基本的に、映画でも小説でもブログでは好きな作品、好きな要素について書いている。
そもそも作品に触れるきっかけはそれが好きそう、面白そうと思うからであって、そうでない作品に触れることは少ない。

結果的に好きではなかった、面白くなかったものは文章にしても楽しくないから、すぐに忘れるか酒席の笑い話にして終わらせてしまう。

しかし、時にそれだけで済ませてはいけないと思う作品もある。
本記事ではそんな映画作品、それも邦画について書く。

好きなまたは面白い邦画については過去の記事でも度々触れたが、日本社会に生きる者として、問題のある作品から目を背けてはならないと思う。
いずれの作品も、公開年を改めて調べてみると大昔という訳ではなく最近だから尚更だ。

問題というのは作品として不出来であるとか、面白くないとかいったことではない。
むしろ、豪華な俳優陣が出演していて見た目の上で豪華だったり、感動するストーリーであったりする場合が多い。

 

 

1作目は『長いお別れ』(2019年公開)。
厳格だった父(山崎努)が認知症になったことをきっかけに、竹内結子演じる長女、蒼井優演じる次女が帰省し、家族、そして各々の人生と向き合うことになる。

一見すると感動的な話なのだが、この作品はとにかく女性の描き方がひどい。
「男は男であるという点だけで価値があり、女は男に愛されることを以てしか価値を持たない」と言わんばかりなのだ。

長女は自分に無関心な夫や反抗的な息子との関係で悩むが、最終的に夫や息子と仲良く過ごせるようになることで幸せになる。
女が幸せになるには他の手段はないとでもいうように。

レストランの経営を夢見る次女は、キッチンカーを始めるもすぐに失敗。
その後、中村倫也演じる男友達といい感じになり、彼の実家の食堂で働き始めるとその母から結婚と店を継ぐことを勧められるも、東日本大震災を機に彼が離婚した妻、子とよりを戻したことにより、その道が断たれて初めて本格的に悲嘆にくれる。
そもそもキッチンカーが失敗した理由にしても、メニューやトッピングが理解不能なレベルでわかり難いことや、彼女の料理を食べて「おいしい」と感激する人があまり登場しないことから察するに味が大したことないという根本的な原因があるはずなのだが、そこには誰も触れず、女が夢を叶える手段は結婚以外存在しないかのように、女が落ち込むのは「男にフラれた時」だけのように語られる。

 

その一方で、元教師の父が通行人を生徒だと思ってキッチンカーの前で整列させようとすると、皆面白がって簡単に繁盛してしまう様子は、次女の夢の重みを減じるばかりか、認知症描写としてもいかがなものか。

二人して不思議なのが、認知症で日常的な会話や生活すら危うくなっている父にしか悩み事を相談しないことだ。
たまたま教訓めいたことを言われたり、「父の愛」を感じたりすることによって解決するが、女は父がいなければ人生の困難を乗り越えられないとでも言いたいのか。

 

 

女性の描き方がひどい作品は他にもある。
『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』(2019年)がまさにそうだ。
本作では仕事一筋だった岩元暁(吉田鋼太郎)が会社を辞め、オンラインゲームを通してそうとは知らずに息子のアキオ(坂口健太郎)と向き合う。

ついでのように娘の美樹(山本舞香)とも向き合い、彼女が芸人と交際することをしぶしぶ認めるのだが、この話の中で報われない人物が一人だけいる。
それはアキオ、美樹の母であり、他でもない暁の妻である由紀子(財前直見)だ。
由紀子は家庭を顧みない暁を献身的に支え、家事も育児も立派にやり遂げたのに、暁は念願の役員就任=収入アップを前にして何の相談もなしに会社を辞めてしまう。
時間ができても恩返しをするでもなく、日がな一日中ゲームをしている。
由紀子が一度だけキレる場面もコミカルだ。

 

 

『今日も嫌がらせ弁当』(2019年)でも、反抗期の娘(芳根京子)に対し、シングルマザー(篠原涼子)が毎日「嫌がらせ弁当」を作るのだが、病気で倒れても病院を抜け出し、うまく動かない体に鞭打ってまで作る様は常軌を逸している。

上記のいずれも実話がベースの作品なので全面的に批判するのは躊躇われるが、問題は映画の作り手がはっきり「感動させる」という意図を持っていることだ。

しかし、母とは、妻であることとは、これほどまでに自分を犠牲にしなければならないのか。
これが日本社会の女性観、母性観、結婚観なのだろうか。
それほどまでして第三者が得る「感動」とは、一体どれだけ尊いものなのか。

堀越英美『不道徳お母さん講座-私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか-』(河出書房新社(2018))を読めば、「母性」「自己犠牲」「感動」というものの危うさはよくわかる。

 

 

現実の日本社会では、女性、母親、妻のみならず、多くの立場の人間が生き辛い。
その中でも、LGBTQの生き辛さを感じさせるのが大泉洋主演の『探偵はBARにいる』シリーズだ。
1作目が2011年、2作目が2013年、3作目が2017年に公開されている。

3作を通して、登場人物の目的、作品のメッセージや演出の意図が、登場人物の行動、演出内容とまったく嚙み合っていなかったり、時に真逆であったりするのだが、それとは別に通底するノイズがLGBTQの描き方だ。

主人公の探偵が度々情報源とする記者の松尾(田口トモロヲ)は、公式サイトによれば「結婚して子供もいるが、実は隠れゲイ」。

この松尾に対し、探偵が情報を得るために胸を揉んで気持ちよくさせようとする描写は下品極まりない。
また、探偵に情報を与えた松尾は、「一晩付き合ってもらう」と意味深なことを言って所謂「オネエバー」のようなところに探偵を連れて行ったり、自らの語尾が時に「オネエ」口調になったりする。

所謂「オネエ」というものの最小公倍数的な要素は、筆者が考えるに「女装」であって、必ずしもゲイやトランスジェンダーとは限らない。

それを本シリーズでは、ゲイもトランスジェンダーも女装も一緒くたにし、尚且つ見下しているようだ。
あろうことか2作目では事件の背景にLGBTQ差別が置かれる。
事件の犯人と映画の作り手、そして本作を面白がっている観客の間には果たしてどれくらいの距離があるのか。

 

 

最後にして最新が『ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~』(2021年)だ。
本作については劇場で予告編を何度も目にし、その度に違和感を持っていた。

長野オリンピック・ラージヒル(スキージャンプ)団体で日本代表チームは初の金メダルを狙うのだが、悪天候による競技中断という壁が立ちはだかる。
審判団は「25人のテストジャンパー全員が無事に飛べたら競技を再開する」という条件を出し、テストジャンパー達は「競技を再開させるために何としても無事に飛ぶ」と決意する。
普通に考えて、理屈が逆転しているではないか。
テストジャンパーが飛ぶ時点では安全は全く保証されていないが、それでも彼等は日本の金メダル、日本の悲願のために「ヒノマルソウル」を胸に飛ぶ。

勝算のない太平洋戦争で、「大和魂」を胸に秘め、「お国のため」に尊い命を落とした特攻隊と何が違うのか。
作り手はそんな悲劇をまた繰り返したいのか。

 

 

本来、不快になるとわかっている作品は観る気がしないが、それでも「もし作り手にも言い分があるなら」と考えて劇場に足を運んだ。
しかし、残念ながら予告編を見て思ったことは覆されはしなかった。

描かれていたのは、日頃からテストジャンパー達が不必要な負担を強いられていたことだ。
毎日、宿舎から走って現場入りし、テストジャンプによって滑走路の溝に積もった雪を除去する。

現場まで走らなければならない必然的な理由はなく、溝に積もった雪にしたって他の手段では技術的に除去できないのだろうか。
この苦労話を感動への助走として描かないでほしい。

先述の長野オリンピックの場面はクライマックスになるのだが、「危険だからやめるべきだ」という主人公(田中圭)の真っ当な意見は、「縁の下の力持ち=舞台裏の英雄の尊さ」「オリンピックの舞台に立つという夢を叶えること」「トラウマやハンディキャップを乗り越えること」という周囲の人物の美談によってすり替えられ、かき消されて最後にはやらざるを得ない状況に置かれる。
そこにあるのは強烈な同調圧力だ。
あの状況で主人公が自らの主張を貫き通していたら、「非国民」と非難されたことだろう。

結果的に25人のテストジャンプはすべて成功し、日本代表チームは金メダルを取ってめでたしめでたしと終わるが、天候自体は少しも改善していないのだから、その要因は「運」や「気合」以上でも以下でもない。
やはり作り手は特攻を奨励しているのだろうか。

筆者は「感動」という概念が嫌いだ。
なぜならその美名の下にあらゆる不合理を覆い隠す機能があるからだ。

アクション映画が好きだ。
シリーズもの、特に3部作が好きだ。

近年では、3部作くらいの「ちょうどいい」アクション映画が少ないように思える。
映画作家が苦心して作り上げる作品は1作で完結してしまったり、人気が出たら出たで4作目、5作目の構想がすぐに発表されてしまったりする。

そんな訳で、2021年に日本公開されたアクション映画を勝手に「3部作」として観ることにした。
ストーリーや登場人物にはまったく繋がりはない。
それぞれ、好きな女優の主演、好きな監督の制作、好きなチームの制作というだけだが、4月、5月、6月と順々に公開された。

1作目は『AVA/エヴァ』。
主人公の女暗殺者エヴァを演じたジェシカ・チャステインが大好きな女優だ。

 

