Netflixオリジナル映画『スイートガール』はジェイソン・モモア主演のアクション・サスペンスだ。

Netflixの予告映像は、ユーザーの嗜好によって内容が変わるらしい。
最近、現実世界で電車内での犯罪が多く、自分が遭遇した場合にいかに自分の身を守るか、ということを頻繁に考えているせいか、本作の予告映像はジェイソン・モモアが電車内でナイフを持った男と戦うシーンだった。

強過ぎて参考にならないと思っていたら、実は重要なシーンであることが後に明らかになる。
その後のシーンでも、ジェイソン・モモアのような体格のいい男だからこそできる鈍重なアクションが度々繰り広げられるが、電車内のシーンの意味が明らかになった瞬間、それらのアクションの意味合いもオセロのように一気に塗り替えられていく。

そして、タイトルである「スイートガール」に込められた思いが明らかになる瞬間は感動する。
そのシーンの字幕はもう少し工夫した方がいいと思うが。
ジャンル映画だと思っていたら、なかなかどうしていい映画じゃないか。

 

 

一方、2022年1月21日公開の『ライダーズ・オブ・ジャスティス』は、劇場で観賞した際には少しがっかりした。


あらすじとしては、マッツ・ミケルセン演じる主人公のマークスは軍人で、妻が列車事故で亡くなったという連絡を受けて戦地から帰還する。
事故の際、マークスの妻と同じ電車に乗り合わせた数学者のオットーは、自身が目撃した出来事と統計学的な知識を組み合わせ、事故が「ライダーズ・オブ・ジャスティス」という犯罪組織によって仕組まれたものであるとマークスに告げる。
そこからマークス達の復讐劇が始まる。

 

 

「最強の軍人×理数系スペシャリスト-予測不可能な復讐劇が幕を開ける!?」という宣伝文句から、痛快なチーム・アクション、リベンジ・アクションを予想したが、実際は違う。
まず、さほど高度な学術的知識・技術は披露されない。
せいぜいハッキングで情報を得たり、顔認証で人を探したりする程度だ。

それ以上に、まったく痛快な作品ではない。
登場人物は皆、過去のトラウマや問題を抱えていて、それ故に苦しんでいるのだ。

マークスは強情な人物だ。
オットーやその仲間の意見に耳を傾けず、高圧的に命令するばかり。
実の娘やその彼氏にも「あなたは暴力でしか問題を解決できない」とまで言われる始末だ。
彼が解決しなければならない問題である。

一方、オットーは「偶然など存在しない」という強迫観念に駆られている。
過去に自動車事故で妻子を失くしており、自身の左手も麻痺してしまった。
そのため事故を「偶然」として片付けることができず、あらゆる事故を予測し、予防することを目的にアルゴリズムの開発を試みるが、目ぼしい成果を上げられずに研究は打ち切られてしまう。

オットーの言葉を信じてライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバーを殺し始めるマークスだが、実は勘違いであるということに途中で気付いてしまう。
「統計上、偶然ではあり得ない」とオットーが主張した事故は、実際のところただの偶然だったのだ。
とはいえ、犯罪組織との戦いは途中で止められるものではない。
最終的にはマークス達が勝利し、戦いの中で深手を負って仲間達に助けられたマークスは「もっと人に頼るべきだった」と自らの強情さを反省し、克服する。
ただ、戦いに勝利したことは純粋に暴力によるものであって、マークスの人間的成長によるものではない。

オットーにしても、予測できない偶然もあるのだと知ったことで、過去のトラウマによる強迫観念を克服したことにはなる。
しかし、彼の強迫観念のせいで痛手を被った人物達がいる。
それは彼自身ではなく、勘違いに基づいてライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバーを殺しまくったマークスであり、何より殺されたライダーズ・オブ・ジャスティスのメンバー達だ。
いくら犯罪組織とはいえ、法律で裁かれず、勘違いで皆殺しにされたのではたまったものではない。

また、オットーが「偶然など存在しない」という強迫観念を克服する過程で、マークスの娘であるマチルデの努力も軽んじられている。
マチルデは事故の際に母(=マークスの妻)と一緒に列車に乗っていたが奇跡的に生き残った。
それ以来、自らの母が死ぬ遠因となった出来事、例えば、「自転車が盗まれたから母に車で学校に送ってもらわなければならなくなった」とか「車の調子が悪く、母と電車に乗って遊びに行くことにした」といったことを付箋に書いて部屋の壁一面に貼って整理していた。
事故の真相究明に役立つのかと思っていたら、オットーに「無意味だ」と一蹴されて終わる。
母を失い、父のマークスには逆らえず、オットーの扱いもこれでは、あんまりだ。

このように、過去のトラウマや問題を解決する話でありながら、どうにも腑に落ちない展開なのでがっかりしたのだ。

しかし、本記事を書くに当たって他の人物のことも視野に入れて考えていたら少し思い直した。
オットーの友人で、マークスの仲間になる二人の人物だ。

そのうちの一人であるレナートは、言動から察するに父親や親戚に虐待された過去を持つ。
人に殴られそうになると、子供の頃の口調で「お願いだから叩かないで」と懇願し、尻を丸出しにして突き出す。
つまり、レイプされた方がましだと思えるほどの壮絶な暴力を子供時代に受けていたと思われる。

マークスらと行動を共にする中で、レナートはある男娼を救い出す。
過去の自分の姿を重ね合わせたのだろう。
この男娼が後にキーとなり、マークスらにとって重要な情報をもたらすこととなった。
虐待のトラウマこそ克服しないものの、レナートの他者への共感が物語を前に進めている。

もう一人のエメンタールは、こちらも推測だが人生のあらゆる場面で虐められてきた男だ。
そんなエメンタールはボーイスカウトでブラスバンドに所属していたが、年齢制限によって除隊すると演奏ができなくなってしまった。
制服を着て、隊列に入っていれば吹けたはずのホルンが吹けなくなったのだ。
本作『ライダーズ・オブ・ジャスティス』は、すべての片を付けた仲間達が集い、そこでエメンタールがホルンを吹くシーンで終わる。

