小説及びルポルタージュを通じて学んだ。
むしろそこまで射程を広げずに個別のストーリーとしてのみ味わうのはもったいないと思う。

『東天の獅子』シリーズも、その点非常に気が利いている。
何しろ第1巻の最初の章には木村政彦、次の章には武田惣角が登場するのだ。
第3巻以降には当然のように空手家も登場する。

武田惣角については、巻末の参考文献を見ると津本陽先生の『鬼の冠 武田惣角伝』がモデルになっているだけあって、妖怪っぽく描かれている。
津本陽先生の作品では、近代以前の日本人の世界観を反映しているのか、心霊の存在が当然視されているが、武術の達人も周囲からは人智を超えた妖怪扱いされているためだ。

いくつも描かれる試合の描写も見事なものだ。
極限まで肉体を鍛え上げた者同士の、極限まで己を追い込んだ戦い。
これを文字で表現することの難しさとそれを乗り越える素晴らしさたるや。
 

惜しむらくは、物語が柔道創成期の時点でシリーズが完結してしまっていることだ。
あとがきに書かれているところでは、ブラジルに(高専)柔道を伝え今日のブラジリアン柔術に至る流れを作った前田光世の物語として構想されており、最終巻は木村政彦と力道山の試合で終わる予定だったものが、書き始めたらこうなってしまったらしい。
タイトルに『天の巻』とあるからには、『地の巻』を当然に期待してしまう。
当初の予定通り木村政彦まで歴史の針が進み、更に願わくば弟子である岩釣兼生や孫弟子の石井慧の総合格闘技への参戦まで描いてもらえたら、これほど嬉しいことはない。

試合描写で言えば、同じテイストを求めて現在は『餓狼伝』(双葉社)シリーズに取り掛かっている。

2023年を振り返ると、本当に色々あった。
色々あっただけに、1年前の自分と今の自分とでは全くの別人だと思う。
それでも変わらずに好きな作家の本を読んでいると、過程はどうであれとりあえず穏やかな気持ちで年末を迎えられることへの感謝を感じるのだ。

過去の記事でも書いた通り、今野敏氏の作品群は単体で面白いだけでなく、一つのユニバースを形成している。
『パラレル』(中央公論新社(2006))において、三つのシリーズと一つの単体作品の主人公達が集合し、一つの大団円的な様相を呈しているが、それ以降の作品でも他作品のキャラクターがコラボレーションしている。

 

 

新しい作品で言えば、『わが名はオズヌ』(小学館文庫(2010))に始まる伝奇シリーズの最新作である『ボーダーライト』(小学館(2021))には、事件が発生した地域を管轄する名物警官、『横浜みなとみらい署暴対係』の諸橋係長と城島が登場する。
また、安積班シリーズの『陽炎-東京湾臨海署安積班-』(ハルキ文庫(2009))には、別の警察モノである『ST』シリーズより、青山が登場している。

 

この安積班シリーズは、今野敏氏が随所で語っている通り本人にとって思い入れの深い作品であり、筆者にとっても特に好きなシリーズである。
特徴的なのは、登場人物達は明示的には年を取らないが、彼等の置かれている社会環境は現実と同様に目まぐるしく変化している点だ。

それに近い作品と言えば、かつて国民的アニメとされた『サザエさん』だろう。
フジテレビのホームページによれば『サザエさん』の放送開始は昭和44年とのことだが、登場人物達は年を取っていない。
厳密には設定の変更でわずかに年齢が変わったことがあるかも知れないが、少なくともカツオが中学生、高校生になったり、マスオさんが課長→部長→役員→社長→会長と出世したりはしていない。

筆者は十数年前に『サザエさん』を観るのはやめてしまったが、その前の記憶では作品中にスターバックスに似たコーヒーチェーン店やチャラチャラした「今時の若者」が登場しており、放送時点の社会の実相を反映しようとする姿勢は垣間見えた。
しかし、依然として拡大家族、家父長制、性別役割分業が描かれ続けており、どうしても見るに堪えなかった。
社会の実相を反映しようとする姿勢があればこそ、余計に違和感が際立ったのだ。