 

2013年の『欲望のバージニア』、『ゼロ・ダーク・サーティ』、2014年の『インターステラー』、2017年の『女神の見えざる手』、2019年の『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』等々(年はいずれも日本公開年、以下同)。
定期的に良作に出演しては、その度に絶妙な存在感を放っている。

『AVA/エヴァ』でも存在感は確かだが、作品としての出来がイマイチなのが残念なところ。

本記事ではいずれもストーリーの詳述はしないので、気になった点だけを挙げていくと、まずは格闘シーンの嘘っぽさだ。

エヴァは敵の男を次々と殴り倒したり投げ飛ばしたりするのだが、演じるジェシカ・チャステインが細身なだけに相手とは圧倒的な体格差があり、この描写には非常に無理がある。
『アトミック・ブロンド』におけるシャーリーズ・セロン、MCUにおけるスカーレット・ヨハンソン等、体格差を前提としたアクションを期待していたのだが。

他にも、ナイフを持った敵の攻撃を老人が反射神経で躱す等、無理な描写が多い。
筆者は大人の体格になってから殴り合いの喧嘩はしたことがないが、護身術の道場に通うようになって取っ組み合いや対刃物技法の訓練をしており、人を投げ飛ばしたりナイフをさばいたりするのがいかに大変か知ったため、このような描写には厳しくなっている。
そうでなくても本作では純粋に映画として物語展開上の無駄やご都合主義が多いが。

2作目は『ジェントルメン』。
2001年の『スナッチ』、2009年の『シャーロック・ホームズ』(及び続編)、2015年の『コードネーム U.N.C.L.E.』等、これまた定期的に筆者が好きになる作品を撮っているガイ・リッチーの最新作だ。

 

 

本作を一言で表すならば、千鳥のノブの言うところの「クセがスゴい」。
ガイ・リッチーの独特な作風が全開で、それに慣れている人、好きな人であれば(素晴らしく面白いとは思わないにしても)間違いなく楽しめるだろう。
二郎系ラーメンのようなものだ。
また、作中に登場するギャング集団Toddlersによる挑発PVのダサカッコよさ、それこそ体格や身体能力に恵まれた者の格闘シーンは見ていて気持ちがいい。

 

最後は『Mr. ノーバディ』。
『ジョン・ウィック』の脚本家デレク・コルスタッドと、制作のデビッド・リーチによるタッグ作品だ。

 

 

ジョン・ウィック同様、地味な主人公があることをきっかけにかつての(本来の)自分を取り戻し、敵を片っ端から殺していく。

ジョン・ウィックにとっての「きっかけ」が飼い犬を殺されたことなら、『Mr. ノーバディ』の主人公ハッチにとってのそれは娘が大事にしていた猫ちゃんのブレスレットが、家に強盗が入った日を境になくなったことだ。

元戦闘員のハッチは、「普通」の生活を守るために強盗を撃退できたにも関わらずあえてしなかった。
それによって家族や近隣住民からは軽蔑される(少し年配の警官等、暴力を振るわなかったことを素直に褒めてくれる人もいる)が、強盗への復讐を決意させたのはこのブレスレットだ。

しかし、とある理由で復讐を果たせず、その腹いせのようにバスに乗り合わせたチンピラ達をぶちのめす。
それがきっかけでロシア・マフィアに目を付けられると、そいつを「悪い奴」と決めつけて殲滅してしまう。

しかも、復讐のきっかけとなったブレスレットは、物語中盤でソファの下からひょっこり出てくる。
つまり、主人公を暴力の世界に呼び戻したきっかけはそもそも勘違いだったのだ。

 

 

思えば『ジョン・ウィック』シリーズでも、観ていて面白いが物語としては特に進んでいないことがある。
それもご愛嬌だ。

このように、作品単体としての出来はともかく、自分なりに関連付けて映画を観るのは楽しいものだ。

漫画原作のアニメ『カペタ』は2005年にテレビ放映された。
あまり裕福ではない父子家庭の子、小学4年生の平 勝平太(たいら かっぺいた、通称カペタ)が、父が廃品から手作りしたカートでレースの才覚を見せ、資金力や知識がないながらも父や友人の支えもあって成り上がっていく熱い話だ。

本作ではストーリーが進むにつれて登場人物達が年を取る。
同時に、戦いの舞台が現実のモータースポーツ選手よろしくカートからフォーミュラ、とステップアップしてく。

アニメでは、第1話から第14話までがカートの世界を舞台にしており、終盤でカペタは公式戦に挑戦する。

公式戦の本命は名門チーム、オートハウスレーシングのタケシとイサム。
マシンの性能も、レースの経験も、練習環境やバックアップ体制にも圧倒的な差がある中、カペタは抜群のセンスで初めての公式戦で優勝する。
成り上がりストーリーとして最高のカタルシスだが、負けたタケシとイサムがその後どうなるのかも実は面白い。

 

 

オートハウスレーシングにおいて、タケシはファーストドライバー、イサムはセカンドドライバーを務める。
現実のモータースポーツ同様、タケシが勝利を狙う役割、イサムはそれをサポートする役割という風に分業されているのだ。

カペタが挑んだ公式戦でも、タケシが1位、イサムが2位というオートハウスレーシングがトップを独占するレース展開だったが、カペタは後ろから猛烈に追い上げ、遂に3位にまで浮上。
オートハウスレーシングは、戦略通りセカンドドライバーのイサムにカペタをブロックさせようとする。

すると、イサムのラップタイムがどんどん短くなり、それに伴ってイサムはカペタと共に1位のタケシに肉薄する。

それもそのはず。
カペタをブロックしようとするイサムは当然、猛烈な追い上げをかけるカペタの前を走らなければならないのだから、カペタに突き上げられる形でタケシに迫る結果になったのだ。

1位、2位、3位が団子状態の最終ラップで、3位のカペタはいよいよ2位のイサムを抜こうとする。
それをブロックしようとしたイサムはタケシとクラッシュし、その間隙を縫ってトップに躍り出たカペタが優勝することになった。

この敗北はイサムにとって忘れがたい経験となった。

それまで、セカンドドライバーとしての役割に専念し、自らが1位を目指すことのなかったイサムの目の前には、いつもタケシの背中があった。
しかし、自分を抜こうとするカペタをブロックするためにコースを変えたイサムは、一瞬ではあるが、前を走るタケシの更にその前の景色を図らずも垣間見た。

そこには誰の背中もない。
1位の人間だけが目にすることのできる、輝かしい景色だった。

恍惚とするイサムと、敗北をイサムのせいにして憤慨するタケシ。
時が経ち、カペタが中学生になった時点では、ライバルたり得る存在としてタケシの姿は既になく、カートを続けていたのはイサムの方だった。

1位の景色がセカンドドライバーだった少年に成長を促したのだ。

 

 

2005年に放映されたドラマ『エンジン』において、木村拓哉が演じた主人公の次郎もまたレーサーだ。
日本国内で活躍した後、海外に拠点を移すも成績は振るわず。
英語がわからず、チームメイトとも上手くいかない中、チームのファーストドライバーに責め立てられる。
何を言っているのかよくわからないが、セカンドドライバーという言葉だけが聞き取れた次郎はファーストドライバーを殴って解雇され、日本に戻って来るところから物語は始まる。

ドラマ『プライド』(2004年)では、同じく木村拓哉が演じた主人公ハルは実業団アイスホッケーチームのキャプテンにして傲慢なエースだ。
ほとんど木村拓哉そのままと言っていい(ちなみに筆者は地球上にヒュー・ジャックマン以上に格好いい男は木村拓哉のみだと考えているので、この言葉は当然誉め言葉だ)。
または、『エンジン』の次郎も海外に行く前、日本でレースをしていた頃はこんな感じだったのだろうと思わせる。

ハルはホッケーに対して極めてストイックで、自分だけでなく他人に対しても厳しい。
第3話では、チームのムードメーカーである真琴(佐藤隆太)の言葉に激怒し、怒鳴りつけ殴りつける。

後に、ハルは恋仲の亜樹(演じたのは2020年に亡くなられた竹内結子)に理由を語る。
一番を目指そうともしないで、「自分らしさ」を口にする人間に我慢がならないのだと。

誰もがハルように一番になれる訳じゃない、という亜樹の言葉に対し、重ねて言う。
それでも、「自分らしさ」とは、一番を目指した人間が最後の最後に口にしていい言葉であると。
自分らしさもまた、1位を目指すことで見える景色なのだ。

 

 

さて、ドラマの放映当時に大ヒットしていた曲の歌詞に、こんな一節がある。
「ナンバーワンにならなくてもいい」
曲名は「世界に一つだけの花」。
歌っていたのは他でもないSMAPだ。

2003年にシングルとしてリリースされると、記録的なセールスを叩き出すと共に、時代を代表する名曲として不動の地位を確立した。
同時に、価値相対主義的な歌詞の内容が批判を呼んだことも事実だ。

木村拓哉は、リリースからわずか1年後に放映されたドラマの中で、同曲に対して自ら強烈なカウンターを打ったことになる。

検事が主人公のドラマ『HERO』と、映画『検察側の罪人』の両方で主演を務めていることといい、所謂「大衆受け」とそれに対するアンチテーゼの両方を成し得るのが木村拓哉の木村拓哉たる所以である。

余談になるが、本記事を書くに当たり、探したものの見つからなかったインタビュー映像がある。
筆者の記憶では、『プライド』放送開始前の出演者インタビューで、インタビュアーが最後の質問として「あなたにとって、プライドとは?」という質問をしていたと思う。