一人ではできないことも、仲間といればできる。
そんなファンファーレが胸に響く。

物足りないところはあれど、本作もなかなかどうしていい映画ではないか。

2021年は世界的に新型コロナウイルスが猛威を振るい続けた年だが、個人的にも激変の年だった。

大きな変化は2つある。
1つは、以前から習っていた護身術のインストラクター資格を取得したこと、もう1つは転職したことだ。

それらは別々の出来事のようでいて、自分の中では深く結び付いている。
しかも、それぞれを象徴するような著作にも出会ったので、それに沿って出来事を整理していく。

1冊は今野敏先生の『宗棍』。 
空手の礎を築いた松村宗棍の物語だ。

何を隠そう、過去の記事でも書いた通り今野敏先生は筆者を読書好きに仕立て上げた張本人だが、それに加えて武術・護身術を習うきっかけになったのも実は今野敏先生の作品の影響だ。
今野敏先生の著作には武術を題材にしたものが多く、そうでない場合も登場人物が武術の使い手であるケースが少なくない。
特に大東流合気柔術や、創作も含めた古武術が多く登場し、それに憧れて大東流合気柔術をベースとした護身術を習い始めたのだ。

挙句には2021年の9月にインストラクターの資格を取得するに至った筆者にとって、『宗棍』はまたしても記念碑的な作品になった。
筆者の考える理想の護身術が漏れなく描かれているからだ。

護身術とは相手を傷付けず、自分も傷付かないための技術であること。
「手で触れることで相手の動きを察知する」「頭の向きを変えることで相手を崩す」「自分の身体を剣にする」というなどの様々な技法。
勝つことではなく、負けないことを目指すという護身哲学。

いずれも諸手を挙げて賛同する。

 

 

もう1冊は『友よ、 水になれ』という本だ。
著者はシャノン・リー。
あのブルース・リーの実娘である。
偉大な映画スター、武術家にして哲学者でもあるブルース・リーの「水になる」という哲学を読み解いた本だ。

この哲学の目的は以下に引用する文章にある通り。

「父はよく言っていました。
人生でもっとも大切な仕事は「自分自身であること」だと。
父の言葉を借りれば、それは”自己実現”、つまり自分の可能性を最大限に発揮することです。」

水のように時に柔らかく時に激しく、臨機応変に形を変えながら、決して別の何かにはならない。
常に最高の自分であるために。

「自分の可能性を最大限に発揮」できるというのは、筆者の転職先の企業が目指す社会像そのものである。
本作の中でこの言葉が出てきた時には鳥肌が立った。

 

 

ビジョンとして魅力的であることは論を待たないが、筆者が転職を決めた理由はビジョンが単なるお題目ではなくビジネスと地続きになっているというか、きれいな相似形をなしていることだ。

それは筆者が習っている護身術とも共通する。
先に述べたように、理想は「負けないため」の戦いであり、その発想で技術体系が作られているのだ。
また、単に肉体を鍛錬するだけではなく、肉体に元々備わっている潜在能力を覚醒させて使う、ということも「自分の可能性を最大限に発揮」というビジョンに通ずるものがある。

更には、いずれも先人達が築き上げた素晴らしい伝統を現代的にアップデートして使うという手法を取っており、伝統文化の保全や継承に関心がある筆者から見て最適解であると思える。
伝統は守るべき、か弱い存在ではなく、現代シーンでも充分に役立つものなのだ。

冒頭で述べたように、護身術インストラクターの資格を取得したことと転職とは密接に結び付いている。
というより、護身術を普及し、社会貢献することを目指しているお師匠、道場に薫陶されたからこそ、現在の職場に転職することになったのだと思う。
スポーツでも仕事でも「チームで取り組む」という経験に乏しく、且つ苦手意識を持っていたが、現在の職場で初めてプロジェクト・マネージャーを務めたことで、チームワークの楽しさと大切さを学び、誰かのために迅速に行動できる人間になった。
もちろんここにも護身術インストラクターになったという意識が関係している。

今後は、自分が価値を感じるものを世に広め、社会のために働くということが自分の中での使命として明確に浮かび上がった。
「仕事」と「プライベート」の区別は必要ない。

2022年は手始めとして情報発信に力を入れる年にしたい。
過去の自分では考えられなかったこと(現に、筆者と付き合いの長い相手に話したら驚かれた)を当たり前のように考えている自分に驚くが、同時にこの上ない心地よさを感じている。

決心したのと前後して、護身術のお師匠とは一緒にネットラジオ等の配信を始める話になり、職場の上司からは情報発信の業務にアサインされた。
元々2021年、2022年あたりから取り組みたいと考えていたことは別にあったのだが、本当の望みとは案外叶ってみないとわからないものなのかも知れない。

こんな考えも、人生のすべてをコントロールしたいと考えていた過去の自分とは似ても似つかない。
でもそれでいい。
コントロールの及ばない人生を乗り物にして、ライド感を楽しみたい。

映画『ホーム・スイート・ホーム・アローン』はDisney+の独占配信作品で、マコーレー・カルキン主演の『ホーム・アローン』シリーズのリメイクだ。

しかし、過去作のようにクリスマスシーズンに何も考えずに楽しめる作品では決してない。
あるいは、過去作をテレビで観て何も考えずに楽しめていたのは、単に自分が子供だったからなのか、とすら思えてしまう。
本作のおかしな点を順に見ていく。

 

 

まず、主人公が家族の中で孤立した後にクリスマス旅行に置いて行かれ、家に泥棒が来るという点は過去作と同じだ。

しかし、主人公の「善性」と泥棒の「悪性」がまったく異なる。

本作では、ある夫婦が主人公の家に忍び込もうとするのだが、それは夫の方が失業中で金に困っている時に、主人公が夫婦の家から高価な人形を盗み出したからだ。

その前段階で、主人公は母親と共に夫婦の家を訪れている。
夫婦は家を売りに出さなければならないほど困窮しており、購買希望者の見学を受け入れているところに通りすがった主人公親子は、家を買うつもりもないのにトイレを借りるために立ち寄ったのだ。

