イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -42ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

撮影:今泉大輔

 

 

孤独は、近代文学のテーマであり、「罪と罰」のラスコーリニコフから「羊をめぐる冒険」の僕に至るまで、その主人公と不即不離の関係にあります。孤独であるから、ストーリーがある。ストーリーは孤独を起点として出発する。そうしてまた孤独に戻る。そういう図式があると思います。



イスラエルの神が、ご自身の愛される民「イスラエル」をメシアであるイエスによって救うという、旧約聖書と新約聖書を貫くテーマがよくわかってくると、「孤独」は「イスラエル」の対極なのだということが見えてきます。

「イスラエル」は、本源的に「家族」です。アブラハムを族長とする家族です。十二支族に分かれるとは言え、同じ血を引く家族です。また、異邦人である我々も、イエス・キリストを信じる信仰により、このイスラエルに加えてもらえます。我々も、イスラエルの家族になるのです。それは天の父を本当の父とする家族であり、主イエス・キリストが長兄である家族です。神の家族です。

家族ですから、皆が助け合います。家族ですから、皆が愛し合います。イエス・キリストの新しい戒めで「互いに愛し合いなさい」と言われている所以です。イエス・キリストは、あなた方は先生と呼ばれてはなりません。「兄弟」ですと説いています。同じ意味です。家族なのです。



村上春樹的な孤独は、現在を生きている人のほぼ全員が持っているものです。

働いている場所で孤独。
学校に通っていて孤独。
通勤や通学の時に孤独。
家に帰っても孤独。
土日も孤独。
結婚していても孤独。
子供がいて家族になっていても孤独。
子供も孤独。
親も孤独。

教会に毎週日曜日に通っていても孤独。
教会でも孤独。
礼拝中も孤独。

この「孤独」は、近代現代固有の悪霊であり、人のプライドと不即不離にあるものだということが、悪霊の追い出しのケースをいくつも見てくると、よくわかります。



近代小説は客観的な位置にいる書き手が主人公の一挙手一投足を「見ながら」記述して行きます。書き手はある意味で神のような立場にいます。

現代人は、ほとんどの人が、同じように神のような立場から自分の行動を客観的に見ています。自分の行動や生活の細部を、神のような立場から眺める自分がいます。そうして、自分と他者をひき比べます。自分は劣っているのか、優れているのか。自分の家族は劣っているのか、優れているのか。ほぼ全ての生活行動が、自分は優れているのか、劣っているのかを確かめるためになされるようなところがあります。

他者と比較して、自分が優れていればよし。
自分が劣っていれば落ち込む。
その繰り返しです。

これがその悪霊のなせる業です。「孤独の霊」と言って良いでしょう。



悪霊は、それぞれキャラクターがあり、行うことは千差万別ですが、一つ共通するのは、「その人の望まないことを、繰り返し繰り返し、その人にさせる」ということがあります。望んでいないのに、そういう行動をしてしまうのです。そうして、それを繰り返します。朝昼晩。1年365日。

偏執狂という言葉がありますが、ある個別具体的な領域における偏執狂。それが悪霊だと言っていいでしょう。例えばセックス中毒も、それをさせる悪霊です。淫乱の霊、セックス中毒の霊、乱交(オージー)の霊、などなど。

孤独の霊は、孤独を繰り返させる霊です。来る日も来る日も孤独であり続けます。自分が望んでいないのに、孤独から始まり、孤独に終わる日々を繰り返しその人に強います。



現代のキリスト教会に通う人達のほとんどが、孤独の霊に取り憑かれていると受け止めています。過去に十数年通った三位一体を掲げる教会でも、そうした方々を見ましたし、私自身がそうでした。また、色々な集会やネットで交流したクリスチャンのほとんどが、本源的な孤独を抱えていました。それから逃れる術を知りませんでした。