それに対し、これも筆者の記憶では主演の木村拓哉は「自分自身」、ヒロインの亜樹を演じた竹内結子は「自分自身に勝つこと」と答えた。
記憶違いの可能性も否定できないが、別室のインタビューにも関わらず、メインキャストの2人が共通認識を持っていることに感動した覚えがある。

たとえ記憶違いだったとしても、プライドの定義として「自分自身」、「自分自身に勝つこと」以上に的確な答えに、筆者は未だ出会ったことがない。

幼少期はほとんど読書の習慣がないばかりか、読書は嫌いであった。
ただ、ハリー・ポッターシリーズだけは、文字通り寝食を忘れるほど好んで読んだ。

それにしても、周囲よりは遅いスタートだ。
1作目の『ハリー・ポッターと賢者の石』の日本語版が刊行されたのは1999年。
それ以降、約1年毎に新作が出版されているが、当時小学生だった筆者は、「朝の読書」の時間に同級生が軒並み最新作を読んでいるところ、大して興味もない(と言ったら失礼だが)松井秀喜の自伝をあえて読んでいた。ひねくれたものだ。

読み始めたのは3作目の『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』からだ。
日本では2001年に劇場公開となった1作目、2002年の2作目『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の映画版があまりにも衝撃的で、読書嫌いの当時の筆者ですら原作を手に取った。
それ以降、最新刊は毎回購入したが、一方で映画の方はあまり楽しみには観なくなった。

原作にも、特に後半の主要なテーマであったはずの差別の問題が最後まで根本的に解決されていないことや、毎回新しい設定が出てきてそれ以前の設定と矛盾したり、新しい設定がいきなり物語の進行に深く関わって後出しじゃんけんをされた気分になったりすること等、問題がない訳ではない。
なので「原作のファンとして映画版に怒る」というような話ではなく、単に原作こそが自分にとってのハリー・ポッターシリーズになったというだけだ。

まあ映画ファンとしては、楽しみに観なくなった背景には1作目、2作目の監督であるクリス・コロンバスが作り上げた世界、この2作でダンブルドア校長を演じたリチャード・ハリスのハマりっぷりがあまりにも素晴らしく、その印象が強過ぎて3作目以降の監督交代※、リチャード・ハリスの逝去による俳優の交代についていけなかったという月並みな理由もあるのだが。
※原作の3作目は人生で初めて寝食を忘れるという読書の世界に筆者を引きずり込んだのだが、改めて調べると映画版の3作目の監督は『ゼロ・グラビティ』、『ROMA/ローマ』のアルフォンソ・キュアロンで、筆者を配信サービスの沼に引きずり込んだ張本人なので驚いた。

 

 

 

さて、筆者が考える映画版のハリー・ポッターの魅力は、『スター・ウォーズ』シリーズ等でもお馴染み、映画音楽の最重要人物ジョン・ウィリアムズによる音楽と、小道具の数々だ。

原作に登場する独特な「魔法道具」を、時に大胆にアレンジして描いているのが映画版だ。
最たるものが箒と杖だろう。

ハリーが最初に手にする、当時の最高性能箒であるニンバス2000、後にクィディッチ(箒を使う魔法界のスポーツ)のライバルのスリザリン・チームが手に入れる上位機種のニンバス2001は形状、質感、色味いずれも絶品で、原作の描写とは異なる、または原作にはないアレンジが成功している。

一方、3作目に登場する世界最高峰のファイアボルトは、映画版ではスマート路線で造形された上記の箒よりも性能が優れているにも関わらずデザインがかなり無骨で、映像化を楽しみにしていただけに残念な例である。

杖の方は、魔法界の住人は杖なしでは魔法が使えず、また魔法が仕事や家事、敵との戦闘の手段でもあるので、まさしく生きる糧だ。

ただ、原作ではあまり造形についての描写はない。
せいぜい材質と長さ、太さ(と芯に入っているもの)が描かれるくらいだが、映画版では例外なく柄が付いている。
また、見た目から判断するに、小説で描かれるよりいずれも数センチ長いのが特徴的である。

原作からのアレンジが一番大きいのはルシウス・マルフォイの杖だろう。

ルシウス・マルフォイは魔法界の名家の当主で、政府の高級役人であると同時に、「闇の帝王」ヴォルデモートの部下という裏の顔を持つ。

映画版のルシウス・マルフォイはステッキを付いており、ステッキの持ち手には闇の魔術との関りが深い蛇の装飾が施されている。
この装飾を持って引っこ抜くことで、座頭市よろしくステッキに仕込まれた魔法杖が出てくるのだ。
持ち手の蛇の装飾も、仕込杖であることも、原作にはない描写だ。

 

 

ルシウス・マルフォイはシリーズ終盤、ヴォルデモートの部下として致命的なミスをやらかしてその信頼を失う。
しかも、他の部下達がクーデターによって事実上政府を乗っ取り、表の顔である役人としての地位も落ちる。

ある理由で自分の杖が気に入らなくなったヴォルデモートは、役立たずとなったルシウス・マルフォイから杖を取り上げる。
邪魔とばかりに蛇の装飾を取り外すヴォルデモート。
それまでは常に自らの地位を鼻にかけて高慢な態度を崩さず、妻子に対しては厳格なルシウス・マルフォイだったが、装飾が外れる音に驚き、怯えた反応をする。
他の部下達、妻子の目の前でだ。

この瞬間、名家の当主、厳格な父にして夫、高級役人、ヴォルデモートの部下というルシウス・マルフォイの持てるすべての地位が失墜した。

先に、杖は仕事や戦闘の手段であり、生きる糧であると書いたが、このシーンはまさにそれを奪われるシーンであり、杖の形状も相まって「去勢」そのものだ。
つまり、原作においても杖は男根のメタファーとしての機能を果たしていたが、このシーンでは映画ならではのアレンジによって一層際立っている。

『ハリー・ポッター』シリーズの前を描くスピンオフ作品の2作目、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』のラストも、杖の男根性が際立っている。

魔法使いの家に生まれながら魔力を持たないがために差別、蔑視されていた少年が、実は自分にも魔力があったこと、それを隠していた意外な人物の正体を知らされると同時に、生まれて初めて自分の杖を与えられるシーンだ。
強い憎しみを胸に、少年が最初に使った魔法は部屋の窓と壁を破壊して飛び出し、その先の山の表面を粉砕した。

抑えられ、鬱屈されていた少年の強い思いが杖という棒の先から飛び出したのだ。

現在制作中の3作目では、この少年が重要な役割を果たすと思われる。
ある種の「通過儀礼」を果たした少年がどのような「男」として登場するのか楽しみである。

マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)に関するニュースを見ない日はないと言っていい。
2021年現在はフェーズ4に当たるが、新作の劇場公開が新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期、動画配信サービスのディズニープラスではドラマシリーズが順次配信開始、今後の作品の展望etc
もはや映画「作品」という様相ではなく、一大商品群だ。

MCUの作品については全作リアルタイムで劇場で観てきたし、『ファー・フロム・ホーム』も当然のように劇場で、それもIMAX 3Dで観賞した。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の原書コミックも購入し、てらさわホーク著の『マーベル映画究極批評-アベンジャーズはいかにして世界を征服したのか?-』(イースト・プレス(2019))をはじめとした関連書籍や様々な批評にも目(と耳)を通した。
一言でいえば大好きだが、映画業界のあり方としては疑問に思うこともある。

MCUは『スパイダーマン ファー・フロム・ホーム』を以て2019年にフェーズ3に幕を閉じたが、一方で、2019年はアカデミー賞作品賞等にネットフリックス・オリジナル作品の『ローマ』がノミネートされ、純粋な「作り手」による「作品」としての映画が世界的な評価を獲得した年でもあるのだ。

こういう作品をどうしても観なければと、それまで「キリがなくなるから」と配信サービスを倦厭していた筆者ですらネットフリックスに加入した。
現在ではネットフリックスに加え、ディズニープラス、アマゾンプライムの多重債務者だ。

世界的にも個人的にも、映画史における節目と言えるのが激動の2019年だろう。

それでも尚、本記事において筆者が個人的ベスト映画として挙げたいのは、『ビルドNew world 劇場版 仮面ライダーグリス』だ。
順を追って説明しよう。

 

 

本作は、2017年から2018年にテレビ朝日系列で放送された、平成ライダーシリーズの最後から2番目、「仮面ライダービルド」の後の世界を描くVシネマの2作目だ。

2作目の主人公となる仮面ライダーグリス=猿渡一海(さわたり かずみと読み、愛称はカズミン)を演じた武田航平は、2008年から2009年にテレビ放送された「仮面ライダーキバ」でも重要な役を演じている。

主人公のキバ=紅渡を演じたのは、今や人気俳優の瀬戸康史だ(当時20歳前後)。
本作では、紅渡が生きる「現在」と、その父親世代の若かりし頃を描く「過去」とが同時並行で語られるが、紅渡の父親こそ、武田航平が演じた紅音也だ。
テレビ版のキバの最大の魅力は、様々な形を取った過去と現在のつながりであるが、それを体現する人物こそ紅音也であり、演じた武田航平だと筆者は考えている。

 

 

