思い違いをしていた。
過去の記事で今野敏氏の警察小説『晩夏-東京湾臨海署安積班-』を引き合いに出し、「タイトルの「晩夏」が意味するのは人生において「青春」の後に訪れる季節のこと」と書いたが、誤りであった。

「青春」の後に訪れるのは「朱夏」であり、それが書かれていたのは同じ今野敏氏の警察小説でも別シリーズの作品『朱夏-警視庁強行犯係・樋口顕-』においてである。
件の記事では先の引用部に続けて「青春が終わってこそ、真っ赤に燃え盛る夏が来る、ということを中年の刑事達が噛み締めるという熱い話」とまで書いているので気付いてもよさそうなものだが、読み返しもせず記憶だけを頼りに書いてしまったので気付くことができなかったのは大いに反省している。
また、「青春の後の季節」というのは特に好きな題材であり、記事を書いた前後で知人・友人にもよく話していたはずなので、反省すると共に非常に気恥ずかしい。

 

さて、そんな思い違いに気付いたのは、安積班シリーズの最新作『秋麗-東京湾臨海署安積班-』を読んだからだ。
タイトルからも察しが付く通り、春も夏も過ぎ、本作では主人公の安積班長を初めとして登場人物達の人生の秋が見えてくる。

物語の端緒として、70代の男性の遺体が見つかる。
遺体の身元はかつて特殊詐欺の「出し子」だった男のものだ。
捜査が進むに連れ、被害者やその仲間は例外なく高齢で家族もなく、悲しいことに詐欺だけが唯一残された生き甲斐だったということが判明する。
特殊詐欺というと高齢者が被害に遭っているイメージがあり、本作において警察もそのような誤解をする場面があるが、高齢者が加害者側であるというのは本作における一つの肝である。

事程左様に、本作では「世代」や「年齢」といったものが重要なテーマとなっている。
遺体として見つかった男性のみでなく、主人公である安積班長も含めて、登場人物達は自身の年齢や世代と否応なしに向き合うことになる。

象徴的なところではセクハラの扱いだろう。
遺体の捜査を進めるのと同時並行で、安積班長は付き合いのある若手の女性の新聞記者が職場でベテラン記者によるセクハラ被害に遭っていることを知る。
話を聞く限り、セクハラの内容は体型や容姿に関する発言のみで、身体的な接触や何かしらの行為の強要がないということを理由に、安積班長は警察官としての法的な対処ができず、なかなか解決できない。
安積班シリーズではお馴染みの豪傑、高機隊の速水隊長でさえ、セクハラの加害者であるベテラン記者に直当たりするものの話を聞いているうちになんとなく共感してしまう。
このベテラン記者には、相手の成長を願う本人なりの親心があってセクハラ(のフリ)をしていたということが明らかになるのだ。

ここがどうにも納得できない。
筆者が過去に受けたハラスメント防止研修においては、数あるハラスメントの中でもセクハラに関しては完全になくすことができると教わった。
ビジネスシーンにおいて、性差にまつわる発言や行為は全く必要ないからだ。
身体接触や行為の強要がないからといって介入できずにいる安積班長も、加害者の話を聞いて尻込みしてしまった速水隊長も、対応としては物足りないと言わざるを得ない。

加えて、安積班長はセクハラに限らず、ハラスメントに関しては「何をされるか」という事実ではなく「誰にされたら許せないか」という受け手の感じ方であるという旨の発言もしている。
残念ながらこれは誤りである。
例えばパワハラに関しては、3つの定義や6つの行為類型を他ならぬ厚生労働省が定めている。
https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000366276.pdf

 

つまり、「何をされるか」という事実が重要なのだ。
行為類型のうち、例えば「身体的な攻撃」について、自分のことを慕っている部下に対し、上司が冗談で肩を小突く等、「相互の関係性によっては許容される」と考える向きも現実にはあるだろう。
しかし、そう考えるのは早計である。
なぜなら「第三者」という視点が欠けているからだ。

たとえ当人同士は冗談のつもりでも、事情を知らない第三者の視点から見れば「職場で暴力が振るわれている」という光景以外の何物でもなく、恐怖感を与えることになりかねない。
そうでなくても、冗談で人を小突くようなマッチョなノリは男性の筆者からしても見るに堪えないほど不快なものだ。
どうしてもやりたいのであれば第三者のいない密室か、業務時間外でやればいい。

セクハラに至っては客観的要件に加えて受け手の感じ方が重要なのであって、やる側の気持ちで正当化されるものではない。
本作におけるベテラン記者のセクハラの動機が親心だったとしても、相手が不快に感じているのであればハラスメントであることに変わりはない。