観るのをやめるトリガーとなったエピソードとして、専業主婦であるフネさん、サザエさんが何らかの事情で夕飯を調理できずピザの出前を取った際、波平が当てつけのように箸でピザを食べながら「わしはイタリア人じゃない」と怒りを露わに言い放ったシーンがあったように思う。
家父長制、性別役割分業に加えて、日本の文化や民俗(民族)は「単一である」とする思想(誤解)が透けて見えた。
「日本で生まれ育った人がヒップホップをやるとどこか違和感がある」という元陸上選手の為末大氏のツイートに対するRHYMESTERのカウンターソング、『ガラパゴス』でも聴いてもらいたい。
「したり顔の根拠はただ『らしさ』こそ正しさ。多分ご存じないのかその『らしさ』の疑わしさ」

その点で、安積班シリーズは異なる。
最新作である『暮鐘-東京湾臨海署安積班-』(角川春樹事務所(2021))は短編集で、「働き方改革」「外国人差別」「ストーカー」「あおり運転」といった極めて現代的なテーマが描かれるが、シリーズ開始当初から年齢が固定された安積班の面々は、どの時代においても変わらない人物像のままそれに向き合う。
それ故の苦労が描かれるからこそ、実在の人物のように応援したくなるのだ。

 

 

同じ警察モノでありながら安積班シリーズと対照的なのが樋口班シリーズである。
樋口班の場合、社会環境が変化するだけでなく登場人物達がしっかり年を取り、人生のフェーズが変化している。
シリーズの中でも『ビート-警視庁強行犯係・樋口顕-』(新潮文庫(2008))は、今野敏氏の作品の中で唯一「泣いた」作品である。
「感動する」「泣ける」ということが作品の価値を決めるとは思っていないが、それでも印象には残っている。
作中ではロックダンスが重要な意味を持つのだが、登場人物が能や歌舞伎といった日本の伝統芸能における「キメ」との共通点を見出すという描き方が秀逸だった。
今野敏氏は他の作品でもジャズと空手、キリスト教と仏教を接合させるなど、「外来の」文化の受容に対しては極めて寛容な姿勢を見せている。
 

それだけに、ヒップホップの描き方については先述の為末大氏と同じレベルの偏見を脱していないのが残念だ。
どの作品でも、ヒップホップと表裏一体の関係にあるストリートファッションは好意的に描かれることはない。
「黒人が自らの置かれた困難な立場に対する憤りを発信するもの」「ギャングから生まれた文化」といった、日本国内でヒップホップに対して偏見を持つ人間が発するのと同じ言葉がセリフとして発せられる。
ヒップホップの歴史上、常に「黒人の憤り」が表現されてきた訳ではないし、「ヒップホップ=ギャングカルチャー」と単純化してしまうのも、今日のヒップホップの隆盛の裏にある多様性、日本国内での独自の盛り上がり方を見失うことになる。
ロックダンスやジャズに続いて、ヒップホップをどう料理してくれるのかを楽しみに待っている身としては辛いものがある。


樋口班の最新作である『無明-警視庁強行犯係・樋口顕-』(幻冬舎(2022))でも同様だ。
同作品においてはギャング間の抗争がラップやダンス(本当を言えばDJやグラフティーアートもだが)によるバトルに取って代わられた、というヒップホップの平和的側面も描かれているだけに、今一歩進んだ表現がなされることを願って止まない。

『ガラパゴス』から再度引用すると、「『本場モンの完コピ』でも『本場モンとは別モン』。でも『一言言ったった!』気にはなれる稚拙な愚問。繰り返してるだけじゃ何も生み出せはしないのさ。元の『らしさ』からは常にはみ出すしかないのさ」


※作品名の後の括弧はいずれも筆者が読んだバージョン

 

 

過去の記事で、剣道の成立と、江戸の三大道場と呼ばれた道場のうち玄武館(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)を題材にした小説作品について書いたことがある。


その中で、「江戸の三大道場のラストピース、桃井春蔵=士学館=鏡新明智流をメインに取り上げた小説作品がほとんどない」と書いていたが、皆無という訳ではない。
特に、筆者が敬愛する好村兼一氏の短編集『青江の太刀』(光文社(2009))は記事を書いた後に読んだのだが、例によって大変面白い上に桃井春蔵が登場し、嬉しくてたまらなかった。

