Courtesy of Terry Goodyer

 

本日の礼拝と聖餐式は以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
10月 2日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/fdz-hzmi-zyu

聖餐式
10月 2日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/dwo-voin-pvu

本日の礼拝テーマは、

神の国のリアリティ

です。

主イエス・キリストは、神の国について、色々な表現で説明しています。
この「神の国」は、本当に体験してみると、どのようなものなのか?
それについてご説明します。

しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
マタイ12:28

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

マルコ4:26-29

そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。
それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」

ルカ13:18-19

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

ルカ17:20-21

 

 

 

テーマは、

「聖と呼ばれるようになる」(イザヤ4:3)とはどういうことか?

です。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
イザヤ4:3

旧約聖書では、イスラエルの神が「聖」であること。また、イスラエルの民がゆくゆくは「聖」と呼ばれるようになることが書いてあります。

そもそも「聖」とは、創造主であられるイスラエルの神、新約聖書の天の父が、ご自身の手で、他の諸々のものから取り分けた特別なものということです。ヘブライ語の原典の意味を確かめるとそうです。

 

6944. qodesh
Strong's Concordance
qodesh: apartness, sacredness
Original Word: קֹדֶשׁ
Part of Speech: Noun Masculine
Transliteration: qodesh
Phonetic Spelling: (ko'-desh)
Definition: apartness, sacredness


NAS Exhaustive Concordance
Word Origin
from an unused word
Definition
apartness, sacredness

神が取り分けたものが聖。また神はご自身を他のものから取り分けて、ご自身を聖とします。他のものとは、異邦人の土地で崇拝されている諸々の神々。”神”とは言いながら創造することがない霊どもです。そうしたものからご自身を取り分けて「聖」とされる。ご自身こそが聖なる存在であると宣言なさる。

また並行して、ご自身の民であるイスラエルをも他の民族から取り分けて聖とされる。
異邦人でありながらイエス・キリストを信じた人をも、特別に取り分けて、イスラエルの民と同じ位置に置き、聖とされる。

イザヤ4:3では「いのちの書」との関係で、聖と呼ばれる者のことが書いてあります。「いのちの書」は黙示録にも出てきます。

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。
黙示録21:27

いのちの書に名前が書かれている者だけが、新天新地に入ることができます。
すなわち、イザヤ4:3をベースにすれば、イスラエルの神から聖とされた者だけが、新天新地に入ることができるのです。

イスラエルの神から聖とされるとは、どういうことなのか?それについて説明します。

 

 

Taken by me

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
9月 25日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/qug-zpxj-qku

交わり
9月 25日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/svd-gpcj-cnm

本日の礼拝テーマは、

「聖と呼ばれるようになる」(イザヤ4:3)とはどういうことか?

です。

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
イザヤ4:3

旧約聖書では、イスラエルの神が「聖」であること。また、イスラエルの民がゆくゆくは「聖」と呼ばれるようになることが書いてあります。

そもそも「聖」とは、創造主であられるイスラエルの神、新約聖書の天の父が、ご自身の手で、他の諸々のものから取り分けた特別なものということです。ヘブライ語の原典の意味を確かめるとそうです。

 

6944. qodesh
Strong's Concordance
qodesh: apartness, sacredness
Original Word: קֹדֶשׁ
Part of Speech: Noun Masculine
Transliteration: qodesh
Phonetic Spelling: (ko'-desh)
Definition: apartness, sacredness


NAS Exhaustive Concordance
Word Origin
from an unused word
Definition
apartness, sacredness

神が取り分けたものが聖。また神はご自身を他のものから取り分けて、ご自身を聖とします。他のものとは、異邦人の土地で崇拝されている諸々の神々。”神”とは言いながら創造することがない霊どもです。そうしたものからご自身を取り分けて「聖」とされる。ご自身こそが聖なる存在であると宣言なさる。

また並行して、ご自身の民であるイスラエルをも他の民族から取り分けて聖とされる。
異邦人でありながらイエス・キリストを信じた人をも、特別に取り分けて、イスラエルの民と同じ位置に置き、聖とされる。

イザヤ4:3では「いのちの書」との関係で、聖と呼ばれる者のことが書いてあります。「いのちの書」は黙示録にも出てきます。

しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。
黙示録21:27

いのちの書に名前が書かれている者だけが、新天新地に入ることができます。
すなわち、イザヤ4:3をベースにすれば、イスラエルの神から聖とされた者だけが、新天新地に入ることができるのです。

イスラエルの神から聖とされるとは、どういうことなのか?それについて説明します。

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ヨハネ14:27で主イエス・キリストが教えておられる「平安」。「世が与える…のとは異なる平安」。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ14:27

この平安は、ギリシャ語原典の意味を確かめると、

eiréné
HELPS Word-studies
1515 eirḗnē (from eirō, "to join, tie together into a whole") – properly, wholeness, i.e. when all essential parts are joined together; peace (God's gift of wholeness).

すべての欠くことができない部位が一緒に合わさった「全体的である状態」だそうです。その結果として、平和な感じがあり、平安が満ちます。

イエス・キリストが共におられることは、神の御子が共におられるということであり、常に天の父の右の御座にいらっしゃって執り成す方が、自分の味方だということです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34

従って、何も欠けることがなく、「全体的である状態」が訪れて、結果として「世が与える…のとは異なる平安」がその人に満ちます。



この世の中で生きていると、時々、昔の自分がよく出くわしたような、居ても立ってもいられないような不安に陥れる出来事がやってきます。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなど。


昔の自分であれば、パニックになっていたような展開が、イエス・キリストを本当に信じて、本当に救われて、それと同時並行で、本当の聖霊が下った後でも、訪れることがあります。

「救われているはずなのに、なぜ?」というような出来事が訪れることがあります。
主イエス・キリストにあって、神の国がやってきて、その内にいるのに、なぜ、こういう、昔の自分に起こったような出来事が、今また再び起こるのか?そういう疑問が湧くような展開です。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなど。


しかし、そういう時でも、イエス・キリストは、

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

と教えています。なぜなら、何も欠けることがない、全体的な平安が、自分に訪れているからです。

そうやって、状況をよく見てみると、昔の自分がパニックに陥ったような不安な出来事は、よくよく見てみてば、主イエス・キリストにあって何でもない、ということがわかってきます。「なあんだ、何も恐れるものはないではないか」。別に、大したことではなかったということが、よく理解できてきます。

例えば、○○○○○○ができそうにない。
xxxxxxxが間に合わない。
△△△△△△がやってくる。
などなどに関して。


 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は、
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8:28

パウロは「私たちは神の作品だ」と書いています。何もないところから万物をお造りになった創造主であられるイスラエルの神。アブラハムに現れ、モーセに現れた神が、御子イエス・キリストによって、信じる人々の「父」になって下さいます。私たちを子供として取り扱って下さり、すべてのことが益となるように仕向けて下さるのです。

それはまるで、私たちイエス・キリストを信じる人々の一人一人において、イスラエルの神が、創造の御業をなさっているかのようです。