イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -43ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。
本日は月の初めの礼拝ということで聖餐式を行います。パンとぶどう酒をご用意下さい。

礼拝
8月 7日 (日曜日) · 午前10:00~11:00(5分前から入れます)
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/uwj-dwob-oji

聖餐式・交わり
8月 7日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/ebt-kaer-jhf

本日の礼拝テーマは、「天地万物をお造りになった神の子供にして下さる聖霊」です。

聖書には、その人が、神の子供になることができる御霊=聖霊というものがある、ということが書かれています。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
ローマ8:15

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ヨハネ1:11-12

この「天地万物をお造りになった神の子供にして下さる聖霊」について、聖書の記述を元に確認をします。

 

Courtesy of Ted Eytan

 

 

悪霊の問題がある人は、普通、食生活がおかしくなっています。

例えば、ジャンクフードを食べ続ける生活を20年間送ってきた。(ゆえに不眠があります。腸内細菌のフローラが破壊されているので)

例えば、三食三食をきちんと食べない。食べたり食べなかったりする。(うつが同時並行で存在しています)

例えば、様々な主義主張に基づく「偏食」がある。ある強烈なポリシーがあって、これは食べないあれは食べないという「食べない」ものだらけであり、実質的に会食ができない食生活に陥っている。「食べないもの」だらけなので、人と一緒に食事を楽しむということができない。



悪霊からの解放は「プロセス」であり、その人の過去20年間続いてきた悪癖からの脱却です。悪癖はその人の生活のありとあらゆるところに存在していて、それが食生活にも表れています。

例えば「孤独の霊」に取り憑かれている人は、ありとあらゆるスキを捉えて、ひたすら「孤食」の機会を追求します。過去の私がそうでした。

「自堕落の霊」に取り憑かれている人は、ゲームを1日10時間以上やり続け、スナック菓子を食べ続け、カップヌードルを食べ続け、まともな食事をせずに数日間、数ヶ月間暮らして、体がおかしくなっています。

「うつの霊」に取り憑かれると、ひたすらダウン、ダウンの日々で、食事に対する興味を失ってしまいます。体調維持のため、最低限の食事は摂るとしても、「食事に楽しみを求める」自然な希求は欠落していて、食べることに何の楽しみもありません。

 

摂食障害もそうです。摂食障害は、過去に接した事例から言えば、スピリチュアルをやり続けた人に見られる弊害です。おそらくは、その人には、「人(その人自身)を殺す霊」が取り憑いていて、長期間にわたる緩慢な死へと進ませています。

こうした悪霊に取り憑かれている人においては、食べ物が、天地創造の際の人間に与えられた大きな祝福の一つであることが、その人の日々の生活から削ぎ落とされています。

神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。
創世記1:29

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
創世記2:9



食事は祝福なのです。一つ一つの食べ物は、祝福されているがゆえにおいしいのです。


祝福は食事に現れます。それも一度や二度ではありません。毎日毎日の三度三度の食事が、すべて、天の父と主イエス・キリストによって祝福されるのです。おいしいのです。私たちの教会では、それを毎日経験しています。一緒に食べるどの兄弟姉妹も(13歳の息子も←信仰告白をし水のバプテスマを授けられています)、一食一食、この上ないおいしさを味わって、楽しんでいます。主イエス・キリストの名によって、神である天の父に感謝しています。



従って、こうした悪霊の問題がある人には、まず、一日三回の食事を、きちんと摂ってもらうことから始めます。

一日三回の食事を、毎日決まった時間に摂ることに、どういう意味があるのか?
これは、言葉で説明するだけでは、理解できません。


毎日毎日、巡ってくる新しい日において -- その一日一日も御父と御子によって祝福されています -- 朝ごはんなら午前7時、昼ごはんなら正午、晩御飯なら午後7時。こうした決まった時間に食事を摂って、 毎日の生活のリズムを作っていくことが、人の人生においていかに大事か。それを、毎日経験してもらうことで、体で学んでもらうのです。規則正しい生活が、いかに、人生の喜びにつながっているのか。いかに神の祝福を受け取るために、不可欠な事柄なのか。

また、その三度の食事も、おいしいからこそ、喜びが湧いてくるのです。

料理の才能があるから三度三度の食事がうまい、というのとは違います。前投稿の写真を見てもらえばわかりますが、メニューとしては日本の食卓で提供されている、ごく普通のメニューばかりです。食材も凝ったものを使っている訳ではありません。

そうした普通の食事を、僭越ながら小職が毎食作らせていただいて、何をどう作ればいいか、どういう調味をすれば良いのか。味のベースは何から出来上がるのか。どうすれば美味しくなるのか。実は、その都度、リアルタイムで、ジャズの即興演奏のように、聖霊が気づかせてくれます。さっと頭に浮かぶのです。「これは、こうした方がいいよ」。「そろそろ火を止めた方がいいよ」。「(香辛料を振りかける際に)それは多すぎるよ」。そうした、聖霊から来るアドバイスが、毎食毎食の食事作りにおいて起こります。

