イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -38ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日取り上げる聖句は、
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
ローマ14:23

キリスト信徒は、常に、選択を迫られます。右に行くべきか、左に行くべきか。
明示的に、右に決まっているという場合は良いですが、そうでなく、迷いがある場合にどうするか?

聖書では、二つの選択肢がある時、呪いではなく、祝福を選びなさいと教えています。

私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

申命記30:19-20

右に行くべきか左に行くべきか、迷いがある時、そこを信仰によって選び取ります。

信仰によって、命である右の道を、祝福である右の道を選ぶのです。
信仰によって、その選択をします。

 

旧約聖書のヘブライ語でも、新約聖書のギリシャ語でも「罪」の原義は、「的から外れていること」。つまり、神である天の父から見て、イコール、イスラエルの神から見て、外れていることです。

従って、すべての”神々”の道、すべての”諸仏”の道、すべてのスピリチュアルの道は、イスラエルの神から見れば「罪」です。外れています。

 

それらの道は聖書が教える信仰に基づくものではありません。

 

 

 

 






 

 

Courtesy of Damian Gadal

 

 

通例、悪霊の問題がある人には、ものすごいプライドがあります。場合によっては、人格のほとんどがプライドでできていると言っても過言ではない…そういうケースがあります。プライドがものすごいからこそ、悪霊が入るのです。

ここで「プライド」と言っているのは、この世的な虚栄心、自尊心、自分を他よりも優れていると思う心 -- そうしたものではなく、「イスラエルの神に反する反抗心」のことです。(もっとも、それらの人には、この世的な虚栄心、自尊心、自分を他よりも優れていると思う心もどっさり、あります。)



悪霊の追い出しの際に問題になるのは、この「イスラエルの神に反する反抗心」によって出来上がっている人格を、完膚なきまでに叩きのめす必要があるということです。

どういうことかと言うと、この「プライド」は、その人の家系が崇拝していた、イスラエルの神以外の神、日本で言えば八百万の神のどれかに当たるもの、あるいは仏教で言えば、阿弥陀如来、不動明王などの諸仏、そうした神々や諸仏の大元にあるそれぞれの霊的な実体。そこからこのプライドが来ているからです。

従って、イスラエルの神に対して、猛烈に反発します。イスラエルの神の御子であるイエスの名と権威によって、その人の中にいる悪霊が追い出されることに、猛烈に反発するのです。
その大元にある霊が反発させるのです。その人の人格の奥深くにある、神々や諸仏をスピリチュアルを崇拝してきたその崇拝の大元にある霊が反発させるのです。

ものすごい崇拝をしてきた家系に属している方や、ものすごいスピリチュアルへの執着をしてきた方には、人格のかなりの部分をこのプライドが占めています。場合によっては、90%以上の人格がこのプライドによって出来上がっていますから、その方の悪霊の追い出しは、ハンパではありません。

その人格を、その人が進んで、壊す…ということに同意するならば、悪霊を、イエス・キリストの名と権威によって、追い出すことができます。しかし、その人が、イスラエルの神に反抗するプライドから出来上がっている人格を、多少でも、温存しておきたいと思うのであれば、悪霊の追い出しは、できません。

 

これは、新約聖書の考え方で言えば、「キリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ6章)を受けること。それに、その人が、心から同意するということです。ローマ人への手紙6章をよく読んで下さい。



このプライドと、きれいさっぱりお別れをしない限り、その人からは、悪霊が出ていきません。
悪霊の追い出しの準備をする段階から、この「霊」がいちいち反抗します。

「なぜ、私がこうしたことをしなければならないのか?」
「なぜ、こんな思いをしなければならないのか?」
「このことは、本当に必要なのか?」
「なぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか?」


そういう反抗の思いが、次から次へと湧いてくきます。

それは、大元にある神々や諸仏や、スピリチュアルの大元にある陰陽道、悪魔崇拝、ギリシャの神々などの「霊」が、追い出されたくないために、反抗しているからです。自分の人格の中にある、そうした「霊」からくる、「イスラエルの神に対する反抗心」が、そのようなことを思わせるのです。