みんな村上春樹的な孤独を抱えていました。親でも子供でも。



イスラエルは家族であり、兄弟姉妹です。
イエス・キリストを長兄とする家族です。
天の父が本当の父になります。

使徒の働きで記されている初代教会が本当に回復すると、その、家族であることがよくわかる毎日を送ることができるようになります。そこには「孤独」がありません。
孤独の霊は、イエス・キリストの名と権威によって駆逐されます。怒鳴りつけられて、居場所がなくなって、出て行きます。

孤独は、イエス・キリストの名と権威によって、怒鳴りつけられて、叱られまくらない限り、出て行きません。

 

 

Courtesy of Ted Eytan

 

 

私たちが経験しているのは、「兄弟姉妹が互いに愛し合う中で天の父と御子イエスが働かれる」という真理です。ある意味で、聖書の記述を頼りに、使徒の働きやパウロ書簡に描かれている初代教会をモデルとして、実験をしていると言っても良いです。なぜなら、世界のどこにもお手本がないのですから。

兄弟姉妹が互いに愛し合っている、まさにその真っただ中で、主イエス・キリストの執り成しが起こり、全知全能の神であられる天の父の究極の御業である「愛」が現れるのです。これを何度も経験しています。

これはプロテスタント的な聖書理解からは、理解し得ない福音書的な真実であり、生ける神であられる天の父と、生ける神の御子であられる主イエス・キリストの本当のお姿です。イエス・キリストの教えを愚直に行うことによってのみ経験することができる、神の真実です。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
第一ヨハネ4:8



昇天された主イエス・キリストが「神」であられる天の父の右の御座にいらっしゃって、ご自分を信じる人たちのために執り成しておられる。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34

この執り成しが起こるためには、主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」を愚直に守ることが不可欠なのです。「互いに愛し合いなさい」を行なっている兄弟A、姉妹B、兄弟C、姉妹Dといった、最低で二人以上のキリスト信徒の集まりにおいて、神の御業が必要なもっともクリティカルな時に、主イエス・キリストが、その戒めを守るキリスト信徒の愚直な姿をご覧になって、執り成して下さるのです。そうして、全知全能の神であられる天の父が動かれるのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13:34

これはヨハネがヨハネの手紙第一でも繰り返し、繰り返し述べていることです。




従って、孤立しているクリスチャンには、このことは起こらないのです。(孤立しているクリスチャンには、アイデンティティの深い所に、プライドがあります。)


また、高い所に立って説教をしている牧師にも、このことは起こらないのです。

さらには、高い所に立って教会を監督している人達がいる教会 -- つまり、信徒間には自由に行動することが許されていない=主イエス・キリストの戒めを守って自由に互いに愛し合うことが許されていない教会においても、このことは起こらないのです。

ヨハネ14章〜17章を熟読すると、天の父と御子イエスとの関係は、互いに愛し合う関係だとわかります。この「互いに愛し合うこと」が、神の似姿です。創世記においてアダムを「我々のかたちに」「我々に似たものとして」お造りになった。つまり、天の父と御子イエスとが互いに愛し合う姿に似たものとして、人間アダムをお造りになった。

従って、アダムとエバがサタンである蛇の言うことを聞いていなければ、アダムとエバ、そうしてそこから派生する一族は、神の御前で、互いに愛し合う兄弟姉妹として=神の家族として、互いに愛し合っていたはずです。それをサタンが壊した。

 

象徴的なことに、アダムとエバの初めの子供二人において、殺人が起こっています。これが「兄弟姉妹が互いに愛しあわない」状況です。神に反する者であるサタンの影響を受けています。それが、ずっと、現在に至るまで続いているのです。兄弟姉妹で互いに愛し合うことがないまま、現代に至っているのです。



そのため、主イエス・キリストは、神学的な理解では理解し得ない「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を弟子たちに説かれた。これは、天の父と御子イエスが天において互いに愛し合っている。その似姿になりなさいという教えです。