ビルドでも、武田航平が演じたグリス=一海のキャラクターは強烈だった。

初登場は全49話のうちの第16話で、当初は主人公の仮面ライダービルド=桐生戦兎やその相棒の仮面ライダークローズ=万丈龍我と敵対関係にあり、より優れた変身アイテムを持つ=強いライダーだった。後に世界の構造や、より大きな敵=惑星を滅ぼすほどの力を持つエボルトの存在を知り、三つ巴の敵対関係にあった仮面ライダーローグ=氷室幻徳と共に仲間になる。

「俺に内緒で何楽しんでんだ、こら」というのは登場時から一海の決め台詞の一つで、その後も何度か口にするのだが、主人公達との関係性が変化するにつれて言う相手や意味合いも変化していくのが面白い。

終盤では、最強の敵であるエボルトを倒すため、ビルド、クローズ、ローグと共に4人でエボルトが鎮座するタワーに攻め込む。

タワーの最上階で高みの見物を決め込むエボルトが用意した刺客に対し、一海=グリスの怒りが爆発する。

刺客とは、一海を「カシラ」と呼んで慕っていた、既に亡き3人の子分、通称「三羽烏」の擬態だったのだ。

三羽烏は、仮面ライダーではないもののスマッシュという異形の者に変化する力を持つ。

擬態も同様、スマッシュに変身してビルドらの前に立ちはだかる。
ビルドらを先に行かせ、一海はグリスに変身して三羽烏と戦う。

しかし、擬態といえども姿形はかわいい子分達。
攻撃するを躊躇しているうちに強烈な攻撃を受け、変身を解除された一海はブリザードナックルという変身アイテムを取り出す。

当初は主人公達より優れた変身アイテムを持っていたグリスだったが、次々と新たな変身アイテムを手に入れる主人公達との戦力は逆転し、敵も強くなるのに連れて徐々に苦しい戦いを強いられていた。
最終決戦に当たり、仲間のため、世界のために手にしたブリザードナックルは、一海の身体では負荷に耐えきれない、禁断の変身アイテムだった。

ビルドシリーズでは、変身ベルトに「ボトル」や「ナックル」といった必要なアイテムを装着することで変身の準備が整う。
すると、”Are you ready?”(「準備はできているか」)という天の声が流れ、登場人物達は「変身」と叫んで仮面ライダーになるのが常だ。

しかし、ブリザードナックルを装着し、”Are you ready?”と問われたこの時、一海はこう言った。

「できてるよ」

変身の準備だけではない。
変身して敵を倒したとて、負荷に耐えきれずに間違いなく命を落とすことになるのだが、仲間や世界のためにそこまでする覚悟ができていると言ったのだ。

ブリザードナックルを使って変身した一海はグリス・ブリザードとなる。
文字通り氷を思わせるその姿は、ラスボスであるエボルトをして「まるで死に装束じゃないか」と言わしめるのだが、確かに、透き通った美しさを感じさせると同時に、明らかに永続しないものの儚さ、危うさを思わせる。
それはいずれ溶けてなくなる氷の本質そのものだ。

三羽烏の擬態を倒した後、一海は光の粒となって消えていく。
涙ながらに最期を見届けたのは、一海がかねてより思いを寄せていたヒロインの美空。
叶わぬ恋であったが、「看取ってもらえて幸せ者だ」と一海の最期は笑顔だ。
それまで頑なに一海のことをグリスと呼んでいた美空は、一海の亡き跡に「カズミン」と呼びかけた。

 

 

 

一海がグリス・ブリザードに変身し、そして命を落とすのは最終話の直前、第46話「誓いのビー・ザ・ワン」、第47話「ゼロ度の炎」だが、個人的にはここがテレビ版の仮面ライダービルドのハイライトだと思う。

ただし、ラストはラストで素晴らしい。

ビルド=戦兎の目的はエボルトが地球を滅ぼすのを防ぐため、「エボルトが存在しない新しい世界」を創り出すことであり、一海らの犠牲もあり、最終決戦に勝利したビルドは遂にそれを成し遂げる。
平和を手にした新たな世界はしかし、救世主であるビルド=戦兎の存在を誰もが「知らない」世界だった。
一海ら犠牲になった者達も復活した(というより、「死」がなかったことになった)ものの、誰もが戦兎と共に戦ったことを覚えていない。

世界を救った喜びと同時に、世界に忘れ去られた孤独を感じる戦兎の前に現れたのは相棒のクローズ=龍我。
彼もまた新しい世界では行き場のない存在だった。

孤独な世界で、それでも尚「お前さえいてくれればそれでいい」という互いの視線が交錯するラストは切なく、そして見事なものだ。

さて、Vシネマではその後の世界、つまり「ビルドNew world」が描かれる。
1作目はビルドの相棒のクローズが主人公の『ビルドNew world 劇場版 仮面ライダークローズ』だ。

 

 

Vシネマといいつつ、1作目も2作目も期間限定で劇場公開もされており、筆者は劇場で観賞している。
両方とも劇場公開期間は2019年だが、残念なことに『劇場版 仮面ライダークローズ』の方は個人的には同じ年に鑑賞した中でワースト映画かも知れない。

本作ではエボルトの兄であるキルバスが敵として登場するが、テレビ版でビルド=戦兎とクローズ=龍我が世界に忘れ去られるという極めて大きな代償を払ってまで存在を消したはずのエボルトがいともあっさりと復活し、キルバスを倒すために味方に加わる。

その一方で、世界は戦兎と龍我とのことを忘れたままだが、一海やヒロインの美空をはじめ、周囲の人物だけは思い出すという中途半端な状況になる。

つまり、テレビ版で払われた犠牲も、孤独な世界でたった1人の相棒が存在するという喜びも、本作によって台無しになる。
本作に意味があるとすれば、Vシネマ2作目にしてビルドシリーズの最終章である『劇場版 仮面ライダーグリス』に繋がるということくらいだろう。

本作では、短編作品『ドルヲタ、推しと付き合うってよ』が同時上映される。
一海が思いを寄せていた美空はネットアイドルで、一海は当初、画面越しにみ~たん(美空のアイドルネーム)を推す(愛する)ガチの「ドルヲタ」だった。

美空と一緒に買い物に行くことになり、有頂天になる一海。
しかし、デートだと思っていたのは一海だけで、美空にそんなつもりはまったくなかった。
一海は傷心し、新世界で同じく復活し記憶を取り戻した三羽烏と共に失意の旅に出る。

 

 

一見すると下らない、無意味な話だが、ちゃんと伏線として本編で効いてくる。
本編の敵は仮面ライダーから変身能力を奪う力があるのだが、一海と三羽烏の旅先での出来事が、彼等が変身能力を失わず、主人公として活躍する理由になっているのだ。

敵は、ビルドの強化版ともいえる仮面ライダーメタルビルド。
変身するのは、マッドサイエンティストの浦賀啓示で、自分のことを評価せず、ひどい仕打ちをした世界への復讐を目論んでいる。

科学や兵器の力に魅入られた浦賀は、ファントムクラッシャーという異形の者を発明する。
ビルドを真っ黒に塗りつぶしたようなデザインのメタルビルドに対し、ファントムクラッシャーは兵器を思わせる機械的なデザインとカーキ色が映える。
かと思えば、メタルビルドはファントムクラッシャーと融合し、最終形態であるファントムビルドへと化す。
ラスボスとして申し分ない迫力で、「兵器的、機械的なデザインと配色」が好物の筆者にとっては垂涎ものだ(実際に涎を垂らした訳ではないが)。

 

 

ファントムビルドは、グリス、グリス・ブリザード(今回は変身しても死なない)では歯が立たない。
美空を誘拐されたことで引くに引けなくなった一海は、グリス・パーフェクトキングダムに変身し、世界の支配を狙うファントムビルドとの最終決戦に挑む。

グリス・パーフェクトキングダムは、三羽烏と一海の融合形態だ。

三羽烏はスマッシュに変身する際、それぞれのテーマカラーである赤、青、黄色のカラーをまとい、各人が特有の外見と能力を持っている。
テレビ版を見ながら、グリスとの融合を望んだファンは筆者だけではないだろう。
遂に実現した融合、グリス・パーフェクトキングダムもまた、三羽烏の外見と能力をうまく抽出して取り入れた、見事なデザインだ。

グリスと三羽烏の絆の結晶であるグリス・パーフェクトキングダムは、能力において勝るはずのファントムビルドを打ち破る。

ここまでで充分素晴らしいが、エピローグもまた胸が熱くなる。
同時上映の『ドルヲタ、推しと付き合うってよ』が、ここでもまた伏線としての機能を果たしている。
同じ台詞が違う意味を持つというのは、テレビ版で一海が体現したことだが、ここでは一海が同じ台詞を違う意味で言われる側になる。
そして、それはテレビ版では一海についぞ与えられなかった救いが与えられる瞬間でもあった。

事程左様に、本作ではテレビ版で見たかったものがことごとく実現されている。
しかも、筆者の好みのキャラクターデザイン、重要なシーンの撮影場所として地元が使われたとあっては、2019年にどれだけ重要な作品が他にあったとしても、筆者にとってのベスト映画は本作でなければならないのだ。

先日、テレビの音楽番組に当たり前のように三浦大知とパフォーマンスチームのs**t kingzが出演していて、非常に感慨深かった。
2021年現在でこそトップクオリティのアーティストとして不動の地位を得、大活躍中の三浦大知だが、実力からすれば遅すぎるくらいだと思う。