その人が、主イエス・キリストの名と権威によって、悪霊から完全に自由になるには、その「プライド」を、完膚なきまでに破壊し尽くさなければなりません。なぜなら「イスラエルの神に反抗するプライド」だからです。「イスラエルの神の御子であるイエスの名と権威」に反抗するプライドだからです。

これはもちろん、イスラエルの神に反抗したサタン/悪魔から来ています。聖書的な世界観に立てば、すべての悪霊は、天から落とされたルシファーにくっついて天から落とされた御使いが(黙示録12章)、それぞれの土地で神として崇拝されるようになった、そうした地域地域のサタン/悪魔=「イスラエルの神に反抗する霊」の手下として存在しています。

その霊から来るプライドを完全に破壊しない限り、悪霊は出ていきません。

プライドが、生来、その悪霊のキャラクターを帯びていますし、プライドがその悪霊の棲家になっていると言うこともあります。プライドと悪霊は不即不離です。



その人の人格の90%がプライドで出来上がっている場合、これは、その人の人格が崩壊するギリギリの所まで行かないと、悪霊の追い出しが完遂しないということになります。それはつまり、「キリストの死にあずかるバプテスマ」の「死」が、その人の過去の一切を葬り去って、後には、ほとんど何も残らないという所まで行かないと、その人の悪霊は出ていかないということです。

そうして、ローマ人への手紙6章に克明に書かれているように、「古い人」(プライドの人)がキリストと共に十字架に付けられて、死んで、キリストと共によみがえるのです。今度は聖霊によって。



この、非常に辛い所を通らないと、その人の悪霊は出て行きません。

従って、むしろ、悪霊を追い出さない方がいい人がいます。
辛い所は通らずに、悪霊と共存して生きていく方が良い人がいます。

イエス・キリストは、自分の十字架を背負って私について来ない人は、私にふさわしくないと言っています。悪霊が追い出されるとは、イエス・キリストと同じように、自分の十字架を背負って、一生、イエス・キリストの後をついて行くということです。その覚悟がない人は、むしろ、悪霊と共存する人生を歩んだ方が良いかも知れません。すべてが聖書に書いている通りに展開します。

 

 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

主イエス・キリストは、福音書の中で度々、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです?!」と叱っておられました。

 

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
マタイ8:26

イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
マタイ16:8

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
マタイ17:20

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」
マルコ4:40

このように叱られていた弟子の一人、ペテロは、後に、信仰により、イエスの名によって、生まれつきの足なえが一瞬にして立つという奇蹟を見る「自分の口から出る言葉」を発して、その「言った通りに」なりました。

 

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

使徒3章

 

このことが起こったのは、ペテロが、後に説明するように「イエスの名を信じる信仰」によって、です(使徒3:16)。

 

信仰があれば、このことができるということを、ペテロのエピソードが示しています。

 

 

残念ながら、偽りの"神"である三位一体の偶像の下にいるうちは、信仰も何もないので、何も起こりませんが、父と子と聖霊とが三つにして一つという”神”が人工的な"神"に他ならないと気づき -- それは生ける神であられる天の父が気づかせてくれるのです。御子イエスの執り成しによって -- その宮から出て、唯一のまことの神であられる方の下に、御子イエスの十字架を通じて近づくならば、豊かな信仰をいただくことができ、聖書で書かれていることが、その信仰により、イエスの名によって、成就するのを見るようになります。

 

自分の口から言ったことが、聖書で書いてあることが、信仰により、主イエス・キリストの名によって、自分の目の前で成就していきます。これが、生ける神であられる天の父の御業です。新約聖書で、しるし、不思議、奇蹟と書かれていることです。イエス・キリストが天の父の右の御座にいて、執り成して下さるからこそ、起こるのです。ご自身の名が、その信仰者の口から発せられているのを聞いて、全能の神であられる父に執り成して下さるのです。アーメン!ハレルヤ!

