イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -40ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

使徒の働きの2章と5章には、初代教会のキリスト信徒が経験した「恐れ」に関する記述が3箇所あります。
この「恐れ」は、人がこしらえた”神”である三位一体の”神”を掲げているキリスト教会にいると、経験することがない、「生ける神」の、まさに「生きておられる」ご性格に伴う「畏怖」です。箴言にある「主を恐れること」の「恐れ」です。

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
箴言1:7



「恐れ」について記しているのは、使徒の働きの以下の3つの場面です。

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。

使徒2:41-43

そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。

使徒5:3-6

そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

使徒5:9-11

この「恐れ」は、著名な宗教学者であるルドルフ・オットーが「聖なるもの」(岩波文庫)において「ヌミノーゼ」という言葉を用いて解明を試みた「経験」「印象」「感情」に連なりますが、もっとイスラエル的なものです。イスラエルの神に固有の特性です。



ギリシャ語原典を確かめると、この使徒の働きの3箇所で記されている「恐れ」には、いずれも、ギリシャ語"phobos"(英字表記)が用いられています。

使徒の働き2:43のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/2-43.htm

使徒の働き5:5のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/5-5.htm

使徒の働き5:11のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/5-11.htm

ギリシャ語"phobos"(英字表記)
https://biblehub.com/greek/5401.htm

 

HELPS Word-studies

5401 phóbos (from phebomai, "to flee, withdraw") – fear (from Homer about 900 bc on) 5401 (phóbos) meant withdrawal, fleeing because feeling inadequate (without sufficient resourcesAbbott-Smith).

Fear (5401 /phóbos) is commonly used in Scripture – sometimes positively (in relation to God) but more often negatively of withdrawing from the Lord (His will).

[Fundamentally, 5401 /phóbos ("fear") means withdraw (separate from), i.e. flee (remove oneself) and hence to avoid because of dread (fright).]

 

 

ギリシャ語の意味を確認すると、この「恐れ」は、日本語で言うと「腰が引ける」という言葉に盛り込まれている感覚に近いです。

 

人間とは全く異なる存在。天の父の「生ける神」である特性。「神が生きておられること」から生じる極めて不思議な現象。言葉することが難しい出来事。

 

そうしたものに触れて「腰が引ける」というのが、この「恐れ」です。

「非常な恐れ」と言うと、「腰が引けて、腰が立たなくなる」というぐらいだと思います。

そうした「恐れ」。ルドルフ・オットーが、シナイ山におけるモーセの経験を記述する際に用いた時の「ヌミノーゼ」。

 

これがあるのが、御子であられるイエス・キリストを信じることによって、自分たちもその子供にしてもらえた天の父。イスラエルの神。イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ方。決して、人がこしらえた三位一体の”神”ではない「生ける神」。

 

この神が働かれる時、必ず、「しるし」「不思議」「奇蹟」と新約聖書に記されている事柄が起こります。そうすると、それに接した人には「恐れ」が生じます。これが「生ける神」と言われる理由です。

 

 

 

 

 

 

Courtesy of J_D_L

 

 

プロテスタント教会でも、教会員に証しをするさせる所では、日曜礼拝の際に、皆さんの前に立って、証しを行います。伝統的なプロテスタント教会では、まずやりませんが、ペンテコステに寄った会派の教会では(異言を否定しない教会)、これを行う所があります。



証しは、主イエス・キリストにあって本当に救われた人、本当に自由になった人、悪霊など神の敵から来る圧迫から解放された人にとっては、本源的に重要な行為です。

新約聖書で使われている「証しをする人」「証人」のギリシャ語の大元の意味には「殉教をして死ぬ人」という意味があります。イエスが死からよみがえった人であると公に証しして歩くことには、命の危険性が伴ったそうです。(例えば、ユダヤ教の人たちから迫害され、殺される可能性があった)

使徒の働き6章では、ステパノは立派な証しをして、その証しのゆえに、ユダヤ人達から石を投げられて殉教しました。初代教会の初めての殉教者となりました。

新約聖書では、証しのゆえにサタンに打ち勝つという発想が貫かれています。

イエス・キリストは、律法しか知らないユダヤ教徒達に対して、「これが天の父と共にいる神の国だよ」(見よ!神の幕屋が人と共にある!黙示録21:3)ということを証しして、十字架に架けられて、死にました。しかし、神の子がサタンの最大の武器である「死」を引き受けたことによって、サタンが滅ぼされました。また、イエス・キリストは三日目に「死」からよみがえって、サタンが設定したこの世の支配を、完膚なきまでに滅ぼされました。