これが、三位一体の"神"を掲げる従来のキリスト教会では、まず不可能です。なぜなら、多かれ少なれ知を愛する(ソフィアを愛する)グノーシスの霊的な伝統を受けているからです。三位一体の源流にある325年ニカイア公会議に集まった司祭達は、グノーシスと新プラトン主義の霊的なバックグラウンドを持つ人達であることが、資料によって明らかとなっています。グノーシスから派生した神学が基底にあるキリスト教会の教職者は、別な"神"である「知」を暗黙的に崇拝しているがために、素朴な、イエス・キリストの新しい戒めに、「降りてこられない」のです。ソフィアを愛する高い所から(神学を愛する高い所から)降りてきて、兄弟姉妹のフラットな関係の中に自分の身を置くことができないのです。そこにはサタンの本質であるプライドが潜んでいます。

神学の薫陶を受けた人達は、気づかないうちに、グノーシス

 

Gnosticism

 

の霊的な影響を受けていて、イスラエルの神よりも先に、「知」(その実、グノーシスの"神"であるソフィア)を愛してしまうのです。それはれっきとした偶像崇拝であり、隠れた偶像崇拝な訳ですが、それがゆえに、イスラエルの神であられる天の父がわからない。従って、その御子であられる主イエス・キリストも、経験的に理解することがないのです。死んだ文字によって、死んだ神学概念によって、死んだ知識によってのみ、主イエス・キリストをおぼろげながら思惟することしかできないのです。

 

それがため、イエス・キリストの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」に関して、目隠しされている状態です。


教える人(牧師、司祭)自らが、互いに愛し合うことができない場にいる。高い所にいる。だから「互いに愛し合いなさい」を教えることができない。率先して実践し、信徒達にお手本を見せることができない。

イエス・キリストは、あなた方は先生と呼ばれてはなりません。なぜならあなた方は兄弟だからですと、説かれました。きつく戒めたという感じです。

広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

マタイ23:7-8

従って、そうした教職者に教えられる教会群にいるクリスチャン達は、主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」をよく経験することができないまま、教会生活を終えます。それはすなわち、天の父と御子イエスが働かれて展開する愛の御業を経験することがないまま、教会生活が終わってしまうということです。




そうした状況だと、互いに愛し合う天の父と御子イエスは、その人達に御業を現すことができないのです。なぜなら、「異質な人達」だから。天の父と御子イエスとに「似ていない人達」だから。

天の父は、主イエス・キリストにあって、「知っておられる人」を選んでいます。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

ローマ8:29-30

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:2

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:4

従って、互いに愛し合うことがない人達は、天の父と御子イエスから見て「知らない人」だということです。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
マタイ10:33

(ここの聖句は、英語訳では、

But whosoever shall deny me before men, him will I also deny before my Father which is in heaven.

 

「人前で私を否定する人は誰でも」と言う訳し方がしてあって、それはつまり、イエス・キリストの教えを否定する人は誰でも、ということです。)

イエス・キリストの新しい戒めを守らない人は、裁きの時に、主イエス・キリストから「私はあなたを知らない」と言われます。
 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

預言:ほぼ全てのキリスト教会の牧師の言動が聖書から外れていることに信徒が気づく

 

 

心あるキリスト信徒(あえてクリスチャンと呼びません)は、日頃接している牧師の言動が、聖書から外れていて、自分独自の経験談や自分独自の考え方を宣べ伝えているということに気づき始めます。イエス・キリストの神の国の福音を宣べ伝えるのではなく、「自分を宣べ伝えている」風がかなりあることに、違和感を覚えるようになります。

 

これは新約聖書で書かれている「惑わす霊」が、その教会に、その指導者に、送り込まれているために起こります。

 

 

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、うそつきどもの偽善によるものです。

第一テモテ4:1-2

 

惑わす霊の働きは、第一列王記22章、および、第二歴代誌18章に出てきます。

これは、旧約聖書の神である主、新約聖書の天の父から送られる、御心に基づく悪霊です。

 