筆者が三浦大知のファンになったのは、覚えている限り遅くとも2011年だ。
というのも、この年に『Turn Off The Light』という曲がリリースされた時点では既にファンであり、大学の友達やら地元の友達やらにお勧めしまくった記憶があるからだ。
Folderとしては1997年に、ソロでは2005年にデビューしているのだから、もっと早くからファンの人も大勢いるのだろうが。

 

 

『Turn Off The Light』はleccaが作詞作曲した曲で(作詞のクレジットには三浦大知の名前もある)、タイトルの意味は「明かりを消す」。
歌詞を引用するならば、「照らされても照らされなくても」、「自分から輝く」から、いっそ明かりなんて消してくれ、ということだ。

三浦大知の実力と世間の評価があまりに乖離していることにフラストレーションを感じていた当時の筆者は震えた。
leccaを筆頭に、三浦大知のことを近くで見続けていた人は同じフラストレーションを感じていたのだろう。
同時に、三浦大知自身は腐らず迷わず、実直に自分の音楽を追求し続けていたことも知っていたはずだ。
だからこんな曲を作ろうと思ったのだろう。

その後、三浦大知の輝きは世界の目に留まることになった。
まさに脱帽だ。

この曲は、仕事などで自己評価と周囲の評価が釣り合わない時に自分を鼓舞する曲となった。
歌詞の最後には「君の中 光るものが いつか誰かの希望になる」と、leccaが三浦大知に向けて言ったとしか思えない言葉があるが、その通り、筆者の希望になっている。
三浦大知ですら評価されなかった時期があったんだから自分ごときが腐るんじゃないよ、と。

 

ちなみに、leccaが三浦大知をイメージして作り、コラボもしている『First Sight』(2011年)、三浦大知と福原美穂の『Deam On』(2012年)も同種のメタ的な曲で、腐らない人間のパーソナリティを学ぶことができる傑作だ。

 

 

 

映画『グレイテスト・ショーマン』を観た時、三浦大知のことを度々思い出した。
最初に断っておくが、筆者は本作が嫌いだ。
理由は単純、ひどい話だと思うからだ。

ヒュー・ジャックマンが演じた19世紀アメリカの興行師バーナムは、様々な個性を持つ人を集めて「バーナム・ミュージアム」(予告編の日本語字幕の表現)というショーを作る。
予告編の映像では、「誰もが特別だ」とどんな個性も認めているかのように見えるが、その実、自分のショーの客寄せパンダにしか思っておらず、先の言葉は嫌がる相手をおだてて舞台に上げるためのもののだ。

人間として尊重している訳ではないということはすぐにわかる。
バーナム・ミュージアムの成功がきっかけで、オペラ歌手の公演を手がけることになったバーナムは、憧れの上流階級への仲間入りを果たすため、バーナム・ミュージアムの面々を邪険に締め出す。

その後、色々あってバーナムは危機に陥るが、自ら邪険にしたバーナム・ミュージアムの面々の手助けによって再起する。
かと思えば、今後はイクメンになる、とばかりに後進に地位を譲り、最後は妻子と一緒に悠々自適にショーを観覧して終わる。

バーナムは実在の人物であり、この話のどこからどこまでが事実かわからないが、少なくともこの映画のどこに感動できるのかがわからない。
ヒュー・ジャックマンのことは大好きだけれど。

数少ないいいところといえばミュージカルシーンだろう。
CMでもお馴染みの『This is me』は、上記の通りバーナムに邪険にされ、それまでの人生でも何度も同じような辛い目に遭い、それでも尚「これが私である」というバーナム・ミュージアムの面々の魂の叫びだ。
彼等は最初から最後まで、素晴らしい個性と(ミュージアムが暴徒に襲われるシーンでの反撃方法に如実に現れていて面白い)、自分が苦境に置かれてきた故に他者に対する優しさを持っていて、バーナムの力など借りなくても輝くのだ。
お気付きかも知れないが、彼等こそ『Turn off the light』で言うところの「自分から輝く者達」だ。

 

 

一方、バーナムが手掛けたオペラの公演で『Never Enough』という曲が歌われるシーンも素晴らしい。
スポットライトをどれだけ浴びても、どれだけ金を稼いでも、BAD HOPの『Mobb Life』ばりに「まだまだ足りなーい」と訴える曲だ。

バーナムが聞き惚れている様は本当に腹が立つが、オペラ歌手を演じるレベッカ・ファーガソンの圧倒的美貌と、歌っているローレン・アレッドの圧倒的歌唱力で捻じ伏せられてしまうのは仕方がないと思える。

 

 

聴衆を力ずくで捻じ伏せるのもまた、三浦大知を彷彿とさせる。

2013年のミュージックドラゴンLIVEに行った時のことだ。
このライブには他にもきゃりーぱみゅぱみゅやBoAなど、何組かのアーティストが出演していた。
K-POPのBEASTの番になると、ファンのマダム達は持参のライトを揺らし、出番が終わるとそそくさと休憩に出る人もいた。
つまりは、観客はそれぞれ別々のアーティストを見に来ていた訳だが、大多数が三代目J SOUL BROTHERSをお目当てにしていたのは、盛り上がり方から明らかだった。

当時は三浦大知に対する世間の認知度はまだまだ低い頃。
休み時とばかりに座って観覧する人も多かった。
最初だけは。

出番が始まるや否や、ダンスと歌の圧倒的なスキルで観客の度肝を抜いたのだ。
ライブでパフォーマンスを見るのは初めてだったが、PVなどで馴れ親しんでいた筆者ですら驚いたくらいだから、「無名のアーティスト」とナメ切っていた他の観客の驚きはひとしおだっただろう。

名バラードの『Two Hearts』の冒頭ではアカペラを披露。
マイクを口から30センチほど離した上で歌声を横浜アリーナいっぱいに響き渡らせた。
いつの間にか座っている観客はいなくなっていた。
全観客が三浦大知に捻じ伏せられていた。

 

映画のタイトル、「グレイテスト・ショーマン」は三浦大知にこそ与えられるべき称号だ。

※本記事では名前しか触れることのできなかったs**t kingzの功績、意識の高さは以下を参照のこと。

 

 

振り返れば、過去の記事で映画について書く際に取り上げたのは邦画が圧倒的に多いことに気付く。
かつては「邦画は観ない」と決めていた時期すらあったのに。
それどころか、ハリウッド製作のSF大作やアクション映画をテレビで観て映画が好きになり、劇場で観るようになった当初もそのような作品が中心だったはずが、これらに加えて日本を含む様々な国で製作された色々なジャンルの映画を観るようになったのはいつからなのか、思い出すこともできないから不思議なものだ。

今では日本にも敬愛する監督は数多いる。
並べてみるといずれ劣らず第一線で活躍されている方々なので何のことはないが、是枝裕和、白石和彌、入江悠、今泉力也らの作品は、新作が公開されれば例外なく劇場で観賞している。

それに加えて、好きな作品には東出昌大、成田凌、門脇麦、小松菜奈、仲野太賀、松岡茉優らのうち最低1人は出演しており、鑑賞するかを判断する際の試金石にすらなっている。
『寝ても覚めても』(東出)、『さよならくちびる』(成田、門脇、小松)、『来る』(小松、仲野)、『桐島、部活やめるってよ』(東出、松岡)、『すばらしき世界』(仲野)、『あのこは貴族』(門脇)、『騙し絵の牙』(松岡)、『BLUE』(東出)等々。
これらの俳優陣も三面六臂の活躍をしているため、単に面白い作品を並べているのと同義であることに気付く。

仲野太賀を作品上で初めて見た時のことは忘れもしない。
それは映画ではなく、ドラマ『ドクターヘリ-緊急救命-』の第2シーズンだ。
公式サイトで調べたところ、仲野太賀が出演したのは第6話だ(当時の芸名は「太賀」だった)。
このエピソードの副題は「秘密」。
人が秘密を持つのは、誰かを思いやるが故のことであるというのがテーマだ。

仲野太賀が演じたのは、大学受験を目前に控えた高校生の芳雄。
末期ガンで入院中の母親、妙子のお見舞いで病院を訪れることでストーリーに関わってくる。

芳雄は病院でも常に赤本の問題を解いている。
「母親のことが心配じゃないのか」と医師に聞かれても、冷淡な態度を崩さない。
実は、スナックで働いて女手一つで芳雄を育てた妙子は、医学部を目指す芳雄の優秀さを誇りに思っており、勉強の邪魔をしまいと自分が末期ガンであることを秘密にし、「大した病気じゃないからすぐに治す」と噓をついていた。
芳雄の方は医学部を目指すくらいだから、妙子の容態を見て嘘にはとっくに気付いているのだが、それまでの人生で妙子が嘘をついたり、約束を破ったりするのは当たり前で、妙子に期待することを止めたために冷静でいられるのだ。
それが「持ちつ持たれつ」の母子関係であると。

それでも、肉親が死を目前にしているのに、何も感じていない訳はない。
離れた地方の大学の受験のために新幹線で出発する当日、芳雄は妙子の病室を訪れてこう言う。
「大学に受かって俺のことを自慢させてやる。医者になってあんたの病気を治してやるし、あんたのスナックの客も無料で診てやる。そうすれば一生自慢だ。だから一度くらい約束を守ってよ、母さん。」