その際に人形がなくなったことに気付いた夫婦は、場所を突き止めた主人公宅が留守であると思い込み、留守中に忍び込んで人形を回収することを決意する。
主人公は、夫婦が邪悪な人間であると勘違いして、ここだけは過去作と同様に迎撃の体制を整える。

繰り返すが、夫婦は夫の失業により困窮していて必死なだけで、決して悪人ではない。

人形を売れば大事な家を失わずに済むことがわかったのだから、必死にもなる。
そんな夫婦が、主人公の用意した数々のブービートラップに痛めつけられる様は、笑えるどころか目も当てられないほど辛い。
アメリカという国はいつも、金のない人間に対して冷酷だ。

夫婦は主人公が家にいることに気付くと、忍び込んだ目的を素直に伝えようとし、何度も対話を試みるが、主人公は一向に聞く耳を持たず、反撃の手を緩めない。
これでは、相手が黒人であるというだけで凶悪犯罪者と見なして即座に射殺したり、窒息死するまで押さえつけたりする白人警官と何ら変わらない。

結局、主人公は夫婦の家から人形を盗んではいなかったということが後に明らかになる。
そんなことだろうと思ってはいたものの、それにしても主人公の反撃は過剰であり、主人公の善性が証明される訳ではない。
むしろ、主人公は実際に夫婦の家から缶ジュースを盗んでいたということが同時に明らかになるので、主人公に感情移入する瞬間は最後までやってこない。

最終的に、主人公が家族旅行に置いて行かれて独りぼっちでクリスマスを過ごしていると知った夫婦は、優しく主人公を抱きしめる。
主人公の親が旅行先から帰ってきた後は、滅茶苦茶になった家の弁償までした上に、翌年も主人公親子と家族ぐるみの付き合いをする。
この物語で真に正しく、優しく、祝福されるべきなのはこの夫婦の方だ。

人形はどこにあったかと言えば、夫の方の弟家族の子、夫婦からすれば甥に当たる男の子が隠し持っていた。
男の子に窃盗癖があることは繰り返し描写されており、遂には無用な大騒動を引き起こしたことについてちゃんとお叱りを受けてもよさそうなものだが、彼の両親はそうしない。
それもそのはず、親は親で、明るい笑顔の裏に相手の都合など考えずに家に押し掛けるような身勝手さや、他人が裕福になることに対する妬みを秘めたクソ親だからだ。

 

 

劇中には「オリジナルが一番いいのに何でリメイクなんてするのか」という台詞があるが、リメイクの質がここまで悪いとそう思わざるを得ない。
ただし、世の中にはいいリメイクも沢山あるので、上記の命題が証明されたことにはならないが。

リメイクやリブートが全盛の今の時代に対する皮肉とも受け取れるが、Disney傘下のMarvelの映画はアメコミ原作という点で完全オリジナルではない訳だし、本作や、90年代の映画『飛べないアヒル』のリブートドラマを配信しているのは他でもないDisney+だ。

本作を通して一体何がしたいのか甚だ疑問である。

後編で取り上げる1作目は『キャンディマン』。
『ゲット・アウト』『アス』でお馴染みのジョーダン・ピールが共同脚本・製作を務めた作品だ。
過去2作同様、ホラー設定と現実社会における問題意識が地続きになっている。

キャンディマンは、鏡に向かって5回その名を唱えると殺人鬼が現れるという都市伝説であり、殺人鬼そのものを指す。
終盤に正体が明らかになるが、構造的にはNetflixの『フィアー・ストリート』3部作を彷彿とさせる。
『フィアー・ストリート』では、シェイディサイドという街で世紀をまたいで続く「魔女の呪い」が描かれる。
3部作を通して世紀を遡ることで、本当に呪われているのは誰なのかが明らかになるのだ。

『キャンディマン』でも『フィアー・ストリート』でも、「呪い」とされていたものの裏にあるのは「わかってほしい」「声を聞いてほしい」という切なる思いだった。
作品中でそれがわかる瞬間の衝撃たるや。

 

 

ついでに、『ゲット・アウト』『アス』でプロデューサーを務めたショーン・マッキトリック製作の『アンテベラム』は、10月15日公開ではないものの素晴らしいので触れておく。

現代劇かと思いきや、冒頭は南北戦争中のアメリカ南部のどこかのプランテーションのような場所が舞台となっている。しかし、だとすると節々に違和感がある。
場面が変わって現代劇になると、プランテーションの奴隷を演じていたのと同じジャネール・モネイが、今度はリベラルな学者(しかも有名でリッチ)を演じている。

プランテーションの場面は単なる悪夢だったのか?と思って観ていると、それが徐々に現実を侵食し、想像もしていなかった形で悪夢と現実、2つの世界が繋がる。
この瞬間の衝撃と絶望感は凄まじい。
小説の『フライデー・ブラック』を思い出さずにはいられなかった。

 

 

また恐ろしいのが、現代劇の場面でも黒人差別がしっかり残っている点だ。
主人公は有名でリッチでインテリなのに、ホテルのレセプション係はバカにしたようにおざなりな対応をし、高級レストランに行けば他に空いている席があるにも関わらず従業員用の搬入口の近くの壁際の席をあてがわれる。
お酒の注文を済ませた後、ウエイターがより安価なお酒を勧めてくるのも不愉快だ。

悪夢だけではない。悪夢から抜け出したとて、現実だって全然地獄だ。
作中の言葉を引用すればこうだ。

The past is not dead.(過去は死なない)
It's not even past.(過去にすらならない)

 

 

『キャンディマン』の関連作品についての記述が長くなったが、タイトルにある10月15日に劇場公開された作品として取り上げる2作目は『最後の決闘裁判』だ。
リドリー・スコットが監督し、マット・デイモンとアダム・ドライバーが出演している時点で一見の価値がある。
実際、本作は期待を遥かに上回る。

