イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -39ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ほとんどのキリスト教会では、「祈りがかなえられない」という課題を抱えています。

ヨハネ14章〜16章の主イエス・キリストの教えに基づいて「イエスの名」によって祈っても、何も起こりません。

癒すことのできない不信仰が覆っており、その根源は、父と子と聖霊とが三つにして一つという、人がこしらえた”神”を神として掲げている偶像崇拝から来ています。嘘の"神"を神としている限り、本当の信仰が天の父から与えれるはずがありません。

 

信仰は、神である天の父から与えられるものです。

頑張って何とかなるものではありません。

 

信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。

ローマ10:17

 

また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

黙示録3:7

 

従って、嘘の"神"から抜け出さない限り、信仰は本当の神から与えられず、祈りはかなえられないままです。

 

キリストについてのみことばを、聞いても聞いても、嘘の"神"の下にいる限り、信仰は与えられないのです。信仰が育まれることはないのです。

 

 

聖書を読む際に、プロテスタント的な要素をすべて剥ぎ取って、素の状態で、パウロの信仰を回復させるなら、イエス・キリストがパウロに教えたすべての事柄をはっきりと理解することができます。

 

プロテスタント的な要素をすべて剥ぎ取ってしまえば、ペテロの信仰を回復させることができます。

同じく、ヨハネの信仰を回復させることができます。ヤコブの信仰を回復させることができます。

 

これら書簡を残している4人の使徒の信仰を回復させることができれば、主イエス・キリストが彼らに教えていた事柄がはっきりと理解できます。

 

それは、驚くべき福音です。現代人なら腰が抜けるような福音です。

腰が抜けるような「神に対する恐れ」については、こちらの投稿で先日書きました

 

この福音が、長らく、この世の神によって封じられていました。

 

その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

第二コリント4:4

 

「この世の神」、つまり、イスラエルの神に反する者は、325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノポリス公会議に集まった司教達(bishops)に影響を及ぼし、偽の"神"を編み出して、福音の光を覆いました。

 

500年前にマルチン・ルターが改革した中身も、聖書主義ではあったものの、三位一体の"神"を退けなかったがゆえに(聖書のどこにも書いていないにも関わらず)、別な偶像をこしらえてしまい、それが、すべてのプロテスタント教会を覆っています。

 

その偶像とは、「聖句を正確に引用するとイエス・キリストの救いが働く」と錯覚させる、ドイツ的な、何かです。

 

いったんこれに取り憑かれてしまうと、生ける神であるイスラエルの神がどこにいるのかわからなくなります。生ける神の御子とペテロが信仰告白した御子の本質についても、わからないまま教会生活が空転します。何十年キリスト教会に通っても、何も起こりません。生ける神がそこにいないからです。聖句が神であるのではないです。

 

神の言葉を預言者に書かせた「私は在る」という方こそが、神なのです。

その神に、御子イエスを通じて、近づくのです。

 

プロテスタントの要素をすべて剥ぎ取って、パウロの信仰を、ペテロの信仰を、ヨハネの信仰を、ヤコブの信仰を、聖書を素朴に読むことで回復させるなら、そこに、驚くべきことが書かれているということが、はっきりとわかります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このメッセージでは、黙示録におけるイスラエル人/ユダヤ人と、異邦人でありながら主イエス・キリストを信じた人々の記述を確認しながら、ローマ11章で、イスラエル人/ユダヤ人と異邦人の位置付けを確認し、その上で、「イスラエル」の大元の意味を確認します。

ヤコブが「イスラエル」と呼ばれるようになったことには、かなり深い意味があります。それが異邦人でありながら、主イエス・キリストを信じる信仰によってイスラエルに連なる人々にも適用されます。

 

 

 

Taken by me

Courtesy of Damian Gadal

 

 

悪霊の追い出しは、いわば、対症療法として考えられていて、悪霊の追い出しができるミニスター(奉仕者)のところに行き、追い出してもらえば、また元の生活に戻ることができる。あたかも、お医者さんに行って、おできを切除してもらえば、またもと通りの生活ができ…そのように考えている人が、多いと思います。実際、そうです…。



しかし、いったん追い出した悪霊は、ほとんどの場合、その人に戻って行きます。
論理的には、次のように書けます。

1. 悪い生活をしていたから、その生活に関連した悪霊が入った。わかりやすい例で言えば、人の悪口ばっかり言っていたから、悪口の霊が入った。その人において悪口が止まなくなった。大切な人の前でも悪口を言うようになってしまい、人間関係が壊れて行った…。

2. 「悪口の霊」が自分にいるとわかり、悪霊の追い出しができるミニスターのところに行った。そうして、悪口の霊を、イエス・キリストの名と権威によって追い出してもらった。すっきりした。