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝と交わりは以下のGoogle MeetのURLで行います。

礼拝
8月 21日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/cvs-jeqn-vpt

交わり
8月 21日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
ビデオ通話のリンク: https://meet.google.com/kuc-cbzm-rha

本日の礼拝テーマは、
ヤコブの信仰を回復する
です。

主イエス・キリストの十二人の弟子の中で、使徒として、新約聖書に収録された書簡を残したのは、ペテロとヨハネとヤコブです。
この三人は、いわゆる「主イエス・キリストの変容」(マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章)の際に、特別に許されて同行した弟子たちでした。

また、主イエス・キリストが死者をよみがえらせる奇蹟をなさった時に同席を許されたのは、この三人の弟子たちだけでした(マルコ5章)。

パウロは別格として、主イエス・キリストが特別に信頼しておられた三人だと言うことができます。いわば、イエス・キリストの愛弟子です。

その中のヤコブが残した「ヤコブの手紙」には、他の使徒の書簡にはない、大切なメッセージが含まれています。

マルチン・ルターは「ヤコブの手紙」を「藁の書」と呼んで蔑んだそうですが、その「ヤコブの手紙」は、冒頭にあるように、イスラエルの十二部族に向けて書かれた、オフィシャルな性格が強いものです。彼は、初代教会エルサレム本部の最も年長のリーダーだったと考えられています。




 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」

使徒12:11

 

世の終わりには、多種多様な災難が多くの人に臨みます。

現在も、それが世界のあちこちで起こっています。

 

私が、最近、理解したことは、聖書に記されているタイムスケジュールは、ペテロが書いている「主の前では、千年は一日のようであり、一日は千年のようである」(第二ペテロ3:8)に基づいて、イエス・キリストが昇天して以降の二千年間は、主の前ではたった二日間だということです。

 

昨年から今年にかけて異常気象が多発し、にわかに、世の終わりが来たかのような印象を与えていますが、実は、イエス・キリストが昇天して以降、二千年間、世の終わりが続いているのです。それは主の御前では、たった二日間です。

 

(新約聖書の「終わりの日」と訳されている部分は、英訳を確かめると「終わりの日々」です。何日か続く時期だということです。)

 

(主の御前で、二千年が二日間だとすれば、これがすべて「終わりの日々」です。)

 

 

以下の4つの聖句は、すべて、パウロやペテロやヨハネがこの書簡を書いていた1世紀当時に、すでに「世の終わり」と認識されていたことを示しています。

 

これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
第一コリント10:11

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
ヘブル1:2

キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
第一ペテロ1:20

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。
第一ヨハネ2:18

 

 

その「世の終わり」は、1世紀当時に現れていたものの、4世紀に三位一体の不信仰、偽の"神"が起こってキリスト教会を覆い、不信仰がその「世の終わり」に関する正確な聖書理解をわからなくさせたがために、わかりやすく言えば、神が「世の終わり」のスケジュールを、信仰者が現れるまで止めて、現在に至った。

 

今、聖書に基づく、初代教会と同じ信仰を持ったキリスト信徒が再び起こったがために、神は「世の終わり」のスケジュールを再開して、これから、預言されていることが多々起こる。そういうフェーズに入ったと理解しています。

 

 

お伝えしたいのは、世の終わりに関して預言されている様々な出来事が、この世に生きているおびただしい人々に臨んでいた、臨んでいる、臨んでいく中で、聖書に書かれているままにイエス・キリストを信じる人には、ペテロに起こったのと同じことが起こる。つまり、災いから逃れられる。それは神の不思議な力によって。ということです。

 

使徒の働きで記されている、ペテロが経験した不思議な展開(使徒の働き12章の前後をお読み下さい)。

 

そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」

使徒12:11

 

これは、信仰がないうちは、読んでもよくわからないのですが、三位一体から出て、唯一のまことの神に、御子イエスの十字架のゆえにたどり着くことができて、唯一のまことの神=天の父の愛を余すことなく受けることができるようになると、ああ、こういうことはあるのだ、と、素直に理解できるようになります。

 

世の終わりにおいて、剣(戦争)、飢饉(食糧危機)、疫病(コロナなどの感染症)や、地震が起こり、天の万象が揺り動かされ、恐ろしい出来事が頻出する状況になっても、イエス・キリストを信じて神の子供となった人は、ペテロのように、不思議な形で助けられます。ピンポイントで、その人とその家族だけが助かる状況が出現します。