中世のフランスで、マット・デイモンが演じる騎士の妻、マルグリット(ジョディ・カマーの演技も素晴らしい)が、アダム・ドライバー演じる夫の旧友にレイプされたと訴えるが彼は無実を主張し、二人の男が「決闘裁判」を行う。
すなわち、「勝つということは神の加護を受けているということであり、したがって正しい」という無茶苦茶な理屈で殺し合うのだ。
しかもマルグリットの命も決闘裁判の勝敗に賭けられている。
恐ろしいことに史実だ。

 

 

名家に嫁いだマルグリットが、姑、女友達、夫の誰も自分を見ていないという孤独は、『クレイジー・リッチ!』の主人公、レイチェルと同じだ(レイチェルの彼氏は最初から最後までいい奴だが)。
また、女性が受けてきた差別や屈辱を、女性自身が次の世代に受け継いでしまうという悲しさは『愛しのアイリーン』とも共通している。

 

 

『クレイジー・リッチ!』はほとんど完璧と言っていいほど素晴らしい作品だったが、唯一残念なのがエンドクレジット間の映像だ。
レイチェルの彼氏の親戚で、美人で人格者で優れた実業家でもあるアストリッド・レオンは、勝手にコンプレックスを抱いた夫の不倫が原因で離婚することになる。
深い悲しみを背負いながらも、最終的には仕事も育児も、夫に遠慮して控え目にしていた慈善事業まで全部やって、力強く生きることを宣言する。

なのに、エンドクレジット間の映像で、彼女がバーカウンターで飲んでいるとイケメン客と度々目が合い、はにかむというシーンが描かれる。
魅力的な女性だからモテるのは仕方ないとしても、「結局、女にとって救いになるのは男」であるかのような安易な描き方だ。
先の宣言だけで観客は彼女の幸せを願い、且つ確信していただけに、不要なシーンだ。

 

 

『最後の決闘裁判』にはそんな不要なシーンがない。
決闘裁判で夫が勝利し、「死罪」にならずに済んだマルグリットは、夫が戦死した後、再婚することなく一人で子供と領地を守り続けた。
見事な結末、見事な人生である。

本記事で取り上げた作品には通底したテーマがある。
黒人や女性、性的マイノリティ。
差別されるすべての者にとっては現実の世界こそが呪いであるということだ。
世界がもっと賢く、正しくならなければいけない。

2018年の3月1日のことは忘れもしない。
『ブラックパンサー』、『シェイプ・オブ・ウォーター』、『15時17分、パリ行き』という大作且つ名作映画3本の日本での劇場公開が重なった日だからだ。
それにしても日付まで覚えているのは、ラップ好きの筆者にとっては『ブラックパンサー』の予告CMでSKY-HIが「答えはすぐそこにあるんだ 3.1(さんてんいち)ブラックパンサー」とラップしていたことが大きい。

 

全作公開日に鑑賞した訳ではないが、それでも1本1本が重く消化するのが大変だったのを覚えている。
しかし、2021年10月15日ほどではない。
この日は観たい映画が4本一気に公開されたのだ。
ようやくすべて観ることができたので、観賞した順に前後編で2本ずつに分けて記録していく。

 


1作目は『DUNE/砂の惑星』。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の最新作だ。

ストーリーは詳述しないが、「SF」「ヒーロー覚醒もの」「王位継承もの」という筆者の好きなもの全部盛りで、本当にいいプロジェクト(3部作構想)がぶち上ったと思う。

ただ、本作は物語の序盤も序盤、劇中の台詞を引用するならば「まだ始まったばかり」なので、筆者が好きなドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の持ち味はあまり出ていない。
思うに、過去作ではいずれも「自分は正しいことをしている」「自分はかけがえのない存在である」「世界の常識はこうである」といった、主人公の信念が無残なまでに裏切られるという様が描かれていて、そこにこそ良さがある。
なので、主役の俳優は華々しさと同時にどこか悲壮感を醸し出している必要がある。
その点ではティモシー・シャラメは最高にハマると思われるが、物語の展開上、未だ彼が「裏切られた」という顔をするまでには至っていない。
今後の展開に期待している。

 

 

2作目は『燃えよ剣』。
岡田准一が土方歳三を演じた歴史大作だ。
岡田准一と言えば、元々身体能力のお化けであるのに加え、特に劇場版の『SP』あたりから本格的な軍隊格闘の訓練やスタントのコーディネートも行っている。
剣術も得意で、本作でも自身で殺陣をこなしており(エンドクレジットにも記載)、その動きだけでも観賞に値する。

意外というべきか、岡田准一だけでなく、沖田総司を演じたHey!Say!Jumpの山田君の画力、殺気ある目力も素晴らしかった。
「美男子」「夭逝の天才」という沖田像にも完全にマッチしている。
土方と沖田の関係性も、ジャニーズの先輩・後輩関係が見事にオーバーラップしていて、他の俳優では出せない味だ。

上映時間は148分と長いが、新選組を題材にしたコンテンツに期待するすべての要素が盛り込まれている。

と、無邪気に語ったが、後編では少しシリアスなテーマを扱う。

 

 

前の記事に引き続き、上意討ちをテーマにした作品について書く。
本記事で扱うのは好村兼一先生の小説『いのち買うてくれ』(徳間書店(2016))だ。

好村先生と言えば、剣道8段の達人であり、筆者が敬愛する小説家の一人でもある。
ちなみに過去の記事では両方の側面を度々取り上げたが、本作『いのち買うてくれ』を以て刊行済みの作品はすべて読破したことになる。

 

 

本作の主人公の遠山弥吉郎はたそがれ清兵衛と同様、剣術の腕を見込まれて上意討ちを命じられる。
清兵衛が得意としたのが、室内での戦闘に役立つ小太刀術だったのに対し、弥吉郎が修めたのは居合術だ。

二つの作品において、主人公が使う剣術以上に異なるのが、上意討ちの位置付けである。
映画『たそがれ清兵衛』における上意討ちはクライマックスのシーンで、しかも見事な立ち回りであった。