3. その後、この人は、イエス・キリストの「道」(ヨハネ14:6)を歩むことなく、昔の生活に戻って行った。しばらくすると、自分の口から人の悪口が出るようになってきた。

4. その人が、また人の悪口を言っているのを見て、悪口の霊が、再び入った。今度は、悪口の度合いが凄まじく、悪口によって、ありとあらゆる人間関係が壊れて行った。

悪霊は、通例、このようにして、元の生活を続ける人に戻って行きます。小職が悪霊の追い出しを始めた2017年、2018年には、この「悪霊が戻っていくパターン」に気づきませんでした。

しかし、過去2年間、大変な方のケースをいくつか取り扱っているうちに、「悪霊が戻っていくパターン」が明確に理解できるようになってきました。イエス・キリストのお言葉では、次のように説明されています。

汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。
そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」

マタイ12:43-45

汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

ルカ11:24-26



イエス・キリストの名と権威によって悪霊を追い出された人は、その「名」がどこから来ているのか?なぜ、その名が意味を持つようになったのか?イエス・キリストとはどなたか?何をなさった方か?なぜ、十字架に架けられて殺されなければならなかったのか?三日目によみがえったとはどう言う意味なのか?

それら、基本的な、キリスト信徒に求められる福音の理解を、福音書やパウロ書簡などから、得ないと行けません。そうして、イエス・キリストが何を求めておられるのか?天の父が何を求めておられるのか?聖書から、正確に読み取らなければなりません。誰かが教えてくれたとしても、その教えからさらに発展して、「自分なりの理解を心と体に刻み付ける」ことが不可欠です。

イエス・キリストの名によって悪霊が追い出されたとは、イエス・キリストの十字架の死と復活の御業にあずかるということです。神のひとり子であられた方が、あえて、自分の意思で、十字架にかかって死なれたからこそ、悪魔が滅ぼされたのです。悪魔が地上に持ってきた死が無効にされたのです。

悪霊はこの悪魔/サタンの配下にいる諸々の邪悪な霊ども、汚れた霊どもです。
イエス・キリストの十字架の死と復活によって、同じく、無効にされます。出て行きます。

従って、イエス・キリストの名と権威によって悪霊を追い出された人は、イエス・キリストの死と復活を身に帯びているのです。イエス・キリストの死と復活に紐づけられているのです。



この人がもし、悪霊を追い出された後で、元のこの世の生活に戻っていくのならば、パウロが「肉」と書いている肉の生活に戻っていくのならば、それは、御子イエスの十字架の死と復活を、足で踏んづけるような行為です。

それをしているのを悪霊が見たら、しめしめと思うでしょう。またスキができた。それでは、その人に帰ろう、ということになります。
上で引用した聖句にある通りです。



イエス・キリストの名と権威によって悪霊を追い出された人は、その後は、身を正して、イエス・キリストの「道」を歩き始める必要があります。

イエス・キリストの「道」とは何か?

一言で言えば、以下の投稿で先日書いた「イエスの証し」をして歩く人になるということです。

証しをすることが、毎日のように起こる
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12759217551.html


 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は、

今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。

申命記32:39

 

まことの神、唯一の神は、アブラハムに現れた神、イスラエルの神です。この神が、御子と共に、天地創造をなさいました。

 

この神以外のものにすがっている方は、いつか、この神こそが本当の神だということを思い知らされる…ということが、聖書の預言として書かれています。

 

この神に、御子であるイエス・キリストを通じて、近づけるようになり、その子供とされることができます。

一度、この神の子供となってしまうと、恵みと慈しみが途切れることがありません。

 

 

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日の聖句は、
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
箴言1:7

旧約聖書の「主」、「神である主」と記されている「主」はヘブライ語原典で"YHWH"(英字表記)。発音することができないいわゆるテトラグラマトン

後代にYahwehと訳されたり、Jehovahと訳されたりしましたが、そもそもは"YHWH"。誰も発音できない神聖な神の名前です。これが福音書の時代に、御子であるイエスによって「天の父」であると紹介されました。

"YHWH"、すなわち天の父を恐れることは知識の初めなのです。
天の父は、新約聖書を読んでいる限りはよくわかりませんが、旧約聖書の「主」="YHWH"に関する記述を読むと、本当に恐ろしい方です。

 

同じ恐ろしいお方が、主イエス・キリストを信じる信仰によって、その人の父になり、愛の神となるのです。

 

ベースに恐ろしさを覚えて、天の父を見上げることは、非常に大切なことです。


この「恐ろしさ」については、先ほどこちらの投稿でも記しましたので、お読み下さい。

 

使徒の働きに記されている「恐れ」について