肉的なものと御霊的なものと(1) | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ローマ人への手紙でパウロは「肉」と「御霊」とを対比させています。
また、第一コリントとガラテヤで「御霊の人」がいるということを書いています。「御霊の人」がいるということは、「肉の人」もいるということです。



「御霊」。英語訳聖書では定冠詞theが付く「the spirit」。N.T.ライトによれば、原文のギリシア語聖書ではプネウマが大文字付きで記されている訳ではないので、「the Spirit」ではなく「the spirit」だそうです。日本語の平たい語感で言えば、「あの唯一の霊」という感じです。書簡を書き送っている相手全員が「the」(文脈からわかる『あの』)をわかるので、「the spirit」と書けば、「あなたたちがよく知っている、また、何度も経験している『あの霊』」という意味になります。

そうした「あの霊」のことを、例えばローマ人への手紙の中で、何度も何度も書いている。日本語訳聖書になじんだ人は「御霊」と訳されているので、また、「御霊」は日本の土着宗教的な文脈を宿している言葉なので(靖国神社の御霊祭り)、新約聖書の中の「御霊」のことを、「御霊というものがあるのだ」的に理解するのが普通ですが、パウロが書いているのは「あの霊」のことです。つまり、書簡を読んでいる人が、説明不要で「あの霊」と書けばよくわかる、そうした「霊」。



これはもちろん、この世に渦巻く諸々の汚れた霊、悪い霊とは違います。全く違う。



ピーター・ワグナーのいわゆるNew Apostolic Reformation神学の影響を受けたペンテコステ的な、カリスマ的な教会群のことも、聖書主義であるという意味でプロテスタントに含めて言うと、3つのプロテスタント教会にいた17年間のことを振り返ってみて、「あの霊」を経験している牧師、クリスチャンは、いなかったと、断言します。



パウロが書いている「あの霊」は、イスラエル的な霊であり、旧約聖書の文脈を豊かに持っている「霊」です。500年前にルターが創始したプロテスタントの流れの中で、初めて発見された「霊」ではないです。聖書をよく読み込まないと理解できない「霊」ではないです。



私たちは、イスラエルの神から見て異邦人ですから、「あの霊」に遭遇するのは、極めて稀なケース、エペソ1:4に記されている天地創造の前から主イエス・キリストに似るように選ばれている人、第一ペテロ1:2に記されているイスラエルの神の「予知」に従って召されている人、そう言う人が、不思議な巡り合わせで聖書を読むようになり、イエス・キリストの救いがあるのだと自覚するようになって、聖書を読んだり、キリスト教会に通ったりしているうちに、ヨハネ福音書によれば、天の父が教える事柄に従って、また、経験することにより、ある日突然に下る「霊」。

新約聖書の中で、最もわかりやすい事例ということで言うと、最後に石を投げられて殉教することになるステパノに、滔々と、経験したことを証しさせる「霊」。イエス・キリストの救いを熱情を持って「言わせる霊」。イエス・キリストのことを、言わなければと、内から突き動かす「霊」。



この「霊」は、18世紀から20世紀前半にかけて、英国(スコットランドリバイバル)や米国(ペンテコステ発祥のアズサストリート)に見られた「リバイバル」の熱狂をもたらす霊とは、本質的に異なります。全く別な文脈にあるものです。あの「リバイバルの霊」は、「リバイバルの悪霊」とも言うべき霊で、あれに取り憑かれると、大正と昭和に東京新宿で起こったキチガイ騒ぎに他ならなかったリバイバル騒動のような、熱病にうかされるような宗教現象を求めるようになってしまいます。全くの悪霊です。

それとパウロが書いている「あの霊」は全く違います。出自がイスラエルです。イスラエルの神から来る霊です。