夕食など、事前にメニューを決めている時もありますが、メニューを全く決めていないで、例えば、日曜礼拝が終わった後の昼食など、手元にある食材を見ていると、さっと、「あれを作るといいよ」という考えが浮かびます。それに従って作ると、ものすごくおいしいのです。

こうしたおいしい食事を毎日、三度三度、食べるという生活を続けていると、20年間、ゲーム(殺人しまくりのゲーム)とポルノ(度を越したジャンル)と自慰行為にまみれて育ってきた青年が、徐々に、変化していくのです。

神に感謝する人に、変えられていくのです。




 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

主イエス・キリストにある神の人(第一テモテ6:11、第二テモテ3:17)の祈りは、天の父と主イエス・キリストに聞かれています。特に、その神の人の生死がかかるような、神の国の建て上げが成就するかどうかがかかるような、そういう土壇場の局面における祈りは、必ず、聞かれています。

しかし、祈りの内容の成就は起こらない…ように見えます。すぐには成就しません。
祈りが聞かれていないのかと思ってしまいます。



これは、天の父が、神の人に与える試練です。試練については、パウロも書いていました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
第一コリント10:13

ここに書いてあるとおり、神=天の父は、ご自分の息子たち娘たちに試練を与えられる方なのです。生きるか死ぬか、というような試練が、神=天の父によって、その人に降り注ぐのです。これは、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野で経験した試練を思い浮かべれば良いでしょう。カナンの地に入る前には、荒野の試練が必要なのです。イスラエルの神=天の父は、そうした試練を神の人に与えるのです。



この試練がある間、祈りは聞かれていないように思えます。



しかし、祈りは聞かれています。このことを最もよく教えているのがダニエル書10章です。
ダニエルが断食をしてイスラエルのために祈り始めた時、すぐにこの祈りは天で聞かれていました。新約聖書を含めた「天」に関する知識で言うなら、この「天」(英訳聖書では複数形です。天が複数階層あります)には、天の父と、その右の御座に御子であられるイエス・キリストと、聖書の記述を元に推計すれば億単位の御使いがいます(黙示録5:11)。

従って、生死を分けるような局面にある時、その人が迫害されており、大変な重圧にある時に、「イエス」のヘブライ語名表記"Yehoshua"の意味である"YHWH + a cry for help"、つまり、唯一の神であるYHWH(イスラエルの神)に向かって助けて!と叫ぶ。その祈りは、捧げた瞬間に、天で聞かれているのです。

しかし、複数形の「天」には、パウロがエペソ6章で書いているように「天にいる諸々の悪霊(複数形)」もいます。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
エペソ6:12

階層構造になっている「天」には、諸々の悪霊どもがいる階層もあるのです。

そこにいる悪霊ども
=ルシファー/明けの明星(イザヤ14:12)=竜(黙示録12:9)と共に落とされた御使い達(おそらく数千万。御使いの1/3、黙示録12:4)
=普通名詞のサタン
=一つ一つが固有名詞を持って国々で崇拝されている”神々”ないし”諸仏”、霊ども

そうした無数の固有名詞を持つ霊どもが、下層の天にはいて、祈りの成就を妨げているのです。それがダニエル書10章によく描かれています。ここでは「ペルシャの君」という固有名詞で出てきます。ペルシャで崇拝されている"神"だと解釈できます。



従って、祈り始めて、二十一日間(象徴的な意味があります。天地創造の日数の3倍)は祈りが聞かれない。

この間、天では戦いが起こっています。
主イエス・キリストにあって、天の父にかしづく御使いたちと、下層の天に蝟集していて天の父とイエス・キリストに敵対する普通名詞サタン、無数の固有名詞を持つ地域地域の"神々”とが、その神の人の祈りが成就しないように、また、その神の人の祈りが成就するように、戦っています。

これがあるため、「持ちこたえる」ことが必要になるのです。

ヤコブが「イスラエル」と呼ばれるようになったエピソード。つまり、人間として現れた神と夜中じゅう戦っていたエピソード。あれの後で、ヤコブはイスラエルという名前を与えられました。

この「イスラエル」の意味を、原文で確かめると、"I persist."(持ちこたえる)という意味と"God"という意味が組み合わさっています。

つまり、神にあって持ちこたえる人、という意味が「イスラエル」です。

イスラエルの民は、神にあって持ちこたえる人々なのです。
それを理解すれば、荒野の四十年間の試練がよくわかってきます。



また、パウロが書く「試練」が、なるほど、そういうことかと理解できてきます。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
第一コリント10:13

天の父は、神として、その人に脱出の道を授けておられるけれども、まず、試練を与えるのです。それは、その人が「信仰によるイスラエル」(ローマ4:16、ガラテヤ3:7)であるからであり、イスラエルは「神にあって持ちこたえる人」という大元の意味を持つからなのです。



これがわかると、終わりの日々に(原文複数形)、最後まで耐え忍ぶ人は救われますと、主イエス・キリストがおっしゃっていることがよく理解できます。

主イエス・キリストが来臨される時まで、ある程度の日数がありますが、その間は、信仰によるイスラエルは、持ちこたえなければならないのです。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ10:22