初代教会では、ユダヤ教徒達の迫害から隠れていたキリスト信徒たちが、これではいけない、神の言葉を外部に向かって大胆に証しして行きますからと祈った時に、「力/デュナミス」である聖霊がだんと下りました。


主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

使徒4:29-31

三位一体の教会にいると、「聖霊の力/デュナミス」を経験することがないので(第二テモテ1:7)、これがどういうことなのかわからないと思いますが、「イエスの証し」(黙示録1:9、12:17、19:10、20:4)とデュナミスの聖霊とは密接に結び付いています。不即不離です。「イエスの証し」を外部に向かって行うから、聖霊の力が臨む。聖霊の力が臨んでいるからステパノのようにイエスの証しができる。そのように両者が分かち難く結び付いています。



この証しのゆえに、サタンに打ち勝つのです。

迫害されても、迫害されても、イエスの証しを続けるがゆえに、サタンは、霊的な支配の力を失って、聖書に書かれている通りの運命をたどるのです。

黙示録に書いている通りです。

黙示録12:11
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(新改訳第三版)

兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(口語訳)

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
(新共同訳)

ここで記されている「彼」とは、「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」=「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび」です。イスラエルの神に敵する者です。



この「証し」は、生ける神であられる天の父が、その人に、御子であるイエス・キリストを信じる信仰のゆえに経験させた事柄を証しするのです。自分が、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、何を経験してきたかを証しするのです。ユダヤ教徒だったステパノの場合は、ユダヤ教徒として教えられてきたイスラエルの神とイスラエルの民の歴史を踏まえて、メシアであるイエスを、経験を通じて知るようになり、信じるようになった。その経緯を証ししていました。

異邦人である私たち日本人は、日本人として、八百万の神々や諸々の仏、菩薩、観音等の、イスラエルの神から見れば偶像に過ぎないものの霊的な圧迫の下にあって、潰されるような思いをしながら生きてきた。けれども、イスラエルの神の御子イエスによって、自由にされて、解放されて、新約聖書のたくさんの箇所に記されているすばらしい福音を経験できるようになった。その経緯を、経験したことを、証しするのです。私は自由になったよと。

こうした証しをすること。むしろ、証しをしなければならないこと。しかもイエス・キリストの名によって。それが、毎日のように起こります。

三位一体の偶像から離れて、サタンと戦うキリスト信徒として旗を揚げた時、万軍の主であられる天の父が味方して下さいますし、万軍=無数の御使いたちが、その人を支えるようになります。ハレルヤ!



 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は、

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

マタイ18:20

 

私たちの教会では、兄弟姉妹が集まって食事をし、兄弟姉妹が協力しあって生活しています。使徒の働きに記されている初代教会そのままのスタイルです。

 

そうしてわかるのは、そのように兄弟姉妹が集まって、常に、協力しあって(もちろん、互いにぶつかることはあります。ケンカも発生します。しかし、それをもこなして、また協力し合う、互いに愛し合うのです。イエス様のヨハネ13章にある教えです。ヨハネの手紙第一で繰り返し書かれている教えです)、生活している中に、本当に、霊としての(目には見えない)イエス・キリストが立っておられ、働いておられるという事実です。

 

 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は、
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。

エゼキエル36:26-27

このところで、神である主、すなわち、新約聖書の天の父は、のちに、イエス・キリストによってイスラエルの民を救い、聖霊によって、霊的に刷新することを預言なさっています。

異邦人である我々も、パウロに主イエス・キリストから与えられた異邦人に対する福音によって、イエス・キリストを信じることにより、同じ救いと同じ聖霊にあずかることができます。

ハレルヤ!

 

Courtesey of Terry Goodyer

 

 

聖書全巻を読み解くキーワード「支配する」「支配される」(1)
支配する/される図式。エジプトのイスラエル人と現代の日本人(2)

ダビデのゴリアテ退治から「支配する霊」に対する戦いを学ぶ(3)
の続きです。

 

何もないところから天地創造をなさった唯一のまことの神であるイスラエルの神。聖書に記されている神。聖書を著した神。イエス・キリストの父なる神。全知全能の神。創造主。イエス・キリストから「天の父」だと紹介された神。

 

この「神」ではない、日本を含むアジアやヨーロッパや北米や南米やロシアなどで崇拝されている”神々”、”諸仏”。そうした”神々”や”諸仏”によって、霊的に支配されるということが、どういうことなのか説明します。

 

 

唯一のまことの神ではない”神”、例えば、インドからやって来たマハー・ヴァイローチャナ(毘盧遮那仏)、アチャラナータ(不動明王)、アミターヴァ(阿弥陀如来)、クンビーラ(金比羅)、ヴァルナ(水天宮)。こうしたインドから仏教の諸仏として日本にやって来たインドの”神”。その実、何もないところから生き物や人間を創造することはできない”霊”。神ではないもの。(何もないところから天地万物を創造できるのが、唯一のまことの神。そうでないものは霊)