同氏は他にも、『神楽坂の仇討ち』(廣済堂出版(2011))という同じく短編集の中で、神道無念流の戸賀崎熊太郎の時代を描いている。
神道無念流は福井兵右衛門を開祖とし、斎藤弥九郎の時代になって江戸の三大道場に数えられるようになったが、その間で「広く世間に知られるようになったのは戸賀崎熊太郎暉芳から」とされている。
福井兵右衛門も斎藤弥九郎も小説の題材になっており前掲の記事でも取り上げているので、本作は筆者にとってのミッシングリンクを繋ぐ作品だ。

 

 

ミッシングリンクを繋ぐものは他にもある。
前掲の記事では一刀流剣術から(現代に残るところの)剣道が成立する系譜を小説で追っていた。
剣道の正史上、直心影流の長沼四郎が「剣道具(防具)を開発し、竹刀で打突し合う「打込み稽古法」を確立した」人物とされている。

 

 

ただ、長沼四郎とて突如として前例のない稽古法を確立した訳ではない。
その点が、剣道の成立を描いた岡本さとる氏の連作の第三弾『希望-熱血一刀流 三-』(ハルキ文庫(2020))にはきちんと描かれている。
直心影流を名乗るようになったのは長沼四郎の父、山田平左衛門以降であり、その父の師であった直心正統流の高橋弾正左衛門が初めて防具を使ったとされる、と。

前掲の記事を書いた時点では、本連作の完結編である『決戦-熱血一刀流 四-』(ハルキ文庫(2021))を筆者はまだ読んでいなかったが、読んでみると実に堂々とした完結編であった。
本作では、主人公側であり剣術界の新鋭・中西道場と、剣術の伝統を重んじる小野道場酒井組の試合がクライマックスとなるのだが、小野道場酒井組の一員として、主人公の中西忠太・忠蔵親子と何やら因縁のある宇野角之助というキャラクターが初登場する。

 

 

因縁の中身は徐々に明らかになるのだが、ドラマ『コブラ会』におけるジョニー・ローレンス、映画『ブラック・パンサー』におけるキルモンガー、『クリード 炎の宿敵』におけるイワン&ヴィクター・ドラコ親子を彷彿とさせる。
過去の別の記事に書いた通り、「敗れた側がどのような人生を歩んできたか」という描写や、「自分が掴むと思っていたが目前で奪われた栄光を取り戻すためにもがく」キャラクターというのは、筆者にとっての大好物なのだ。

 

しかも、因縁の決着の仕方として、前に挙げたどの作品よりも爽やかだった。

まさしく自分のためにこそ書かれている、と思える本に出会えるのは読書好きの冥利に尽きる。

 

過去に漁業団体で働いていたこともあり、小説や映画における第一次産業の描写はつい細かく見てしまう。
本記事では、特に印象深かった作品について書く。

一作目は真藤順丈の短編集、『畦と銃』だ。
ジャンルは「ハードボイルド第一次産業小説」。
何じゃそりゃwと思いつつ、確かに第一次産業は日本社会でハードボイルドを書く上で格好の舞台だと気付く。
第一次産業の世界は、社会の片隅で、法律や(都会の)常識とは違ったルールがあり、嫌でもそこで生きざるを得ない人達がいる。
探偵が暗躍する夜の都会並みにハードボイルド小説の題材として相性抜群なのだ。
読み終えてみると、まさしくこういうものが読みたかったのだと気付かされる。
 

本作で特徴的なのは、第一次産業を迷わず「破壊者」と置いている点だ。
「自然と調和した産業」というイメージも抱きがちだが、特に近代以降の第一次産業において顕著な「自然に働きかけ、変化させる」(命を奪うことを含めて)という要素に焦点を当てているのが面白い。
また、登場人物が文字通りの破壊性や暴力性を孕んでいることがハードボイルドというジャンル性に寄与しており、「看板に偽りなし」である。

 

 

二作目は映画『コーダ あいのうた』。
「ろう者の漁師一家の中で唯一の聴者である娘が音大進学と家業の狭間で悩む」というストーリーで題材こそ特殊だが、「子供の夢や才能を理解できない親」と「家族のために夢を追いかけることを思い留まる子供」という、普遍的な家族の物語である。
 

2022年米アカデミー賞作品賞等を受賞した有名な作品であり、筆者自身、劇場とサブスクで2回鑑賞して2回とも号泣しているが、米本国のみならず日本においてもろう者コミュニティでは大きな批判も浴びた作品だ。
 