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ24:13

また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
マルコ13:13
 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

イエス・キリストの神の国の福音は、この世の原理原則とは全く対極にある価値観の180度転換であり、考え方の刷新であり、これまで生きてきた(日本の場合は直接的間接的に土着の宗教の影響を受けて生きてきた)生き方の完全な否定であり、全く新しく、主イエス・キリストにあって神の人として生きることの始まりであり、アブラハムの子孫として、永遠の祝福を受け継ぐことです。


わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
マタイ10:34

というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。
兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

マタイ10:20-22

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

ルカ18:29-30

従って、イエス・キリストを本当に信じるということは、これまでとは全く違った人生を歩むということです。それは、以下のローマ14:7-8にある通り、生きるにしても、死ぬにしても、主イエス・キリストのためにするのです。そうして、私たちは、主イエス・キリストのものになっています。この主イエス・キリストを通じて、全知全能の神であられる天の父の息子、娘となるのです。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

ローマ14:7-8



本当にイエス・キリストを信じていれば、使徒の働きに記されているのと同じように、本当の聖霊が下ります。聖書を引用して説明をするだけの、文字として存在している聖霊とは異なります。頭の中の理解、概念として存在しているだけの聖霊とは異なります。パウロが、聖霊は、力と愛と慎みとの霊ですと書くように、神の力(デュナミス=奇蹟と訳されることもある言葉)を帯びており、イエス・キリストの愛、天の父の愛と直結しており、しかも慎みがあります。生ける神である天の父から御子イエスの名によって信じる人に遣わされる霊です。生きています。喜びも悲しみもします。経験することによってしか理解できない霊です。言葉でいくら説明しても、理解できない霊です。神から来る霊です。天の父から来る霊です。創世記でアダムに吹き込まれた命の息と同じ霊です。それが入ると、死んでいた人が生き返ります。この世の肉の人が、神の人になるのです。それがイエス・キリストの名によって、十字架と復活のゆえに、それを信じるがゆえに、告白するがゆえに起こるのです。

従って、聖霊を受けている人は、パウロが書くように外見からはわかりませんが、内に聖霊をいただいているがゆえに、その自覚があります。

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。

第一コリント2:14-15



本当にイエス・キリストを信じていれば、本当の聖霊が下り、マルコ16章末に書いてある御言葉に伴うしるしが伴うようになります。これは、主イエス・キリストにあって、生ける神であられる天の父が、神としての御業をなさっているということが、誰の目にもはっきりとわかる色々の出来事です。展開です。出会いです。奇蹟です。神の御業です。それが、イエス・キリストの名によって働くようになります。これもまた経験してみないとわかりません。世の人には不信仰がありますから、話を聞かされただけでは信じられません。経験することで、御言葉に伴うしるしとはこういうことなのかとわかります。聖霊が理解させてくれます。



イエス・キリストは度々、弟子たちの不信仰を叱っていました。
不信仰の反対は、信仰があるということです。
イエス・キリストを本当に信じている人には、本当の信仰があるので、イエス・キリストがおっしゃった通りのことを行います。そうして、そこに、イエス・キリストの名に応える形で、全知全能の天の父が動かれるために、そのことが起こります。これが、「言った通りになる」ということです。

まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
マルコ11:23



本当にイエス・キリストを信じている人は、黙示録の最後の方にある「神の幕屋が人共にある」を経験することになります。この人は、イエス・キリストの言葉を守りますから、天の父と御子イエスとが、その人の所にやってきて、霊的な幕屋を設けて下さり、そこに住んで下さいます。この、おそばにいる天の父と御子イエス。このおそばにいるお二方と、その人は、一緒に生活をします。朝起きる時も、夜寝る時も。仕事をする時もご飯を食べる時も。常に一緒です。常に、第一ヨハネ冒頭にある御父と御子との交わりの中にあります。これが神の国です。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

黙示録21:3-4

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
ローマ8:15

パウロが意図している御霊=the spirit(あの霊)は、天の父の子供であることを自覚させてくれる霊です。

聖霊は、天の父から御子イエスの名によって信じる人に遣わされる霊(ヨハネ14:26)。新約聖書が教えている通りの信仰によって、イエスが神=天の父の子であると信じることによって、神の国を受け継ぐことができる証印として、その人に下ります。(三位一体の人工的な"神"の下にいると、これがわかりません。また聖霊は下っていません)

神はどなたか?
神はイスラエルの神。旧約聖書で「生ける神」と言われている方。アブラハムに現れ、モーセに現れた方。アダムをご自分たちに似せて造られた方。
(この神は、三位一体の人工的な"神"ではありません)

その神の御子であられるイエス(マタイ16:16でペテロが証しした御子)。

聖霊を受けると、この神の子供であることが、自分の全存在によって、はっきりとわかるようになります。

そうして、この聖霊によって、私たちは「アバ、父」と呼ぶのです。