一方、『いのち買うてくれ』では、弥吉郎は上意討ちを成功させるものの、使ったのは居合術でもなんでもなく、勢いに任せた単なる奇襲だ。
しかもこの場面は序盤も序盤で、上意討ちは実のところ謀略であり、巻き込まれて無実の罪を着せられた弥吉郎が家族と共に故郷を離れて江戸へ逃げ延び、貧しい暮らしを強いられるのが本作の大筋だ。
どちらかといえば、山田洋次監督作品では『隠し剣 鬼の爪』の「謀略と権力争いに巻き込まれた下っ端」の要素の方が強い。

 

 

作品の質としては好村先生の他作品には及ばぬものの、本作は筆者の心に刺さった。
それには理由がある。

弥吉郎は江戸に逃げる前、故郷では少ないながらも禄をもらい、裕福ではなくても一応は侍としての体裁と矜持を持った暮らしをしていた。
しかし、身寄りのない江戸にあって、弥吉郎は妻子を養うために身分を偽って肉体労働で日銭を稼ぐ。
本来であれば身分が下の斡旋業者に世話になり、職場では親方や先輩に馬鹿にされる日々。
侍としては耐え難い屈辱に耐えるための心の支えは、「諦めない」という意志。ただそれだけだ。

この心情が、転職したばかりの筆者に重なったのだ。

転職は自らの意思で決めたことだし、転職先の会社のビジョンや一緒に働く上司・同僚も素晴らしい。待遇もよくなった。
それでも、使用するビジネスツールから業界知識、社風に至るまで前職とはすべてが異なり、曲がりなりにも持っていたプライドを捨てて学び直さざるを得ない気持ちは、弥吉郎のそれに通ずると感じた。

弥吉郎は、諦めない気持ちによって最後には道を切り開く。
疑いが晴れて侍としての身分を取り戻すことになるのだ。

ハッピーエンドだと言えるが、弥吉郎には「かつての輝かしい自分に戻る」のではなく、今の自分にこそ幸せを見出してほしいと思ってしまったのは、弥吉郎に感情移入し過ぎたからだろうか。

上意討ちとは、「主君の命を受けて、罪人を討つこと」(goo国語辞書より)だ。
自らの意思とは無関係に、逆らえない命令によって人を殺さなければならないという性質上、時代物のエンタメ作品には格好の題材だ。
上意討ちをテーマにした作品の中でも、本記事では映画『たそがれ清兵衛』を扱う。

正直に言って、山田洋次監督の作品はあまり得意ではなかった。
にも関わらず、最近になってPrimeビデオで本作を観賞したのは、クライマックスの立ち回りで真田広之演じる清兵衛の室内での小太刀術が見事だと、筆者の剣術の先生が教えて下さったからだ。

早送りしてクライマックスのシーンだけ観ようかとも一瞬考えたが、そこはやはり映画好きとしての矜持が許さなかったので、我慢して最初から観ることにした。

観始めてすぐに気付き、驚いたのだが、本作は普通に面白かった。
後で知ったところでは、本作は2002年に日本で劇場公開され、2004年の第76回米アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされたくらいだから当然と言えば当然であり、そもそも筆者の想定が失礼極まりないという話なのだが、それでも衝撃だった。

何と言っても、立ち回り以前に真田広之の精妙な演技が見事である。
武士としてお上の意向に逆らえず、上意討ちをすることを承諾しなくてはならない時の目線の動き。
思いを寄せる相手に結婚を持ちかけるも、相手には既に進んでいる縁談があると言われた時、夢から覚めるように徐々に下がっていく口角。

この相手役を演じるのが宮沢りえで、こちらも表情、喋り方、立ち振る舞いのすべてがとにかく愛らしい。

 

 

映像的には、清兵衛がクライマックスで戦う前に相手と対話するシーンが印象的だ。
このシーンこそ、清兵衛が上司に剣術の腕を見込まれて嫌々ながら上意討ちを行う場面だ。

相手に何の恨みも持たない清兵衛は、戦いを避けるべく説得を試みる。
そんな清兵衛に対し、相手の余吾が自らの境遇を語り始めると、二人の位置、格好が鏡写しのような状態になる。
そう、立場上は敵同士の二人でも、同じ時代を生きる武士として境遇や思いは同じで、言ってみれば鏡像関係にある。
二人の関係を視覚的に表現したのがこのシーンなのだ。

また、テーマ的には当時の日本映画としては珍しいくらい「多様性」を意識していると言える。
清兵衛は妻に先立たれ、母の世話に子育てと忙しく、身だしなみを気にする余裕もなく、お勤めが終わると遊びもせずにそそくさと帰宅する。
「たそがれ清兵衛」は、同僚達が憐み半分、揶揄半分で影で呼ぶあだ名だ。

清兵衛自身は、自分が周囲にどう思われているか、充分に承知しているが、ちっとも気にしていない。
運がいいとか悪いとか、幸か不幸かなんて自分で決めることであって、その点、子を愛し、愛する者に愛される人生を送っている清兵衛は、自分が幸せ者であるとわかっているからだ。

フェミニズム的な台詞も目立つ。
江戸時代にあっては、「女子が学問なんてやったら嫁に行くのが遅くなる」「女は健康で働き者で子供を沢山産めればいい」と言われていたが、清兵衛は自分の子には、「自分の頭で考えることを身に付ければ、何があっても大丈夫だから」と言い聞かせて学問をやらせる。

最終的に、本作に登場する女性達はいずれも「嫁に行って子供を産む」ことで幸せになった。
それ自体は悪いことではないが、女性の修学や幸福に関する男性社会の醜悪な価値観をあそこまで見せつけたのであれば、カウンターとして「学問によって自己実現した女性」を一人でも見せてほしかった。

この辺りは当時の日本映画の限界、と言いたいところだが、過去の記事にも書いた通り、近年でも完全に克服されたとは言い難いのが悲しいところだ。

 

 

最後に真田広之のアクションについてようやく触れる。

クライマックスの立ち回りは、剣術の先生がオススメするくらいだから当然のように素晴らしい。
真田広之は『ラストサムライ』『ラッシュアワー3』『ウルヴァリン:SUAMURAI』『アベンジャーズ:エンドゲーム』等、数々のハリウッド大作で見事な長物の取り扱いを見せ、2021年に至っては『モータルコンバット』で苦無と縄を使った忍者アクションまで披露しているが、小太刀術もまた美しい。

