イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -41ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Damian Gadal

 

 

先日、米国の女優アン・ヘッシュ(Anne Heche)が大きな自動車事故を起こして意識不明となり、脳死と判定されて、事実上亡くなったということが報じられました。(臓器提供者であったため、脳死判定の後は、臓器移植の相手が現れるまで生命維持装置によって心臓が生かされている。しかし法的には脳死により故人)


アン・ヘッシュは、映画「サイコ」のリメイクでの出演が印象的だったのと、ハリソン・フォードと共演した「6デイズ/7ナイツ」の演技も強く印象に残っています。ファンまで行きませんが、その繊細なキャラクターが大変に気になる存在でした。

 

上の報道があっていくつか関連のページを見てみると、非常に特別な生い立ちを持った方だということがわかりました。

父親との近親相姦の過去も率直に語られています。

実に壮絶な人生です。



悪霊の問題を持った人も、同じく「壮絶な人生」と言う他ない人生を送ってきています。色々な方の話を聞いてきました。

悪霊がいるということ自体が、その人の本来の人格のねじ曲げであり、悪霊はそうしたものとして働きます。その人の自然な人格をねじ曲げるのです。個々の悪霊は、その由来により、それぞれが特殊なキャラクターを持っています。その特殊なキャラクターに、住み着いた人の人格を染め上げます。

そのため、その人は、非常に特殊な人生を歩むことになります。生きたくない生き方をさせられます。本来は、こなりたいと素朴に思っているのに、その真逆に行動をする羽目になってしまい、最も生きたくはない生き方が定着する形になります。そうして、自分を責め、後悔が尽きることがありません。(生きていた時のアン・ヘッシュが何を考えていたかを想像してみると良いでしょう)

10年20年単位で振り返ると、壮絶な人生を送ってきています。



もし、その人が、唯一の本当の神を愛する人であり、その御子イエス・キリストによって完全に自由になることができるという、わずかな信仰でも持っているのならば、その人は、そうした壮絶な人生から、穏やかな、神に祝福された人生へと移っていくことができます。

自分の人格をねじ曲げた悪霊から、イエス・キリストによって解放される道筋があります。


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Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
8月 14日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/dha-gwph-knn

交わり
8月 14日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/rqn-gahi-for


本日の礼拝テーマは、
「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。」とおっしゃる神
です。


見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。

まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。

イザヤ48:10-13
 

 

私たちが毎日のように見ており、経験していることは、「人は、造り主によって、どんどん変えられて行く」という事実です。

小学校低学年の頃にパソコンを与えられ、特殊なプライドがあることから、人付き合いをほとんどせず、ポルノに熱中するようになり、人を殺しまくるゲームに熱中するようになって、毎日ジャンクフードばかり食べていた20代後半の青年。

当然ながら、いくつかの悪霊が取り憑いていて、結果として、極度の対人恐怖症がある。知らない人と話せない。人混みの中に入っていけない。人が怖くて、いつでもビクビクして生きている。

人が怖いから仕事も長続きしない。誰とも心を打ち解けて話せない。

しかし、ある時から聖書を読み始めた。イエス・キリストの救いに気づいた。悪霊から解放されるということもわかった。

そうしてこの教会にたどり着いて、LINE電話で、相談をするようになった。

展開があり、この教会で暮らすようになった。

毎日の生活リズムが崩れている子だった。ジャンクフードをたくさん食べる。そうした生活のリズムと食生活を、叱られながら、怒鳴られながら、だんだんと正して行った。

対人恐怖がだんだんと薄れて行った。
笑うようになった。
一緒に食べるご飯をおいしいと言うようになった。



働く意欲が湧いてきた。
履歴書を書かなくても採用してもらえる勤務先を見つけた。
毎朝5時台、早い時は4時台に起きて行く職場。これまで経験したことのない肉体労働。しかし、大切な仕事だと考えて、毎日一生懸命にやっている。

一ヶ月経ち、二ヶ月経つと、だんだんと責任感も芽生えてくる。
神に感謝する気持ちも培われて来る。
あれだけ繰り返していた「自分は孤独です」が、出なくなった。
ジャンクフードを食べなくなり、健康な食生活を送っているうちに、体も元気になってきた。

ステパノのような微笑みがいつも漂うようになった。
話をするようになった。
対人恐怖は全く消えてしまい、職場でも仲の良い人が何人か出来て来た。
母親ともよく電話で話すようになった。



先日、うちの教会では、この教会で水のバプテスマを授けられた兄弟姉妹7名全員で、福井県の水晶が浜という海水浴場に出かけました。

その時の各自のはしゃぎぶり。
それこそ子供に戻ったかのような、内から自然にあふれる楽しさ。

この20代後半の兄弟も、実は、本格的な海水浴は初めてで(子供時代は引きこもっていましたから)、海水に浸かることから、海で遊ぶことから、等身大の”ジンベイザメ”に乗っかることから、初体験ばかりでしたが、大いに楽しんでいました。

 



このように、人はどんどん変えられて行きます。
それは、イエス・キリストを信じる信仰によって、人間を何もない所からお造りになった創造主=天の父が、その人の本当の父親になって下さることによって起こります。半年もあれば、大きく変えられます。1年経てば、誰の目から見てもはっきりと変えられています。

 

 



そういう、人間が、どんどん変えられるというのは、本当の神にしかできないことです。
本当の神とは、人間の創造主であられますから、どんどんその信じる人を変えるということが、おできになる方です。

聖書全巻を通じて、この神の働きが書かれています。


この本当の神に、御子イエスが唯一のまことの神とおっしゃった方に、イエス・キリストを信じる信仰によって、結び付けられるのです。
 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。

マタイ15:24

 

