証しをすることが、毎日のように起こる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

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プロテスタント教会でも、教会員に証しをするさせる所では、日曜礼拝の際に、皆さんの前に立って、証しを行います。伝統的なプロテスタント教会では、まずやりませんが、ペンテコステに寄った会派の教会では(異言を否定しない教会)、これを行う所があります。



証しは、主イエス・キリストにあって本当に救われた人、本当に自由になった人、悪霊など神の敵から来る圧迫から解放された人にとっては、本源的に重要な行為です。

新約聖書で使われている「証しをする人」「証人」のギリシャ語の大元の意味には「殉教をして死ぬ人」という意味があります。イエスが死からよみがえった人であると公に証しして歩くことには、命の危険性が伴ったそうです。(例えば、ユダヤ教の人たちから迫害され、殺される可能性があった)

使徒の働き6章では、ステパノは立派な証しをして、その証しのゆえに、ユダヤ人達から石を投げられて殉教しました。初代教会の初めての殉教者となりました。

新約聖書では、証しのゆえにサタンに打ち勝つという発想が貫かれています。

イエス・キリストは、律法しか知らないユダヤ教徒達に対して、「これが天の父と共にいる神の国だよ」(見よ!神の幕屋が人と共にある!黙示録21:3)ということを証しして、十字架に架けられて、死にました。しかし、神の子がサタンの最大の武器である「死」を引き受けたことによって、サタンが滅ぼされました。また、イエス・キリストは三日目に「死」からよみがえって、サタンが設定したこの世の支配を、完膚なきまでに滅ぼされました。

初代教会では、ユダヤ教徒達の迫害から隠れていたキリスト信徒たちが、これではいけない、神の言葉を外部に向かって大胆に証しして行きますからと祈った時に、「力/デュナミス」である聖霊がだんと下りました。


主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

使徒4:29-31

三位一体の教会にいると、「聖霊の力/デュナミス」を経験することがないので(第二テモテ1:7)、これがどういうことなのかわからないと思いますが、「イエスの証し」(黙示録1:9、12:17、19:10、20:4)とデュナミスの聖霊とは密接に結び付いています。不即不離です。「イエスの証し」を外部に向かって行うから、聖霊の力が臨む。聖霊の力が臨んでいるからステパノのようにイエスの証しができる。そのように両者が分かち難く結び付いています。



この証しのゆえに、サタンに打ち勝つのです。

迫害されても、迫害されても、イエスの証しを続けるがゆえに、サタンは、霊的な支配の力を失って、聖書に書かれている通りの運命をたどるのです。

黙示録に書いている通りです。

黙示録12:11
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(新改訳第三版)

兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。(口語訳)

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
(新共同訳)

ここで記されている「彼」とは、「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」=「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへび」です。イスラエルの神に敵する者です。



この「証し」は、生ける神であられる天の父が、その人に、御子であるイエス・キリストを信じる信仰のゆえに経験させた事柄を証しするのです。自分が、イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、何を経験してきたかを証しするのです。ユダヤ教徒だったステパノの場合は、ユダヤ教徒として教えられてきたイスラエルの神とイスラエルの民の歴史を踏まえて、メシアであるイエスを、経験を通じて知るようになり、信じるようになった。その経緯を証ししていました。

異邦人である私たち日本人は、日本人として、八百万の神々や諸々の仏、菩薩、観音等の、イスラエルの神から見れば偶像に過ぎないものの霊的な圧迫の下にあって、潰されるような思いをしながら生きてきた。けれども、イスラエルの神の御子イエスによって、自由にされて、解放されて、新約聖書のたくさんの箇所に記されているすばらしい福音を経験できるようになった。その経緯を、経験したことを、証しするのです。私は自由になったよと。

こうした証しをすること。むしろ、証しをしなければならないこと。しかもイエス・キリストの名によって。それが、毎日のように起こります。

三位一体の偶像から離れて、サタンと戦うキリスト信徒として旗を揚げた時、万軍の主であられる天の父が味方して下さいますし、万軍=無数の御使いたちが、その人を支えるようになります。ハレルヤ!