ミカエルが助けに来るまで二十一日間かかる(最後まで耐え忍ぶ人が救われるとはどういう意味か?) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

主イエス・キリストにある神の人(第一テモテ6:11、第二テモテ3:17)の祈りは、天の父と主イエス・キリストに聞かれています。特に、その神の人の生死がかかるような、神の国の建て上げが成就するかどうかがかかるような、そういう土壇場の局面における祈りは、必ず、聞かれています。

しかし、祈りの内容の成就は起こらない…ように見えます。すぐには成就しません。
祈りが聞かれていないのかと思ってしまいます。



これは、天の父が、神の人に与える試練です。試練については、パウロも書いていました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
第一コリント10:13

ここに書いてあるとおり、神=天の父は、ご自分の息子たち娘たちに試練を与えられる方なのです。生きるか死ぬか、というような試練が、神=天の父によって、その人に降り注ぐのです。これは、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野で経験した試練を思い浮かべれば良いでしょう。カナンの地に入る前には、荒野の試練が必要なのです。イスラエルの神=天の父は、そうした試練を神の人に与えるのです。



この試練がある間、祈りは聞かれていないように思えます。



しかし、祈りは聞かれています。このことを最もよく教えているのがダニエル書10章です。
ダニエルが断食をしてイスラエルのために祈り始めた時、すぐにこの祈りは天で聞かれていました。新約聖書を含めた「天」に関する知識で言うなら、この「天」(英訳聖書では複数形です。天が複数階層あります)には、天の父と、その右の御座に御子であられるイエス・キリストと、聖書の記述を元に推計すれば億単位の御使いがいます(黙示録5:11)。

従って、生死を分けるような局面にある時、その人が迫害されており、大変な重圧にある時に、「イエス」のヘブライ語名表記"Yehoshua"の意味である"YHWH + a cry for help"、つまり、唯一の神であるYHWH(イスラエルの神)に向かって助けて!と叫ぶ。その祈りは、捧げた瞬間に、天で聞かれているのです。

しかし、複数形の「天」には、パウロがエペソ6章で書いているように「天にいる諸々の悪霊(複数形)」もいます。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
エペソ6:12

階層構造になっている「天」には、諸々の悪霊どもがいる階層もあるのです。

そこにいる悪霊ども
=ルシファー/明けの明星(イザヤ14:12)=竜(黙示録12:9)と共に落とされた御使い達(おそらく数千万。御使いの1/3、黙示録12:4)
=普通名詞のサタン
=一つ一つが固有名詞を持って国々で崇拝されている”神々”ないし”諸仏”、霊ども

そうした無数の固有名詞を持つ霊どもが、下層の天にはいて、祈りの成就を妨げているのです。それがダニエル書10章によく描かれています。ここでは「ペルシャの君」という固有名詞で出てきます。ペルシャで崇拝されている"神"だと解釈できます。



従って、祈り始めて、二十一日間(象徴的な意味があります。天地創造の日数の3倍)は祈りが聞かれない。

この間、天では戦いが起こっています。
主イエス・キリストにあって、天の父にかしづく御使いたちと、下層の天に蝟集していて天の父とイエス・キリストに敵対する普通名詞サタン、無数の固有名詞を持つ地域地域の"神々”とが、その神の人の祈りが成就しないように、また、その神の人の祈りが成就するように、戦っています。

これがあるため、「持ちこたえる」ことが必要になるのです。

ヤコブが「イスラエル」と呼ばれるようになったエピソード。つまり、人間として現れた神と夜中じゅう戦っていたエピソード。あれの後で、ヤコブはイスラエルという名前を与えられました。

この「イスラエル」の意味を、原文で確かめると、"I persist."(持ちこたえる)という意味と"God"という意味が組み合わさっています。

つまり、神にあって持ちこたえる人、という意味が「イスラエル」です。

イスラエルの民は、神にあって持ちこたえる人々なのです。
それを理解すれば、荒野の四十年間の試練がよくわかってきます。



また、パウロが書く「試練」が、なるほど、そういうことかと理解できてきます。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
第一コリント10:13

天の父は、神として、その人に脱出の道を授けておられるけれども、まず、試練を与えるのです。それは、その人が「信仰によるイスラエル」(ローマ4:16、ガラテヤ3:7)であるからであり、イスラエルは「神にあって持ちこたえる人」という大元の意味を持つからなのです。



これがわかると、終わりの日々に(原文複数形)、最後まで耐え忍ぶ人は救われますと、主イエス・キリストがおっしゃっていることがよく理解できます。

主イエス・キリストが来臨される時まで、ある程度の日数がありますが、その間は、信仰によるイスラエルは、持ちこたえなければならないのです。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ10:22

しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
マタイ24:13

また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
マルコ13:13