この瞬間、号泣だ。
何を隠そう、放送日は筆者の大学受験の前日でもあったのだ。
高校3年生の4月の時点で、某有名私大の法学部に進学することを決めていた筆者は、センター試験を受けることも、滑り止めの大学を受験することも考えず、ひたすらその学部の入試に特化した勉強をしていた。
入試科目が元々得意で、嫌いな科目を勉強するのが無駄に思えたこと、自分を奮い立たせるためにあえて退路を断ったこと、筆者が通っていた高校には推薦の枠が1つしかなく、教師や科目に対する好き嫌いのはっきりした筆者より、全方位的に努力していたクラスメイトがその枠を取ることが確実視されていたことが理由だが、両親はさぞ不安だっただろう。
なぜなら、当時の筆者は遅め且つ長めの思春期、反抗期の真っ只中で、上記のような背景をまともに両親に説明していなかった。

両親に何を質問されても、仲野太賀が演じた芳雄が妙子に言ったのと同じ、「落ちるはずがない」という言葉しか返さなかった。
仲野太賀は後の作品でも「小賢しい嫌な奴」を演じさせたら天下一品だが、筆者は「小賢しい嫌な奴」そのものだった。

そんな筆者でも、不満や不安を何も言わずに予備校に通わせてくれた両親への申し訳なさやありがたさを痛感しており、受験前日には「合格して親を喜ばせよう」という気持ちになっていた。
芳雄の姿は完全に自分に重なったのだ。

ちなみに、筆者はドラマを自室のテレビで観ていたが、リビングからは同じドラマの音声が聞こえていた。
筆者が号泣したのと同時に母親が鼻をすする音も聞こえた。
何か感じるところがあったのだろうか。

その後、何とか志望校に合格することができ、多少なりとも親孝行はできたと思う。
まあ、大学の学費も両親に出してもらうことになり、恩は深まる一方だったが。

 


大学を卒業して就職した筆者は、初任給で両親に自分の生まれ年のワインをプレゼントした。
当時は実家に暮らしており、給料から一定金額を家賃見合いとして納めることを提案したが断られたためだ。
生まれ年のワインをプレゼントに選んだのは、自分を育てた年月の重みを両親に感じてもらい、暗に感謝を伝えるためだ。
しかし、飲んだ時の両親の感想は「軽くて飲み易い」だった。
ああ、そうですか。
それがきっかけで大人として認められたのか、亡くなった祖父の形見の腕時計を譲り受けることになった。
甘やかされ尽くした人生だと思った。


成田凌が関ジャニ∞の大倉忠義とダブル主演を務めた『窮鼠はチーズの夢を見る』にも、相手の生まれ年のワインを贈るシーンがある。
作品としては、間というかテンポというか、筆者が邦画を好きでなかった時のことを想い起こさせるものがあったが、最初から最後までとにかく成田凌の魔力ともいえる力が炸裂している。

大倉忠義が演じた恭一は、自分を好きになってくれる女性(で、且つ美人)と受け身の恋愛を繰り返してきたという羨ましい限りの男だが、色々あって妻と離婚。
成田凌が演じた渉は恭一のことを想い続けてきた学生時代の後輩で、半ば強引に同棲を開始する。

渉のアプローチを最初は冷たく突き放してた恭一も、徐々に渉に惹かれていく。
恭一が渉の誕生日に贈ったのが、他でもなく渉の生まれ年のワインだ。
「もったいなくて飲めない」と言う渉に対し、「来年も買ってやるから飲もう」と返す恭一。
来年も、もしかしたらその先もずっと一緒にいることを当たり前のように言う恭一の言葉を噛みしめ、ワインボトルを大事そうに抱きしめる渉=成田凌の表情、仕草が素晴らしい。

贈ったら間髪を入れずに飲んであの感想を言った両親とは大違いだ。

「心底惚れるって、その人だけが例外になっちゃう、ってことなんですね」という渉の言葉は、自分のことを異性愛者だと思っていたのに渉に惹かれ始める恭一にはもちろんのこと、芯の弱い恭一に惹かれてしまう渉にも響く、深い言葉にして本作のメッセージだ。

またまた色々あって渉と一緒にいられなくなった後、女性を求めることもなくなった恭一は、人生で初めて(と思われる)ゲイバーに行く。
演じるのが大倉忠義だけあって、恭一は見た目がいい。
多くの男に声をかけられるが、やっぱり惹かれない。
恭一が求めるのは女でも男でもなく、渉なのだ。

前言撤回。
本作はやっぱりいい映画だ。

 

 

『ここは退屈迎えに来て』(門脇麦、それから『愛がなんだ』の岸井ゆきのも出演)で成田凌が口にし、松岡茉優主演の『勝手にふるえてろ』でも主人公の「こじらせ女子」が脳内で付き合っている相手から現実世界で言われた、共通の衝撃的なセリフについても触れたい。
作品のキーとなるセリフなのでさすがに中身は言わないが、登場人物のみならず筆者をも震えさせるものがあった。

『ここは退屈迎えに来て』の公式サイトにあるコピーは「青春の後にあるものは?」。
過去の記事でも度々触れたように、今年で30歳を迎える筆者は今、「青春の後」の感覚をひしひしと感じている。
自分は誰かにとってのかけがえのない何かである、何かになれるという無邪気な可能性を秘めているのが青春というものだが、思いもよらぬ形で決着を迎えることもある。
あんなセリフを実人生で言われた時、映画のようにその先の人生を強く生きることができるだろうか。

 

 

最後も成田凌と、『花束みたいな恋をした』でも強い印象を残した清原果耶ダブル主演の『まともじゃないのは君も一緒』だ。
普通に作品としても面白かったが、これについてはストーリー云々ではなく、撮影場所の一部がめっちゃ地元で、コロナ下でし辛い里帰りが図らずもできたような気分になれた。

当然のことながら、登場人物の人物像や、それを演じる俳優陣の文化的バックグラウンド、撮影場所が外国映画のそれに比べて自分に近く、自分の人生を思い起こしたり重ね合わせたりし易いのは間違いなく邦画の利点である。
かつての自分にも教えてやりたい。

 

 

黒沢清監督の『旅のおわり世界のはじまり』が劇場公開されたのは2019年6月。
気にはなっていたものの、筆者は2021年4月になってようやく配信で観賞した。

タイトルを一見して思い出すのが、過去の記事でも触れた映画『何者』のキャッチコピー「青春が終わる。人生が始まる―」だ。
この言葉は、青春という「何者にでもなれる」状態から、登場人物達が就活によって「何者かになる」ことを選択し、そこからが真の人生の始まりであることを意味する。
つまり人生は、自分が実際に選び取った以外の、あり得べき別の人生の可能性を「閉じる」ことで始まるのだ。

 

 

一方、世界は自分が他者に対して「開く」ことで始まる。
それがタイトルの意味であり本作のメッセージだ。

前田敦子演じるレポーターの葉子は、ディレクターの吉岡、カメラマンの岩尾、ADの佐々木、通訳兼ガイドともいうべきテルムと共に、ウズベキスタンでテレビ番組のロケを行う。
日本とは勝手が異なり、思うようにいかないことの多い異国で、葉子が成長するのが本作の大筋だ。

勝手が異なり、思うようにいかないのは異国であれば当然だ。
にも関わらず、染谷将太演じるディレクターの吉岡は、思うようにいかない事態に対して、「この国の人間は融通が利かない」とウズベキスタン出身のテルムに怒りをぶつける。
また、何でも金の力で解決しようとしたり、それでも思うようにいかなければ、「何なんだよこの国は」とゴミを蹴飛ばして憂さを晴らそうとしたりする。まあ感じ悪い。
テルムの方は、現地住民の冷たい対応に傷付く葉子に対し、「ウズベキスタン人がみんなああいう人じゃない」と気遣うような、優しくてフラットな視点を持っているのに。

そもそも、このテルムへの扱いにも疑問を感じる。
本作の公式サイトには、「通訳兼コーディネーター」という肩書が乗っているが、撮影隊を代弁して現地住民と交渉するのに加え、運転や、撮影機材の運搬や設置など、様々な雑務を行っている。
人員の限られる撮影隊なので仕方ない部分もあるが、これらの雑務は業務委託契約の条件に明記されているのだろうか。
想像でしかないが、契約書には「委託者が必要と認めるその他一切の業務」というような、委託する側にとって便利なことこの上ない文言が乗っているのだろう。
きちんとした契約が結ばれていないのならばより性質が悪い。
いずれにしても受託する側の善意や親切心を搾取していることに変わりはないのだが。

葉子は葉子で、撮影が終わると一人、夕飯を買いに街に繰り出すのだが、ガイドブックを握りしめて四苦八苦しているのを見かねた現地住民など、とにかく誰かに話しかけられるや否や”No.”または“No, thank you.”または“I cannot understand.”と言って即座にコミュニケーションを遮断する。

旅行であれば、それでいいのかも知れない。
ガイドブックを頼りに見たいものだけを見て写真に収め、食べたいものを食べれば旅行者はとりあえずは満足できる。

しかし、ガイドブックなどない中で、異質な他者と向き合わざるを得ないのが「世界」というものだ。
それは日本にいても異国にいても変わらない。

物語終盤、葉子はひょんなことから警官に追われることになる。
逮捕された葉子の窮地を救ったのもまた、テルムの通訳だった。

現地の警察はテルムを通じて次のようなことを言う。
「我々は質問しようとしただけなのに、あなたは逃げた。あなたは我々の何を知っているのか。話もせずに逃げたら、理解できるはずがないのに。」
この言葉は葉子に深く突き刺さり、葉子は涙した。