 

にしても、本作の題材は筆者が関わってきたor関わっている業界のもので、たまにある「俺向け」作品である。
具体的には漁業、進学、丹田。
進学については、教育業界の企業で一時期働いていたという限定的な関わりだが、丹田、特に臍の4~6cm下にある臍下丹田は武術的に重要な身体の部位で、筆者も武術を習うようになって丹田に力を込めたり、丹田を意識したりといった訓練をしている。
その結果、カラオケで歌う際には過去に出せなかった音階や音量が出せるようになったのだが、本作でも正しく音楽教師が「お腹」(「胃」の意味も持つ"stomach"ではなく、腹の膨らんだ部分である”belly”)に力を込めるよう指導する場面があり、思わず笑ってしまった。
 

さて、本作における漁業描写の気になる点を見てみよう。
主人公一家は漁船漁業を営んでおり(漁業には漁船漁業以外の種類も色々あるが、本筋から外れるので割愛する)、船が港に帰るとすぐに買人がやってきて漁獲物を買い取っていく。
その際、主人公に対して買人が「氷代が未納だぞ」と言う場面があり、この買人の立ち位置として、漁獲物の買取・委託販売を行うだけでなく、冷却用の氷を含めた必要物資を漁業者に対して販売する(日本の)漁協のようなものである可能性が出てくる。
後のシーンでもこの買人は「全量買い取るから単価は安くても我慢してくれ」と漁業者に訴えるシーンがあり、現実社会でも「買い支え」をすることがある漁協ではないか、という感は強まるが、本作では買人の立場が明示されるシーンはなく、憶測に留まる。
 

本作における、この「漁協のような買人」と漁業者の間の葛藤は、現実の日本社会の漁業界においても発生している。
本作では主人公一家を含む漁業者達は、買人が漁獲物を安い単価で「買い叩いている」と不満を持ち、買人を通さずに顧客に直接販売(直売)したいと考えている。
露骨な買い叩きをする漁協こそ現実にはないだろうが、それでも直売によって漁協を通すよりも稼げる、と考える漁業者は少なくない。
その他にも、漁業者側に費用負担の発生する監視員の乗船に対する反発や、経営を圧迫する漁獲制限(水産資源の管理が目的)への不満、「現場の肌感覚」と乖離した政策・科学データに対する不信といった描写は非常にリアルである。
ちなみに監視員の乗船や漁獲制限について漁業者側に通知する行政的な役割も例の買人が担っていて、いよいよ立ち位置がよくわからない。
 

本作の山場は、漁獲物の直売を行うために主人公の両親、兄が中心となって新組織を立ち上げる場面だ。
新組織の名前は”Fisher’s Co-op”で、「漁師共同組合」という字幕が付いている。
前述の「漁協」は略さずに言うと「漁業協同組合」で、英語では”Fishery Cooperative”と表現されることが多い。
Co-opは単にCooperativeの略称だが、Fisher’sとFisheryの表記の違いが意図的であると考えると、少し面白い景色が見えてくる。
先に紹介した『畔と銃』では、農業者が既存の農協に反発して「ネオ農協」を立ち上げる。
農業者と農協の間にも色々と葛藤があるのだ。
『コーダ あいのうた』における新組織「漁師共同組合」も、「買人=漁協」説が正しいとすると、それに反発して組織されたいわば「ネオ漁協」の可能性がある。
”Fisher’s Co-op”という名前には漁業者を蔑ろにする漁業協同組合ではなく、「俺達の」「漁業者自身の」組合であるという意味が込められているのではないか。
 

とまあ、「こうだったら面白い」と思う話をつらつらと書いたが、実際には恐らくそこまで考えられていない。
根拠の一端として、ろう者である主人公の父親は「(ギャングスタ)ラップが好き」な人物として描かれているのだが、その理由は耳では聴こえなくても「尻に響くのがいいから」だ。
だとすれば、父親はラップではなく重低音を鳴らす「ヒップホップが好き」な人物として描かれて然るべきだ。
ヒップホップという音楽ジャンルとその要素の一つであるラップを混同していることは、現実のろう者が本作を観た時、重要なシーンが「歌」なので良さが伝わらない、という点にも相通ずる。
メインテーマに関する考察ですらこのように物足りない部分があるので、漁業描写にしてもそこまで考察はされていないだろう。
 