イエス・キリストは、イスラエルの神であられる天の父のひとり子であり、そもそもは、イスラエルの民のメシアです。

イエス様ご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」とおっしゃっているように、「イスラエルの家の失われた羊」に遣わされているのが、イエス・キリストの本来の立場です。

 

それが、異邦人であっても、イエス・キリストを「ダビデの子」と信じる信仰があることによって、イエス・キリストはその人においてもメシアとなるのです。

 

すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。

マタイ15:22-24

 

私たち日本人も、聖書をよく読んで、イエス・キリストの系譜/系図をよく理解し、イエス・キリストがダビデの子だと言われるゆえんを理解して、それを信じるならば、イエス・キリストの救いにあずかります。ヨハネの福音書1章に書いてあるように、神の子供となるのです。

 

 

 

 

 

 

Courtesy of J_D_L

 

 

この歳になって、このように、まったく新しい幸せを、毎日のように経験できるようになるとは思わなかった。

そもそも、幸せとは、私の人生においては、縁遠いもので、思い返せば、高校生の頃に現代国語の課題で読まされた三木清「人生論ノート」とか、亀井勝一郎の幸福に関する短文によって、教育的に読まされて、現代国語的に考えさせられて、優等生的な解答を書く…つまり、幸せとはこれこれこのようなものである、と知的に理解する類のものであって、考えたり論じたりはするけれども、実生活においては、あまり感じることのない、自分とは縁のないものだと考えていた。

現代の日本人のほとんどが同じように考えていると思う。「幸せか…へっ」みたいな。「幸せ」のことを考えると気恥ずかしくなって、「幸せ」のことを考えるのは、中学生かせいぜい高校生であって、世の中の辛酸がわかるようになると、普通は「幸せ」のことを考えたりしないものだと、大人ぶって考えるようになる。それ以降は「幸せ」について、真面目に考えることはなくなって、人生を送り暮らす。そうして四十になり、五十になる。少なからぬ人は離婚を経験する。結婚が続いていても、夫婦関係は惨憺たるものになっている。子供も育つが…。




イエス・キリストが十字架の自己犠牲と三日目の復活によって切り開いた「幸せ」は、創世記でアダムに語りかけていた創造主である神が、自分の「親父/アバ」になって、親しく交わって下さる、おおよそ、現代人的な論理的な受け止め方では受け止め切れない、想像をはるかに超えたものだ。しかし、福音書を曇りのない目で読めば、それがそのままに書いてある。また、パウロ書簡の各所にも、それがその通りに書いてある。

創世記には、創造主である神がアダムに語りかける場面がある。あれと同じように、イエス・キリストを信じる信仰によって「親父/アバ」になって下さった神が、言い換えれば、天の父が、自分に語りかけて下さる。それも人生において一度、二度と限られた回数ではなく、毎日のように。

これはカルト的な信仰でも何でもなく、ヨハネの手紙第一の冒頭に書かれていることだ。ヨハネのグループが1世紀当時に行っていた御父と御子との交わり。これはヨハネの福音書4章に書かれている、天の父は霊であるから霊とまことによって礼拝しなければなりませんという事。それとニアリー・イコールだ。この霊とまことによる礼拝は、天にいらっしゃって、天の父の右の御座に着かれていて大祭司の役目をも持つイエス・キリストを通して行うから、つまりは御父と御子との交わりということになる。しかも、それは天の父から御子イエスの名によって遣わされた霊である聖霊を介在させて、その交わりが実現する。この交わりは純粋に霊的なものだ。



残念ながら人がこしらえた”神”である三位一体の側に行ってしまった教会群 -- それは西暦325年〜381年といったはるか昔に起こった -- では、使徒の働きに記されている聖霊が下らないから、この御父と御子との交わりを経験することがない。

従って、創世記のアダムに神が語りかけるのと同じことを、経験することができない。おそらく、天の父からいつも声をかけられている。それが主イエス・キリストの十字架と復活のゆえに可能になっていると書いても、また、言っても、三位一体の教会群にいる人達にとっては、ちんぷんかんぷんだろう。



この生ける神である天の父。天の父がいつもおそばにいるという感覚。その右の御座ではイエス・キリストが執り成して下さっているから、イエス・キリストもいつもおそばにいらっしゃる。そうして自分の内には、天の父から御子イエスの名で遣わされた神の霊である聖霊がいる。ヨハネ14章〜17章で繰り返し繰り返し説明されている「信じる人」がいただける霊的な図式だ。

絶対的な安心感が、そこにはある。
空も風も木も草も、その辺にいる小動物も、そこを歩いている一人ひとりの人間をもお造りになった神が、イエス・キリストのゆえに、自分の「親父」となって、影に日向に自分に付き添って下さっている。声をかければ、答えて下さる。

イエス・キリストは「この世のものとは異なる平安」と書いた。まさにそうした絶対的な平安がある。



また、この安心感=平安=言葉に尽くせない幸せな感覚は、内から湧いてくるものでもある。こんこんと泉のように湧いてくる。これをイエス・キリストは「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言っている(ヨハネ7:38)。

これを、プロテスタント教会のように、ヨハネの福音書7章38節に、これこれこのように書いてあると引用するのではなく、これを、毎日、経験する。経験できる。聖句を、引用するのではなく、経験できることが違う。

イエス・キリストのお言葉は、すべて、引用するものではなく、経験できる神の言葉。すべてそのままに成就する神の言葉。その成就を、毎日の生活のありとあらゆる場面で見ることになる。それが「生ける神」。神が生きてそこにいらっしゃること。この神は、イエス・キリストのゆえに、天の父である。アダムをお造りになった神である。

 

この神から、恵みと慈しみが追いかけてくる祝福がやってきて、自分や家族や周囲を満たして下さる。