葉子にとって、他者を遮断していた「旅」が終わり、他者と向き合う「世界」が始まったのはこの瞬間だろう。
葉子の涙は世界に生まれ落ちた産声だ。

 

 

話をしなければわからないが、話をすればわかる。
そんなことを『ブックスマート-卒業前夜のパーティーデビュー-』を観た時も思った。
こちらは2020年8月の公開で、公開当時から高い評価は耳にしていたものの、劇場で観ることができずに『旅のおわり世界のはじまり』と同じ時期に配信で観ることになった。

一流大学への進学が決まった女子高生エイミーと親友モリーの2人組は、遊んでばかりいるとバカにしていた同級生達が、同じく一流大学への進学や一流企業への就職を決めていると知り、勉強漬けだった高校生活を卒業前夜のパーティで一気に取り戻そうとする。

本作のダイバーシティ感覚の先進性は既に色々なところで語られているのであえて省略するとして、メッセージもまた素晴らしい。
他者からどう見えていようが、誰だって頑張っているし、誰だって何かしらの苦悩を抱えているのであって、排除すべき悪者などいないのだと、本作は教えてくれる。

一見嫌な奴、嫌いな相手であっても、話してみればなんてことのない、自分と変わらない人間なのだ。
逆に、エイミーとモリーがそうであったように、互いを理解しているつもりの親友同士だって、多少痛みを伴ったとしても腹を割って話さなければ伝わらないこともある。
そして、その後にこそより深い関係が築かれるのだ。

当たり前のようで極めて難しい話だが、このような映画が作られている限り、希望は消えない。

 

 

前の記事で小説作品を基に見た通り、剣術の稽古は型がすべてだった江戸時代、中西忠太や長沼四郎らが四つ割り竹刀と防具を開発したことにより、安全に打込み稽古を行うことが可能になった。

当時の剣術界では異端の存在、方法であり、非難する者もあったが、結果的には多くの流派に広がった。
それは排除される定めにある異端ではなく、革命だったのだ。

革命の成果は、世界的なスポーツにもなっている「剣道」として、今日も我々の眼前にある。

 

 

剣道部に所属していた中学時代(あるいはそれ以前)から、戦場で実際に使われていた技術がどのような変遷を辿ることで剣道を始めとする武道の成立に結び付いたのか興味があった。

歴史小説は、武術なり武道を創始者がどんな思いや方法で編み出したか、と思いを馳せるツールとしては最高だ。
時代背景等についても、作者が一定以上は取材を行っていると考えていい。

しかし、当然のことながら小説はあくまで小説であって、史実として鵜呑みにするのは小説の作者に対しても歴史に対しても失礼である。

純粋にフィクションとして楽しむという手もあるが、どこまでが史実で、どこからがフィクションかを見極めるための道標として「副読本」を読むのもまた面白い。

高橋昌明著の『武士の日本史』(岩波新書(2018))は、武士(日本中世史)の研究者が最新の研究成果を基に武士の実像についてわかり易くまとめた名著である。

歴史の授業では「戦国時代に鉄砲足軽が登場して戦のあり方を一変させた」一方、「日本の武士は互いに名乗ってから一騎打ちするのが習わしなので、元寇の襲来時に鉄砲でいいようにやられた」と矛盾した内容を習うし、映像作品を見ても雑兵同士が悠長に名乗り合っている場面はないので、武士の実像についてはかねてから疑問を感じていたが、本作を読んで氷解した。
詳述は避けるが、要するに時代や地域、役職、戦の局面によって様々に異なる実態がある。

本作では剣道の成立についても触れられている。
戦のない江戸時代には、剣術の他流試合は禁止され、各流派の内部で型を通じて稽古され、一子相伝によって継承されたため、流派内、流派間の実力を比較することができない(やるとすれば落命や禍根を残す恐れがある)という武術としての課題から生まれたのが剣道だという。
小説で描かれた通りではないか(正確には小説が史実に基づいていることを意味するのだが)。
まあ現実でも小説でも、禁を破って命懸けの勝負に挑んだ人は多数派ではないにせよ大勢いたし、一子相伝もそうそううまくはいかなかったのだろうが(継承すべき嫡男がいない、弱い、興味を持たないなどの背景があり、「真に教えを受け継いでいるのは自分だ」と言い始める人間はいつの世でも必ず現れる)。

 

 

また、「刀」への信仰の欺瞞性の看破が非常に興味深い。
曰く、とかく日本は刀に精神的な価値を置きがちで、敗戦まで一部の軍人は軍刀を提げていた。
軍刀を提げたまま戦闘機に乗り込む軍人のエピソードも紹介されている。
近代以降の戦争において刀を使うような白兵戦は極めて限定的であり、ましてや狭い戦闘機内では邪魔なだけだ。
刀への信仰が成せる不合理である。

それだけではない。
刀が武士のシンボルとなったのは江戸時代で、その理由は「戦がなかったから」だ。
どういうことかといえば、実際の戦で大きな役割を果たしたのは刀ではなく馬、弓矢、槍、鉄砲であり、戦のない江戸時代にはそれらを使う場面が必然的になくなったため、武士が日常的に携帯する刀がシンボルとなったのだ。
刀は両手で握るものという現在の常識も、あくまで馬に乗って手綱を握る必要(=戦闘)がないからこそ生まれたものというのも衝撃だ。

つまり、刀は戦士としての武士ではなく太平の世の象徴であり、これから戦いに行こうとする軍人が刀を信仰すること自体が倒錯しているのだ。
過去の歴史からの引用として不適切とも言い換えられる。

この「不適切な引用」は、筆者が感じている「武士道」という概念への疑問と共鳴した。
そもそも武士道という言葉は新渡戸稲造が1899年に英文で発表した著書のタイトルによって一般化したもので、「騎士道精神」になぞらえた造語といっても過言ではない。
文明開化という激流の中、西洋哲学とは異なる日本古来の道徳観を打ち出し、欧米列強に認めてもらうべくアピールするためのものだ。

しかし考えるまでもなく、日本の歴史において常に武士が政権を握っていた訳ではないし、政権を握っていたとしても武士は国民(という概念も近代の発明だが)のごく少数を占めるに過ぎなかった。
つまり、武士道を日本古来の道徳として引用するのはかなり恣意的だ(武士に虐げられ、搾取された庶民からすればたまったものではないだろうし)。

それ故に武士道、日本人の「武士性」が強調される時には、きな臭さを感じる。
「欧米に追い付き追い越せ」をスローガンに富国強兵に励んでいた明治期や、太平洋戦争の時代がそうであったように、滅私奉公や戦いに向かう姿勢を美徳として認知させる装置だからだ。
武士の時代がずっと戦に覆われていた訳ですらないのに。

武士道という言葉が一般化する前は、武士の心得は「弓馬の道」と呼ばれていた。
戦の実態をよく反映した言葉であり、やはりそこに「刀」の文字はない。

 

 

 

『武士の日本史』が道標だとすると、好村兼一『剣道再発見-剣道の「深み」を求める稽古法-』(スキージャーナル株式会社(2007))は後日談となる副読本だ。

前の記事の繰り返しになるが、四つ割り竹刀と防具は本来「真剣勝負を安全に」行うための発明であった。
しかし、大正期に「竹刀打ち剣道の普及による手の内の乱れや、刃筋を無視した打突を正した」と全日本剣道連盟のHPに書かれているということは、その必要性があったことを証明する。
つまり、当初のコンセプトはともすれば忘れられがちなのだ。
小説において若い弟子達がそうであったように。

好村先生は、東大在学中に剣道の指導員として渡仏して以降、30年以上を経た現在もパリに在住する剣道家にして小説家だが、異国で指導と稽古を行う中で、日本にいた頃とは異なる形で剣道と向き合った成果が八段という最高位であり、『剣道再発見』という著書だ。

本作で述べられている通り、剣道が世界的なスポーツにもなった現在、若い選手は試合における勝敗を重視し、初段以降の審査の必須項目でもある剣道形は軽んじられがちだという。
ご自身も若い頃はスピードを頼りに相手に技を「当てる」剣道をされていたそうだ。
「手の内の乱れ」や「刃筋を無視した打突」は現存する傾向ということになる。

 

 

その後の気付きで、年齢を重ねた(必然的にスピードが落ちた)上で剣道を続けるのであれば、技を当てるのではなく心で打ち抜く、風格ある剣道を目指すべきであり、同時にそれは高段者の条件でもあると説く。
そのために型(形)や組太刀、古流剣術に学ぶことの重視性も語られている。

本作のすごいところは、あくまで体格や年齢に応じた剣道の楽しみ方、目指すべき方向を述べているのであって、その意味で若い選手らがスピードを頼りに試合に勝とうとするような姿勢を一方的に糾弾していないところだ。
その上で、歳を取ってもor取ったからこそできるorやるべき剣道があるのだ。
剣道には技を当てるという以上の深みがある。

小説『熱血一刀流』において、剣道の祖である中西忠太と長沼四郎が、打込み稽古を真剣勝負に近付けるための方法として語り合った際に挙げられたのが、まさしく打ち抜くということだった。
また、中西忠太は型稽古に乗り気でない弟子達に対し、同じようにその重要性を説いていた。
彼等の理想は現代剣道の深みにおいて生きている。

本記事では、一刀流剣術がいかにして「剣道」の誕生へとつながるのかを小説作品を主として追っていく。

前の記事に記した通り、一刀流剣術を創始したのは伊藤一刀斎で、後継者の神子上典膳は徳川将軍家二代目の秀忠の剣術指南役となると共に、名を小野忠明と改めた。

 