 

こうしたものが、霊として、日本の隅々にまで行き渡って、日本に覆いかぶさるように、霊的に支配します。霊的に支配するとは、それらが固有名詞を持った仏や菩薩や如来や観音として崇拝されることによって、その崇拝した人の頭脳や心、肉体、そうしてその人の霊を支配します。支配とは、普通のやり方では脱出できない影響力を及ぼすということです。コントロールします。

 

一人の人を霊的に支配する場合もありますが、集団を支配する場合もあります。

 

 

霊的なものが集団を支配した実例として、現代の我々がはっきりと理解することができるのは、戦時中の日本です。満州事変から始まった太平洋戦争。米国による広島や長崎への原爆投下で終わった太平洋戦争。その期間中の日本人の行動パターン、思考パターン、集団的な行為、社会のあり方。あれが、霊的な支配が集団に及んだ結果です。

 

ものすごい圧迫が社会の隅々にまで行き渡ります。ほぼ全ての人が霊的な奴隷となります。押し潰されそうになります。集団で行動しないと、殺されます(例えば治安維持法により逮捕されて牢獄へ)。息をつくことができません。相互に監視しあいます。足を引っ張りあいます。告げ口をしあいます。これが地域社会でも、日本軍の中でも起こっていました。

 

この時、支配していた悪霊が何なのか?

日本全体を、現人神崇拝と同時並行で霊的に支配していたものが何なのか?

私はまだ突き止めることができていません。相当な量の資料を読み込む必要がありますが、今はその時間がありません。

 

 

霊的な支配は、歴史的、社会的、文化的なものであり、例えば、現代では、メディアにあふれている無数のコンテンツが、霊的な支配のツールとなっています。社会的に大きな影響力を及ぼしている漫画作品やアニメ作品には、筆者が淵源となっている、また筆者が信仰しているものが淵源となっている、唯一のまことの神ではない”霊”が、大きな影響力を振るって、それがメディア作品からにじみ出ています。見る人を、その悪霊で染め上げます。

 

 

悪霊は霊ですから目に見えません。しかし、人の思考をコントロールすることができます。

その人が、特定のメディア作品が好きで好きで、何度も何度も読み込むうちに、その悪霊に対して心を開いている格好になります。すると、そのメディア作品に潜んでいた、筆者が送り込もうと考えた悪霊が、すっと、その人の心の中に入ります。

 

入った当初は、その人が、意識的に、それから遠ざかろうとすれば、その悪霊が出ていくこともあるでしょうが、それがそうでない場合、つまり、そのメディア作品が好きで好きで、何度も何度も繰り返し読むようなケースでは、入った悪霊は、よしと決めて、その人に住み着きます。

 

いったん、住み着くと、あとは出て行きません。

唯一のまことの神のひとり子であるイエス・キリストの権威と名によって、怒鳴りつけられ、ビビらされ、震え上らせられるということがない限り、出て行きません。

 

 

そうして、住み着いた悪霊は、その人を支配します。

 

このようにして、一人が支配され、千人が支配され、数万人が支配され、数千万人が支配されて行きます。メディア作品から来る悪霊がその国を集団的に支配するメカニズムは、極めて恐ろしいです。

 

 

日本の太平洋戦争中の集団的な支配も、おそらくは、夏目漱石の「こころ」にエピソード的に描かれている乃木希典大将の自害。それに殉じて「先生」も自死した。あそこにある「軍神のようなものに対する崇敬」。その辺りが、明治時代後期から日本を覆うようになって、様々なメディアを通じて、「軍神を敬う的な霊的な影響」が広まって、日本全体を押さえつけていったのではないか。

 

「こころ」の先生の自死は、ある種、預言的なものであり、これから日本を覆っていく軍神的なものの霊的な影響、集団的な支配。そうしたものを警告するような意味があったのではないか。

 

いずれにしても、漱石の「こころ」から30年を経るうちに、日本は軍国主義、全体主義、挙国一致体制の国となり、集団的に霊的な支配がなされた、非常に不自由な国となりました。

 

 

現代の二十代、三十代、四十代の男女は、ドラゴンボール、ドラゴンクエスト、ポケットモンスター、セーラームーン、HUNTER×HUNTER、妖怪ウォッチ、ONE PIECE、NARUTO、鬼滅の刃、呪術廻戦、天気の子などが放っている、「呪文により、あるいは、自分のスーパーパワー的な『意識』により、敵を殲滅する」的なマインドセットを植え付ける霊の集団的な支配を受けているように見えます。

 

その悪霊の固有名詞は、まだわかりません。