クライマックスの決着は狭い室内における小太刀の有用性を改めて思い起こさせる。
ハリウッド大作とは違った、コンパクトで味のあるアクションだ。

それ以上に、戦闘に際して清兵衛の対処が、護身術としていちいち素晴らしい。
クライマックスでも中盤のシーンでも、清兵衛は相手を倒すだけの実力を備えておきながら、戦闘を避けるべく必ず言葉で説得を試みる。
実力にしても周囲にひけらかすどころか極力隠し、卑下している。能ある鷹は爪を隠す。

また中盤、酒乱の男を相手にする時、説得を続けつつも相手が暴れる前に上腕を手で押さえている。
いよいよ相手が暴れ出した時は、力ではなく体捌きによって相手を投げ、制圧して刀を抜かせない。

筆者に本作をオススメした剣術の先生には、徒手による護身術も教えて頂いているのだが、その教えに則ると清兵衛の対応は理想的だ。
勉強になりました。

松井優征による漫画『逃げ上手の若君』は、2021年1月25日発売の週刊少年ジャンプで連載が開始した。

史実をベースにしたあらすじはこうだ。
1333年、鎌倉幕府執権の子、北条時行は足利尊氏の謀反によって国を追われる。
少年は、唯一の特技である「逃げること」によって英雄になる。

本作の魅力は、まずは普通に面白いこと、読み易いことだろう。

歴史上、北条時行の人生が、というより鎌倉幕府がどのような結末を迎えたのかは、学校で歴史の授業をちゃんと聞いていた人であれば誰でも知っている。
このように、歴史的には末路、それも悲しい末路が確定している人物が、「生身の人間」として描かれることは、否応なしに見る者の胸を熱くさせる。

類似の作品として、映画では『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』、『ゴッホ-最後の手紙-』、小説では同じく時代物の『剣豪将軍 義輝』(筆者が読んだのは徳間書店から2009年に出版された新装版上下巻)等が挙げられる。

 

また、本作のバランス感覚も見事だ。
戦乱の世には、略奪や虐殺等、凄惨な出来事がつきものだが、本作ではそれをなかったことにはせず、かといって少年誌に掲載できないほど凄惨過ぎないよう絶妙なバランスで中和されている。
言葉遣いやギャグは現代的なため、時代劇が苦手な人でも楽しむことができる。

 

 

しかし、筆者にとって本作の魅力はそれだけではない。
タイトルにも記した通り、なんといっても本作は武術・護身術的に多くの示唆を含んでいるのだ。

まず護身術的に言えば、本作のヒーロー像が持つ意義が大きい。

護身術のゴールは「敵を倒すこと」ではなく「自分が生き残ること」であり、そのためなら「逃げること」は立派な手段になる。
護身術において一番重要なのがこの思想であると言っても過言ではない。

しかし、こと少年漫画(少年誌)では、「巨大な敵に立ち向かい、勝利する」ことがストーリーの定石になっており、それによって生まれるカタルシスを読者も求めている。
そんな中、「逃げるヒーロー像」を提示して見せたことは、護身術の普及上(作者にそんな意図はないだろうが)大きな意義を持つ。

とはいえ、生き残るために逃げることが許されず、戦わなければならない場面は、現実社会においても本作においても現れる。
どうしても戦わなければならない時、「逃げること」が唯一の特技であり戦闘はからっきしの主人公が取る戦術がまた素晴らしい。

例えば、敵との一対一の斬り合いで、敵が決まった距離まで接近したら「逃げる」=「引く」動きで斬る。
複数の敵を相手にした時は、馬に乗って逃げ回りつつ、主人公から見て敵が特定の角度に位置した時に弓で射る。

これらはいずれも「逃げること」=得意分野を最大限に生かした戦い方である。
同時に、「こうなったらこうする」というように動きがルール化されており、且つ単純な動きしかしていないため、比較的簡単に身に付き、使える技である(「簡単に身に付くこと」「簡単に使えること」も護身術において重要な要素だ)。

つまり、「才能」「体格」「経験」の差を覆し得る唯一の戦い方なのだ。
筆者の敬愛するラップグループ、RHYMESTERの『K.U.F.U.』の一節を引用するならば、「持ってる奴に持ってない奴がたまには勝つ唯一の秘訣」だ。

更に、武術的に見れば、「引く」動きで斬るだとか、その際に体を捻らず上半身と下半身がしっかり同じ方向を向いているだとか、なかなか正確に描かれている。
しかも、斬る箇所が敵の内小手=鎧がカバーしていない箇所であることや、馬や弓矢の使い方に至るまで、この時代の戦い方の歴史考証としても正確だ。
そのことはとりもなおさず、主人公の身体運用、戦略が合理的であることを意味している。

極め付きは、主人公が使う剣術が菩薩像の「拝む」ポーズからインスパイアされて生まれる描写だ。
もちろんフィクションだが、実際のところ、仏像が取っているポーズには、武術的な=合理的な身体運用上の意味を見出すことができる。
例えば、仁王像の腕は伸筋(古流剣術等で使う筋肉)が活きた状態であり、千手観音像は腕が絶えず変化して、「居着く」ことを避けていると解釈できる。

松井優征は前作『暗殺教室』でも、師を「超える」=「殺す」という極めて武術的なテーマを取り扱っていたが、仏像と武術を結び付けるとは、やはり武術(合理的身体運用)に関して非常に鋭い感性、深い理解を持っているのだろう。

連載開始から1年も経過していないためストーリー的には序盤だが、純粋な漫画としても武術・護身術のバイブルとしても既にこれほど楽しめる。
史実を鑑みれば、今後の展開には更に期待できる。

※『暗殺教室』と武術の関係は以下に詳しい。
内田樹・光岡英稔『生存教室-ディストピアを生き抜くために-』集英社文庫(2016)

 

 

