2020年に開催された第33回東京国際映画祭の上映作品の中で、『佐々木、イン、マイマイン』は気になる一作だった。
残念ながら時間が合わずに映画祭期間中に観賞することはできなかったが、TBSラジオの番組「アフター6ジャンクション」のコーナー「ムービーウォッチメン」でパーソナリティのライムスター宇多丸さんの批評(2020年12月4日放送)を聴き、「やはり観なくては」と思い直してようやく観ることができたのが2021年の正月休みだ。

ちなみに、映画や本等のカルチャーが好きな人であれば珍しくないだろうが、筆者は「アトロク」の前身番組「タマフル」時代からのヘビーリスナーだ(ヘビーリスナーであれば珍しくないだろうが、ライムスター、日本語ラップ、ヒップホップ全般のファンでもある)。

 

 

内容の紹介は公式サイトにある通りだし、ご覧になった方も多いだろうから多くは語るまい。

さて、本作では劇中劇として『ロング・グッドバイ』という戯曲が演じられる。
「人生とは小さなサヨナラの積み重ねだ」というセリフが印象的なこの戯曲は、青春時代とその終わりを描いた本作のテーマを強く浮かび上がらせる。

宇多丸さんの批評で度々言及される青春の定義は、未来に向かって可能性が無限に開かれている状態のこと。
そして、青春が終わった後で、無限の可能性の中から選び取った人生と、あり得べき別の人生とを同時にかけがえなく思う感覚こそが「懐かしさ」の本質だとも言っている。
まさしく妙言だ。

 

 

筆者が初めてこの概念を耳にしたのは、2016年10月22日に放送された『何者』の批評においてであった。
朝井リョウの同名小説が原作、就活(「売り手市場」と呼ばれる現在のシーンとは大分様相が異なる)をめぐる大学生の人間ドラマで、キャッチコピーは、「青春が終わる。人生が始まる―」。

登場人物達は、「未だ何者でもなく、何者にでもなれる」という状態から、就活によって「何者かになる」=可能性を限定する選択をしなくてはならない。
そして、そこからが真の人生の始まりであると本作は伝える。

 

 

奇しくも、筆者は当時『晩夏-東京湾臨海署安積班-』(ハルキ文庫(2015))という小説を読んでいた。
敬愛する今野敏先生の警察小説である。

タイトルの「晩夏」が意味するのは人生において「青春」の後に訪れる季節のこと。
青春が終わってこそ、真っ赤に燃え盛る夏が来る、ということを中年の刑事達が噛み締めるという熱い話だ。

当時の筆者は就活を終えて社会人になって3年といったところ。
日々が学びと成長の連続で充実すると共に、「まだまだ何にでもなれる」という気がしていた。つまり、青春は未だ終わっていなかった。
青春よりも燃え盛る「晩夏」の訪れを心待ちにしていた。

 

 

時が経ち、『佐々木、イン、マイマイン』に胸を打たれる現在、30代になろうとしている筆者は、この青春が終わろうとしている感覚をありありと感じている。
可能性は無限大ではなく(例えば就活との関連では年齢的に第二新卒の枠には入れない)、自分は自分で思うほどすごくないことがわかってきた。

では、日々がつまらなくなったかといえば、まったくそんなことはない。
「何者にでもなれる」とはさすがに思わないが、やりたいことはある。それは日々の努力と地続きになっている。
青春時代の根拠のない万能感より、満ち足りているかも知れない。晩夏が、人生が始まろうとしている。

話は変わって、先日、筆者が通う護身術の道場の先生がこんなことを言っていた。
「人生には戦略が必要だ。
戦略は戦(いくさ)を略(りゃく)すと書く。
つまり、何かを捨てて別の何かに専念することが必要だ。」

先生のご出身は九州で、20代の時から東京に出て武術の道場を構えることを夢見て修行されていたそうだ。
しかし、現代社会では「武術で飯は食えない」と言われている。
そこで、「武術」を捨て「護身術」に専念した結果、40代で実際に東京に進出されたのだから説得力が違う。

しかし、先生の話はここで終わりではなかった。
「何かに専念した結果、それに付随する形で捨てたはずのものができるようになる。」

確かに、道場では護身術のみならず正統な武術も教えて頂ける。
つまり、先生は広義では武術で飯を食っていることになる。

『佐々木、イン、マイマイン』の批評の中で、映画監督・川島雄三の「サヨナラだけが人生だ」という言葉の意味が「初めてちゃんと分かった気がする」と宇多丸さんは言った。

なるほど、どこまでも深い言葉だ。