 

映画『ルッツ 海と生きる』における漁業の描写は、ある意味で『コーダ あいのうた』とは真逆である。
本作も漁業を題材にしており、主人公を含む主要人物のほとんどを本物の漁師が演じている。
その点は主人公の家族を本物のろう者が演じている『コーダ あいのうた』と似ている。

本作は地中海の島国マルタ(ここも出張で行ったなぁ)が舞台の作品で、主人公はルッツという伝統漁船で漁業をしている。
いくら金に困っても、募集されているトロール漁船の乗組員にはならない。
トロール漁業のような比較的大規模な漁業は海洋環境や水産資源に対する影響が大きく、忌避しているためだ。
実は、『コーダ あいのうた』の主人公一家が営んでいるのは正しくトロール漁業なのであり、本作と対照的な点の一つだ。

それだけではない。
本作においては、主人公が買人に漁獲物を買い取ってもらえず、漁獲物の入った箱を持って伝手のあるレストラン等を巡るという苦労が描かれる。
このように、漁協のような必ず買い取ってくれる買人がいない場合、漁業者はただでさえ過酷な漁撈活動の後に、自分で売り先を探す、価格を含めた交渉をするといった本業以外の作業をしなければならない。
更に、漁獲物が高級魚であったり、一定以上の量があったりすれば買い取ってもらい易いが、本作の主人公のように伝統的な漁法で多品種少量を漁獲する場合、買い取ってもらえない、または買い叩かれる可能性もある。
この描写も、漁業者が直売を是とする『コーダ あいのうた』とは真逆だ。

 

 

最後の作品、月村了衛著の小説『ビタートラップ』においては、第一次産業の描写がこれまでに挙げた諸作品とは異なる。
主人公は農林水産省に勤める下級役人だが、日本の農業技術という機密情報を得るために中国のスパイによるハニートラップの餌食になる。
真相や事の顛末はここに書いているのとは大分様相が異なるのだが、物語終盤でも与党の大物政治家が「農林水産業は国の礎」といった旨の発言をしている。
稀有なまでに第一次産業が重要視されていると言っていい。

作品によって捉え方が様々で、非常に興味深い。

 

 

Netflixオリジナル映画『スイートガール』はジェイソン・モモア主演のアクション・サスペンスだ。

Netflixの予告映像は、ユーザーの嗜好によって内容が変わるらしい。
最近、現実世界で電車内での犯罪が多く、自分が遭遇した場合にいかに自分の身を守るか、ということを頻繁に考えているせいか、本作の予告映像はジェイソン・モモアが電車内でナイフを持った男と戦うシーンだった。

強過ぎて参考にならないと思っていたら、実は重要なシーンであることが後に明らかになる。
その後のシーンでも、ジェイソン・モモアのような体格のいい男だからこそできる鈍重なアクションが度々繰り広げられるが、電車内のシーンの意味が明らかになった瞬間、それらのアクションの意味合いもオセロのように一気に塗り替えられていく。

そして、タイトルである「スイートガール」に込められた思いが明らかになる瞬間は感動する。
そのシーンの字幕はもう少し工夫した方がいいと思うが。
ジャンル映画だと思っていたら、なかなかどうしていい映画じゃないか。

 

 

一方、2022年1月21日公開の『ライダーズ・オブ・ジャスティス』は、劇場で観賞した際には少しがっかりした。


あらすじとしては、マッツ・ミケルセン演じる主人公のマークスは軍人で、妻が列車事故で亡くなったという連絡を受けて戦地から帰還する。
事故の際、マークスの妻と同じ電車に乗り合わせた数学者のオットーは、自身が目撃した出来事と統計学的な知識を組み合わせ、事故が「ライダーズ・オブ・ジャスティス」という犯罪組織によって仕組まれたものであるとマークスに告げる。
そこからマークス達の復讐劇が始まる。

 

 

「最強の軍人×理数系スペシャリスト-予測不可能な復讐劇が幕を開ける!?」という宣伝文句から、痛快なチーム・アクション、リベンジ・アクションを予想したが、実際は違う。
まず、さほど高度な学術的知識・技術は披露されない。
せいぜいハッキングで情報を得たり、顔認証で人を探したりする程度だ。

