Courtesy of Pedro Szekely
使徒の働きの2章と5章には、初代教会のキリスト信徒が経験した「恐れ」に関する記述が3箇所あります。
この「恐れ」は、人がこしらえた”神”である三位一体の”神”を掲げているキリスト教会にいると、経験することがない、「生ける神」の、まさに「生きておられる」ご性格に伴う「畏怖」です。箴言にある「主を恐れること」の「恐れ」です。
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
箴言1:7
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「恐れ」について記しているのは、使徒の働きの以下の3つの場面です。
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。
使徒2:41-43
そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
使徒5:3-6
そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。入って来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
使徒5:9-11
この「恐れ」は、著名な宗教学者であるルドルフ・オットーが「聖なるもの」(岩波文庫)において「ヌミノーゼ」という言葉を用いて解明を試みた「経験」「印象」「感情」に連なりますが、もっとイスラエル的なものです。イスラエルの神に固有の特性です。
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ギリシャ語原典を確かめると、この使徒の働きの3箇所で記されている「恐れ」には、いずれも、ギリシャ語"phobos"(英字表記)が用いられています。
使徒の働き2:43のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/2-43.htm
使徒の働き5:5のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/5-5.htm
使徒の働き5:11のギリシャ語
https://biblehub.com/text/acts/5-11.htm
ギリシャ語"phobos"(英字表記)
https://biblehub.com/greek/5401.htm
HELPS Word-studies
5401 phóbos (from phebomai, "to flee, withdraw") – fear (from Homer about 900 bc on) 5401 (phóbos) meant withdrawal, fleeing because feeling inadequate (without sufficient resources, Abbott-Smith).
Fear (5401 /phóbos) is commonly used in Scripture – sometimes positively (in relation to God) but more often negatively of withdrawing from the Lord (His will).
[Fundamentally, 5401 /phóbos ("fear") means withdraw (separate from), i.e. flee (remove oneself) and hence to avoid because of dread (fright).]
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ギリシャ語の意味を確認すると、この「恐れ」は、日本語で言うと「腰が引ける」という言葉に盛り込まれている感覚に近いです。
人間とは全く異なる存在。天の父の「生ける神」である特性。「神が生きておられること」から生じる極めて不思議な現象。言葉することが難しい出来事。
そうしたものに触れて「腰が引ける」というのが、この「恐れ」です。
「非常な恐れ」と言うと、「腰が引けて、腰が立たなくなる」というぐらいだと思います。
そうした「恐れ」。ルドルフ・オットーが、シナイ山におけるモーセの経験を記述する際に用いた時の「ヌミノーゼ」。
これがあるのが、御子であられるイエス・キリストを信じることによって、自分たちもその子供にしてもらえた天の父。イスラエルの神。イエス・キリストが「唯一のまことの神」と呼んだ方。決して、人がこしらえた三位一体の”神”ではない「生ける神」。
この神が働かれる時、必ず、「しるし」「不思議」「奇蹟」と新約聖書に記されている事柄が起こります。そうすると、それに接した人には「恐れ」が生じます。これが「生ける神」と言われる理由です。