2021年8月13日公開の『ドント・ブリーズ2』は、タイトルから明らかな通り2016年に公開されたホラー映画『ドント・ブリーズ』の続編だ。

前作では、若者達が盲目の老人の家に強盗に入るが、逆にひどい目に遭わされる。
『2』の舞台はその8年後。
老人は一人の少女を大切に、しかし一方では束縛して育てていた。
そこを謎の武装集団に襲われ、少女を誘拐された老人は、彼女を取り戻すべく武装集団のアジトに乗り込む。

前作の魅力は老人が盲目でありながら並外れた聴力と戦闘技術、執念で若者達を返り討ちにする恐ろしさにあった。
したがって『2』のあらすじを公開前に読んだ時は、老人の執念の裏にある秘密が前作で既に明かされていることや、目が見えないのに敵の「アジトに乗り込む」という一見無茶な展開から、「わざわざ続編をやる意味があるのか」と思った。

しかし、観賞するとその考えは一変する。
『2』は続編として、しっかり前作の先を行っていた。

 

 

前作同様、老人が戦闘時に視覚以外の情報で敵の位置を探るアイデアは見事である。
水浸しの地面に横たわり、敵が水に足を踏み入れることでできる波紋を手で感じ取るシーンや、敵に「鈴を飲み込ませる」という恐ろしいシーンなどがそれに当たる。

『2』では更に、戦闘における勝利の理由付け、一つ一つのアクションの意味付けが素晴らしい。

例えば、少女を誘拐された老人が敵のアジトに辿り着くための方法という、あらすじを読んだ時に感じた一番大きな謎は、生き物の命を大切にする者としない者、それぞれが相応の報いを受けた結果だ。

また、敵のアジトに乗り込んだ老人は、多勢に無勢でさすがに危うい場面を迎えるが、敵側の内部分裂(二度起こる)によってそれを逃れる。
これも偶然の産物ではなく、間違ったことをする人間に人は付いて行かない、金で買える忠誠には限度があるという理由付けがしっかり描かれている。

老人が育てている少女も、「誘拐される」「取り戻される」だけでなく、自ら能動的に行動を起こしているのもいい。

終盤、彼女が鉈を振るうアクションは、産みの親という「呪縛」から自らを解き放ち、自分の人生を自分で選ぶことを視覚化した動きだ。

老人は彼女を「フェニックス」と呼んでいるが、燃え尽きても灰の中から蘇る不死鳥の名前は、「再生」や「永遠」を連想させる。
その名前を誰が、どんな思いを込めて付けたのか、そして彼女がその名を自ら名乗るという「アクション」にはどんな意味があるのか。
武装集団や少女の正体という本作の謎とも密接に関係する見事な演出である。

過去の記事で、映画『透明人間』と1作目の『ドント・ブリーズ』を引き合いに出し、敵の姿が見えなくても生き残る術として視覚以外の情報を用いること、そもそも肉体の鍛錬が重要であることを書いた。

 

 

『ドント・ブリーズ2』で筆者が得た教訓は更にその先にある。
言葉にしてしまえば単純だが、生き残るには日頃の心がけ、行いが大事ということだ。

本作を観賞した後、知人と会う用事があったのだが、偶然にもその方が前日に遭遇した出来事もそれを物語っている。

深夜3時頃にふと目が覚め、横を見たら高齢の女性が何かを語りかけていたそうだ。
意味不明の状況を前にパニックになりそうなのを必死で堪え、その女性が近所に住む独居老人であることに気付き、家まで送り返したのだという。

女性は前々から認知症の疑いがあり、深夜に徘徊していたところ、たまたま知人の家の鍵が開いており、自宅だと思って入ったものの、間違いに気付いて知人に助けを求めていたと思われる。

その知人は武術、格闘技の経験が豊富で、体格もいい男性であるため、仮に女性のことを強盗と勘違いして攻撃していたらとんでもないことになっていただろう。

肉体的には生き残っても、社会的には間違いなく「死」を迎える結果になる。
この話を一緒に聞いていた別の知人は、「もし幽霊だったら怖いから自分なら気付いても二度寝する」と言っていたが、その対応では相手が幽霊以外、すなわち強盗や認知症患者であった場合に問題だ。

そう考えると、常日頃から近所の住民について把握し、深夜に想定外の状況に直面しても瞬時に、正確に状況を認識して冷静に対応した知人の対応は見事だ。
強いって、こういうことだ。
まあ、深夜3時に目が覚めたのは酒を飲み過ぎて眠りが浅かったためらしく、酔って家の鍵を閉め忘れるという不用心をやらかしているのも事実だが。

筆者も2年ほど前から護身術の道場に通っているが、熱中し出すとどこまでも凝ってしまう性分に加えて、昨今の情勢や事件の報道を見るにつけ、現在では刑事関係法規や犯罪論にまで関心の範囲が広がり、知識の習得に励んでいる。

過酷な世界で生きるには、肉体、頭脳、精神、いずれも満遍なく鍛えなければならないと思うのだ。

2021年6月11日公開の映画『キャラクター』は、今時珍しい完全オリジナルストーリーという点に惹かれて観賞した。

菅田将暉演じる主人公の山城は漫画家の卵(公式サイトには「売れない漫画家」とあるが、ストーリー序盤の時点ではコンテスト入選経験はあるもののデビューはしていないので「漫画家の卵」がより正確だろう)。
自身がアシスタントを務めるベテラン漫画家・本庄の頼み(命令)で一軒家のスケッチに行くと、そこで一家殺人事件に遭遇し、犯人の顔も目にする。
その事件、犯人=連続殺人鬼をモデルに描いた漫画が大ヒットしたことで山城の運命が大きく狂い始めるというストーリーだ。

まず冒頭、ボサボサの長髪、アパートの一室で絵(漫画)を描くことに熱中し、おっとりした喋り方の山城は、同じく菅田将暉が『花束みたいな恋をした』で演じた麦くんを否応なしに彷彿とさせる。
麦くんも絵を描くことが好きで、フリーランスのイラストレーターとして活動するも、現実社会でもフリーランスが直面する待遇の悪さ故に挫折する。
『キャラクター』は、麦くんがこんな形であれ好きなことで成功していたら、というアナザーストーリーとして観ずにはいられない。