このベテラン記者からは、部下以外の女性をも当然の如く美醜で判断するような発言も見られる。
もはや親心ですらなく、純然たる女性蔑視、ルッキズムだ。
これらについてはどれだけ自戒してもし過ぎることはないはずだが、たとえ動機が何であれ日常的にセクハラをしていると、きっと境界線を見失ってしまうのだろう。

偉そうに語ってはいるが、女性への差別的な発言や表現に対してそれなりにセンサーを働かせてきたつもりだった筆者も、つい先日映画『バービー』を観たところ自分と照らし合わせて気恥ずかしくなるようなシーンが多々あり、慢心してはならないと思い知ったところだ。
ベテラン記者が相手に動機を説明した上でしっかりと謝罪し、許されるにせよ許されないにせよ明確な決着を付けてほしかった。
 

安積班シリーズは、1988年に刊行された『東京ベイエリア分署』に始まり、2023年現在で35年にも及ぶ歴史のあるシリーズである。
しかも、サザエさん同様、安積班長ら登場人物達は明示的には年を取っていない。
変わらぬ男達が、変わりゆく時代に立ち向かうからこそ読んでいて胸が熱くなるシリーズだった。

 

 

ところが、本作では登場人物達に変化が見られる。
例えば、安積班長の部下の須田は、シリーズ開始当初から一貫して安積班長のことを「チョウさん」と呼んでいた。
須田の新人時代に巡査部長だった安積の呼び名の名残だ。
一方で、本作に始まったことではないが須田はいつの間にか安積班長のことを「チョウさん」とは呼ばなくなっている。
ドラマシリーズのタイトルに合わせる形で「ハンチョウ」と呼んだり、本作では「係長」と呼んだりしているが、須田としてもさすがに昔の呼び名で呼ぶのは気恥ずかしくなったのではないかと思わせるような成熟を感じさせる。

それ以上に、シリーズの主人公である安積班長と、その同期にして相棒の速水隊長の変化が大きい。
『秋麗』の最後の場面では、安積班長と速水隊長は庁舎の屋上で共に秋の訪れを感じている。
単なる季節の話ではなく、『朱夏-警視庁強行犯係・樋口顕-』を踏まえると二人は人生において最も燃え盛る時期の終焉を感じているといえる。

致し方あるまい。
シリーズが開始した時代を考えると、二人が長く生きてきたのは上司が部下に怒鳴り(パワハラ)、男性が女性を軽く見るの(セクハラ)が当たり前だった時代だ。
誰もが(といつつ、実際に許されたのは男性のみだが)シャカリキに働くのが当然だった時代でもある。
それに対して、ハラスメント防止や働き方改革が本格化したのはここ数年の話に過ぎない。

今を生きる人間は、その時代に合わせて絶えず自らの価値観をアップデートする必要がある。
セクハラに対して厳正に対処できなかった安積班長や速水隊長のように、価値観をアップデートすることに限界を感じる人間は、表舞台から退場するしかない。
そのうら寂しさを『秋麗』の最後の場面では表現しているように思う。

 

 

最後に自分の話をしたい。
一方的な作品批評は本記事(ブログ)の目指すところではなく、本作にしても自分の境遇と重なるところがなければこれほどまでに刺さっていないからだ。

安積班長や速水隊長ではないが、筆者とて働くことが好きだ。
最近では激務の前にRHYMSTERの『待ってろ今から本気出す』を聞いて気合を入れる。
一仕事終えた後に飲む酒は何物にも変え難いと思っている。

一方で、仕事漬けの生活をずっと続けたいとは思っていない。
本格的に身体を壊したことこそないが、激務の後の一定期間は必要最低限の仕事しかせずに早く退勤する。
というか、それ以上やる気がなくなる。
その意味では、同じRHYMSTERでも『予定は未定で。』の「スキマだらけでいいんじゃない?アソビだらけでいいんじゃない?」という歌詞に共感する時もある。
余談だが、これらの曲を同じアルバムに収録するRHYMSTERはさすがである。

 

 

また、年齢的には30歳を超え、社会人としても10年弱の経験を経たところだ。
今の会社に転職してからは1年経過したばかりだが、持ち前の「馴染み力」を活かして入社直後から古参の雰囲気を醸し出し過ぎたせいか、今後は自分より下の世代の育成の役割を担うことになり、自分がフロントに立つ機会は減ることになった。
最前線で「斬った張った」の仕事をしていたい筆者としては、なかなか忸怩たる思いがある。

人生としてはまだまだ「朱夏」の真っ只中ではあるが、これまで最前線での仕事を謳歌した分、徐々に後進に道を譲らなければならないフェーズに入ったのだろう。
夜風が涼しくなってきた。