 

小野忠明以降の一刀流は小野派一刀流と呼ばれる。
三代後の後継者、小野忠一の弟子である中西忠太を主人公とする作品が、岡本さとる著の『熱血一刀流』(ハルキ文庫(2020))だ。

小野派一刀流のホームページでは「中西派之祖」とされる人物だが、岡本先生が文芸評論家の細谷正充氏との対談の中で述べているところでは、「資料が全くない」ため、人物像については「ほとんど想像で」書いているという。

http://onohaittoryu.3.pro.tok2.com/data/Ittoryu_sequence.pdf
 


小野派一刀流の剣客、中西忠太は、品行方正で剣の腕も立つ一人息子の中西忠蔵と、道場で破門になった五名の荒くれ者を弟子として、一刀流中西道場を開くことになる。

五名が破門になった理由は、つるんで喧嘩に明け暮れる素行の悪さに加え、「実際に打ち合えば自分の方が強い」と主張して兄弟子達と揉めたことにあった。

今日我々が知るところの「剣道」が誕生する以前、剣術の鍛錬は決められた型の修練や、決められた型を二人一組になって行う組太刀がメインだった。
江戸時代にあっては、「武士が戦うのは命を懸ける場面=死合(しあい)のみ」という建前があったからだ。
剣術家同士の実力の差は比較できず、高く評価されるのは長く修行して型を正しく身に付けた者であり、必然的に年功序列となる。
若い弟子達はそれが「実戦的でない」として反発したのである。

型を巡る意見の相違は他の武術にも見られる。

過去の記事に載せた今野敏先生の『義珍の拳』において、船越義珍は琉球の武術である「手」を「空手」として明治期に全国普及させたが、自身が学んだのも弟子に教えたのも型のみだった。

 


しかし、若く血気盛んで、西洋的合理主義に基づくスポーツの思想を学んだ弟子達は、「型稽古は実戦的でない」として、試合によって実力を試す方向に空手を変質させていく。
船越義珍が望んだのとは違う方向に。
皮肉にも空手はその方向で普及することになる。

 

 

この傾向は今日、現実社会でも変わらない。
決められた型を何度も繰り返しても、実戦におけるスピーディーな攻防の役に立たないとされる。

それはそうだ。
何を以て実戦とするかは議論の余地があるがあえてそれは置いておくとして、そもそも型は即座に実戦に役立てるための安易なHow toとして作られていない。
武術の本質や極意を体系化して記録、伝承するためのツールなのだ。
繰り返し修練し、意味を考え、試行錯誤を繰り返すことで武術の本質に近付き、実戦にも役立つようになる。

誤解を恐れずに言うならば、「武術の型が実戦の役に立たない」というのは「英語の教科書を読んでも英会話はできない」というのと同義である。
確かに教科書を読んでSVOC文型が何か理解したところで、外国人観光客の道案内はできない。
英会話を身に付けるには、海外に行くなど英語を使わざるを得ない環境に身を置いた方が手っ取り早い。駅前の英会話教室に1~2ヶ月通うのでもいいだろう。
しかし、日本語とは異なる英語特有の文型を教科書で学んで理解しないと、道案内以上の複雑な会話をすることも、論文を読むことも、英語話者の考え方の構造を理解することもできない。

逆に言えば、英会話(=実戦)くらい、教科書(=本質)を理解した上で少し訓練すれば簡単にできるようになる。

しかし、剣術の場合、その訓練がなかなか難しい。
真剣で立ち会えばまさしく命懸けで、木刀であっても大なり小なり怪我(最悪の場合は死)を免れない。
故に稽古内容が型や組太刀に限られざるを得なかったという面もある。

『熱血一刀流』において、中西忠太もまた同じ思いを抱えていた。
そこで生み出したのが、四つ割り竹刀と防具、それらを用いた打込み稽古法だった。
この発明によって安全且つ実戦的な訓練が可能になった。
現在の「剣道」の嚆矢、当時にあっては他に例を見ない異端の剣術の誕生だ。
あらゆる分野における異端がそうであるように、剣術界の重鎮達からは非難の眼差しを向けられるが、中西忠太は持ち前の意志の強さでそれを跳ね除ける。

 

 

そんな中西忠太も、続編の『胎動-熱血一刀流 ニ-』(ハルキ文庫(2020))では自信を失いかけていた。
周囲からの評価に対してではなく、弟子達の関心が打込み稽古においてどちらが先に当てたの当てないのという安易な方向に流れていくことについてだ。

竹刀と防具は、命を懸けた「真剣勝負」を安全に追体験するための道具であったはずが、弟子達はいつの間にか竹刀と防具の安全性を前提とし、真剣勝負から乖離した勝敗を重視し始めたのだ。
打込み稽古と並行して型や組太刀を教えていたにも関わらず。

そんな中西忠太が出会ったのが、直真影流の長沼四郎左衛門である。
全日本剣道連盟のホームページによれば、この長沼四郎こそ「剣道具(防具)を開発し、竹刀で打突し合う「打込み稽古法」を確立した」人物であり、それを「多くの流派に波及」させたのが(中西忠太の息子である)中西忠蔵の功績だ。

本作においても中西忠太は先達として長沼四郎に教えを乞う。

 


長沼四郎も中西忠太同様、剣術界にあっては異端の存在として非難されていた。
防具を用いた打込み稽古など「子供の遊び」だという重鎮達の言葉に対しても、長沼四郎は揺るがない。
ある覚悟があるからだ。
「遊びに命を懸ける」のだと。

その言葉は中西忠太を大いに勇気付けた。
そして、志を同じくする長沼四郎と共に、打込み稽古をいかにして真剣勝負に近付けるか、ああでもないこうでもないと試行錯誤し話し合うという至福の時を過ごす。

 

 

シリーズ最新作である『希望-熱血一刀流 三-』(ハルキ文庫(2020))でも「遊び」は重要なテーマだ。
中西忠太は自身が不在の間、弟子達を福井兵右衛門という剣術家に預ける。
後に聞こえた神道無念流の創始者だ。
中西忠太と同じく、人生を、世の中をとことん遊び尽くす「生涯子供」である福井兵右衛門交流との交流は、直情型の弟子達にとって大いに学びとなった。

 

 

再び全日本剣道連盟のホームページに戻ると、江戸時代後期には「江戸の三大道場」と呼ばれた道場があった。
すなわち、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館、斎藤弥九郎の練兵館だ。
それぞれ北辰一刀流、鏡新明智流、神道無念流の道場である。

このうち、北辰一刀流は『熱血一刀流』シリーズで描かれる中西一刀流から派生した流派であり、神道無念流は先述の通り同シリーズの最新作に登場した福井兵右衛門が創始したものだ。

千葉周作は多くの作品の題材となっているが、中でも筆者が取り上げたいのは津本陽先生の『千葉周作』講談社(1988)(上下巻)だ。
本作において千葉周作は、北辰夢想流や中西一刀流を学んだ後、廻国修行や他流試合を通して「より実戦的な剣術」として北辰一刀流を生み出した。
開祖である中西忠太、忠蔵親子がどれだけ工夫しても、時代が下り、千葉周作から見た中西派一刀流は「演武」に過ぎなかったのだ。
千葉周作は防具と竹刀を用いた試合と、真剣による斬り合いを別物と考えた。
しかし、真剣による斬り合いも十分に経験したため、両者があまり乖離することはなかった。
実際、試合の描写でも、面、胴、小手を打つことに加え、相手を投げたり、押さえつけて面を剝ぎ取ったりする(戦において首を切り落とすための前動作に相当する)のが有効とされるのは、現在の剣道には見られない、実戦さながらの荒々しさだ。

千葉周作による技の体系化や命名などは、現在の剣道に与えた影響が大きい。
その点が彼をモデルとした作品が量産されている理由だろう。

 

 

対照的に、生涯に一度も刀を抜かなかった人物として練兵館創始者の斎藤弥九郎を描いたのが植松三十里『不抜の剣』(エイチアンドアイ(2016))だ。
時は幕末。剣術の達者であったことに加え、西洋砲術も学んだ斎藤弥九郎は迫り来る欧米列強の脅威に対する日本の国防に奔走する。


斎藤弥九郎曰く、刀が美しいのは見せびらかすために造られているからだ。
実際に使わなくても、刀を差す、刀を見せびらかすことによって争いを回避する(もちろん、張りぼてではなく実力が伴った上で)という考え方だ。
「武」とは、文字通り「戈(ほこ)を止める」ものであるというのは、剣術にも砲術にも通底した哲学だった。
本作において戦闘シーンがほとんどなく、国防に関係する実務が大きなウエイトを占めていることにも頷ける。

生涯子供の福井兵右衛門が創始した神道無念流も立派な人物を輩出したものだ。

 

 

ここまでで、一刀流剣術から剣道に至るまでの系譜を一応は追うことができたと思う。
惜しむらくは、江戸の三大道場のラストピース、桃井春蔵=士学館=鏡新明智流をメインに取り上げた小説作品がほとんどないことだ。

また、細かいことを言えば、四つ割り竹刀が発明される以前、木刀による立ち合いの危険を回避するために袋竹刀を発明した上泉伊勢守信綱という人物がおり、彼が創始した新陰流は、一刀流と並んで徳川将軍家の指南役剣術である柳生新陰流に繋がっていくのだが、それについてまとめるのは機会を改めたい。