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霊的な背景説明。

三位一体のキリスト教会群は、黙示録に出てくる「竜」。ギリシャ語ドラコーン。これの霊的な支配下にあります。ドラコーンもルシファー/明けの明星と一緒に天から落ちた御使いの一つ。固有名詞のある霊。崇拝されることを好む霊。本質からして反キリスト。反イスラエルの神。

また、ドイツのマルチン・ルターが創始したプロテスタント全体の流れは、ドイツの争いの”神”ヴォータン(Wotan)の霊的な支配下にあります。このため、常に、論争が絶えません。常に、分派が繰り返されて行きます。一致がありません。

 

従来、これらを暴く、神から召された人はいませんでした。

今、これらを暴く預言者が、天の父から任命されて、これらを暴き始めたことで、これら、今まで隠れていた反キリストの霊、イスラエルの神に反する霊が、暴かれたことで、怒って、自分の最後が近いことを悟り、大暴れをするようになります。黙示録12章、13章に書かれている通りです。

 

それと同期して、上記の惑わす霊が、色々な、(三位一体を掲げてきた)キリスト教会に所属する人々に働くようになります。心あるキリスト信徒は、それを、聖書に照らして見抜くので、強烈な違和感を覚えるようになります。

 

 

 

 

 

Courtesy of Elke Mader

 

 

色々なケースを見てくると、悪霊の問題は(問題がある方は通例複数の悪霊に取り憑かれています)、20年間、その人を苦しめ続けてきています。おおむね20年ということです。現在、30歳の方なら10歳頃からそれが始まっている。現在、25歳の方なら5歳頃からそれが始まっている。

始まりは、ほぼ全てのケースにおいて、自慰行為です。
この自慰行為は、父親ないし母親に、成熟していない父、成熟していない母という人格的な問題があり、スキンシップが圧倒的に不足していることから起こる、と見て間違い無いです。従って、幼少期、数歳の頃から自慰行為が始まります。女性に多いと思います。(岡田尊司精神科医が説明している「愛着」の問題です)



自慰行為はありとあらゆるイマジネーションを伴います。このイマジネーションに燃料を与えるのが、外界にある、つまりメディアにあふれているビジュアルです。性的なビジュアルということです。これが幼少期の男児、女児の目に飛び込んできて、自慰行為の燃料となる。すると…。そのイマジネーションがだんだんとエスカレートして行きます。

男児でありながら女児でありながら、極めて重度の性的な興奮を、リアリティのあるビジュアルによって掻き立てて自慰行為を毎日のように行う。ここへ、性的な事柄に関する悪霊が入る余地ができます。そうして、悪霊が入る。すると…。

その人は例えば十数歳でありながら売春をするようになる。不特定複数の異性との性交渉にふけるようになる。すると…。なお一層、性的な事柄に関する悪霊が入る。だんだんと悪霊のデパートのような様相になってくる。



女性の場合は、ここから、スピリチュアリズムに突入して行きます。悪霊がいる居心地の悪さから、手っ取り早く「感覚的に」解放されるためです。占い、ヒーリング、パワーストーン、アウラ、チャクラ、瞑想、能力開発、男性の心のコントロール…。
そうすると、それぞれのスピリチュアリズムの背後にいる、タチの悪い悪霊がまた入る。どんどん、悪霊のデパート化して行きます。



このようにして、気づいてみると20年間。その人は例えば30歳になっている。その人には重度の対人恐怖症が伴っている。社会不適応がある。人間関係がうまく作れない。怒りやすい。すぐに暴力的な行動に出てしまう。異性との関係もうまくいかない。長続きしない。離婚を繰り返す(←過去の私です)。



こうした方を、精神科医の治療だけで癒すことはできるか?
精神医学で、取り憑いた悪霊は出ていくのか?

答えは、各自が、経験によって確かめるほかないでしょう。



聖書には何と書いてあるか?
悪霊の問題について、どう書いてあるか?
その人は聖書に書いてあることを、リアリティがあると、信じるのか?
イエス・キリストなら解放できると、本当に信じるのか?

すべては、その方の、信仰次第です。