兄弟姉妹が互いに愛し合う中で天の父と御子イエスが働かれる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

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1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Ted Eytan

 

 

私たちが経験しているのは、「兄弟姉妹が互いに愛し合う中で天の父と御子イエスが働かれる」という真理です。ある意味で、聖書の記述を頼りに、使徒の働きやパウロ書簡に描かれている初代教会をモデルとして、実験をしていると言っても良いです。なぜなら、世界のどこにもお手本がないのですから。

兄弟姉妹が互いに愛し合っている、まさにその真っただ中で、主イエス・キリストの執り成しが起こり、全知全能の神であられる天の父の究極の御業である「愛」が現れるのです。これを何度も経験しています。

これはプロテスタント的な聖書理解からは、理解し得ない福音書的な真実であり、生ける神であられる天の父と、生ける神の御子であられる主イエス・キリストの本当のお姿です。イエス・キリストの教えを愚直に行うことによってのみ経験することができる、神の真実です。

愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
第一ヨハネ4:8



昇天された主イエス・キリストが「神」であられる天の父の右の御座にいらっしゃって、ご自分を信じる人たちのために執り成しておられる。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34

この執り成しが起こるためには、主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」を愚直に守ることが不可欠なのです。「互いに愛し合いなさい」を行なっている兄弟A、姉妹B、兄弟C、姉妹Dといった、最低で二人以上のキリスト信徒の集まりにおいて、神の御業が必要なもっともクリティカルな時に、主イエス・キリストが、その戒めを守るキリスト信徒の愚直な姿をご覧になって、執り成して下さるのです。そうして、全知全能の神であられる天の父が動かれるのです。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
ヨハネ13:34

これはヨハネがヨハネの手紙第一でも繰り返し、繰り返し述べていることです。




従って、孤立しているクリスチャンには、このことは起こらないのです。(孤立しているクリスチャンには、アイデンティティの深い所に、プライドがあります。)


また、高い所に立って説教をしている牧師にも、このことは起こらないのです。

さらには、高い所に立って教会を監督している人達がいる教会 -- つまり、信徒間には自由に行動することが許されていない=主イエス・キリストの戒めを守って自由に互いに愛し合うことが許されていない教会においても、このことは起こらないのです。

ヨハネ14章〜17章を熟読すると、天の父と御子イエスとの関係は、互いに愛し合う関係だとわかります。この「互いに愛し合うこと」が、神の似姿です。創世記においてアダムを「我々のかたちに」「我々に似たものとして」お造りになった。つまり、天の父と御子イエスとが互いに愛し合う姿に似たものとして、人間アダムをお造りになった。

従って、アダムとエバがサタンである蛇の言うことを聞いていなければ、アダムとエバ、そうしてそこから派生する一族は、神の御前で、互いに愛し合う兄弟姉妹として=神の家族として、互いに愛し合っていたはずです。それをサタンが壊した。

 

象徴的なことに、アダムとエバの初めの子供二人において、殺人が起こっています。これが「兄弟姉妹が互いに愛しあわない」状況です。神に反する者であるサタンの影響を受けています。それが、ずっと、現在に至るまで続いているのです。兄弟姉妹で互いに愛し合うことがないまま、現代に至っているのです。



そのため、主イエス・キリストは、神学的な理解では理解し得ない「新しい戒め」である「互いに愛し合いなさい」を弟子たちに説かれた。これは、天の父と御子イエスが天において互いに愛し合っている。その似姿になりなさいという教えです。

これが、三位一体の"神"を掲げる従来のキリスト教会では、まず不可能です。なぜなら、多かれ少なれ知を愛する(ソフィアを愛する)グノーシスの霊的な伝統を受けているからです。三位一体の源流にある325年ニカイア公会議に集まった司祭達は、グノーシスと新プラトン主義の霊的なバックグラウンドを持つ人達であることが、資料によって明らかとなっています。グノーシスから派生した神学が基底にあるキリスト教会の教職者は、別な"神"である「知」を暗黙的に崇拝しているがために、素朴な、イエス・キリストの新しい戒めに、「降りてこられない」のです。ソフィアを愛する高い所から(神学を愛する高い所から)降りてきて、兄弟姉妹のフラットな関係の中に自分の身を置くことができないのです。そこにはサタンの本質であるプライドが潜んでいます。

神学の薫陶を受けた人達は、気づかないうちに、グノーシス

 

Gnosticism

 

の霊的な影響を受けていて、イスラエルの神よりも先に、「知」(その実、グノーシスの"神"であるソフィア)を愛してしまうのです。それはれっきとした偶像崇拝であり、隠れた偶像崇拝な訳ですが、それがゆえに、イスラエルの神であられる天の父がわからない。従って、その御子であられる主イエス・キリストも、経験的に理解することがないのです。死んだ文字によって、死んだ神学概念によって、死んだ知識によってのみ、主イエス・キリストをおぼろげながら思惟することしかできないのです。

 

それがため、イエス・キリストの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」に関して、目隠しされている状態です。


教える人(牧師、司祭)自らが、互いに愛し合うことができない場にいる。高い所にいる。だから「互いに愛し合いなさい」を教えることができない。率先して実践し、信徒達にお手本を見せることができない。

イエス・キリストは、あなた方は先生と呼ばれてはなりません。なぜならあなた方は兄弟だからですと、説かれました。きつく戒めたという感じです。

広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

マタイ23:7-8

従って、そうした教職者に教えられる教会群にいるクリスチャン達は、主イエス・キリストの新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」をよく経験することができないまま、教会生活を終えます。それはすなわち、天の父と御子イエスが働かれて展開する愛の御業を経験することがないまま、教会生活が終わってしまうということです。




そうした状況だと、互いに愛し合う天の父と御子イエスは、その人達に御業を現すことができないのです。なぜなら、「異質な人達」だから。天の父と御子イエスとに「似ていない人達」だから。

天の父は、主イエス・キリストにあって、「知っておられる人」を選んでいます。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

ローマ8:29-30

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
第一ペテロ1:2

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
エペソ1:4

従って、互いに愛し合うことがない人達は、天の父と御子イエスから見て「知らない人」だということです。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
マタイ10:33

(ここの聖句は、英語訳では、

But whosoever shall deny me before men, him will I also deny before my Father which is in heaven.

 

「人前で私を否定する人は誰でも」と言う訳し方がしてあって、それはつまり、イエス・キリストの教えを否定する人は誰でも、ということです。)

イエス・キリストの新しい戒めを守らない人は、裁きの時に、主イエス・キリストから「私はあなたを知らない」と言われます。