それ以上に、まったく痛快な作品ではない。
登場人物は皆、過去のトラウマや問題を抱えていて、それ故に苦しんでいるのだ。

マークスは強情な人物だ。
オットーやその仲間の意見に耳を傾けず、高圧的に命令するばかり。
実の娘やその彼氏にも「あなたは暴力でしか問題を解決できない」とまで言われる始末だ。
彼が解決しなければならない問題である。

一方、オットーは「偶然など存在しない」という強迫観念に駆られている。
過去に自動車事故で妻子を失くしており、自身の左手も麻痺してしまった。
そのため事故を「偶然」として片付けることができず、あらゆる事故を予測し、予防することを目的にアルゴリズムの開発を試みるが、目ぼしい成果を上げられずに研究は打ち切られてしまう。

オットーの言葉を信じてライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバーを殺し始めるマークスだが、実は勘違いであるということに途中で気付いてしまう。
「統計上、偶然ではあり得ない」とオットーが主張した事故は、実際のところただの偶然だったのだ。
とはいえ、犯罪組織との戦いは途中で止められるものではない。
最終的にはマークス達が勝利し、戦いの中で深手を負って仲間達に助けられたマークスは「もっと人に頼るべきだった」と自らの強情さを反省し、克服する。
ただ、戦いに勝利したことは純粋に暴力によるものであって、マークスの人間的成長によるものではない。

オットーにしても、予測できない偶然もあるのだと知ったことで、過去のトラウマによる強迫観念を克服したことにはなる。
しかし、彼の強迫観念のせいで痛手を被った人物達がいる。
それは彼自身ではなく、勘違いに基づいてライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバーを殺しまくったマークスであり、何より殺されたライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバー達だ。
いくら犯罪組織とはいえ、法律で裁かれず、勘違いで皆殺しにされたのではたまったものではない。

また、オットーが「偶然など存在しない」という強迫観念を克服する過程で、マークスの娘であるマチルデの努力も軽んじられている。
マチルデは事故の際に母(=マークスの妻)と一緒に列車に乗っていたが奇跡的に生き残った。
それ以来、自らの母が死ぬ遠因となった出来事、例えば、「自転車が盗まれたから母に車で学校に送ってもらわなければならなくなった」とか「車の調子が悪く、母と電車に乗って遊びに行くことにした」といったことを付箋に書いて部屋の壁一面に貼って整理していた。
事故の真相究明に役立つのかと思っていたら、オットーに「無意味だ」と一蹴されて終わる。
母を失い、父のマークスには逆らえず、オットーの扱いもこれでは、あんまりだ。

このように、過去のトラウマや問題を解決する話でありながら、どうにも腑に落ちない展開なのでがっかりしたのだ。

しかし、本記事を書くに当たって他の人物のことも視野に入れて考えていたら少し思い直した。
オットーの友人で、マークスの仲間になる二人の人物だ。

そのうちの一人であるレナートは、言動から察するに父親や親戚に虐待された過去を持つ。
人に殴られそうになると、子供の頃の口調で「お願いだから叩かないで」と懇願し、尻を丸出しにして突き出す。
つまり、レイプされた方がましだと思えるほどの壮絶な暴力を子供時代に受けていたと思われる。

マークスらと行動を共にする中で、レナートはある男娼を救い出す。
過去の自分の姿を重ね合わせたのだろう。
この男娼が後にキーとなり、マークスらにとって重要な情報をもたらすこととなった。
虐待のトラウマこそ克服しないものの、レナートの他者への共感が物語を前に進めている。

もう一人のエメンタールは、こちらも推測だが人生のあらゆる場面で虐められてきた男だ。
そんなエメンタールはボーイスカウトでブラスバンドに所属していたが、年齢制限によって除隊すると演奏ができなくなってしまった。
制服を着て、隊列に入っていれば吹けたはずのホルンが吹けなくなったのだ。
本作『ライダーズ・オブ・ジャスティス』は、すべての片を付けた仲間達が集い、そこでエメンタールがホルンを吹くシーンで終わる。

一人ではできないことも、仲間といればできる。
そんなファンファーレが胸に響く。

物足りないところはあれど、本作もなかなかどうしていい映画ではないか。