 

 

山城は自分の作品を出版社に持ち込む(編集者が時間を作って見てくれるところまで漕ぎ着けたのは極めて幸運だろう)が、画力を褒められる一方で「キャラクターが立っていない」ためヒットは難しいと言われてしまう。
その際、編集者は「原作モノならイケるかとも思ったんだけど...」という言葉を口にする。
この言葉、制作陣の思いが反映されている気がしてならない。
現在の映画業界では、公開される作品は漫画等の映画化、すなわち原作モノか、過去の作品のリメイクやリブートが大半で、冒頭述べたように本作のような完全オリジナルストーリーは極めて珍しい。
したがって、このシーン以降の山城の心情は、本作の制作陣のそれと重なって見えてきて熱くなる。

さて、失意のうちに出版社を出た山城は、アシスタントの仕事のため本庄のスタジオを訪れ、編集者との面談の結果を報告する。
漫画の師匠でもある本庄の分析では、サスペンスを描こうとする山城がデビューできない原因は、「いい奴だから作品の肝となる悪い人物が描けない」ことだ。

しかし、この原因分析には大いに疑問を感じる。
確かに、山城は周囲のことを気遣って行動する「いい奴」ではあるのだが(これも麦くんとの共通点)、それは「悪い人物」を描けない理由になるのだろうか。
悪い人物を描くクリエイターの多くは、方法はどうあれ綿密な取材等を行うから描けるのであって、自身が悪い奴だから描ける訳ではないだろう。

むしろ、「いい奴」であればあるほど他者の気持ちに対する共感能力が高いはずだから、自分とは正反対の「悪い人物」を取材した時の理解力も高そうなものだ。
本庄の分析は作品やキャラクター描写のリアリティとクリエイターの人間性に関する誤った固定観念を強化しているように見える。

ともあれ、本作では「いい奴」で画力の高い山城と、山城にはない要素=「悪さ」を持っている殺人鬼との共作関係が生まれ、本庄の分析を裏付ける形で作品がヒットする。
売れっ子作家としての地位と豪邸を手に入れた山城だったが、次第に良心の呵責、何より自身や恋人の身に危険が迫ったことに耐えきれなくなり、殺人鬼と袂を分かつことを決意する。

そして警察に殺人鬼を逮捕させるために山城が取る行動が、「漫画を描き始めること」というのはかなり好感が持てる。

そう。
実は山城にとっては殺人鬼の逮捕だけでは不充分で、漫画家として「キャラクターを立てられない」、「悪い人物が描けない」というコンプレックスを克服する必要があるが、その方法は自前のアイデアと取材の成果(仕事部屋は壁一面を資料が埋め尽くしている)でキャラクターを立て、それによって山城にとっての殺人鬼の存在の「必要性」を消滅させることをおいて他にない。
それは殺人鬼を逮捕する上で、警察を始め周囲の人々が漫画家としての山城に期待する重要な役割でもある。

このように、殺人鬼の逮捕劇というクライマックスのアクションシーンと、主人公のコンプレックスの解消が同時に走り始めるのは名作の条件だ。
「いい奴には悪い人物は描けない」という固定観念すら覆してくれることを期待せずにはいられなくなる。

 

 

しかし残念なことに、本作のアクションシーンは主人公のコンプレックスの解消を置き去りにして決着してしまった。
山城は、見え透いた「謀略」、「偶然」の要素、警察の援助や介入がなければどうなっていたのかという「暴力」によって、目先の問題の解決、すなわち殺人鬼の逮捕を実現したに過ぎない。
実際、一連の事件の後で主人公、山城が漫画家として、人間としてどう成長したのかは描かれていない(恐らく成長はしていない)。

実は、偶然の要素に頼り過ぎなのは殺人鬼も同じことで、特に2件目の殺人では顕著だが、連続殺人を完遂し逮捕もされずにいるのは偶然としか言いようがない。
小栗旬演じる清田刑事がその点に気付くが結局はうやむやのままだ。

また、クライマックスの暴力の応酬の際のみ目立った活躍をした警察にしても、もっと早くから山城の漫画に注目するなり、殺人鬼が映った防犯カメラの映像から潜伏先を絞り込むなり、色々できたはずなのにあまりにも杜撰な仕事ぶりだ。
殺人事件と山城の漫画の関係に気付いていた清田刑事ですら、街中であれほど重要な人物から声をかけられたのにも関わらず、それと気付かずに首を傾げて立ち去ろうとするのは頂けない。

更に、クライマックスではいくつかの伏線が回収され、特に「ベビーベッド」の件は見事だと思うが、「山城の実家における違和感」の方は、伏線回収が上手くいっているように見えて、母と妹は立場を利用されるだけ利用されたこと、否、利用される存在ですらなかったこと故に決意の重みは水泡に帰し、まったく報われないという点で実はあまりに残酷な話だ。

クライマックスや清田刑事に言及したついでに触れるのであれば、清田刑事の上司にして相棒の真壁(中村獅童)、山城の恋人にしてその子供を身籠っている河瀬(高畑充希)が、それぞれ引き立て役以上の役割を果たしておらず、それこそ「キャラクターが立って」いないことも、俳優陣の演技が素晴らしいだけに残念なところ。
特に河瀬の方は、恋人が他者に対して凄惨な暴力を振るい、振るわれるのを目の当たりにし、自身もその暴力の被害者となったのに、その後も山城と一緒にいる生活を同じように幸福に過ごせるのが不思議なくらいだ。
山城と一緒にいる以外にも幸福な人生の選択肢はあると思うが。

以上、期待に胸を膨らませて観賞した『キャラクター』は、期待を加速させる場面もあったものの、中途半端な形で終わってしまって残念だ。
しかし、過去の記事で絶賛した『ある用務員』ほどではないにせよ、オリジナルの企画でこれほどのエンターテイメント作品が作られたことについては、素直に敬意を表する。